最後のフロンティアに挑んだ冒険者たちの記録


「ナショナル・ジオグラフィック National Geographic」
「大冒険時代 世界が驚きに満ちていたころ」 World to Explore Classic Tales of Travel & Adventure from National Geographic 2006年
(編)マーク・ジェンキンズ
(ナショナル・ジオグラフィック誌からの50の傑作探検記)
早川書房

 ワクワクするタイトルの本を見つけてしまいました!
 世界的に有名な「ナショナル・グラフィック誌」に掲載された記事の中から選び抜かれた「冒険記」のダイジェスト版ですから、面白いに決まっています。「冒険記」といっても、プロの冒険家が書いたものとは限りません。アメリカ大統領、画家、記者、軍人、シベリア抑留者、冒険家の妻、実業家、科学者など、様々な人々が自らの冒険について書いています。当然、作風も様々で読む方も飽きませんし、書かれている場所も様々。世界中、海の底から宇宙まで、秘境という秘境に彼らはその足跡を刻んでいます。
 20世紀は、地球上から秘境が消えた時代でもありました。冒険者たちは、最後の秘境にロマンを抱きながら挑戦することができた幸福な人々だったともいえます。そんな彼らの熱い思いは、現代の我々にはもう感じることができないのです。(宇宙だけが最後の秘境として残されていますが・・・)
 そんな最後の秘境だけではなく、そこに記されている町や村、人々の暮らしの多くは、21世紀の今、もうすでに失われてしまいました。そうした普段の場面の描写にも、今では大きな価値がある気がします。ここでは、そんな冒険記の中からさらに抜粋してご紹介しようと思います。本の中では、地域別に紹介されていますが、ここではどの時代にどんな秘境チャレンジが行われていたのかがわかるように年代順に並べてみようと思います。

1891年
「1890年のセント・イライアス探検記」
イズリアル・C・ラッセル(1852年~1906年) 
 地質学者であり探検家でもあるラッセルが「ナショナル・ジオグラフィック協会」との提携によって行ったアラスカ、セント・イライアス山登頂の記録です。
 当時、その山は北アメリカの最高峰と考えられており、何度か登山隊が挑戦するもののすべて失敗に終わっていました。5489mの標高は後にマッキンリーよりも低く北米では第4位の高さであることがわかります。 
 雪面が硬いことを確かめ、私たちは氷河を急ぎ足で前進した。唯一困ったのは、早朝の光が弱々しいせいで、でこぼこした雪面の勾配が見づらいことだった。光がまんべんなく拡散されているため、どこにも日陰がない。真珠を思わせる優美な淡い色調と柔らかい光が織りなす、その静謐な冬の景観は無上の美しさで、この世のものとは思えないほど幻想的だった。風はまだ静かだが、変化を予感させる不安な空気があたりに満ちている。・・・
 冬の嵐の後、雪が降り続き、その後の晴天によって次々になだれが引き起こされてしまったため、彼らは登頂を断念することになりました。
1896年
「日本海沿岸を襲った津波」
エリザ・シドモア(1856年~1928年) 
「もうひとつの三陸沖大地震と外国人」
  ナショナル・ジオグラフィック協会の設立初期からの会員で、副編集長、理事としても活躍したアメリカ人女性エリザは、日本を訪れた際、様々な日本の魅力のとりこになりました。彼女は「クール・ジャパン」の魅力を世界に発信する最初の外国人になりました。そんな彼女にとって、1896年に東北地方を襲った地震とそれに伴う大津波は、大きな衝撃をもたらしました。彼女はその後、事態が落ち着いてから東北地方を訪れ、その調査・報告の結果をナショナル・ジオグラフィックに送りました。
 1896年6月15日に日本の東北地方を襲った地震と津波は、2万6975名の命を奪い、9313棟の家屋を崩壊させ、1万隻の船を流出させました。フランス人宣教師ラスパイユは、その三陸海岸に住んでいた唯一のヨーロッパ人でしたがこの津波により亡くなりました。
1909年
「中央アジアの大砂漠を行く」 
「アフガンの国境、ペルシャの辺境」 
エルズワース・ハンティントン(1876年~1947年)
「消えゆくペルシャと幻の国アフガニスタン」
 1903年から1904年頃、外国人の入国を禁止していたアフガニスタンは、鎖国に近い状態が続いていました。そんな国にペルシャからの侵入を試みたアメリカ人冒険家の記録です。当時、アフガニスタンへの侵略を考えていたロシアは、国境の警備状況を調査する目的でこの旅に共同で参加していました。思えば、この時期からすでにアフガン戦争への布石が打たれつつあったわけです。
1911年
「アフリカの野蛮人間と野生動物」 
セオドア・ルーズベルト(1858年~1919年)
「古き良きサファリ時代の武勇伝」
 狩猟マニアとして名高いセオドア・ルーズベルト大統領による50歳を前にした大規模狩猟ツアー(1909年~1910年)の記録です。
 ケニア、ウガンダ、スーダンなどを11か月かけて行われたサファリ・ツアーで、彼らは数千におよぶ生物を採集しました。この時に参加した隊員には、狩人やポーターだけでなく、自然科学者や剥製標本作成者やシェフなどの大集団になっていたようです。
 21世紀の今なら、「アフリカの野蛮人間」とは、狩猟が大好きで象やライオンとの記念写真に大喜びのルーズベルト大統領であることは明らかです。
ちなみに狩猟好きのルーズベルト大統領と言えば、映画「風とライオン」でのブライアン・キースがそっくりでした!
 アフリカないしアジアの探検隊で、私たちほど多くの標本を持ち帰った例はない、と断言して差しつかえないだろう。とくに誇れるのは大型狩猟動物の標本で、たとえばクロサイ、キリン、レイヨウの仲間であるジャイアント・エランド、ボンゴ、サーベル・カモシカ、白毛のレチェウェ・カモシカ、ヴォーン・レイヨウなどの毛皮や骨格だ。これらのコレクションは、ヨーロッパのどの博物館にもひけをとらない。合わせて1万4000種もの哺乳類、鳥類、爬虫類、魚類の標本を持ち帰ったと思う。・・・
1912年
「赤道アフリカでのゾウ狩り」
カール・エイクリー(1864年~1926年) 
「猛獣ハンターによるゾウ狩りの記録」
 1926年に病により、コンゴでこの世を去った猛獣ハンターが「ゾウ狩り」について書いた記録です。彼が残した動物たちの標本によって、アメリカ自然史博物館の呼び物「エイクリーによるアフリカ哺乳類の部屋」ができたのでした。豹を素手で倒した逸話まである伝説のハンターは、実は博物館の剥製師でもあり、動物彫刻家でもあり、動物カメラマンでもある多彩な才能をもつ人物でもありました。
 その音がどこから聞えてくるのかと、私はあたりを見まわした。眼鏡をかけて森のそこかしこを探したが、風にそよぐ葉は一枚も見あたらない。やがてそれは、危険から急いで遠ざかろうとする - 乾いた落ち葉の上で、同じく乾いた低木の葉に横腹をこすりながらあわただしく進む - ゾウたちが立てる音だとわかった。それはある意味で、さっきの大騒ぎや死のような静寂よりもはるかに印象深かった。
 この時代はまだアフリカはゾウの王国だったのかもしれません。エイクリーも狩猟中にゾウの攻撃を受け、死の瀬戸際にいたる大怪我を負ったことがあるそうです。そんな時代、もうこないですからね。
1913年
「ダゲスタン高地 歴史の海に浮かぶ島」 
ジョージ・ケナン(1845年~1924年) 
「ロシア辺境イスラム圏の旅」
 ロシアによって侵略されていたカフカス山脈(黒海とカスピ海の間に位置する山脈)に住むイスラム圏の地域を旅したアメリカ人記者の記録です。(現在でいうと、グルジア、アルメニアなど) 
1918年
「一万本の煙の谷」 
ロバート・F・グリッグズ(1881年~1962年) 
「アラスカ・カトマイ山の大噴火」
 1912年6月、アラスカの火山カトマイ山が、20世紀最大規模の噴火を起こしました。アメリカの科学者グリッグズは、1916年にそのカトマイ山を訪れ巨大な谷を発見。無数の噴気孔から噴煙を発する奇観に「一万本の煙の谷 Valley of Ten Thousand Smokes」という名をつけました。
 その巨大噴火から5年後の1917年に彼は再びその谷を訪れ、まだまだ危険だった谷での調査活動を実施しました。 
 わたしの感覚を圧倒していたのは、純粋な恐怖だった。いや、正直に言おう。わたしはすっかり縮みあがっていた。記憶のなかにあるものより、目の前に広がる光景がはるかに壮大だったのだ。自分がひきうけた仕事を思うと、身がすくんだ。その恐怖は、ふたつの点でわたしを追いつめた。陥没への恐怖と、煙露への恐怖だ。
1920年
「スマトラ自動車旅行」 
メルヴィン・A・ホール(1890年~1962年) 
 軍人、飛行家、スパイ、外交官などの顔を持つ冒険家。アメリカ、ヴァーモント州の裕福な家庭に育ったメルヴィン・ホールは、1911年にプリンストン大学を卒業後、自動車での世界旅行に出発しました。両親と共に西ヨーロッパ、バルカン半島を回った後、インドへ向い、さらに彼は母親と共にセイロン、ジャワ、スマトラへと足をのばしました。
 のどかなはずの自動車によるスマトラ島での母子の旅は、17日間続いた長雨により危険に満ちたものになりました。 
1921年
「ペルシアの隊商のスケッチ」 
ハロルド・ウェストン(1894年~1972年) 
「アメリカ人画家、ペルシャ無法地帯を行く」
 アメリカ人画家が25歳の時に行ったペルシャ横断の旅の記録です。この後、ペルシャからイランになる最後の時代、ペルシャは限りなく無法地帯となっていました。そんな状況で彼は、山賊に襲われたり、護衛たちによる処刑を止めさせたリ、命の危険がいっぱいの冒険旅行でした。 
 聞くところによると、その前日にも7人の男が絞首刑になったばかりで、今後も200人前後が同様に処刑される予定だという。かれらは、この10年、イスファハーン周辺の村や道を威嚇し、恐怖で支配してきた山賊のかしらだった。われわれも道すがら、屋根ない家ばかりの村や、略奪され荒廃した村を何度も目にしてきていた。数百人もの罪のない農民が殺されたそうだ。隊商も無数の物品を略奪されていた。・・・・ 
「豪州への飛行 ロンドンからオーストラリアへ飛行機で」 
 サー・ロス・スミス(1892年~1922年)
 空の旅がまだ危険この上なかった時代、双発の複葉機に乗って英仏海峡の横断、大西洋の横断が達成された後、次に挑戦する空路としてオーストラリア政府が1万ポンドの賞金を用意したヨーロッパからオーストラリアまでのコースが登場します。この競争には6機の飛行機が挑戦しましたが、成功したのはわずか1機だけという危険すぎる旅になりました。
 結局、この飛行に成功したのはオーストラリア人の兄弟でした。彼らはその後、ヴィッカーズ・ヴァイキング水陸両用機をテスト中に墜落死してしまいます。 
 途方もない、うろたえるばかりの光景だった。下では、機体の影が追いかけてくる。魔法をかけられた霊のように、影は頂上から頂上へ飛び移り、湾や尾根を飛び越えるのだった。影のまわりには、みごとな光輪ができて、完全な平たい虹になっていた。生まれてこのかた、これほど現実離れした光景を見たことがなかった。・・・ 
1923年
「ツタンカーメンの墓で」 
メイナード・オーウェン・ウィリアムズ(1888年~1963年) 
「ツタンカーメンの呪いを免れた男」 
 1922年、エジプトのルクソール「王家の谷」でツタンカーメンの墓が発見されました。1919年に「ナショナル・ジオグラフィック」の第一号スタッフ・ライターになったウィリアムズは、その墓に入ることを許された数少ない記者の一人となりました。そして、ベルギーの女王が見学に訪れたところに彼はちょうど居合わせることになりました。
 ただし、彼はカーンヴォン卿が墓を開ける瞬間に立ち会うことはなく、おかげであの有名な「ツタンカーメンの呪い」を受けずに済みました。
 女王を乗せた車が近付いてきて止まり、白い服に身を固めた人物が降りる。列席したエジプトの政府関係者をはじめ多くの人たちへの紹介がすむと、カーター氏に先導された女王が、左にカーナヴォン卿の娘を従えて墓の入り口に続く斜面を下っていく。あっという間に女王は薄暗がりの入り口から墓の中に姿を消した。その向こうでは、ツタンカーメン王が - あの巨大な金貼りの箱の中に本当に彼のミイラがあるとすれば - 静かに女王の訪れを待っている。・・・
 翌月曜日、私は最初に墓に足を踏み入れる少数の記者団の一人となることができた。
「メキシコの古きスペイン街道をゆく」
ハーバート・コーリー(1872年~1954年)
 戦争特派員ハーバート・コーリーは、第一次世界大戦など様々な戦争を取材した命知らずの人物です。彼はナショナル・ジオグラフィックからの依頼を受け、1922年49歳の時、写真家のクリフトン・アダムズと共にメキシコ革命後のメキシコで3か月近くかけた取材旅行を行いました。
1924年
「東ダルフールでの体験」 
エドワード・キース=ローチ大佐(1885年~1954年)
「のどかだった植民地支配の記憶」
 スーダンを統治していた英国政府からの命を受けて東ダルフール地区の統治を担当していたローチ少佐による記録です。と言っても、彼の仕事は、地元の村長を表敬訪問したり、殺人事件の調査をしたり、人食いライオンの退治など、政治的なものとは程遠いことばかりでした。逆に考えると、当時のアフリカはまだまだのどかな場所だったようです。 
「リビア砂漠縦断」 
A・M・ハッサネイ・ベイ(1889年~1946年)
「幻のオアシスを探す旅」
 英国のオックスフォード大を卒業したエジプト人陸軍士官が地図にないリビア砂漠奥地のオアシスを探すために行った調査旅行の記録です。これぞ「幻のオアシス」というだけで、ロマンチックです。まだこの時代は自分の足で探す必要があったのです。(今なら人工衛星でも飛行機でも上空から撮影できるのですが・・・それじゃあロマンもなにもない)
  1923年、33歳のハッサネイは、「幻のオアシス」を探すため全行程3540キロ、6か月に及ぶ長期の探検に出発しました。地中海から出発した探検隊は、リビア砂漠を縦断しスーダンへの向かい、その途中にエジプトの南西部で2つのオアシスを発見。それぞれに「アルケナ」、「オワイナ」という名をつけました。
 探検の後、彼は英国とエジプト王室をつなぐパイプ役として活躍しますが、若くして自動車事故によりこの世を去りました。
 有能なガイドが付いていても、砂漠で方向を見失うことがある。そんな事態が起きるのは、一日に長い行程を進む日が続き、日中は暑すぎて全員が十分な休息を取れなかったりするときだ。ガイドが歩きながらうとうとしてしまい、その結果ひとつの星だけを必要以上に見つづけてしまう。そうすると、彼の取る方向は西の方にずれて、正しい進路から外れてしまうことになる。 
「小アジアを行く」
ロバート・W・インプリ―少佐(1883年~1924年)
「スパイと冒険が紙一重だった時代」
 チンパンジーの研究者から米軍に入隊し、第一次世界大戦に救急部隊の隊員として活躍。ロシア革命真っ只中のモスクワに滞在し、外交の裏側で動いた後、トルコへ。1922年からはトルコでスパイ的な活動をしながら、その仕事以外についての記録を投稿しています。結局、彼は40歳でトルコで殺害されてしまいますが、その原因は不明のままです。冒険の末の死だたのか、スパイ活動が原因の暗殺だったのか?少なくとも、当時の冒険家はスパイ活動と冒険が紙一重だったことは間違いないなさそうです。(インディー・ジョーンズも、アメリカのスパイだったともいえます)
 うまく旅を続けたいと思うのなら、ひとり一日最低10杯、いや20杯はコーヒーを飲み、同様に20本タバコを吸う覚悟を決めておかねばならない。もちろんナルギレ、すなわちトルコ式水パイプを吸えるのなら文句なしだ。まあ、とにかくあれを使いこなせるのなら、あなたは”わたしなどよりずっと立派な男”だ。
 幸いにして僕がトルコを旅した1980年代は、チャイ(紅茶)さえ飲めればOKでした。コーヒーは高級品になり、インスタントしか飲めなくなったと、現地のトルコ人が言ってました。
「極北シベリアの流刑者」
ウラジミール・ゼンジノア(1880年~1953年)
「極北のシベリアからの報告」
 政治犯としてシベリア送りとなったロシア人ゼンジノフは、何度も脱走を企てては逮捕され、1912年、32歳の時、ついに北極海に面した極北の街ルスコーエ・ウスチエに送られてしまいます。人口わずか22名のド田舎の村に送られてもなお、彼はその村での出来事や周囲の自然について貴重な体験・記録を残しています。
 彼は、結局ロシアから永久追放され、パリ、ベルリン、プラハなど、ヨーロッパ各地を転々と移動した後、アメリカへと移住。最後の住かとなったニューヨークで回顧録を執筆中にこの世を去りました。
「インドのトラ狩り」 
ウィリアム・ミッチェル将軍(1879年~1936年) 
「アメリカ空軍の父とトラ狩りの王様」
 米陸軍最年少の将軍として第一次世界大戦を戦った人物。誰よりも早く、空軍の重要性を主張。「アメリカ空軍の父」とも呼ばれています。1923年に結婚した彼は新婚旅行でハワイ、中国、韓国、日本、ビルマなどを訪れた後、インドのスルブジャで、その地のマハラジャとタイガー・ハンティングに行くことになりました。
 600人の勢子がトラを追い立て、50~60人の壁役のところまで追いこみます。さらに、地元の猟師がゾウに乗って、最終地点へと誘導します。そして、それをマハラジャが狙撃する。この方法で、マハラジャは自らの銃で1157頭のトラを殺したと言われます。そのせいもあり、1972年の時点で、インドには野生のトラは1800頭しかいなくなっていたといいます。
「トラは無限の勇気を持った情け深い紳士である。トラが絶滅すれば - トラを助けようという世論が盛り上がらない限り絶滅するだろう - インドは動物相の最高の存在を失うことで、いっそう貧しくなるに違いない」
ジム・コーベット(元タイガー・ハンター)
1925年
「黄色いラマ僧の国」 
「孤高の地理学者見聞録」 
ジョゼフ・F・ロック(1884年~1963年) 
「ラマ僧の国を訪れたアメリカ人」
 「ナショナル・ジオグラフィック」の記事の中でもナンバー1の人気だったというアメリカ人植物学者であり探検家による2編です。
 1920年代から30年代にかけて、一人中国の南西部で暮らしていた彼は常に読者を楽しませる文章を書くことで人気を獲得していました。専門は植物採集でしたが、ある時、チベットのムリ王国の王宮に招かれ、アメリカ人としては初めてそこを訪れることになりました。そこで彼は王も崇める存在である生き仏の写真を撮影することになります。
 黄色みを帯びた丈の長い地衣植物が地表を覆う樅の森を進むうち、心のなかに妙な寂寥感が忍び込んできた。私は別れを告げたばかりの、文明化されていない親切な友人のことを考えていた。世界から隔絶された生活を送り、亡骸は山に埋葬され、西洋文明のことも知らず、その影響もまったく受けない王国。
 私は尾根に登り、名残惜しい思いで最後にもう一度小さな小さな首都を眺めた。あの地では、ラマ僧の君主から言葉では表せないhどの親切なもてなしを受けた。

(しかし、この王もその後、中国人によって処刑されてしまいます)
「山賊VS護衛兵、映画のような旅」
 彼はその後、中国の雲南省東部で山賊たちに襲われたり、行く手を阻まれたり、危険な日々を過ごすことになります。
 成都を出発するとき、私には140人の正規兵に加えて騎兵が護衛についていた。綿竹の近くまで来たときには、兵は190人に増えていて、弾を装填したライフルと銃剣で武装していた。丘の上から後ろを振り返ると、行列は1キロ近くの長さに及ぶことが多かった。何しろ26頭のラバ、私の従者、17人のラバ追い人、そしてそれだけの兵がいるのだ。私たちはほかを圧倒するキャラバンになっていた。・・・そして護衛は町ごとに交代した。ハンチョウ、トーセン、ロキアンのように文字通り境界線上で入れ替わる場合もあった。攻め入ったり、略奪したりする可能性がるので、ある自治体の兵はほかの自治体に足を踏みいれることはできないのだ。・・・
「カイロからケープタウンまで、陸路を行く」 
フィリックス・シェイ 
「お金があれば、冒険だって、ライオン狩りだって」
 1924年、広告業界で大成功し巨万の富を築いたアメリカ人実業家が、「ちょっと変わった冒険」をしようと135日かけてカイロからケープタウンまでの旅を夫婦で行った記録。さすがは広告業界の成功者だけあって、その文章は読者を喜ばせるものだったので、「ナショナル・ジオグラフィック」1925年2月号に特集号として大きく掲載されました。
 はじめてホワイトハンター(東アフリカのプロガイド)と話した時、彼は私たちに何を撃ちたいかと尋ねた。
「そうだな、ライオンを撃ちたいな」
 その瞬間まで、何を撃ちたいか考えてもいなかった。それまで狩猟などしたこともなかったのだ。
「よーし!ライオンなら見つかるだろう」と彼は答えた。
 こうしていとも気楽に、そして無責任に、私たちはライオン狩りをすることになった。
 中央アフリカでの”狩猟”というものを理解するには、ひとの財布の中身を理解しなくてはならない。あっちでも狩猟、こっちでも狩猟なのだから!多くの金持ちは、中央アフリカで革命を起こせるほど大量の銃を持ってやってくる。そんな連中はサファリに100人以上の原住民を雇う。十数人のコック、キャンプ・ボーイ、各人の世話をするボーイたちを連れて行く。贅沢なテントを持ち込む。食料品はケースで大量に、そしてワイン・セラーをまるごと荷造りして持ってくる。二人、三人、あるいはそれ以上のプロのハンターを雇う - いずれも射撃の名手だ。勢子を20人くらい連れて行って動物を探させ、追い込ませる。原野にいても、家にいるのと同じくらい便利で快適な暮らしをする。そんな狩猟だと、短期間で5000ドルから2万5千ドルかかる。
 ナイロビを出発する前に、わたしは同行してくれるホワイト・ハンターに、わたしたちはトロフィーも自己欺瞞も求めていない、やりたいのはスポーツだ、と言った。わたしたちは、撃って標的を外れてもいいし、撃って命中してもいい、どちらも享受したい、と言った。彼は、わたしたちが完全に撃ちそこなうまで、自分は撃たないこと。動物を倒したら、それは彼のものになること。わたしたちは、頭も欲しくはない。大量殺戮はしたくない。狩猟の記念品が一つか二つあれば、わたしたちには十分だ、と。
 彼は喜んでこれに同意した。
・・・
1926年
「水上飛行場でアマゾン峡谷探検」 
アルバート・W・スティーヴンス大尉(1886年~1949年) 
「人類の新たな目、アマゾンを見る」
 第一次世界大戦中に空中撮影の技術を学んだスティーヴンスは、水上飛行機に乗ってアマゾンを上空から撮影するプロジェクトに参加しました。(1924年から1925年の行われました)
 革命によって混乱するマナウスの街からスタートした彼らはアマゾンの上空から撮影を行いアマゾン川の全貌を理解するための価値ある映像を記録しました。これによりアマゾン川の存在がいかに巨大でいかに複雑でいかに重要であるかを世界に知らしめることになりました。
 誰かが冒険に成功した時、カメラという新たな装置は、世界中の人々にとってもうひとつの目になったといえるでしょう。(現在では、インターネットによって同時進行で見ることすら可能になりつつあります!)
1927年
「キャラバンで中央アジア横断、突然苦力のように」
ウィリアム・J・モーデン(1886年~1958年)
「パミール高原に侵入したアメリカ人」
 裕福なアメリカ人実業家の家に生まれたモーデンは、イエール大学卒業後、家業の鉄道車両製造会社に入社。しかし、その後、博物館にのめり込み、希少動物の標本を求めて、アジアやアフリカに向かうようになります。
 ニューヨークのあめりか自然史博物館のために様々な動物を探すため、彼は1926年3月カシミール地方からウイグル自治区を旅することになりました。パミール・アルガリやアイベックスなど希少な動物を求めて、1万3千キロの旅を続けた彼は、パミール高原に足を踏み入れた最初のアメリカ人となりました。
 しかし、モンゴルに入る許可を得ていなかった彼らは、中国とモンゴルの対立の中、モンゴルの兵士たちに逮捕されてしまいます。危うく処刑されかけた彼らを救ったのは、ソ連政府から受けていた信用証明書でした。
1929年
「トルキスタンの砂漠の道」 
オーウェン・ラティモア(1900年~1989年) 
「ウイグル自治区での命がけのハネムーン」
 父親が教師として中国で働いていたため、ワシントン生まれながら中国で育った冒険好きの青年による探検記。
 1926年に結婚した彼は、中国北部のウイグル自治区で妻と落ちあい、そこから新婚旅行に出発しようと考えます。妻はそこへシベリア経由で向い、彼はキャラバンの一員となってモンゴルを横断して向かう予定でした。ところが、彼は中国のトルキスタン(ウイグル自治区)の国境近くで逮捕されてしまいます。自分は日本のスパイでもないし、ロシアのスパイでもないと説明しても信用されず、仕方なく彼は自分は「アメリカ皇帝の血を引くアメリカの王子の甥だ」とホラを吹き、まさかの待遇改善に成功します。
 その後、彼は中国、モンゴルについての専門家としてフランクリン・ルーズベルトに顧問として採用されることになります。ただし、後に彼はそうした中国での活動を共産党とシンパではないかと疑われ、マッカーシーに追及されることになります。
「馬に揺られてブエノスアイレスからワシントンDCへ」 
エーメ=フェリクス・チフェリー(1895年~1954年) 
「ドン・キホーテ、アメリカを縦断する」
 スイス生まれでイギリスで教育を受けましたが、授業態度の悪さから2度退学になり、アルゼンチンに渡ってそこで小学校の先生になったという異色に経歴の持ち主。10年間教師を務めた後、彼はブエノスアイレスからワシントンDCまで馬に乗って旅をしようと思い立ちます。その旅は、11カ国16000キロにおよび、1925年4月23日から始まった旅は、2年半を要することになりました。アルゼンチン原産の小さくて頑丈な二頭のクリオージ種に乗った彼は、「現代のドン・キホーテ」と呼ばれることになりました。
 神を冒涜する気はないが、私にとっての地獄とは、いわゆる「人間の皮」としてアンデスで荷を運ぶ動物の生活のことである。 
 アンデスの悪路に彼と馬二頭は苦労させられますが、それよりも危険だったのはアメリカ国内の整地された道でした。彼らは何度となく車にはねられそうになり、ついにはニューヨークまで行くことを断念。ワシントンDCで旅を終えることになりました。(ワシントンからは船に乗ってニューヨークへと向かいました)
1930年
「南極大陸を空から制する」 
リチャード・E・バード(1888年~1959年) 
「冒険の時代の終焉を告げた空の冒険」
 1912年に南極点を目指していたスコットが悲劇の死を遂げて以降、南極点に立った者はいませんでした。
 1929年11月28日、アメリカ、バージニア州出身のバードは、前年に築いた南極の基地からフォード製3発機に乗り、南極点を目指しました。巨大な大陸の真ん中に位置する南極点までは1300kmあり、途中、標高4500mの山も越えてゆく必要がありました。
 彼は、アムンゼンが7か月かけて到達した南極点に、15時間51分で行って帰って来たのでした。
 極地付近では、時空の感覚が違う。南北の方角や通常の時間の感覚は、まったく無意味で矛盾だらけになってしまう。南極点という理論的な地点から、いかなる方角も北であり、またあらゆる経度に属することになる。したがって、どんな瞬間も、あらゆるときに属しているともいえるのだ。南極点を中心に旋回飛行すれば、わずか数分のうちに今日から明日へ移動し、また逆旋回して昨日へともどることもできる。
 方角も、時間と同じほど意味をもたない。南極点めがけて南東方向に直進しても、気がつけば極点を越えて、直角に曲がって北東をめざしていることにもなる。
 今いるこの限られた地点では、通常のナビゲーションの方法は通用せず、太陽の動きぐらいしか頼るものがなかった。
 不死身のスコットも、南極点をめざして命を落とした。そしてその南極点は、今われわれの眼下にあった。彼の超人的な奮闘努力は、精神という目に見えないものが、探検の具体的な成果よりも、はるかに長く輝きつづける証しだった。この英雄に敬意を表して、私たちは星条旗とともに英国旗も投下した。
 しばしばいわれることだが、彼は古き良き探検家時代の最後を飾る一人であり、新しき探検時代の草分けでもあった。
1931年
「世界の果て、ニアス島」
メーベル・クック・コール 
 かつて船乗りたちに「黄金の島」と呼ばれていたニアス島は、インドネシア、スマトラ島の西にあります。そこに文化人類学者として初めて上陸したアメリカ人のコール夫妻による記録です。ほとんど探検隊による調査が行われていなかった島で、彼らは金でできた装飾品を身に着けた人々が住む古代に造られた都市を発見します。確かにそこはアラブの船乗りが「黄金の島」と呼ぶとうりの島だったのかもしれません。 
「大型帆船でホーン岬をまわる」 
アラン・J・ヴィラ―ズ(1903年~1982年) 
「恐怖の航海」
 15歳で海の男となったヴィラ―ズは、30歳で大型帆船の船長となり、詩人でもあった父の影響で多くの記事を執筆しました。
 1929年4月、25歳の時、彼がグレース・ハーウィーという三本マストの帆船に乗り込み、オーストラリアから138日かけてホーン岬を越えてアイルランドにたどり着きました。しかし、その船旅は厳しく危険なもので、彼は無事に目的地にたどり着くとその記録をナショナル・グラフィックに送りました。
 この航海では事故で一名が命を落とし、第二航海士が精神に異常をきたすなどして、彼は最悪の危機に追い込まれることになります。
・・・海の上ほど死の恐ろしさが身にしみる場所はない。陸の上なら気を紛らわせるものがあるので、それを忘れられる。ほかの人と会ったり、話したりできる。いなくなった人を思い出してばかりいなくてすむ。だが、海に浮かぶ全装帆船には、船乗りの小さな一団が乗っているだけだ。
「禁断の海岸を旅する」 
アイダ・トリート(1889年~1978年) 
「伝説の海賊との旅」
 アメリカ、イリノイ州生まれで、作家兼英文学教授だったアイダはフランスに渡り、1915年古生物学の博士号を取得します。そしてフランス人と結婚すると、様々な土地で冒険旅行をしました。
 彼女はジプチでフランス出身の老海賊で伝説的人物ド・モンフレイと知り合い、彼の船に水夫として乗り込みながら一か月間同行取材を行いました。奴隷貿易が行われ、フランス政府によって立ち入り禁止区域に指定されていた危険区域での旅の取材記録です。
 最強のガイドとの旅は、映画や小説の世界のようです。
「なぜ、ダンカリ海岸jはタブーなのかしら」と、私はたずねた。
「うむ、理由はたくさんある。一番大きいのは、ダナキル族が白い肌に対して根深い嫌悪を抱いている点だ。引き金にかけられた手は、何に反応してもおかしくないからな。連中が植民地化を進んで受け入れたことはないあからな。それに、気候と土地 - まさに灼熱の砂漠 - を考えれば、フランス人が連中を従順な植民地人に本気で変えようとしたことは一度もない。ジプチが重要なのは、フランコ - エチオピア鉄道の終点であり、エチオピアにとって唯一の海港であるからにすぎない。
・・・
「海の墓場への往復旅行」(1931年)
「水面下900メートルへ」(1934年)
ウィリアム・ビービ(1877年~1962年)
「海底900m深海への挑戦」
 アメリカの海洋生物学者ウィリアム・ビービは、網によって深海生物を引き揚げることで調査・観察を行っていました。しかし、何とか自分の目で生物たちが生きている現場を見てみたいと考えます。こうして、エンジニアのオースティン・バートンに設計を依頼し、「潜水球」という深海探査用の乗り物を開発するもとになりました。
 1930年にバミューダ沖の深海へと降りて行ったこの潜水球は、海中世界の解明にとって画期的な発明となりました。この後、二人は、その乗り物により、1934年に水深900mという深い海の底にまで達することになります。二人が作った900mの潜水記録は、その後15年間破られることはありませんでした。
 ただし、潜水球もより自由に動ける潜水艇にとって代わられることになります。
「海底では、どんな気持ちだった?」等と絶えず聞かれるが、英国の進化論学者ハーバート・スペンサーの言葉を借りたい。それは「無限の空間に浮かぶ極小の原子になったような」気分だった。
1932年
「灼熱のハドラマウトへ」 
ダニエル・ファン・デル・ミューレン(1894年~1989年)
「ビンラディンの故郷だった幻の地」
 アラビア南部の乾燥地帯「ハドラマウト」は、1920年代まで西欧人が入ったことのない幻の土地でした。そこへオランダ政府の命を受けて、調査に向かったのが外交官だったミューレンでした。ラクダの背中に分解した自動車を乗せた彼は、砂漠を乗り越えながら、伝説の洞窟や幻の都市タリムなどを調査して回りました。 
 現在、ハドラマウトはイエメンの一部であり、ちょっとした観光地になっている。(もっともだれでも行けるという場所ではない)。その変わった名前の由来は?「死を歓迎する」というアラビア語からきているともいわれている。オサマ・ビンラディンの父親の出身地でもある。 
「地中海から黄海まで - 自動車によるアジア大陸横断の旅」 
メイナード・オーウェン・ウィリアムズ(1888年~1963年)
「砂漠と越え山賊に追われる冒険旅行」
 「ナショナル・ジオグラフィック」の海外編集部チーフが、フランス自動車界の大物アンドレ・シトロエンが資金提供した自動車チームによるアジア横断ツアーに参加した記録。それは総距離11800Km、10か月に及ぶ長い旅になりました。砂漠を越える旅のため、シトロエンのトラックと後輪にキャタピラを使用したハーフ・トラックが使用されました。チームのメンバーは、考古学者、科学者、撮影班、機械技師、それに公式カメラマンのウィリアムズらによって構成されていました。以下には、ウルムチから出発しゴビ砂漠を横断する部分が書かれています。しかし、その旅はゴビ砂漠の冬の嵐に襲われ、さらには内戦の混乱の中、反乱軍からの襲撃を恐れながらの命がけの冒険となりました。旅の途中、彼らはモンゴルの王女に招待されました。彼女は彼らに以下のような言葉をかけます。
「・・・あなた方は自動車や鉄道、ラジオといった文明の利器を持っている。だから道路も整備されず、衛生状態も悪く、スピードも、言論の自由も、健全な財政も、西洋式の司法制度もないこの国を遅れているとみなす。そして中国人を憐れみます。でもこの国人々は重要な世界の中心にある天上の王国に暮らしているのです。あなた方の進歩 - 少なくともそれが東洋に及ぼす影響は、無秩序そのものです。なぜなら精神的な価値がまったく実現されていないから。私たちモンゴル人は自由です。”神のおられる天国の下の良い馬と広い平原”、これが私たちの願いであり、私たちはそれを実現しているのです。・・・」
1933年
「満州の日々」 
リリアン・グローヴナー・コーヴィル(1907年~1985年)
「混沌の街、ハルビンにて」
 「東洋のサンクトペテルブルグ」と呼ばれた満州国の首都ハルビンに25歳の時、外交官の夫と共にやって来た女性による満州での暮らしの記録。
 彼女は政治的にも社会的にも混沌とした満州国でおきた強盗事件や誘拐事件について詳しく記録し、それ以上に住民たちを苦しませた8月にハルビンを襲った大洪水について、記録を残しました。
 当時のハルビンは、ロシア人、中国人、日本人、朝鮮人が入り乱れ、スパイたちが暗躍する複雑怪奇な街でした。そんな状況に追い打ちをかけるように起きた大洪水は、街をさらなる混乱状態に陥れました。なんとか秩序を保とうと、日本軍と中国軍は急遽協力関係を結び、協同で街の警備を行うことになりました。
「ゴビ砂漠の探検」 
ロイ・チャップマン・アンドルーズ(1884年~1960年)
「元祖インディ・ジョーンズはロマンチスト」
 インディ・ジョーンズのモデルとされた人物です。アメリカのウィスコンシン州出身でクジラ研究の第一人者だったが、古生物学に興味を持つようになり、アジア(朝鮮、インドネシアなど)で化石発掘を行い、多くの貴重な化石を見つけました。38~46歳の間、モンゴルとゴビ砂漠で5回の発掘調査を行いました。その間、彼は様々な専門家を集めて大部隊を編成し、初めて「恐竜の卵」の化石を発見、世界中で大きな話題となりました。(インディ・ジョーンズというよりも「ジュラシック・パーク」ですね) 
・・・恐竜のタマゴが世界中でこれほど反響を呼んだことに私たちは驚いた。
 この発見が重要であることは、恐竜が卵生であることを誰も知らなかったからだ。大方の爬虫類は卵生だし、恐竜は爬虫類だから、タマゴがあると予測できたものの、世界中で数多くの恐竜の骨が見つかっていたにもかかわらず、それまではタマゴの殻のかけらさえ発見できていなかった。
 
 フラミング断崖を去る日、8月の輝かしくみごとな日の出を眺めながら、ふと悲しみがこみあげてきて、私は自分でも驚いた。ふたたびこの風景を見ることは、決してあるまい。「決して」というのは、「長い期間」という意味だ。探検家が懸命に仕事をこなしても、その生涯は短い。私の余生、べつの場所が呼んでいる。
(探検家というのは、このくらいロマンチストでないと!・・・やはりインディですね)
「ジャングルの河川でアンデスイワドリの生息地へ」 
アーネト・G・ホルト 
 英国の探検家パーシー・フォーセット大佐と共にアマゾンの奥地を旅することになったアメリカ人の鳥類学者の記録です。1930年~31年にかけてアマゾンのオリノコ川流域を10か月に渡り探検しました。そこで彼は何千もの鳥などの生物標本を収集しました。 
 アマゾンに初めて足を踏み入れた人間が旅行書を何冊読もうとも、実際の景色を見て予想通りと思うことは、まずない。間違いなく雰囲気に圧倒される。目を前方の遠い水平線へ向けると、そこには青色と茶色にはさまれ、薄もやがかった海岸線が続いている。そして広い大陸へと想像の羽を遊ばせる。・・・私自身の印象をいえば、アマゾンには水があまりに多い。食料もあまりに多い。天気はうっとうしい、その三拍子に圧倒された。・・・ 
1934年
「オートバイでアフリカ大陸を横断する」 
ジェイムズ・C・ウィルスン(1900年~1995年)
「イージー・ライダー・イン・サハラ」 
 1928年にナイジェリアのラゴスから紅海までの6100キロを5か月かけてオートバイで横断したアメリカ人冒険家の記録です。砂漠の横断は21世紀の今でも危険ですが、当時は途中でガソリンも部品も食料も水も何もかも補給は不可能でした。壊れた部品の修理に自分の歯の詰め物を使ったり、火を自力で起こして溶接したり、まさに究極のサバイバル旅行でした。 
 砂漠のバイクの旅はつづいた。タイヤは砂を掻き、空転する。人は降りて押し、汗を流す。毎日夜になると希望を捨て、一夜明けるとまた取り戻す。発電機のチェーンが切れる。フェンダーのきれっぱしを使って修理にかかる。修理中にパーツを積んだラクダが追いつく。もう砂もあまり深くない。そこでまた側車をつける。スプリングが折れる。テールライトのスライを切断して、応急処置をほどこす。またしても予備のガソリンの缶が洩れるのに気づき、炎天下ではんだづけする。・・・
「非イスラム教徒、メッカ巡礼に」 
オーウェン・トゥイーディ(1888年~1960年) 
「メッカへの巡礼がのどかだった頃」
 1930年、聖地巡礼の旅「ハッジ」に参加したアイルランド人作家の記録。もちろん彼はイスラム教徒ではなかったので、旅を途中でやめることになりました。当時のハッジは飛行機もバスもない時代あったので、人々は徒歩かラクダに乗るかしかなく、現在ほど多くの参加者がいたわけでもありませんでした。
 彼の旅のスタートは、アフリカ北部スーダンのハルツーム。そこからメッカまで行くとなるとかなりの長旅です。彼は汽車に乗ったりしながら、メッカに同じように向かう人々と行動を共にしました。 
 ジェッダからメッカまでの道は砂の道だ。無数のラクダに踏まれた砂は細かい粉のようになっている。そのとき私たちのほかには、ひどくおんぼろなバスが2、3台走っているだけだった。バスでもラクダでも揺れたりガクンとしたりするのは同じだが、バスは裕福な巡礼者をメッカまで運ぶのに途方もない料金をとっていた。ガイドたちは、巡礼者たちの近くで埃を巻き上げる車に、大声で文句をいった。
「とっとと行ってしまえ!まったく!悪魔の発明だよ!おまえたちの骨が折れ、太陽に 灼かれて灰になってしまうがいい!」
 しかし、あと数年もしたら、哀れなラクダ使いたちが文句をいう相手はさらに増えるかもしれない。私が歩いていた道がたぶん、メッカとジェッダを結ぶ鉄道のルートになるからだ。
「北大西洋周辺調査飛行」 
アン・モロー・リンドバーグ(1907年~2001年) 
 あのチャールズ・リンドバーグの妻は、結婚後、副操縦士、航空士、通信士として、夫の旅に同行しました。1933年7月、二人は、より安全な航空路を調べるため、水上飛行機ロッキード・シリウスで6か月間の調査旅行に出発します。(長男が誘拐され殺された後、まだ彼は苦しみを抱えていました)
 私は息を殺した。ああ、とうとう!音がしなくなっている。パタン、パタンがやんでいる。私は時計に見た。グリニッジ標準時(GMT)2時ちょうどだ。
 離水したのね。機は上昇していた。エンジンの音がスムーズになって、長く尾を引く溜息のような音がはさまっていた。呼吸が楽になったよう。いえ、まるで高らかに歌いだしているようだわ。機は今や町の灯火に背を向けて恍惚と爆音をとどろかせていた - 驕慢なまでに歓びにあふれて。ああ、とうとう!私たち、飛んでいるのよ、あなたがたの上を!
・・・ 
1936年
「成層圏探査」(1934年)
「前人未踏の高度」(1936年)
アルバート・W・スティーヴンズ大尉(1886年~1949年) 
「もうひとうの宇宙開発」
 世界で最も偉大な写真家と言われたスティーヴンズは、飛行機に乗って1万メートル近くまで登ったものの1万1000mより上の成層圏にまでは行けずにいました。そこで彼は成層圏用の気球エクスプローラーとエクスプローラーⅡを陸軍航空隊と米国地理学協会の協力を得て製作。
 1934年7月、彼は自らそれに乗って高度の記録を更新しました。アメリカの宇宙開発は、ロケットではなくこの計画から始まったともいわれます。 
 エクスプローラーⅡは、1935年11月11日に上昇を開始。2万2066mの高度に到達。(この記録は、その後、15年破られませんでした)この時に得られた様々なデータは、その後、NASAが誕生後、宇宙船の設計のための重要な参考データとなりました。
1937年
「紅海の真珠採り」 
アンリ・ド・モンフレイ(1879年~1974年)
「伝説の海賊ヒーローの自伝」
 「スエズからボンベイまでの地域で最大の傑物」と呼ばれ、真珠採り、闇の武器商人、大麻の密売者でもあったフランス人。彼の父親はゴーギャンとも親しかったという印象派の画家でしたが、家は裕福でした。1910年30歳の時、マルセイユから船でジプチに渡った彼は、そこでアラビア語を身に着け船乗りになります。そして、海賊としてアフリカとアラビアの間の海で暴れ回ります。
 その後、彼はイスラム教徒となり、「アブデル・ハイ」(命を与える者のしもべ)と名乗るようになった彼は、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエに命を狙われ、逆にイタリアのムッソリーニは彼を英雄と崇めました。1930年代に入ると、彼は自伝の執筆を始め、ナショナル・ジオグラフィックへ寄稿するようになります。
 第二次世界大戦中、彼はイタリアに協力したため、イギリス軍に逮捕され、ケニアの捕虜収容所に入れられます。戦後、フランスに戻った彼は、家族が所有していたゴーギャンの絵画を描く生活をしていました。(ただし、後にゴーギャンの絵画は贋作だったことが明らかになります)
 95歳まで生きた彼は一部のフランス人にとって英雄的存在でした。まるで映画「冒険者たち」のリアル版です。
1938年
「海南島、ロイ山地のビッグノットたちに囲まれて」 
レナード・クラーク(1907年~1957年) 
「首狩り族とマラリアに囲まれて」
 1937年、アメリカの戦略事務局OSSに所属していたという軍人で探検家のクラークは、30歳の時、南シナ海の海南島に上陸。首狩り族がいるという島の探検を行いました。しかし、その島ではコレラが大流行し、多数の死者が毎日出ていて、政府が戒厳令を発していました。そんな中、パスポートが無効になるのを恐れて、彼は内陸部へと出発します。案の定、彼が島を横断するまでにメンバーのほとんどがマラリアなどで倒れ、彼のもとにはたった一人の苦力しか残りませんでした。 
1939年
「ペルシアのいにしえの顔と新しい顔」 
メアリ―・イレーヌ・カーゾン(レディ・レイヴンズデール)(1896年~1966年)
「イスラム圏、危険な女子旅」
 多くのイスラム圏の国において女性は自由を奪われた存在で、外国人女性もそこで自由な旅をすることは今でも困難です。イギリスのインド総督だった人物を父親にもつ著者は、39歳の時、イラン(ペルシャ)各地を旅して回りました。幸い、この時期のイランは政教分離を目指す政権によって、自由が少しは認められる状況にありました。彼女は中、自動車を使って、広い範囲の旅を実行することができました。
・・・私の胸に深く刻みこまれて決して消えることのない場面は、苦悶の表情で壁の近くでひざまづいてコーランを唱えている8人ほどのムッラーたちの姿だった。彼らは、私たちの小グループが一列に並んで通り過ぎるのを眺めていた。彼らはこちらを見て殺意を抱くとか憎悪に燃えているという気配を見せたわけではないが、私たちが彼らの心の奥深くに、決していやすことのできない深手を負わせたかのような苦痛の感情をにじませていた。彼らは、脅され、打ちのめされた人々を連想させた。私たちに同行したイギリス人男性の一人はペルシャ語がわかるのだが、彼らが「外国人」、「異教徒」という言葉を連発していたのを漏れ聞いたという。・・・
 それだけわかっているなら入らなきゃいいでしょ!そんなことだから、恨みをためてしまい、今に至るんですよ。
1941年
「南洋で時間をさかのぼる」 
トール・ヘイエルダール(1914年~2002年)
「ヘイエルダールの天国の日々」
 ノルウェイ―人の冒険家ヘイエルダールは、1947年に筏船(コンティキ号)に乗ってペルーから8000キロ先のポリネシアまでの航海を成功させます。ポリネシア人がアジアではなく南米から移民した人々であるという仮説を証明しようという彼の試みは世界を驚かせました。
 ここでは彼がその冒険を行う10年前、1937年(22歳の時)に行ったファツヒバ島(マルケサス諸島)での体験が描かれています。まるで楽園のような島での生活描写はアウトドア好きならずともうらやましく感じられるはずです。(おまけに彼は新妻と二人だったのです!)
 冒険とは、その苦労や危機的状況ばかりがクローズ・アップされがちですが、実はその多くは幸福な日々なのかもしれません。だからこそ、冒険者たちの多くは生涯、冒険を止めることができないのです。(冒険の途中でこの世を去った人々の多くは幸いだった、と僕は思っています・・・)
・・・翌朝は小鳥たちの陽気な歌声に起こされた。青と黄色のやや大きめの鳥が、メロディに深みのある低音を添えている。椰子の葉のあいだを飛びかその美しい鳥のホーという低い鳴き声は、何キロも先まで届く。
 泉の澄んだ水でひと泳ぎしてから、朝食にココナッツを食べ、木からもいだ熟れたオレンジで締めくくる。私たちは喜びのあまり笑い声をあげた。
 なんという土地!なんという暮らしだろう!
1945年
「ボルネオ島の暮らし」 
ヴェージニア・ハミルトン( ゲリット・ミデルベルフの旧姓)
 日本軍が侵略するまで石油開発のための10年間ボルネオ島に住んでいたゲリット・ミデルベルフ夫人は、森の島ボルネオ島を誰よりもよく知る西洋人でした。 
 一年を通じ、黄昏時はわずか数分の短さながら、一日で最も荘厳なひとときだ。暗くなりかけた空から爽やかな涼しい風が吹き、雲は一瞬だけ素晴らしい色に変る - 鈍い灰色から淡紅色に染まるのである。
 孤独なジャングルのなかで、しばし自分がオパールのなかにいるかのような感覚に包まれる。木々の葉がまた色味を変えはじめるのはこのときである。傾いていく太陽が、ほかの時間にはけっして日の当たらないところに光を注ぐからだ。背の低い木々は、懸命に高く伸びようとするうちにいつか手が届くはずの奇跡の光を、この一瞬に垣間見ることができた感謝しているに違いないと思う。
 あたりの美しさに畏敬の念を抱き、私たちは声を失っていた。
・・・
「漂流からの生還」 
サミュエル・F・ハービー少佐(1908年~1994年)
 アメリカの海軍士官として兵士のための教育映画を製作したり、サバイバル技術の講師として活躍した人物の漂流記です。
 1943年7月に天候不良と燃料切れで不時着(着水)したグラマンの乗員スミス中尉の話です。
 もうひとつは133日間一人で大西洋を漂い続けた中国人船員プーン・リムの話です。彼は軍艦に積まれていた筏を見つけ、それに乗り込むことで命拾いをすることになりました。
1946年
「アフガニスタン再訪」 
メイナード・オーウェン・ウィリアムズ(1888年~1963年)
「幻の国アフガニスタンへ」
 「ナショナル・ジオグラフィック」編集部のチーフが長く外国人の入国を認めていなかったアフガニスタンに取材のために訪れた記録。
 1941年にアフガニスタン政府が外国人の入国を許可したことから、彼は他の記者たちと共に入国し、バーミヤン遺跡などを訪れました。後にイスラム過激派によって破壊されることになるバーミヤン遺跡の巨大仏像の頭の上で彼は貴重なテンペラ画を撮影しました。
「インドからチベットを越えて中国へ」 
イリヤ・トルストイ中佐(1903年~1970年) 
「トルストイの孫とダライ・ラマ14世」
 第二次世界大戦中(1942年)、フランクリン・ルーズベルトの承認を得て、合衆国戦略事務局(後のCIA)は、インドからヒマラヤを越えて中国に至る物資の補給ルートを確保するための調査旅行を行うことになりました。(日本軍がビルマを経由するルートを抑えていたため)そのために、選ばれた二人の自然史研究の専門家ブルック・ドランス大尉とイリヤ・トルストイ中佐でした。彼らはアメリカ人として初めてチベットのラサへ外交使節団として入り、そこでチベットの統治者ダライ・ラマ14世(当時7歳)からの許可を得て、当時まだ許されていなかったチベット地方での探検を行うことになりました。
 イリヤ・トルストイ中佐は実はあのロシアの作家トルストイの孫にあたります。トルストイの孫とダライ・ラマ14世が出会ったいたなんて、それだけでロマンです!
 法王猊下は足を組んで座り、先の尖った黄色い帽子をかぶっていた。私たちは一目見るなり、その姿に感銘を受けた。顔は幼いけれども厳かで、体つきはまったく貧弱ではない。・・・
1949年
「世界最大落差の滝をめざす密林探検行」 
ルース・ロバートソン(1905年~1998年) 
「エンジェル・フォールを目指して」
 アメリカ人女性ルースは、第二次世界大戦中は戦時特派員として活躍し、その後、「NYヘラルド・トリビューン」の報道写真記者となりましたが、マンネリ化した仕事に嫌気がさし、ベネズエラに移住し、そこから記事を送ることを始めます。(戦場記者という仕事が刺激的過ぎたのでしょうか?)
 彼女はそこで辺境パイロットとして有名なジミー・エンジェルから巨大な幻の滝の話を聞き、彼の飛行機に乗ってその滝を上空から撮影しました。(ジミー・エンジェルが発見したから「エンジェル・フォール」というわけです!その落差は979mで世界一です)
 1949年4月、44歳になった彼女はその滝に歩いて接近し、写真を撮ろうと出発します。インディオのペモン族が案内と荷物運びで参加しますが、彼らは滝のある山「アウヤン・テピイ(悪魔の山)」を恐れており、誰も滝に近づいたことがありませんでした。
  彼女はこの旅の後もベネズエラに13年間住み続け、報道写真家として活躍しました。
1950年
「アッサム・チベット地震に遭遇して」
フランク・キングドン=ウォード(1885年~1958年) 
「チベット巨大地震からの生還報告」
 インド国境に近いチベットの山村でキャンプをしていた探検家・植物学者は妻らと共に、1950年8月15日大地震に遭遇しました。一行は橋が消え、増水した川やがけ崩れで消えた道などをなんとか走破し、3か月かけてインド側への脱出に成功しました。その後、その時の地震はM8.7の巨大地震だったことがわかります。 
1953年
「エヴェレストの勝利」 
サー・ジョン・ハント(1910年~1998年)、サー・エドマンド・ヒラリー(1919年~)
「チョモランマを征服した男たち」
 ヒラリーとテンジン・ノルゲイによるエヴェレスト(チョモランマ)初登頂の記録です。この挑戦は、1920年12月9日にダライ・ラマが登頂の許可を出したことで始まりましたが、それからの32年間に7回遠征が実施されたもののすべて失敗に終わっています。
 それがついに成功したのが、1953年5月29日。
「エヴェレストでは、料理をするのが大仕事であり、しゃべるのも考えるのも大仕事だ。生きて行くこと自体に大変な努力が必要なのだ」
フランク・スマイス(登山家)
 1953年、エヴェレストをめざすにあたって、私は隊員たちの心に銘記すべき事柄を改めて確認した。こんどの遠征は高度への冒険であると同時に、過去にこの山と戦い、その記録を私たちに残してくれた仲間たちの知恵、彼らの経験ちう遺産を、こだわりのない心で受け入れよう、と。われわれが求めるのはただの栄光ではない。それは自然に対する人間の勝利 - そして、人が自分の限界を超えること - という点で、人類共通の栄光である。山を征服することについて、もう一度、マロリーの言葉を引こう。
「われわれが敵を打ち負かしただって?乗りこえたのは自分自身だけだ」
・・・すると 、不意に気がついた目の前の尾根は上に向かわず、下っている。急いで石のほうを見る。そこには、すぐ目の前にこんもりと丸まった、雪に覆われた小山がある。大きさは積みわらほど。 
 頂上だ。
 最後の疑問は胸にわきあがる。頂上そのものが大きな、崩れかけた雪庇だったらどうしよう。もしそうなら、その上に立つのは誰か他の人にしてもらおう。
 その先の数メートルは、ピッケルを前もって突き刺しながら、慎重に進んだ。雪は硬く、しっかりと積もっている。最後の数歩をよろめきながら歩く。私たちはそこにいる。私たちの頂上には何もない。世界が下にある。
・・・
1957年
「海中のカメラ」(1956年)
「バウンティ号のしかばね」(1957年) 
ルイス・マーデン(1913年~2003年) 
「クストー深海への冒険開始」
 ジャック=イヴ・クストーと共に彼が開発したスキューバ(自給式潜水呼吸装置)を着用して行った海中探査の記録です。あの有名な記録映画「沈黙の世界」を撮影していた当時の映像と同時にカメラによる撮影を行ってたのが、カメラマンのマーデンでした。(彼はナチュラル・ジオグラフィックの外国部長だった人物でもあります) 
「熱帯の澄んだ海水は、科学者が使う蒸留水のような何も入っていないきれいな水だと思う人が多い。だが実はまったく違う。海水はいわば生き物のスープ、何億もの生きた動物質や植物質の微粒子が入った汁だ。あらゆる生物と同じように、海水もそのときどきによって変わる」
ジャック=イヴ・クストー
 マーデンはフィジーの博物館でバウンティ号の舵が展示されているのを見て驚かされます。あの有名な船がその近くにあるピトケアン島の沖に沈んでいると知った彼は、その調査を計画します。
 よく見ようと、海底すれすれまで顔を近づけた。はっとした。毛虫のようなものは、船底の包板をとめる針だった。バウンティ号の釘だ。何十本もある。顔をあげてレンをさがした。彼は私のすぐ上にいた。どうしたんだ、といいたげに、こちらを見つめている。私は腕をのばしてレンの手をとり、勢いよく上下に振って、指した。彼はそれを見てから目をあげ、笑顔でうなずいた。私たちはまた握手をかわした。バウンティ号の墓場が見つかったのだ。
「いい時代だったな」と、ルイス・マーデンは当時を回想していう。
「まっさらな海底の世界が目の前に広がって、発見されるのを待っていた。潜るたびに、未知の惑星を探検するような気分を味わったよ」

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