20世紀天才少年あがた君の行動記録

- あがた森魚 Morio Agata -
<出会いと再会>
 あがた森魚が「赤色エレジー」を歌う姿をテレビで見たのが、僕が12歳の時。他の歌謡曲の歌手たちとのあまりのギャップは忘れられないインパクトを残しました。しかし、その後、僕はビートルズにはまり、欧米のロックにはまり、フォークにも興味を失ってしまいました。必然的にあがた森魚も忘れられた存在になりました。
 ところが1987年に「バンドネオンの豹」と出会って、あがた森魚から再び衝撃を受けることになりました。そこから、彼の過去作品のアナログ盤「日本少年」「乗物図鑑」などを買い、その魅力にやられました。その後は、池袋サンシャイン・プラネタリウムでのライブ、小樽文学館でのライブなど、デビュー50周年の小樽でのライブも見られました。
 そんな「あがた森魚愛」を「ポップの世紀」に書いていたら、突然、2022年2月あがたさんが店に現れてビックリ!あがたさんの伝記の著者今村さんと飲む機会までもらいました。その席で今村さんに「アーカイビスト」と名乗ったらと言われたこともあり、あがた森魚の歴史もこのサイトのアーカイブに改めて加えさせていただきます。
 このページを作っていて驚かされたのは、21世紀に入ってからそれ以前よりも活発にアルバムを発表しているあがたさんのパワーです。直接話をして思いましたが、あがたさんにはまだまだやりたいことがありそうです。
 改めて、これまでの活動への賛辞さけでなく、これからの活動に期待したいと思います。

<あがた少年と北海道>
 あがた森魚ほど、故郷の北海道にこだわるアーティストも珍しいでしょう。
 彼は、1948年9月12日、北海道の日本海側の港町留萌市に生まれました。父親の山縣林吉は、海運局に務めていたので転勤が多く、1950年には当時、北海道の中心都市だった小樽市に引っ越しました。
 1955年、彼は小樽の入船小学校に入学。この時、クラス担任となったのが、彼の人間形成に大きな影響を与えることになった佐藤敬子先生でした。
 ちなみに彼が住んでいた時代の小樽は、街が最も繫栄していた時代で人口がピークを迎える時期でした。そんな時代の風景を見られる映画があります。
 1963年公開の映画「サムライの子」は、この時期入船町に実在した部落民の集落を舞台にした映画です。廃品回収などで生活していた貧しい人々が住んでいたのもまた、入船町だったのです。彼は1957年に青森に引っ越しましたが、この時代の北海道小樽の暮らしはこの映画である程度知ることができるでしょう。
 1961年、彼は家族と共に再び北海道に戻り、函館に住み始め、1964年、道内屈指の名門校、函館ラサール高校に入学します。
 ここまでの彼の少年期は、ただの田舎のお坊ちゃまで、音楽とも、アートとも関係のない人生でした。

<フォークとの出会いとはつみつぱいの誕生>
 1965年、ラジオからボブ・ディラン「ライク・ア・ローリング・ストーン」が聞こえてきたことで、彼の人生は大きく方向転換することになります。少年時代からヴァイオリンを習うなどしていた彼は、ボブ・ディランに憧れ、早くもギターを持って作詞・作曲を始めます。
 1966年、父親が定年を迎え、横浜に引っ越すことになります。彼も高校卒業と同時に横浜に行き、予備校に入学して大学進学を目指すことになります。ただし、この頃から彼は勉強ではなく映画や音楽にのめり込み始めます。
 1968年、明治大学の2部に合格した彼は、野村證券でバイトをしながら、一人暮らしを始め、音楽だけでなく演劇にも熱中し始めます。彼の演劇的なパフォーマンスの原点はこの時代から始まっていたと言えます。
 1969年、偶然、街で見かけたチラシから音楽イベント「ロックはバリケードをめざす」を見に行った彼はそのステージに現れたミュージシャンたちに衝撃を受けます。そこにいたのは、早川義夫遠藤賢司、ヴァレンタイン・ブルー(鈴木茂、大瀧詠一が在籍)らでした。
 全共闘の時代、彼は多くの若者と同じようにデモに参加するなど、社会変革を目指していた時期もありましたが、いち早くそうした運動から距離をおくようになっていました。それは、彼が憧れていたボブ・ディランの言葉と共通する思いがあったからかもしれません。
「あれが悪いとか、これが悪いとかいう批判の曲はもう書かない。他人のための曲は作らない。もう誰かの代弁者なんかでいたくないんだ」
ボブ・ディラン

 この年、彼はバイト先で働く同僚のおばさんから引きこもり気味の息子を紹介されます。
 母親が家から出そうと、あがたが出演するコンサートに息子を見に行かせ、それがきっかけで知り合うことになった青年。それが、後にムーンライダースを率いることになる鈴木慶一でした。あがたは大音響でマザーズ・オブ・インヴェンションの「フリーク・アウト」をかけている鈴木家を発見。部屋に入り、好きなバンドは?と聞くと彼は、フランク・ザッパ、ドノバン、ヤードバーズ、ザ・バーズと答えたといいます。これで二人は意気投合し、音楽活動を開始します。証券会社で働いていたあがたは、その給料をつぎ込んで自主制作アルバムの制作。ベースは、知り合ったばかりの細野晴臣に依頼。細野は、はっぴえんどのデビュー盤「ゆでめん」発表の直前でした。鈴木慶一はここから細野晴臣との付き合いが始り、はっぴいえんどのバック・メンバーとなり、彼らの解散コンサートではピアノを担当することになります。
 あがたは鈴木慶一と鈴木博文、藤井盛人らと「はちみつぱい」を結成しますが、ソロ志向が強かったことからすぐにバンドを脱退します。
 1969年の暮れ、あがたはデモテープを募集していたURCレコードに出向き、プロデューサーでもあった早川義夫の前で直接歌ってみせました。この時の演奏はけっして良くはなかったようですが、自身がアルバム「かっこいいことは、なんてかっこ悪いんだろう」を出したばかりの早川は、あがたの才能を認め、彼を1970年1月13日に開催された日本都市センター・ホールでのコンサートに出演させます。この時の出演者は遠藤賢司、中川五郎、斉藤哲夫、ヴァレンタイン・ブルー(細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂)、金延幸子、中川イサトなど。このコンサートは、インターナショナル・フォーク・キャラバンの前夜祭として開催されました。

<赤色エレジー>
 北海道から東京に出てきて、音楽でも文学でも何でもいい、自分の感受性を生かせるアーティスティックなことがしたいと思ってました。そういうもやもやっとした気持ちを抱えて毎日を生きていたときに出会ったのが、林静一さんのマンガ「赤色エレジー」の単行本です。アパートで同棲する男の子と女の子との他愛のない物語なんだけど、ぼくには深く感じられるものがあった。それで誰にも頼まれずに勝手に主題歌をつくってしまった。それが歌のほうの「赤色エレジー」です。
あがた森魚

漫画版「赤色エレジー」
 あがたの「赤色エレジー」の原作となった漫画版の「赤色エレジー」は、昭和40年代後半の東京が舞台。アニメーターの一郎とトレーサーの幸子の同棲生活の日常を淡々と描いた作品。林静一が劇画雑誌「ガロ」に1970年に一年間連載されました。この作品は2007年にアニメ映画化されていて、その際にもあがたの「赤色エレジー」はテーマ曲として使用され、あがたは音楽も担当しています。
 根底には、この混沌とした社会に問いかけを持つ感性を持っ生きている。そういう男女になって、出会って、自分たちの理想や希望を確かめ合いたい。そういう感性の自分たち同士を確かめ合いたい。そういうことかな。
あがた森魚

 1971年、第3回全日本フォーク・ジャンボリーに出演したあがたは、そこで「赤色エレジー」を歌いました。そのパフォーマンスを見たキング・レコードのディレクター三浦光紀は彼にレコーディングを提案します。そして、一度録音が行われますが、キング・レコードに内部レーベルとして誕生したベルウッド・レコードが彼のレコードの発売元になると決り、「赤色エレジー」はその第一弾シングルとして発売されました。風変わりな曲ではあっても、社内的にはヒットするという期待が当時あったようです。
 当時話題だったプロテスト・ソングでもなく、ストレートなラブソングでもなく、もちろんフォークソングでもない大正時代に流行った演歌師を思わせる古風な哀歌がなぜそこまで流行ったのか?それは不思議な現象でした。
 ただし、そのきっかけになったのは、当時の夜中の大人気番組「11PM」に出演したあがたの司会者でトレンド・リーダー的存在だった大橋巨泉が非常に面白がったことではありました。ここから、他の番組への出演が急増することになったようです。
 1972年4月25日に発売されたシングル「赤色エレジー」は、少しづつ売り上げを伸ばし、ついには60万枚を売り上げる大ヒットとなりました。(オリコンチャートの最高位7位になるまでに4か月かかっています)
 9月にはアルバム「乙女の儚夢」も発売され、テレビ出演なども多かったことで一躍スターの道を歩み出すことになりました。

<俺はスターぢゃないよ>
 1973年、彼はここで自ら新たな道へと向かい始めます。少年時代から大好きだった映画の制作を始めたのです。映画「俺は天使ぢゃないよ」の撮影を自らが監督して開始。ところが、撮影は始めたものの完成までの道のりはながく、その公開は1977年のことになります。ここは彼の特徴でもある熱しやすく冷めやすい、でも諦めない性格の結果だったのかもしれません。
 1977年、彼は再び音楽活動に戻り、彼の代表作と言える名盤「日本少年 ヂパング・ボーイ」を発表し、ヒットこそしなかったものの多くのミュージシャンたちに影響を与えることになります。さらにこの年、彼は自主制作アルバム「永遠の遠国」の制作を発表。彼にとって当時の集大成となる大作アルバムとなりますが、完成までにそれから長い期間を要することになります。その間に発表されたアルバム「乗物図鑑」(1980年)は、その後彼がスタートさせるヴァージンVSでの独自の音楽へとつながる新たなスタイルの作品でした。
 1981年、ヴァージンVSのシングル「ロンリーローラー」発売。アルバム「ヴァージンVSヴァージン」もリリースされ、彼にとっては珍しいバンド活動が始まります。
 1982年、その後、彼にとって重要な演奏場所となる池袋サンシャインシティのプラネタリウムでのライブ「あがた森魚の遊星観光会」を開催。さらに大ヒットアニメ「うる星やつら」の挿入歌「コズミック・サイクラー」に続き、エンディング・テーマとなる「星空サイクリング」を発表し、ヴァージンVSとしての活躍が続きます。
<ヴァージンVSのメンバー>
ヴォーカル:A児(あがた森魚)、コーラス:ひかる&リッツ、ドラムス:木村しんぺい(三科まさる)、ギター:久保田さちお、キーボード:ライオン・メリイ、ベース:土田まこと
メイクをして出演し、ニューウェーブ・ポップバンドの最先端として活動。ここで再びあがた森魚は、時代の最先端に立ったと言えます。

 1984年、アジアを放浪後、イギリスのグラストンベリー・フェスティバルを見る。
 1985年、自主制作アルバム3枚組ボックス「永遠の遠国」がついに発売。
 1986年1月、「あがた森魚のタンゴの夕べ」開催。新たなあがたの挑戦となる「タンゴ」の時代始まる。8月にはアルゼンチン、ブエノスアイレスに行き、本格的にタンゴを学びます。
 同年、5月には林海象監督の映画「夢見るように眠りたい」で音楽を担当。
 1987年、タンゴに挑んだアルバム「バンドネオンの豹」を発表。
 僕はこのアルバムを吉祥寺の「芽瑠璃堂」で進められて購入。あがた森魚のファンになり、この後、アナログ盤で再発された過去のアルバム「日本少年」や「乗物図鑑」などを購入。
 1988年、はちみつぱい再結成コンサートに出演。
 1989年、3月から7月までアジアから中近東、欧州を経由して北アフリカのアルジェリアまでのひとり旅を敢行。アルジェリア生まれのエスニック・ポップ「ライ」を聞くための長すぎるツアーでした。
 1990年、前年の旅で得た経験をもとに、あがたは新たなバンド、雷蔵を結成。さらに5月には単行本「菫礼礼少年主義宣言」を出版。
 1991年、JAGATARAのメンバーだったOTOをメンバーに加え、90年代を代表する傑作アルバム「雷蔵参上」を発表。さらにこの年は、「稲垣足穂生誕90周年音楽会 るびいすけるとん」開催。
<雷蔵のメンバー>
ヴォーカル:あがた森魚、ヴァイオリン:武川雅寛、ギター:OTOギター:飯塚昌明、ベース:藤井裕、パーカッション:三沢またろう、ドラムス:夏秋冬春、キーボード:丸尾めぐみ
元JYAGATARAのOTOやヴァイオリンのスペシャリスト武川ら、豪華なメンバーのバンドであがたが長旅で仕入れてきたアルジェリアの「ライ」やインドネシアの「クロンチョン」などワールド・ミュージックの最先端を取り入れたバンドとしてここでもまた最先端に立ったと言えました。活動期間が短すぎました。もったいなかった。

 1992年、単行本「獲物の分け前」出版。
 1993年9月、自らが監督した映画「オートバイ少女」の撮影開始。12月にはCDブック「少年歳時記」をリリース。
 1994年8月、映画「オートバイ少女」公開。
 1995年、函館山ロープウェイ映画祭に参加。
 1996年、北海道新聞日曜版に「あがた森魚のいつもの小径で」を連載。
 1997年、「アストロ・マジック・タルホ・ショウ」開催。
 1998年、小樽文学館企画展「あがた森魚2001年1001秒展望展」開催。
 1999年、アルバム「永遠の遠国」(二十世紀完結編)をリリース。さらに10月には監督作品映画「港のロキシー」公開。
 2000年、「港のロキシー」ライブツアー開催。さらに池袋サンシャインシティ・プラネタリウムで「プラネッツ・アーベント2000」開催。
 2004年、「あがた森魚の二十世紀映画館」開催(3月~5月)8月にはドミニカ録音のアルバム「ギネオベルデ(青いバナナ)」リリース。
 2005年、「東京きらきら月報 映像と音楽の夕べ」開催
 2007年、あがた森魚with矢野誠ツアー開催
        8月には舞台劇「エレンディラ」(演出は蜷川幸雄)に出演。 9月にはアルバム「タルホロジー」リリース。
 2008年、映画「人のセックスを笑うな」に出演。
 2009年、ドキュメンタリー映画「あがた森魚ややデラックス」(監修は森達也)公開。TVドラマ「深夜食堂」第5話出演。
 2010年、NHK朝の連続テレビ小説「ウェルかめ」に出演。
        「YOHJI YAMAMOTO THE MEN 4.1.2010 TOKYO」出演。
 2011年、2月アルバム「俺の知らない内田裕也は俺の知ってる宇宙の夕焼け」リリース。
        9月アルバム「誰もがエリカを愛してる」リリース。
       10月舞台「赤色エレジー」(演出は天野天街)音楽演奏で出演。
       11月アルバム「コドモアルバム」リリース。
 2012年、1月映画「しあわせのパン」(監督三島有紀子)に出演。
        4月~5月デビュー40周年記念コンサート「女と男のいる舗道」
        9月映画「カミハテ商店」(監督は山本起也)出演。
       11月あがた森魚ベストアルバム「大航海40年史」リリース。
       12月アルバム「ぐすぺり幼年期」リリース。
 2013年、7月FUJI ROCK FESTIVAL出演。
       10月あがた森魚「噫無常(レ・ミゼラブル)コンサート2013」開催
       11月「小松亮太デビュー15周年記念コンサート」にゲスト出演。
       12月アルバム「すぴかたいず Spicatdz」リリース。
 2014年、歌と朗読「時計台の夜」(演出は天野天街、出演はあがた森魚と緒川たまき)
        8月シングル「夢が叶えられる街では」リリース。(TV「いずみ~北海道くらしの詩」テーマ曲)
       11月アルバム「浦島64」リリース。
 2015年、映画「ビリギャル」出演(監督は土井裕泰)
        8月「オハラ☆ブレイク’15夏」あがた森魚feat.吉井和哉
       12月アメリカ、ニューヨークでの滞在開始。
 2016年、5月「はちみつぱい45th記念ライブ」スペシャル・ゲストとして参加。
        9月映画「函館珈琲」出演。
       11月アルバム「近代ロック」リリース。
 2017年、あがた森魚&はちみつぱいアルバム「べいびいろん BABY-LON」リリース。
        7月「あがた森魚&はちみつぱいライブ・イン・東京」開催
        9月「あがた森魚ライブ - 佐藤敬子先生を探して」(小樽市立文学館にて)開催。
       10月「ベルウッド・レコード45周年記念コンサート」出演
       12月映画「アガタカメラ-佐藤敬子先生を探して」初上映。
 2018年、1月「あがた森魚 古希記念万博 MORIO AGATA EXPO 70's」開催
        9月~12月ニューヨークに滞在。
       12月アルバム「理想の靴下と船」リリース。
 2019年、映画「嵐電」音楽担当(監督は鈴木卓爾)
        7月ニューヨークでレコーディング。
       11月あがた森魚ライブ「第三惑星の一夜」開催(ゲストにドレスコーズ出演)
       12月アルバム「観光おみやげ第三惑星」リリース。
 2020年、2月「満月の下でタンゴ50年」ライブ開催。
        6月「ギターを背負って歩く練習」第一回開催。
       12月アルバム「浦島2020」リリース。
 2021年、1月映画「魂の踊り」音楽担当(監督はギリヤーク尼崎)
        3月「タルホ・ピクニック」第10回
       12月「遠藤賢司トリビュート・ライブ」出演。
           2010年代ベストアルバム「浦島二千十年代選集」、オリジナル・アルバム「わんだあるびい2021」リリース。
 2022年、3月50周年アーカイブ「雷蔵デラックス」「あがた森魚SHOW TIME」リリース。
        8月あがた森魚小樽博覧会2020開催。映画「佐藤敬子先生を探して」上映。ライブ「わんだあるびい2021」
        9月50周年音楽会 (渋谷公会堂)

<あがた森魚とは?>
 あがた森魚との深いつながりがある人々による「あがた森魚論」
<松岡正剛>
 あがた森魚が持っている「儚い夢」というのは圧倒的にすばらしい。格別だ。「ヂパングボーイ」などの音楽の作り方を見ていると、とてもよくできている。あれは「生」が消えているからいい。
 あがた森魚って何?少年なのかな?という幻想がいい。
・・・

<鈴木慶一>
・・・いわゆる普通のメロディ通りに歌えるのではなく、非常に抑揚が激しくて、音程を塗りつぶしていく感じの歌い方になっていった。現在に至る歌い方というのは、やっぱりすごい発明をしたんじゃないですか。彼にとって、歌い方の発見みたいなものがあったんだと思う。だから、「いま」に繋がっている歌い方はそこから始まった。「バンドネオンの豹」の辺りから。


 あがた君は頭の中に暴風雨が吹いているという感じでしたね。たぶん、何かをやりたいと言った時にイメージするんでしょう。きっと、イメージした時にそれから派生する妄想がたくさんあるんでしょう。・・・
 浮き上がったアイデアを初動に持っていくスピードの速さは誰も敵わない。また、それが驚くべきアイデアだったりするんですよ。


<矢野顕子>
 あがた君の音楽をひと言で表現するなら、自分の世界がそのまま、音楽、文学、絵、それらが全部合わさった人間映画みたいなものでしょうか。一人の人間として、彼が作っているものというのは、映画を作っているのと同じ感覚かなと思っております。・・・
 彼の歌そのものを考えると、音楽的な要素よりも、どのくらいそこで自分が表現できたかの方が大事だと思います。

 
あがた森魚を天才と評価するミュージシャンは多いのですが、同じく天才ミュージシャンである矢野顕子もその一人。彼女は「日本で一番、歌の上手い人は誰ですか?」の問いに「あがた森魚」と答えるほどあがた森魚を高く評価しています。そして矢野顕子のデビュー・アルバム「ジャパニーズ・ガール」は、あがた森魚の名盤「日本少年(ヂパング・ボーイ)」へのリスペクトから名付けられました。

<森達也>
 あがたさんはまず、やっぱり、内的世界が圧倒的ですよね。時空の概念みたいなものがね。独特と言えば独特なんですけど、ちょっとサイエンティフィックな言い方をしたら、非常に量子論的みたいなね。つまり光子とか電子とかっていうのは粒子でありながら波でもあるわけですよね。で、ここにいるかと思うとあっちにも同時に存在しているという。


<久保田麻琴>
 
あがたのライブを観てま、これはフォークでもなく、ロックでもなく、独特だなと思った。彼は、イギー・ポップなんだとも思った。別にかっこいいとかではないけど、イギーはイギーでしょ。特別な動物じゃん。デヴィッド・ボウイも誰にも似てないけど、そのボウイが大好きなのがイギー・ポップなわけでさ。カリスマというのとも違う。まあ言うなれば珍獣ですよ。

<参考>
「愛は愛とて何になる」 2022年
(著)あがた森魚、今村守之
小学館
最後に、あがた森魚のアーカイビスト今村さんに改めて感謝です。ありがとうございました!
あがた森魚ファンだけでなく、J-ロックが誕生した時代に興味がある方は、是非、この本をお読みください!
面白いエピソードが満載です。

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