映画と共に生きたヌーヴェルヴァーグの祖母 |
<映画を愛し映画と共に生きた人生>
映画を愛し、映画を楽しみ、映画のように人生を終えたヌーヴェルヴァーグの祖母、アニエス・ヴァルダの人生をドキュメンタリー映画「アニエスによるヴァルダ」(2019年)を参考に振り返ります。
アニエス・ヴァルダ Agnes Varda は、1928年5月30日にベルギーのブリュッセルで生まれました。彼女の父親はギリシャ人でしたが母親はフランス人だったこともあり、第二次世界大戦中、戦争を逃れた家族はフランスに移住しました。彼女はソルボンヌ大学で芸術や絵画について学び、博物館の主事を目指していました。卒業後、彼女はカメラマンの資格を取得し国立民衆劇場でカメラマンとして働き始めます。
1955年、記録映画なども撮る中で映画への興味が増し、助監督の経験も、映画学校に通うこともなくいきなりの監督デビュー作「ラ・ポワント・クールト」を発表。
溝口健二を思わせる長回しの移動カメラは、ヌーヴェルヴァーグの先駆となるスタイルでしたが、その他にも彼女はそれまでにないアイデアを盛り込みました。この作品は、後にヌーヴェルヴァーグが始まると、再評価されることになり、彼女は「ヌーヴェルヴァーグの祖母」と呼ばれることになりました。(実際はゴダール、トリュフォーとは同世代なんですけど・・・)
「ラ・ポワント・クールト」 La Pointe Corte 1955年 (監)(脚)アニエス・ヴァルダ
(撮)ポール・ソリニャック、ルイ・ソーラン(編)アラン・レネ、アンリ・コルピ(音)ピエール・バルバウド
(出)フィリップ・ノワレ、シルヴィア・モンフォールヌーヴェルヴァーグの原点と言われる作品でアニエスのデビュー作
南仏の港町、ラ・ポワント・クールトが舞台
パリからバカンスに来た破綻寸前の夫婦が散歩をしながら語り合う会話劇は「男と女」を思わせるラブ・ストーリー
環境汚染により漁を禁止される中、違法操業を続ける漁師たちのリアリズム・ドラマ
二つの異なるドラマを同じ場所で展開させ交互に見せる演出が面白い。
編集に関してはアラン・レネが担当し、彼から多くを学んだとのことでした。
ドキュメンタリー風に村人たちが演じる物語はビスコンティのネオ・リアリズムの原点「揺れる大地」を思わせます。
移動しながらの長回しのカメラは、溝口健二の影響とも言われます。
カップルの顔の向きを変えての会話のカット。船を使っての決闘ゲーム。洗濯物の使い方。
計算された様々な仕掛けは、その後の彼女の作品の原点と言えそうです。
<1960年代>
60年代の代表作となった「5時から7時までのクレオ」は、映画の撮影までに製作者から告げられた「予算がない」という言葉からパリの街で一日で撮影しようと思い立ったことがきっかけでした。
そこからクレオという女性の一日をそのままリアルタイムで描くアイデアが生まれました。ただし、そこで流れる時間は、彼女の心の変化によって微妙に変化します。それは彼女が癌の検診を受けたことで自らの死を意識。それが彼女の心理的な時間の流れを変えてしまったからです。
2019年、彼女は癌との闘いの後に命を落とすことを考えると、この映画は不思議な運命を感じさせる作品だったことになります。
1962年、彼女は同じ映画監督のジャック・ドゥミと結婚します。(代表作は何といっても「シェルブールの雨傘」)
「5時から7時までのクレオ」 Creo De 5 A 7 1961年 (監)(脚)アニエス・ヴァルダ
(撮)ジャン・ラビエ(音)ミシェル・ルグラン
(出)コリンヌ・マルシャン、アントワーヌ・ブルセイエ、エディ・コンスタンティーヌ、アンナ・カリーナ、ジャン=クロード・ブリアリ、ミシェル・ルグラン、サミー・フレイドキュメンタリー・タッチでパリの街を主人公と共に移動しながら撮影された女性監督によるヌーヴェルバーグの傑作
今見てもまったく古さを感じさせず、逆に今後も評価が高まり続ける作品になりそうです。
女性ならではの感性や生き方について迫ったフェミニズムの映画でもあります。
癌になったかもと疑心暗鬼の歌手クレオが医師からの診断を聞くまでの2時間の物語をリアルタイムで描く斬新な手法も見事!
パリの街の人々が実に生き生きと捉えられています。最高にお洒落な街パリをフィルムに収めた貴重な記録映像でもあります。
音楽も担当しているミシェル・ルグランが主人公と歌の練習をするシーンは、曲も歌も演奏も素晴らしくミュージカルを見ているようで最高です!
ちにみに、ジャン=クロード・ブリアリが出ているのは映画内映画で上映される短編映画の主人公役です。
1965年、彼女は愛する印象派の絵画を意識した場所と映像、モーツァルトの音楽を背景に映画「幸福」を撮影しました。
当時人気のテレビ俳優とその家族を使った家族の幸福を描く作品は高い評価を受け、ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞しました。
この後、彼女はフラワームーブメントが盛り上がりをみせるアメリカに向い、そこでしばらく生活。その中で生まれたドキュメンタリー映画「ブラック・パンサー」(1968年)はまさに時代を切り取る作品となりました。
<1970年代>
フランスに帰国後、彼女は自分たちが住む街の普通の人々に目を向け、彼らを主人公としたドキュメンタリー映画を撮ります。
「撮影する対象に愛着を持てば、ごく平凡な人々、ごく平凡な日常も魅力的に見える」ことを証明する作品となりました。
1960年代に彼女が体験したフェミニズム運動の記憶を歴史に刻むために製作しようと、70年代の初めから準備していたのが映画「歌う女・歌わない女」でした。
「ダゲール街の人々」 Daguerreotypes (ドキュメンタリー)1975年 (監)アニエス・ヴァルダ(撮)ウィリアム・ルプチャンスキー、ヌーリス・アヴィブ
(出)ダゲール街の人々パリの街の一角ダゲール街に住む人々のドキュメント。
編集が見事で「ドキュメント72時間」のパリ下町版のようでもある作品
「歌う女・歌わない女」 L'une Chante, L'autre Pas 1977年 (監)(制)(脚)アニエス・ヴァルダ
(撮)シャルリー・ヴァン・ダム、ヌリート・アヴィヴ(音)ヴェルテ・メール
(出)テレーズ・リオタール、ヴァレリー・メレッス、ロベール・ダディエス1962年のパリを舞台にした二人の女性の人生ドラマであり、フェミニズム運動の記録でもある作品
歌手志望の17歳の学生ポムと写真家と同棲し2児の未婚の母となったシュザンヌ。
立場も考え方も違う二人の女性たちのそこから十数年にわたる人生を描いた作品.
映画の中で歌われたテーマ曲とも言える「私の体は私のもの」は、フェミニズム運動への彼女の思いをこめたオリジナル曲です。「私の体は私のもの」 Mon Corps Est A Moi
(詞)アニエス・ヴァルダ(訳)鳥取綾子
私に命令できるのは もうパパじゃない
法王や王さまや判事や医者、立法者でもない
染色体や運命を左右しないし
パパの法律は何の力もないわ
子供を作るのは楽しいこと それはまた一つの仕事
でも私には母親の才能がないし 他にやることがあるの
与えられた時間を全部浮かれて騒ぎたいの
好きなようにあんたを愛したいの・・・
私の体は私のもの 私だけが知っている
この世の中に子供をうむのかそうじゃないのか
おなかを大きくするのかしないのか
私が選ぶの 私の体は私のもの
丈夫な体は一つの工場 そしてコニャック賞が
私たちを子沢山女やベビー製造機械にするの・・・
染色体は運命を左右しないし
国家のプランは私には関係ないわ
私のおっぱいが重くなると 教会はハレルヤと大喜び
私のお腹がふくれると 国家は手当を支給
この小市民に対して バカを装うの
そんな口車は 男根主義者にどうぞ!
もし今度、私が子供を産むのをOKし
あんたと私が、もしいつか体と体を寄せ合って
愛の結晶を作るなら それはそれでいいでしょう
素敵なこと 私たち、情愛をこめて繁殖するでしょう
でも、もし理性で私があんたを避けたり
あんたに対する愛情に結論が出なくて
子供ができなかったら それは愛だけで充分だっていうこと
私たち二人にとって 幸せな恋人たちにとって・・・
ラララララララ・・・
映画「歌う女・歌わない女」パンフレットより
<1980年代>
フェミニズムの視点から若い女性の放浪する姿をリアルに描いた映画「冬の旅」は、80年代を代表する傑作となりました。
長回しの移動ショットを多用し、カットごとのつなぎには同じものを映し出して、その連続性を表現するこだわりの撮影は高い評価を受け、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞、国際批評家連盟賞を受賞しました。
文学に言葉のスタイルがあるように、映画には映画の文法(シネクリチュール)があります。
映画を撮る時も、ショットを滑らかにするか、不調和にするか?
映像は点で捉えるか、面で捉えるか?
テンポや音楽はどうするか?
編集、録音でそのスタイルを決めることになります。
1987年「アニエスによるジェーンb」は、人気女優ジェーン・バーキンを主役に往年の名女優が自らを演じるパロディ的な作品。さらにそのジェーン・バーキンとアニエスの息子マチューを主役とした映画「カンフー・マスター」(1987年)もその延長で生まれたました。(カンフー映画ではありません!)
<1990年代>
1990年10月27日、59歳の若さでアニエスの夫ジャック・ドゥミがこの世を去りました。
病床で彼が書いていた過去の記憶をもとに彼女は脚本を書き、彼の少年時代を映画化します。
「ジャック・ドゥミの少年期」(1991年)を自ら監督し、夫への思いを映像化しました。
1995年、映画がフランスで誕生して100年の節目の年に、記念作品として製作された映画「百一夜」を彼女が監督することになりました。
映画と共に生きてきた100歳の映画オタク(ミシェル・ピッコリ)を主人公としたその映画には驚くような豪華な俳優たちが出演しています。
マルチェロ・マストロヤンニ、アラン・ドロン、カトリーヌ・ドヌーヴ、ロバート・デニーロ、ジャンヌ・モロー、ジェラール・ド・パルデュー、ジェーン・バーキン、ハンナ・シグラ、アヌーク・エーメ
、ダリル・ハンナ、ファニー・アルダン、ハリソン・フォード、レオナルド・ディカプリオ、ジーナ・ロロブリジータ、マーティン・シーン、イザベル・アジャーニ、ハリー・ディーン・スタントン、ジャン=ポール・ベルモンド、ジャン=ユーグ・アングラード、ジャン=ピエール・レオ・・・
豪華すぎる俳優に圧倒されたのか、彼女はその作品は失敗だったとして、それ以後、ドラマ映画を撮ることをやめることになります。僕は未見ですが、それほど悪い作品ではないとも言われているので、いつか見てみたい作品です。
<2000年代>
ドラマ映画を撮ることをやめても彼女はやはり根っからの映画監督でした。ある日、路上に廃棄されている食材を拾って食べている人々の存在に気付くと彼らをカメラで撮り始めます。そこから生まれたドキュメンタリー映画「落葉拾い」(2000年)は様々な映画祭でドキュメンタリー賞を受賞しました。
2008年、彼女は自分が最も好きな場所である「海辺」を舞台にしたドキュメンタリー映画「アニエスと浜辺」を撮り、そちらもまた様々な映画祭でドキュメンタリー賞を受賞しています。
彼女にとっての映画は、ある種、現代美術における表現方法の一つになりつつありました。今まで彼女が撮った映画のフィルムを家をかたどった枠組みにかけて作ったフィルムによる家は、映画とはまったく異なる新たな現代美術作品として話題になりました。
「私は現実と描写を近づけるのが好き」という彼女は、自らが撮影した写真と動画を融合させ複数画面で見せるインスタレーション作品を様々な美術展で発表しています。
<2010年代>
孫ほど年齢が離れた写真家JRと彼女が写真を巨大化させることができる車に乗って旅をした記録をカメラに収めたドキュメンタリー・ロード・ムービー「顔たち、ところどころ」(2017年)もまた面白い作品でした。
映画のラスト、アニエスがかつての友人で若くして亡くなったギイの写真を拡大し、海辺のトーチカに貼るシーンは感動的でした。翌日、その場所に戻ると、もうその写真は波にさらわれてなくなっていました。そして、JRとアニエスの二人の姿もまた波にさらわれるように静かに消えてゆきます。
この年、彼女はアカデミー賞の功労賞を受賞しています。
「顔たち、ところどころ」Faces Places (ドキュメンタリー) 2017年 (監)(脚)(出)アニエス・ヴァルダ、JR(フランス)
(製)ロザリー・ヴァルダ(音)マチュー・シェディドJRの所有する撮影&現像マシーンを乗せた車でフランス各地を撮影、展示をしながらの旅
偶然の出会いを求めて、労働者、女性たち、さびれた村、観光地、そしてJ・リュック・ゴダール
出演しないゴダールの存在感は、さすがというべきかもしれません。嫌な奴なのは当然でしょ?
思いの他、ラストは感動しました。出会いと別れの旅を記録したドキュメンタリー映画
<そして遺作>
彼女自身がナビゲーターとなって、それまでの作品を振り返るドキュメンタリー映画「アニエスによるヴァルダ」は、彼女自身自らの死を意識しながら製作したと思われます。かつて彼女が撮った「5時から7時までのクレオ」での心配が現実となってしまいました。
2019年3月29日、彼女が癌によってこの世を去りました。
彼女が映画を撮り続けてきた理由、モチベーションとも言える3つのキーワードが映画の中で語られます。
一つは「ひらめき」。
それは映画をつくる理由、その動機のことです。
二つ目は「創造」。
どんな手段、構造によって映画をつくるかについてです。
そして最後が「共有」です。
作品を独り占めしないこと。
作品は人に見せるために撮るのだということを意識せよということです。
これが実に彼女らしい部分かもしれません。彼女の映画は決して難解ではないのだということがわかります。
映画を愛し、映画を撮ることを楽しみ、映画のように生きたアニエスの人生は、自作の集大成ともなった「アニエスによるヴァルダ」で見事に完結しました。
なんとも見事で幸福な人生じゃないですか!
改めて、ご冥福をお祈りします。
「アニエスによるヴァルダ」 Varda Par Agnes 2019年 (監)(脚)(出)アニエス・ヴァルダ
(制)ロザリー・ヴァルダ2019年3月29日に亡くなったアニエス・ヴァルダの遺作となったドキュメンタリー映画
1928年5月30日、ベルギーのブリュッセルに生まれました。
戦後、フランスでソルボンヌ大学など博物館の主事を目指していました。
カメラマンの資格を取得し国立民衆劇場の公式カメラマンとなり、その仕事から映画に興味をもつことになった。
1954年デビュー作「ラ・ポワント・クールト」で「ヌーヴェル・ヴァーグの祖母」と呼ばれる存在となりました。
癌に対する恐怖により時間のスピードが変化する心理を描いた傑作「5時から7時までのクレオ」
1960年代のフェミニズム運動を記録するために撮った「歌う女・歌わない女」
「シェルブールの雨傘」などの監督ジャック・ドゥミと結婚。夫の伝記をもとにした「ジャック・ドゥミの少年期」
この作品は自伝的ドキュメンタリー作品だが、クレオの心配どおり癌との闘病の後に死去