- アーメット・アーティガン Ahmet Ertegun -

<R&B、ロックで一時代を築いた男>
 かつて、アメリカ人のほとんどが見向きもしなかったR&Bを売り出すことによって、一時代を築き上げ、それだけでなく世界的な規模にまで成長した企業が二つあります。ひとつはワンマン黒人社長、ベリー・ゴーディー・Jrが築き上げたモータウン。そして、もうひとつが異色の白人経営陣が築き上げたアトランティックです。
 しかし、そのアトランティック・レコードの創設者が、駐米トルコ大使の息子(もちろんトルコ人)だったということは、あまり知られていません。そして、R&B特にサザン・ソウルの最高峰となったこのレーベルは、ある時期からブリティッシュ・ロックの最高峰へと変身をとげ、いっきに世界的な大企業へとのし上がって行くのですが、その指揮をとったのもまた、このトルコ人でした。
 アーメット・アーティガン、この名を聞いたことのある人は、かなり古くからのR&Bファンかもしれません。しかし、彼はストーンズやジェネシス、レッド・ツェッペリンイエス、C・S・N&ヤング、フォリナー、フィル・コリンズなど、ロック界の伝説的バンドのバックにもまたこの男がいたのです。
 50年代から60年代のR&B黄金期、70年代から80年代にかけてのロック黄金期を股に掛けた伝説の男、アーメット・アーティガン。この男の物語は、そのまま20世紀のポピュラー音楽史であり、その裏面史でもあるのです。

<トルコ大使の御曹司>
 アーメット・アーティガンは、1923年故郷の国トルコで生まれました。父親は、共和制に移行したばかりのトルコを代表する大使として、世界各地を回り1934年にアメリカの首都ワシントンに着任しました。
 イスラム圏とはいっても、近代化も進み経済的にもしっかりとしたトルコの大使ともなれば、その生活は豪華そのものだったようです。(まがりなりにもオスマン帝国の末裔なのですから・・・)父親がヨーロッパ在任中に生で聞いたキャブ・キャロウェイやデューク・エリントンに感動した二人の息子たち、長男のネスヒ・アーティガンと次男のアーメットは、アメリカの黒人音楽に夢中になっていました。二人は、ワシントン市内のレコード店にリムジンで乗り付けては、ジャズやブルースのレコードを大量に買いあさっていたといいます。
 それだけではありません。なんと彼らは、大使館にデューク・エリントンやレスター・ヤングなどのジャズの黒人アーティストたちを招いてコンサートまで実現していたのです。当時ワシントンは、特に人種差別が厳しい地域で、黒人は白人とレストランにも入れなかっただけに、彼らの行動は外交官特権無しには不可能な驚くべきことでした。(21世紀に入ってから、イスラム系であるトルコ人は、未だかつてない差別にさらされているようですが、昔から彼らは白人とみなされています)

<レコード会社設立へ>
 1944年に父親が亡くなり、彼らはトルコに帰国することになりましたが、兄弟はアメリカに残ることを選びました。そして、兄ネスヒはロスでジャズとブルースを専門に扱うレコード店を経営し始め、弟のアーメットもレコード業界に興味を持つようになり、自分にもレコード会社をやって行くことが可能なのではないかと考えるようになっていました。
 そこで、彼はアーメット家のかかりつけだったトルコ人歯科医に一万ドルの投資を頼み、さらに共同経営者にユダヤ系のジャズ・マニア、ハーブ・エイブラムスンと兄ネスヒを加えて、アトランティック・レコードを設立しました。

<素人会社波に乗る>
 設立から2,3年の間、会社はまったくヒットがでませんでした。しかし、R&B女性ヴォーカリストの先駆け的存在、ルース・ブラウンを発見したことで、彼らはやっと流れをつかみます。その後、ラヴァーン・ベイカーベン・E・キングドリフターズジョー・ターナーボビー・ダーリンクライド・マクファーターらが次々とヒットを放ち始め、ついには、外部のレーベルからレイ・チャールズを引き抜くことにも成功。一躍その名は全国区となりました。

<R&Bの生みの親、ジェリー・ウェクスラー登場
 そして、この頃アトランティックの大黒柱となるもうひとりの人物ジェリー・ウェクスラーが加わりました。彼はビルボード誌の記者時代に「レイス・レコード」(直訳すると人種レコード)という差別的な用語に代わる「R&B」(リズム&ブルース)という言葉を生み出した男で、アーティガンに負けず劣らずのジャズ、ブルースのレコード・コレクターでした。
 こうして、3人のマニアックなコレクターによる会社がスタートを切ったわけですが、彼らは録音技術などレコード製作については、あくまで素人集団でした。そこで活躍したのが、アトランティックの優秀なスタッフたちでした。

<優秀なスタッフたち>
 スタジオ・エンジニアのトム・ダウドは、レコーディングに関するエキスパートとして大活躍しました。エルビス・プレスリーがヒットさせた「ハウンド・ドッグ」など、R&Bのヒット曲を生み出し続けていたホワイト・R&B・ソングライター・チーム、ジェリー・リーバーマイク・ストーラーのコンビは、アトランティックでもドリフターズやベン・E・キングなどにヒット曲を提供し続けました。さらに二人の弟子として、出発した大物プロデューサー、フィル・スペクターもまたその後、ウォール・オブ・サウンドの創始者として活躍して行くことになります。(ただし、彼はアトランティックでは芽が出ませんでした)

<人種の壁を越えた企業>
 他にも、この会社の優れた点があります。それは、この会社は業界で初めて黒人アーティストたちを一個の人格と認め、彼らに売上に応じた利益を供与した良識ある企業だったということです。そして、それは単に金銭上の問題だけでなく、アーメットやジェリーたちがそれぞれのアーティストたちを尊敬し、その音楽を愛していたという純粋な心のつながりによるものだったことが重要です。
 例えば、1987年にアトランティック初期の大スター、ジョー・ターナーが76歳でこの世を去ったとき、アーメットは貧しかった未亡人に代わって葬儀費用だけでなく家のローンまでも支払ったと言われています。それも彼は秘かにその支払いを行っており、彼が利益追求だけの人物ではなかったことを証明する逸話のひとつと言われています。

<最初の試練>
 こうして、アトランティックは軌道に乗ったかにみえましたが、すぐに最初の試練が訪れました。それは、まだまだインディーズの域を出ていなかったアトランティックから、せっかく育てたアーティストたちが引き抜かれるという事件から始まりました。
 先ず、大スターになっていたレイ・チャールズが引き抜かれ、次に唯一の白人人気スター、ボビー・ダーリンまでもが他のレーベルに移籍してしまったのです。
 さらに1964年になると、ビートルズがアメリカに上陸、チャートは彼らを筆頭とするブリティッシュ・ビート・バンドたちに独占されてしまいました。そのため、大スターを失ったばかりのアトランティックは大苦戦を強いられます。当時、彼らがかろうじて生き延びることができたのは、「キング・オブ・ロックン・ソウル」こと、ソロモン・バークの活躍のおかげでした。

<スタックス、マッスル・ショールズ勢の大活躍>
 この後、彼らの苦境を救っただけでなく、アトランティックを一躍メジャー・レーベルへと押し上げることになる最大の貢献者が現れます。それは60年代後半にR&B、サザン・ソウルの一大ブームを巻き起こしたスタックス・レコードの人々です。オーティス・レディングを筆頭に、ルーファス・トーマスカーラ・トーマスのコンビ、サム&デイブエディー・フロイド、そして彼らのサウンドを支えた影の功労者であるブッカー・T&The MG'sなど、さらには、そこでアトランティックのアーティストたちまでもが、一皮むけてスタックスのスタジオからヒットを放ち始めたのです。(スタックスについては、ブッカー・T&The MG'sのページで詳しく書かせてもらっています)
 さらにスタックスと同じような役割を果たした同じ南部のスタジオ、マッスル・ショールズの存在も忘れられません。マッスル・ショールズのミュージシャンたちがいなければ、「ソウルの女王」アレサ・フランクリンは誕生しなかったでしょう。
 こうした、R&B勢活躍の影には、ジェリー・ウェクスラーの存在がありましたが、その間創設者のアーメットは、新たな方向性に向かって静かに歩みだそうとしていました。それは、企業の経営者として未来を見つめた革命的な第一歩でした。

<ロックへの進出>
 当時、すでにポピュラー音楽の世界がロックの時代に入っているということは、誰の目にも明らかでした。まして、アトランティックお抱えのアーティストたちは、モータウンのメンバーのように白人の若者たちに受けるようなアイドルではなく、白人の音楽通にだけ受ける玄人好みの存在でした。そこで、彼はついに白人のロック・アーティスト獲得に乗り出したのです。

<ソニー&シェール>
 そして、その第一号のアーティストとなったのが、白人夫婦デュオ、ソニー&シェールでした。実は、旦那のソニー・ボノは、フィル・スペクターの元でプロデューサーとして働いていた経験の持ち主で、元々は歌手として活躍するつもりはなかったようです。しかし、二人の発表したシングル「I Got You Babe」(B・ディランのカバー曲)は、いきなり全米ナンバー1ヒットとなり、その後もヒットを連発し、アトランティックの白人ロック路線進出の突破口になりました。

<ロック時代の幕開け>
 次いでアーティガンが惚れ込んだのは、幻のフォーク・ロック・バンド、バッファロー・スプリングフィールドでした。彼は、その発展型、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングとも契約を交わします。今にして思えば、それはロックの未来と契約を結んだと言えるのかもしれません。
 さらに彼は、天才ギタリストを擁するこれまた伝説のロック・バンド、クリームとも契約、その後にできた元祖スーパー・グループ、ブラインド・フェイスとも契約を交わしています。
 元祖ヘビー・メタルと呼ばれるレッド・ツェッペリン、プログレッシブ・ロックの最高峰イエスなどともいち早く契約し、一気にブリティッシュ・ロックのナンバー1レーベルへとのし上がりました。

<さらなる発展のための賭け>
 この頃、アーティガンはその後の発展に向けて、大きな賭けに出ようとしていました。ロック・ビジネスの巨大化にともなって、事業に必要な資金もしだいに巨額になってきており、それに対応するためには、企業規模を拡大する必要にせまられていたのです。そこで彼はワーナーの子会社となることを決意したのでした。子会社といっても、経営権はあくまで今まで通りで、資金力を大幅にアップできると考えたのです。この選択は、インデペンデントのレーベルにとっては、非常に大きくかつ危険な賭です。一歩間違うと、経営権をも親会社に奪われ自分たちはお払い箱になってしまうのですから、経営を上手くやって行かなければなりません。
 しかし、彼はそれを見事にやってのけます。(この会社の歴史において、最も重要な時期はこの時だったのかもしれません)そして、このチャンスを活かした最大の成果が、ローリング・ストーンズの獲得でした。これは、アトランティックのもつレーベル・イメージのおかげであり、それプラス、ワーナーがもたらしてくれた資金力の勝利でした。
 こうして、彼はアトランティックがインデペンデントのレーベルであることを止め、メジャー・レーベルとして生きて行くことを選択したのです。

<ワーナー・グループの黄金時代>
 新たにアトランティックが加わったことで、ワーナーは一気に黄金時代を迎えます。そのうえ、同じく子会社として誕生したデヴィッド・ゲフィン率いるアサイラムからは、ジャクソン・ブラウンリンダ・ロンシュタットジョニ・ミッチェッルイーグルスらが登場し、ウェスト・コースト・ロックという新しいジョンルをも開拓して行くことになります。(デヴィッド・ゲフィンはこの後ゲフィン・レコードの社長として、一時代を築くことになります)
  ディープ・パープル、エマーソン、レイク&パーマー、ライ・クーダーダニー・ハサウェイ、アリス・クーパー、グレイトフル・デッドドゥービー・ブラザースタワー・オブ・パワージェームス・テイラー、ロバータ・フラック、スピナーズ、ゴードン・ライトフット、アーロ・ガスリーなどなど、そのうえ、もうひとつの子会社エレクトラにはボブ・ディランまでもがいたのです。それは法律的にも独占禁止法ギリギリの線だったということです。

<ジェリー・ウェクスラー、そしてR&Bとの決別>
 黒人音楽のマニアックなファンであり続けたジェリー・ウェクスラーは、スタックスやマッスル・ショールズなど南部のR&B、ブルース系の音楽にこだわり続け、方向転換をしてしまったアトランティックを離れて行くことになりました。
 それに対して、アーティガンは、ロックへの転換に向かう中で、かつてのR&Bのヒーローたちを切り捨てて行かざるを得なくなりました。結果的に、彼は裏切り者のロック長者として、多くの黒人達に恨まれる立場になっていったのです。それは、彼が音楽ファンであると同時に優れた商売人だったせいなのかもしれません。しかし、彼のような白黒どちらでもない?トルコ人というある種客観的な視点があったことが、人種差別が色濃く残る50年代のアメリカにおいて、R&Bに市民権を与えることができたのかもしれませんし、彼こそがその快挙を最初に成し遂げた人物であることに間違いはないのです。

<締めのお言葉>
「黒人は未来のことをより多く考える傾向を持っている。黒人ミュージシャンは、古いスタイルで演奏することを嫌う。現在あるいは未来のスタイルで演奏するのが好きなんだ」

アーメット・アーティガン
ネルソン・ジョージ著「リズム&ブルースの死」より

<参考資料>
「アトランティック・レコード物語」

ドロシー・ウエイド、ジャスティン・ピカーディー著 林田ひめじ訳
この本は、本当に面白いです!

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