映像の文学化が生み出した新たな小説

「愛しあう Faire L'Amour」
「逃げる Fuir」


- ジャン=フィリップ・トゥーサン Jean-Philippe Toussant -
<フランス語圏話題の作家>
 ジャン=フィリップ・トゥーサンは、1990年代に登場したフランス語圏で人気の作家です。小説の新しいスタイルを生み出したとされる彼の作品の魅力はどこにあるのでしょうか?
 彼が21世紀に入ってから発表した2作品を取り上げます。一作品目の「愛しあう」は、著者が2002年開催の日韓共催ワールドカップ・サッカーの観戦記を書くために来日した際のインスピレーションをもとに書かれたとのことです。新宿の飲み屋街と京都の町家の雰囲気、二つの日本文化の象徴をいち早く舞台に用いていて、現在の日本ブームに影響を与えたのは間違いなさそうです。恋愛小説であると同時に日本を描いた外国人による異文化小説としても実に興味深い作品になっています。
 もうひとつ「逃げる」は、中国を舞台にした恋愛小説と思いきや、途中からクライム・アクション小説になり、さらには家族愛の物語へと移行します。はっきりいって、ストーリーに驚きはありません。ではどこに魅力があるのか?

<ジャン=フィリップ・トゥーサン>
 著者のジャン=フィリップ・トゥーサンは、ベルギーの首都ブリュッセルで1957年に生まれています。その後、フランスに出た彼は、パリ行政学院に入学。1985年、彼は小説「浴室」で作家デビューを果たし、次々に話題作を発表して行きます。とはいえ、20世紀に発表された小説は、「ムッシュー」(1986年)、「カメラ」(1989年)、「ためらい」(1991年)、「テレビジョン」(1997年)と4作品しかありません。小説家tしては寡作といえます。ただし、その間、彼は映画監督として、「ムッシュー」(1990年)、「カメラ」(1992年)、「アイスリンク」(1998年)を撮っています。(いずれも脚本も担当)デビュー作の「浴室」の映画化(1989年)でも脚本を担当していて、映画監督もまた彼にとって重要な仕事なのです。
 彼の映画を観たことはないのですが、彼の小説を読めば、彼が映画を撮りたかったのは、当然のことだと思えるはずです。彼の小説は、多くの小説とは異なり「物語 Story」を描くのではなく、「行動 Acction」を描いています。それはまるで映画の小説化(文章化)のように映像的な描写に満ちています。それは単なるノベライズというのではありません。例えば、こんな文章があります。

 ゆっくりと、ぼくは口を彼女の体に沿って這わせていき、腹と腕に特に時間をかけ、黒いレースのブラジャーの繊細な境界を越えて進んだが、まだ背中で留めてはあるものの、ブラジャーのカップはこの手でそっとはずしてしまったので、レースの束縛を逃れた彼女の乳房はぼくの両手におさまり、指のあいだで柔らかく揺れていた。・・・・
「愛しあう」より


・・・チャン・シンチーはバーの前でバイクを停め、駐車はせず、単に店の正面でブレーキをかけるとエンジンをかけたままバイクから降り、つまりわれわれはエンジンをかけたままのバイクから三人そろって降り、いっせいに足を振り上げて三人で車体をまたぎ、スピードを失ったバイクはそのまま歩道に転がしえおいた。白いヘルメットをかぶったチャン・シンチーが先頭に立ってバーに入ろうとし、店内の男女の背中に押されて開かなくなっている扉を懸命に押しこじあけ、力ずく割って入り、われわれは三人そろってバーの店内にすべり込み、木のテーブルのあいだを縫ってステージのほうへ向かい、ステージではタバコの煙に包まれ、緑のプロジェクターの光を後ろから浴びて、中国人ミュージシャンのグループが小さなステージの上でコンサートをやっている最中で、髪の長いシンガーが、直角に折れ曲がったマイクスタンドを前に置いてスツールに座り、聴衆に青島ビール片手に立ったまま聞いていて、われわれはどんどんバーのカウンターのほうへ進んでいき、先頭を行くチャン・シンチーは雄々しく断固たる態度で、肩で人波を割り、腕を伸ばして道をかき分け、しかし同時に弱々しくもあって、灰色の半袖シャツの腹のあたりのふくらみを片手でそっと守りながら進み、二番手をいくリー・チーはときおりぼくのほうを振り返っては手で差し招き、引き寄せて、立錐の余地もない聴衆のあいだをぼくの何メートルかずつ前進していった。
「逃げる」より

 「愛しあう」の文章は、「セックス」という愛の行為を描いたもの。「逃げる」の文章は、文字どおり「逃げる」という行為を描いています。まるで映画のワンシーンを描いたように延々と書き連ねた文章は、「小説」的な描写ではないかもしれません。なんと前者はたった一つの文章から成り、後者もたった二つの文章しかありません。
 簡潔に短い文章を並べて、事実や感情を描き、そこにリズム感を生み出す。これは最近の小説手法の基本です。村上春樹スティーブン・キングジョン・アーヴィングカート・ヴォネガットなどの作家たちの小説はまさにその典型的なスタイルをもっています。たぶんこれが20世紀の小説が最後に至った究極のスタイルだと思います。読者に読ませる「物語作家」にとっては、これ以上のスタイルはないようにも思えます。
 ところが、トゥーサンの作品はそうではありません。一つ一つの文章は長く描写的であり、そこに「物語」は描かれていないのです。

<物語のない小説>
 映像のもつ情報量の多さはそれを文章で表現しようとすればすぐにわかります。当然、そんな情報量満載の文章を読むのは、けっこう大変なことです。トゥーサンの小説が長くないのは、その点、ちょうどいいバランスかもしれません。(書く方も疲れるのかもしれません)
 「映画」というメディアには大きく分けて二つのタイプがあります。一つは、ハリウッド映画に代表されるような「動く物語」としての映画。それに対して、「動く絵画」としての映画がもうひとつのタイプです。このタイプの映画には、「物語」としての「起承転結」や「どんでん返し」や「勧善懲悪」などは不要です。そこに必要なのは、「美しい色彩」、「計算された構図」、「こだわりぬかれた衣装や小道具」、「滑らかなカメラワーク」、「情感たっぷりの音楽」、「言葉なしに語ることができるカット割り」・・・。脚本以外にも、映像に語らせることはできるし、そこから名作を生み出すことは可能です。
 例えば、まさに「動く絵画」といえるビスコンティ―の作品群や「ピロスマニ」など画家や美術を題材にした映画。それに「6才のボクが大人になるまで」のように人生の一部を切り取った日記的な作品もあり、ゴダールの「さらば、愛の言葉よ」のように「映像美」にこだわり抜いた「言葉」と「映像」による表現もあります。
 かつて「映画」は「物語(小説)」を実写化する娯楽芸術でしたが、トゥーサンの小説はその逆で頭の中の「映画」を文章化した映像の文章化、もしくは映画のト書き、動く漫画の「ネーム」なのかもしれません。どちらが先かは、どちらが上位に位置するのか?そこは問題ではないのかもしれません。
 僕もそうなのですが、小説に「物語」を求める読者にとって、こうした小説は何か違和感を感じてしまうかもしれません。音楽のないビデオ・クリップのようにも思えてしまうのです。ただし、余計な場面の説明や感情表現をせずスピーディーに展開して行く「アクションとセックス満載のハードボイルド小説」は、それはそれで面白い。ある意味、「ハードボイルド」小説の進化形と考えることもできるのかもしれません。
 革新的な芸術作品は、どんなジャンルでも当初は受け入れられなかったものです。今後、トゥーサンの小説が小説における革新的進化の原点と呼ばれる日が来るかもしれません。あなたも一度読んでみて下さい。

<あらすじ>
「愛しあう Faire L'Amour」
 2002年
(著)ジャン=フィリップ・トゥーサン Jean-Philippe Toussant
(訳)野崎歓
集英社
 ファッション・デザイナーとして活躍するマリーと別れる決心をした僕は、最後の旅として彼女の東京への出張に同伴します。二人は最後のセックスを繰り返し、新宿の飲み屋街を巡る一夜の冒険をします。翌日、マリーが行う予定の美術館での展示イベントの打ち合わせなどを終えると、僕は一人ホテルを出て、かつて滞在したことのある思い出の街、京都へと向かいます。僕は京都に住む友人の町家に滞在しながらマリーとの思い出を振り返ります。そして、ホテルにいるはずのマリーに電話をかけます。

「逃げる Fuir」 2005年
(著)ジャン=フィリップ・トゥーサン Jean-Philippe Toussant
(訳)野崎歓
集英社
 マリーと離れ一人上海を訪れた僕は彼女のビジネス・パートナーのチャン・シンチーの案内で街を観光。現代美術の展覧会を訪れた僕はそこで謎の美女リー・チーと知り合い、彼女に北京への小旅行に誘われます。駅で待ち合わせた僕は、そこにチャン・シンチーが現れたことに驚かされます。結局、北京へは三人でボーリングしたり、中古の大型バイクを買った乗り回すうちに、突然、警察に追われることになります。・・・
 なぜ三人は追われることになったのか?チャンは麻薬の密売人なのか?何もわからないままバイクでの逃亡に成功した僕にマリーから電話が・・・それは彼女の父親が亡くなったという連絡でした。

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