
- 赤塚不二夫 Fujio Akatsuka -
<「天才バカボン」の父>
僕は、小学生の頃、「巨人の星」や「あしたのジョー」に感動しつつ、「天才バカボン」のお馬鹿ぶりに大笑いしていた世代にあたります。根性を美徳とする「スポ根ものの世界観」と既成概念すべてを否定する「アナーキーな世界観」、今思えば、その両極端の世界観が当時は当たり前のように受け入れられていました。当時は、秋山ジョージの作品などもそうでしたが、限りなくアナーキーで暴力的で馬鹿馬鹿しい世界観が普通に受け入れられていたことは、今思えば不思議なぐらいです。
「天才バカボン」も、当初は普通のギャグマンガでしたが、しだいにその内容は過激になり、前衛的ともいえるマンガに進化。その作者である赤塚不二夫の生き様もマンガ同様、ハチャメチャなもので様々な話題を提供してくれました。しかし、まるで「生きるギャグマンガ」のような生き様の裏には、彼ならではの信念があったはずだし、おバカな行動にも計算された何かがあったはずです。
「ただバカツたって、ホントのバカじゃダメなんだからな。知性とパイオニア精神にあふれたバカになんなきゃいけないの。
リッパなバカになるのは大変なんだ。だから、バカになる自信がなかったら、ごく普通のリコウな人でいたほうがいい。」
「赤塚不二夫のこれでいいのだ!!人生相談」より
「ギャグというものは、<平凡な事柄というボール>を<飛躍したアイデアというバット>で強打した時に飛び出すものです。この飛躍を生み出す源がナンセンスではないでしょうか。
変人、奇人は良くナンセンスな事を考えますが、彼らは生活そのものが奇怪ですから、漫画家には不向きです。
すぐれた漫画家は健全な常識人だと思います。」
「シェー!!の自叙伝」より
「天才バカボン」の父、赤塚不二夫のギャグ人生に迫ります。
<「バカボン」のパパの生い立ち>
赤塚不二夫は、1935年(昭和10年)9月14日旧満州の古北口で赤塚藤七、りよの間に長男として生まれました。戦後、家族とともに帰国した彼は1948年に手塚治虫の「ロストワールド」を読み漫画家になる決意を固めます。そのため彼は一人上京し、江戸川区小松川の化学薬品工場で働きながら漫画を描き始めます。当時は今ほどマンガ雑誌がなかったこともあり、彼らマンガ少年が投稿するのは限られた雑誌で、その代表的存在が「漫画少年」(学童社)でした。当時、その雑誌に投稿していた中には、後のトキワ荘のメンバー以外にも、横尾忠則、黒田征太郎、篠山紀信、筒井康隆らもいたといいます。
1954年、彼は投稿仲間つげ義春からすすめられて貸本漫画を描くようになり、専業漫画家となるため工場をやめます。しかし、貸本漫画の収入は思ったほどではなく、生活するにも苦しい状況が続くことになりました。「無能の人」つげさんのすすめじゃね・・・。
1956年、貸本漫画「嵐をこえて」でデビューを果たします。しかし、それは自分が書きたかったギャグマンガではなく当時売れ線だった少女漫画でした。そのうえ生活は苦しいままで、彼は石森章太郎の手伝いをしながら彼の部屋に居候するようになります。そこがあの有名なトキワ荘でした。そこから石森章太郎や藤子不二雄、つのだじろうらが次々にヒット作家として活躍し始めますが、そこの住人の中で彼だけはなかなか芽が出ず、一時は自信を失って漫画家をやめようと決めたこともありました。しかし、1958年についに漫画王で「ナマちゃん」という少年ギャグマンガの連載が始まり、やっと彼の時代が始まります。
1961年、アシスタントだった登茂子と結婚し、二人で仕事をするようになります。そして、「おそ松くん」、「ひみつのアッコちゃん」などの大ヒット作が誕生します。
1965年3月11日長女りえ子が誕生。トキワ荘のメンバーがスタジオ・ゼロを設立。赤塚も、スタジオを移しそこで仕事をするようになります。その後、仕事量とスタッフが増えて、そこから独立しフジオ・プロダクションを設立します。
1966年、「おそ松くん」のテレビ放映が始まると、イヤミの「シェー」が大ブレイク。いよいよ赤塚マンガの黄金時代が始まります。
<「バカボン」のぶっ飛びママ>
赤塚と結婚した登茂子夫人は、もともとイラストレーター志望で夫以上にアートにこだわるぶっ飛び女性でした。自宅の居間を当時のゴーゴー・クラブのようにサイケデリックに改装。オーティス・レディングやサム&デイブなどR&Bだけでなく、サイケデリックなロックやプログレッシブ・ロックのファンでもあった彼女は、1971年に行われた伝説的なピンクフロイドの箱根アフロディーテでのライブ会場にもいたといいます。
昔から多くの天才アーティストの妻は、孤独で浮世離れした夫を支えるために様々な苦悩を背負ったものです。しかし、赤塚家の場合はそうではありませんでした。もしかすると、妻の方が夫以上にぶっ飛んでいて、お互いに影響を与えあうことであのギャグの数々が生まれたのかもしれません。彼女は六本木のディスコにも最新のファッションで通っていたといいますから、当時どこかで荒井由美とすれ違っていたかもしれません。さらに彼女はサーキットでレースに出場するためのB級ライセンスを取得。フジオ・プロとしてレーシング・チームのスポンサーにもなっていました。
そんな家族のもとで育てられた娘のりえ子は、学校よりも家族での遊び優先で自由奔放な生き方を身につけてゆき、イギリスに留学。現代美術のアーティストとして活動しますが、後に父親と母親の後を継ぎフジオ・プロを背負うことになります。彼女もまた赤塚家のDNAを受け継いだようです。
<チーム「バカボン」>
赤塚ファミリーのぶっ飛びぶりは、もちろんフジオ・プロのメンバーにもいえることでした。スタジオ内での遊びもまたフジオ・プロの名物のひとつでした。特に有名なのは、スタジオ内で行われた全員参加の銀玉鉄砲戦争です。スタジオの床が銀色になるほど大量の玉を使用してのこの遊びの参加者は全員上半身裸になり、痛さをこらえながらの対戦でした。しだいにこの戦闘ゲームは戦線を拡大し、ついにはスタジオの部屋を出て、隣の藤子プロにまで乱入し、温厚な藤子氏を怒らせ、スタジオでの戦闘を禁止されることになりました。(その後、この戦いは場所を変えて開催されることになり、エアガンの登場により怪我人も出る危険なものになります・・・アホか!)
彼の遊びはもちろん夜の方も充実していました。25日連続してキャバレーに通ったり、近所のスナックで酔いつぶれたりしながらも、彼はそこで人間観察をしながら、ギャグのネタや新キャラクターを見つけていたようです。3階建てのキャバレー「サクラメント」を借り切って行った70年代半ばの忘年会では一晩で1000万円近くを使ったといいます。遊ぶからには本気でというのが彼の信念でした。
「もっと真面目にふざけなさいよ」(これが彼の口癖でした)
1973年、彼は突然、登茂子夫人と離婚しました。離婚の理由は、彼の夜遊びや女遊びが原因と言われましたが、超マザコンだった彼が母親を亡くした際、奥さんが母親代わりになれなかったせいだともいわれています。離婚を言い出したのは、夫の方でしたが、きっと妻はそれを受け入れないだろう、そう彼は思っていたようです。ところが、プライドの高い妻はそれをあっさりと受け入れてしまったのでした。
その後、彼女は8歳年下の江守清人という建築家と再婚します。りえ子にキータンと呼ばれた彼もまたなかなかのぶっ飛びキャラだったようです。(彼の父親はビートルズの来日コンサートの総合プロデューサーでした)
当時、フジオ・プロの仕事は漫画の枠組みを飛び出しつつあり、「私がつくった番組『赤塚不二夫の激情No.1』」というテレビのバラエティー番組を制作。お笑いでけでなく、音楽も聞かせる内容で、若かりし矢沢栄吉が所属するキャロルも出演したことがあるそうです。
1975年、彼は新宿歌舞伎町のバーで森田一義という面白い男と出会いました。後のタモリです。その特異な芸を人目で気に入った彼は早速彼を自宅に住まわせ、自分の番組に出演させます。ここからタモリは少しずつ活躍を開始し、現在の地位を築くことになります。しかし、そのきっかけを作り彼を育てたのは、間違いなく赤塚不二夫でした。
「私もあなたの数多くの作品のひとつです」
森田一義による赤塚不二夫の葬儀における弔辞より(彼の8分にも及んだ弔辞は葬儀の出席者を感動させると同時に赤塚不二夫の偉大さを再認識させました)
<ぶっ飛びマンガ>
彼のマンガの特徴、それは笑いのアイデアをダイレクトに絵で表現することです。そのためには、余計な装飾は不要であり、コマ割りとか吹き出しとかの常識も関係なく、ウンコもチンポコもタブーではありませんでした。その意味でマンガ家ほど自由な仕事はなかったのかもしれません。
「ちゃぶ台描けば家の中ってわかるし、電柱描けば外ってわかるから、それでいいんだよ。背景ないほうが、オレのマンガのキャラクターは生きるし、のびのび動くんだ」
「赤塚センセイが『ウンコ、チンポ』って言っても下品にならないのは、そこに何の羞恥心もないし意図もないからでしょう。それは子どもだから、子どもの純粋な心をもっているからだと思います。・・・」
某テレビ・ディレクター
「マンガはな、お金をかけないで、監督も俳優も美術も全部ひとりでできるんだ」
娘りえ子への言葉より
見開き1ページを巨大な1コマだけにてしまったり、突然、作家名を赤塚不二夫から山田一郎に変えてしまったり、編集者が頭を抱えるような企画を次々に提案していた頃の赤塚後期の作品は、彼のファンですら置いてきぼりになるほど、「ぶっ飛んで」いました。それだけのマンガを許していた出版社の懐の深さはやはり「昭和」ならではだったともいえます。
<「バカボン」の危機>
こうして、家族だけでなくタモリのような優れた芸人までもが彼の仲間となり、赤塚ワールドはさらにパワーアップすることになりますが、彼らの宴会が盛り上がるほど、その中心にいた赤塚不二夫の酒量は増し、ついには重度のアルコール中毒になってしまいました。当然、内臓もおかしくなってしまった彼は、ゲーゲー箱と名づけたプラスチックのゴミ箱を持ち歩くようになります。それでも飲み続けていたのですから、まさに命がけです。(このゲーゲー箱は彼の死後に行われた追悼展で彼が受賞した紫綬褒章のメダルと並んで展示されることになりました!まさにアナーキー!)
1986年、彼は14歳年下の女性、真知子と再婚します。年下といっても、彼女もまた前妻の登茂子と同じぶっ飛びタイプだったこともあり、似たもの同士すぐに打ち解けることになりました。二人の結婚式の記者会見には、前妻とその子供が同席し、世間を驚かせました。
1997年、赤塚不二夫は食道癌で入院。手術によって癌の除去は成功し、なんとか危機を脱することができました。しかし、一ヶ月に渡るICUでの入院生活の後、半年間アルコールを断つものの、退院後、再び彼は飲み始めます。ついには急性硬膜下血腫になるなどして、彼の入退院を繰り返す日々が続きます。そして、2002年4月10日、彼はついに脳内出血で倒れ、そのまま意識不明状態となってしまいました。急遽フジオ・プロを動かすため、真知子夫人が後継の社長となり、仕事と看病を行うことになりますが、そのハードな毎日が彼女の命を縮めることになりました。
2006年6月22日、仕事の忙しさとストレス、看病の疲労が重なったこともあり、真知子夫人がくも膜下出血で倒れてしまいます。そして彼女はまもなくこの世を去ってしまいました。イギリスからかけつけた娘のりえ子は覚悟を決めて、何もわからないまま社長の後を継ぎます。
2008年5月今度は彼女の実の母親である登茂子が突然子宮頸がんで入院。7月30日に68歳でこの世を去ってしまいました。あまりにもたび重なる不幸。そして、母登茂子の通夜の前日、意識を失ったまま行き続けていた赤塚不二夫までもがまるで妻と前妻の後を追いかけるように静かにこの世を去って行きました。
2008年8月2日のこと、享年72歳でした。
「オレはね、笑われながら死にたいの」
笑いながらでも、笑わせながらでもありません。「笑われながら」です。嫁さん二人と愛する母親の後を追った情けないパパは、普段からこう語っていたようです。
「自分が最低だと思ってればいいんだ。みんなより一番劣っていると思っていればいいんだよ。そうしたら、みんなの言っていることがちゃんと頭に入ってくる。自分が偉いと思ってると、人は何も言ってくれない。自分が一番バカになればいいの。何でも言ってくれるよ」
すべての人がこの境地に達すれば、間違いなく世界中から戦争も犯罪もなくなるでしょう。赤塚不二夫は、聖人だったのかもしれません。
改めて、二人の奥様も含めてご冥福をお祈りいたします。
そう、それでいいのだ!
<参考>
「バカボンのパパよりバカなパパ」 2010年
(著)赤塚りえ子
徳間書店
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