- 芥川龍之介 Ryunosuke Akutagawa -

<芥川賞>
 日本の小説界において芥川賞は、21世紀に入ってなお最も権威ある賞と見られています。(商業的には「本屋大賞」の方が価値があるのかもしれませんが、・・・)でも、世界的な知名度や文学界に与えた影響の大きさから考えると、夏目漱石や森鴎外、武者小路実篤の名を冠しても不思議はないかもしれません。
 なぜ「芥川賞」なのでしょうか?なぜ教科書には必ず芥川龍之介が載っているのでしょうか?
 彼の処女短編集に収められた「羅生門」「鼻」「芋粥」などの短編小説と彼の短い人生を振り返りつつ、その魅力に迫ってみようと思います。彼の作品の特徴と魅力は、その生い立ちにも大きな関わりがあり、そこから様々なことが見えてくるはずです。

<生い立ち>
 芥川龍之介は、1892年3月1日東京の京橋に生まれています。彼が生後7ヶ月の時、母親のフクが発狂してしまったため、彼は母方の実家である芥川家にあずけられました。生まれたばかりだったとはいえ、このことは後の彼の人生に大きな影響を与えることになります。
 彼の養父となったフクの兄は、役所の土木課長を勤める人物でしたが、代々俳句や盆栽など、多くの趣味を持つ家系でした。そのため、後に彼が小説家になりたいと言い出した時も、家族全員が賛成してくれたといいます。当時、小説家という仕事は喰える仕事とは認められておらず、まして役人の息子が小説家になるなど、あり得ないことでした。それだけに、彼は家庭環境には恵まれていたといえるかもしれません。(このことは、短編集に収められている短文「文学好きの家庭から」に書かれています)
 経済的にも彼は恵まれていましたが、母親も含めた遺伝的影響のせいか、彼もまた小さな頃から異常に神経質で身体も弱かったようです。1902年、彼が10歳の時、母親はこの世を去り、2年後、彼は正式に芥川家の養子になりました。繊細でひ弱だった龍之助(正式名)少年ですが、頭の良さはスバ抜けていて、10歳のには同級生たちと回覧雑誌「日の世界」を発刊。彼は編集、カット、表紙も担当しています。そして、読書量も半端ではなく滝沢馬琴の「八犬伝」や「西遊記」「水滸伝」などの冒険、戦記ものはまだしも、泉鏡花や徳富蘆花などの本も読んでいたといいます。なんと早熟な10歳なことか!

<青春時代>
 1905年、彼は東京府立第三中学校に入学。読書量はさらに増し、尾崎紅葉、幸田露伴、夏目漱石、森鴎外からイプセン、アナトール・フランスなどお海外文学まで広くカバーするようになっていました。しかし、この頃、彼はまだ作家になる気はなく、歴史家になることが目標だったそうです。それだけ彼は歴史が大好きだったということですが、この頃学んだ歴史の知識が後に彼の作品を支える重要なバックボーンとなります。
 彼の代表作「羅生門」が「今昔物語」の中にあるエピソードを下敷きに書かれたように、彼の小説の多くは過去の作品や歴史的事実を元に書かれています。こうした、彼の作風は彼の豊富な歴史の知識から生まれたのですが、その本質は決して「歴史ドキュメント」ではなく、あくまで歴史小説の場面設定を借りた「現代小説」であることが重要です。
 1910年、彼は第一高等学校一部(文科)に成績優秀者として無試験で入学しました。当時、同級生には、後に同人誌仲間となる久米正雄、成瀬正一、菊池寛、山本雄三などがいました。しかし、寮生活にもなじめなかった彼はさらに深く文学の世界にはまるようになり、ボードレール、ストリンドベリ、ベルグソンなど、海外作家の世界にのめりこんで行きました。
 1913年、彼は東京帝国大学の英文科に入学します。そして、翌年には前述の仲間たちと同人誌「新思潮」を発刊。その中に処女小説となった「老年」を発表しています。

「老年時代」
 様々な遊び事に手を出し、家の財産を食い潰し、かろうじて隠居の身となったものの、もう過去の遊び人の面影もなくもうろくしてしまった哀れな老人。そんな人生の黄昏を描いた作品がデビュー作というのは実に象徴的なことです。
 多くのアーティストにとって「デビュー作」は、そのアーティストのすべてを象徴するものです。そう考えると、彼のデビュー作はあまりにも悲しすぎます。しかし、それが彼の描きたいものであり、そこから彼の小説が生まれることになるのです。生まれた時から不幸を背負っていた彼は、けっして子供時代が不幸だったわけではないのですが、常に何かの不安を抱え続けました。それが後に彼が遺書に残すことになる言葉「何か僕の将来に対するぼんやりとした不安」へとつながることになります。しかし、彼はそうした不安を抱え続けていたからこそ、そこからの救いを求め「芸術」に誰よりも熱中することができたのです。
 人生とは皮肉なものです。結局、彼は芸術に熱中する中で身体と精神をこわしてしまいます。こうして、彼は将来に対するさらなる不安におびえることとなり、ついには自ら命を絶つことになるのです。

<多彩な文章スタイル>
 彼が他の作家たちと大きく異なる点のひとつにその文章スタイルの多彩さがあります。彼の2作目の作品「青年と死」は戯曲スタイルで書かれています。
 「MENSURA ZOILI」という短編は、まるで前衛小説のようにどこかわからない場所に主人公がおかれた設定で書かれていて、最後にどんでん返しが準備されています。この作品のようなヨーロッパ調の小説を書く作家は、当時の日本にいませんでした。そのため、彼は日本人として初めてヨーロッパの小説スタイルをマスターした作家とも呼ばれているようです。
 その他にも、彼は書簡体、教義問答体、独白体、記録体など、多くの文章スタイルを用いることのできる当時ただ一人の作家でした。

<短編小説へのこだわり>
 彼の作品の特徴として、もうひとつ忘れていけないのは、完璧な小説へのこだわりでしょう。そのため、彼は長編小説を書かず、残した作品はどれも短編か中編でした。それは彼が文章の完璧さにこだわるがゆえに到達した長さだったようです。彼は、短編集「羅生門」の最後「校正後に」というおまけの文章の中でこう書いています。

「僕の書くもの、小さくまとまりすぎていると言うて非難する人がある。しかし僕は、小さくとも完成品を作りたいと思っている。芸術の境に未成品はない。大いなる完成品に至る途は、小なる完成品あるのみである。流行の大なる未成品のごときは、僕にとって、なんらの意味もない。」
 となれば、読む方も心して読む必要がでてくるわけです。彼の作品ほど、教科書に載せる教材に適している小説がないのも当然でしょう。

<アンチ・リアリズム>
 多彩な文体と完璧なる文章。これだけでも、彼の名を冠した文学賞の存在意義は当然なのかもしれません。しかし、彼の作品にはもうひとつ大きな特徴があります。当時、多くの作家がヨーロッパの小説の影響を受けリアリズムにこだわった作品を発表する中、彼はそれとは異なる路線を歩んでいました。社会の現状や過去の事件などを、より真実に近いものとして演出ぬきに写し取るリアリズム文学に、彼はヒューマニズムの導入を試みたのです。とはいっても、安易に事実を「優しさ」によってオブラートに包むのではありません。「羅生門」で明らかなように、彼は逆に現実をより厳しく描き出しているといえます。そうした自らのスタイルについて、彼は「日光小品」という日光への紀行文の中で、こう書いています。

「私たちはあくまで態度をヒューマナイズして人生を見なければならぬ。それが私たちの努力である。真を描くという、それもけっこうだ。しかし、『形ばかりの世界』を破ってその中の真を捕らえようとする時にも必ず私たちは温かき心をもってしなければならない。・・・・・」

 1915年、彼は代表作のひとつ「羅生門」を発表しますが、まだ無名のままでした。翌年、彼は再び友人たちと廃刊になっていた「新思潮」を発刊。その中でを発表した「鼻」を大先輩である夏目漱石に高く評価してもらい大感激します。

「僕一身から言うと、ほかの人にどんなに悪口を言われても先生にほめられれば、それで満足だった。同時に先生を唯一の標準にすることの危険を、時々は怖れもした。・・・」
「校正後に」より
 実は、この本を発表した時、すでに夏目漱石はこの世を去っていたため、彼にとって大切な「標準」はすでに失われていました。このこともまた、彼にとっては大いなる不安の要因になったのかもしれません。

<心と体調の不安>
 やっと文壇での評価を得た彼は、「新小説」に「芋粥」。「中央公論」に「手巾 ハンケチ」。「新思潮」に「煙草と悪魔」、「孤独地獄」、「虱」、「酒虫」、「野呂松人形」、「猿」「煙管」などの短編を次々に発表。そして、1917年第一短編集「羅生門」を発表したのでした。この後も、彼は意欲的に作品を発表し続けます。(「蜘蛛の糸」「地獄変」「杜子春」など)
 1918年に塚本文子と結婚した彼は、その後、大阪毎日新聞社の社員となり、新聞紙上に作品を発表しながら安定した収入を確保できるようになりました。そして、1920年には、長男の比呂志が、1922年には次男の多加志も生まれ、彼の人生は順風満帆かのように見えました。しかし、この頃から彼の体調は急激に悪化し始めます。神経衰弱だけでなく、アトピーや胃腸の病や心臓の不調が出始めます。身体の不調により、しだいに将来への不安が増し、それがさらに症状を悪化させるという悪循環を生み出してゆきます。1926年には療養のため一ヶ月に渡り湯河原の宿に滞在。しかし、不眠症はさらに悪化していったといいます。そして、彼はこの頃さらなる悩みも抱えるようになっていました。
 1920年代当時、文学界では新しいブームが巻き起こっていました。それは小林多喜二、宮本百合子らによるプロレタリア文学者たちの活躍です。ヒューマニズムを重視する彼にとってプロレタリア文学の意義は確かに感じられたものの、「芸術」としてプロレタリア文学を認めることはできなかったはずです。その意味で彼は最後のブルジョアジー作家であると言われることもあります。

<狂気への不安>
 もうひとつ彼が思い悩んでいたは、神経衰弱が悪化し続けて、ついには自分も母親と同じように発狂してしまうのではないか?ということでした。誰よりも「美」にこだわる彼にとって、「狂気」はその対極に位置するものだったのかもしれません。自分が狂ってしまう前に命を絶つ方が良い、そう考えることもあったのかもしれません。
 1927年、そんな彼の不安に追い討ちをかける事件が起きます。義理の兄、豊の家が火事で全焼。ところが、その家に多額の保険金がかかっていたことが明らかになります。そのため、持ち主に放火の嫌疑がかけられることになり、ついには線路への飛び込み自殺へと追い込まれてしまったのです。残った多額の借金は、結局、弟の龍之介にまわされ、彼はその後始末に奔走することになります。この事件は、彼の精神状態を一気に落ち込ませてしまったようです。そして、7月24日未明、彼は自宅で薬物を大量に摂取し、自ら命を絶ってしまいました。

<村上春樹と芥川龍之介>
 新訳で出版された新潮社の「芥川龍之介短編集」に序文を寄せている村上春樹氏は、その中で芥川龍之介は西洋スタイルの小説と日本的な小説を折衷すると同時に自らがその間で引き裂かれたのかもしれないと書いています。彼の中には、まわりから完成品とされている自分の小説がけっして満足のゆくものではない、という思いがあったのでしょう。長編と短編の違いはあるものの、多彩なスタイルを使い分ける小説家という点で、村上春樹は芥川龍之介と共通性があります。村上文学のルーツは、スコット・フィッツジェラルドやドストエフスキーなど西欧の文学にあると言われますが、西洋と日本の融合という点で、芥川龍之介もまた重要なルーツ作家といえるのかもしれませんん。
 天才であるがゆえに思い悩み、完璧を求めるがゆえに思い悩み、狂気を怖れるがゆえに思い悩み、小説を書くために思い悩み、かろうじて、作品を完成させることで癒しと生きる力を得ていたのが彼の人生だtったのかもしれません。
 日本一の短編作家は、こうして35年という短くもドラマチックな人生ドラマを描いて、あの世へと旅立ちました。彼にとっては、人生もまた自ら神に代わってピリオドを打つべき作品だったということなのでしょうか?彼が命を絶った時、何通もの遺書とともに、その枕元には聖書が置かれていたといいます。西欧と日本の文化、ブルジョアとプロレタリアの間で引き裂かれた彼にとって、最後の救いがイエス・キリストだったというのも実に象徴的です。 

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