「『悪』と戦う」

- 高橋源一郎 Genichiro Takahashi -

<この小説の原点>
 ある日、小説家、高橋源一郎は二人の息子を連れて公園に出かけました。(実際、彼には5人目!の奥さんとの間に二人の息子がいるようです。当然、まだ小さなお子さんでしょう。そして、彼にとっては孫みたいな存在なのですから、かわいいに決まっています)
 暖かな空気に満ちた公園でベンチに腰かけ、子供たちの遊ぶ様子を見ていた彼は、あまりにも彼らが愛おしく、「抱きしめたい!」という安易な表現だけでは収めきれない気持ちを抱いていました。
 まずい、このままでは大声で「僕は子供たちを愛しています!」とか、周りのお母さんたちに「みなさん!子供たちを大切に守ろうじゃありませんか!」とか、叫び出してしまうかもしれない。
 その気持ち、二人の子供をもつ僕にもよくわかります。なぜか我が家も男の子二人です。僕も、時々そんな気持ちを奥さんに話すのですが、奥さんにあきれられてしまいます、・・・。
 元々机に向かって小説を書く作業とは別に外でボーッとしながらアイデアを考えるのが好きな彼は、この突然の思いに驚きながらも、すぐにもうひとつの自分が、これはネタになるぞ!とささやきかけていることに気がつきます。でも、こんな衝動的な「愛」をどうやって物語りにする?
「やれやれ、『1億3千万人のための小説教室』を書いた作家は、誰ですか?」
「過去の小説を俺ほど愛しかつ研究している作家は、ほかにいない!」と豪語していたのは誰でしたっけ?
 そんなもう一人の自分からの痛い言葉を聞かされた彼は、久しぶりに小説家の原点に立ち返り、デビューした頃の思いに立ち返って作品を書いてみようと決意します。こうして、この小説の執筆が始まった。

 というのが、僕の勝手な創作です。

<悪と闘う子供たち>
 「悪」と闘う子供たちの物語は、これまでも多くの作家によって描かれてきました。というよりも、小説の最重要テーマの一つといってよいでしょう。
「ハリー・ポッター・シリーズ」は、最近における最大のヒット作。その流れの先駆作には、「オズの魔法使い」、「ゲド戦記」、「ナルニア国物語」、「指輪物語」、「はてしない物語」、まさに歴史的名作のオン・パレードです。もちろん、そうした作品は文学だけのものではなく、「鉄腕アトム」、「鉄人28号」から、「サマー・ウォーズ」や「クレヨンしんちゃん」、「崖の上のポニョ」まで、アニメや漫画の世界でも、なくてはならない存在です。(もちろん実写映画にだって、「スターウォーズ」シリーズがあります)
 しかし、以前のように世界は単純ではなくなり、「悪」と「正義」を見分けることは、どんどん困難になりつつあります。そのため、世の中にそうした「悪」と「正義」をストレートに描こうという作品は減りつつあります。「もののけ姫」は、そんな「悪」と「正義」の構図を複雑なままリアルに描こうとした作品といえますが、それは結果、子供には理解しづらい大人向けの作品にならざるをえませんでした。当然、そうした大人たちの思いは子供たちにも反映されることになります。「悪」と「正義」を区別するなんて、無理に決まってるし・・・、そう考える子供たちが今では普通になりました。
 こうして世の中が複雑化する中で、人々は「絶対的な正義」の存在を否定し、区別できなければ初めから悩む必要なんかないと単純化するようになりつつあります。残念ながらこうした「思考停止」は、「悩む」ことを時間の無駄と考える状況を生み出しつつあります。
「悩む」暇があったら「遊ぶ」方がいい、というわけです。
 こうして、世界は「悪」に侵略されやすい危険な状況へと変化を遂げつつあるのです。

<危険な状況>
 2011年3月11日、東日本大震災の際、大きな不幸に襲われた日本は「悪」の侵略にとって非常に有利な状況になっていたはずです。しかし、日本人はそんな危機的な状況の中でも、理性を失うことなく行動し、状況を修正するべく多くの人がそれぞれの立場で働き続けました。

「世界はね、実はとても壊れやすいの。すっごく繊細。放っておいたら、すぐ壊れちゃう。でも、なんとかいままでぶっ壊れずにすんでた。それは、なぜだか、わかる?」
「わかんない」
「直してたから。補修してたから。みんながちょっとずつ」

本文より

 たぶん「不幸」が「悪」を育てるとは限らないのでしょう。確かに、「不幸」は「悪」が活躍する場所を準備するのかもしれませんが、それを阻止できるのもまた人間です。
 小さな赤ん坊が育つのを見守るように、人は世の中に時には口出ししたり、ウザがられたり、心配したりし続けなければなりません。それって、凄く面倒くさいことではあるのですが・・・。
 『悪』と戦うとは、ゴミの分別であり、朝の挨拶であり、電車内での席の譲り合いであり、ご飯を残さず食べることであり、他人の陰口を言わないことであり、核ミサイルのボタンを押さないことであり、飲酒運転をしないことであり、煙草を吸っている中学生に注意することであり、選挙権を行使することであり、電気のスイッチをこまめに切ることであり、泣いている友達をなぐさめることであり・・・小さなことから大きなことまで、必要とする勇気が違っても、面倒臭さの度合いは違っても、命の重さに違いがないように『悪』との戦いに違いはない。みんながそう思えたら世界は、あっという間に変わるのではないか・・・。

 なんだか僕も、公園でここまで書いたようなことを大きな声で叫びたくなってきました。「ダイ・イン」ならぬ「シャウト・アウト」なんてのもいいかもしれません。一人で叫べば、単なるアホか騒音公害のもとと思われるかもしれませんが・・・。いやあ、集団で叫んだらもっと恐いか?

 ちょっと暴力描写が過激な部分もありますが、是非、お子さんに呼んでいただければと思います。そんなに長くはないし、難しい言葉もほとんどありません。一度読んでいただいて、部分的にカットしたり解説を加えたりしていいと思います。著者もきっと許してくれるはず。毎日『悪』と戦っている人々よ、明日からもがんばりましょう!おまけに、お話の中には子供たちが大好きなヒーロー戦隊が何人も登場します。きっとそこには食いつくはずです。

 この小説は、著者のデビュー作「さようなら、ギャングたち」(1981年)以来、30年ぶりの子供を主役とした作品です。その間、特に2000年以降、彼は「一億三千万人のための小説教室」(2002年)、「ニッポンの小説 - 百年の孤独」(2007年)、「大人にはわからない日本文学史」(2009年)などの作品を発表。小説とは何か?日本の小説はどうやって生まれたのか?など、小説について、その根本に迫る研究を続けていました。
 この小説は、そうした自らの小説家としての生きかたを再確認した後に、自らの作家としての存在証明をかけて発表した重要作品ともいえます。

 まずは、「生きる」、それから、「たくましく生きる」、それから、「うまく生きる」があって、その上に、「よく生きる」がある。小説などというものは、その「よく生きる」に属しているのです。「たくましく生きる」も「うまく生きる」もできてはいない者には、小説なんか書けないのではないか。というか、書いてはいけないのではあるまいか。
 わたしは、そう思いました。

本文より

「『悪』と戦う」 2010年
(著)高橋源一郎

河出書房新社

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