- 阿久悠 You Aku (後編) -

<「スター誕生!」>
 阿久悠の仕事として、その後に最も大きな影響を与えた作品、それはテレビ番組「スター誕生!」の企画だったのかもしれません。
 「スター誕生!」の第一回放送は、1971年10月3日でした。番組の司会は萩本欽一でしたが、彼は当時コント55号として活躍中で、単独で司会をしたのはこの番組が最初でした。元々この番組は、日本テレビが、その当時アイドルを独占していた渡辺プロと対立、ついには自力で独自でアイドルを育てようとしたことから生まれた企画でした。阿久悠は、そのプロジェクトの中心として、企画構成と審査員を担当。番組において最も重要な立場にありました。
 彼が当初企画したのは、ブロードウェイで行われているような優秀ではあるが無名な実力者を発掘するレベルの高いオーディション番組でした。ところが、オーディションの予選を始めて見ると、予想に反して優れたタレントは集まらず、逆に素人芸の域をでない若者ばかりが集まってきました。阿久悠は、予想外の結果にがっかりしますが、もう番組を中止するわけには行きません。そこで彼は番組のコンセプトを変えてしまいます。それは優れたアーティストの発掘番組ではなく、素人の光る原石を輝くスターへと育てることを目的とする番組への転換でした。そして、そんな新たなコンセプトにぴったりの存在が現れます。それが、「先生」の大ヒットで一躍スターの仲間入りをすることになる、森昌子の登場でした。どこにでもいそうな芋ネエちゃん(失礼!)が、歌い出したとたんに観衆を驚かせる。この衝撃は、一気に「スター誕生!」をイメージアップさせ。その後次々と新たな個性を登場させるきっかけとなりました。(僕もこの番組見てました!)
 森昌子は、1972年1月に行われた第一回の決戦大会でチャンピオンとなり、13社からのオファーを受けました。さらに第四回の決戦大会では、桜田淳子が25社からのオファーを受け、第五回の決戦大会では山口百恵が20社からのオファーを獲得。こうして、この時代を象徴するアイドル「花の高3トリオ」が誕生することになりました。

 芸は修行するものだけど、テレビ芸は違う。かえって修行が邪魔になったりするんで、素人のほうがずっと面白いんです。阿久さんが「スター誕生!」でやったのも、テレビの歌手をつくるということなんですよ。しかも、ある種のドキュメンタリーのように番組で育てていく。だったら、最初は歌が下手だったり地味だったりしたほうがいいでしょう?どんどん伸びていくさまを見せられるんだから。阿久さんはそれを知り尽くしてたんじゃないですかね
萩本欽一

 この番組が単なる新人オーディション番組に終わらなかったことは、各アーティストたちがその後、それぞれに阿久悠らの助けを借りながら成長することができたことで証明されました。そして、そのおかげで出場希望者も急増し、さらなる優れた個性の登場のきっかけとなります。この番組の成功のサイクルはこうして完成しました。

 少年のサクセスは大場政夫の事故死を最後に終わったような気さえするのである。それ以後は、劇画の中の架空に潜る。そして、ぼくは、少女のサクセスとして、「スター誕生!」を見守りつづけ、時に手を貸し、時に変態や脱皮を強いていたりしたが、それは同時に、ぼく自身のサクセスという幻想につながるものがあって、奇妙な気がしていた。
「夢を食った男たち」より

「かわいいだけじゃ、愛されない。きれいなだけじゃ、愛せない。利口なだけでも、愛されない。歌えるだけでも、愛せない。このないない尽くしを、これからあなたは考えていってほしい」
阿久悠(デビュー前の石野真子に言った言葉)

 次に彼がブームを巻き起こした曲。それはやはり都倉俊一とのコンビ企画、そしてカムバック・デビュー企画のひとつでもあった沖縄出身のアイドル・グループ、フィンガー5のデビュー曲でした。彼らは1970年にすでに、ベイビー・ブラザースというグループ名でデビューしていたのですが、まったく鳴かず飛ばずの状態でした。その後、彼らは当時ブレイクしていたジャクソン5から名前をパクリフィンガー5と改名。阿久悠&都倉俊一コンビの企画をもとに再デビューします。すると、企画は大当たりし、「個人授業」「恋のダイヤル6700」「学園天国」、「恋のアメリカン・フットボール」と次々にヒットを飛ばしてゆきました。

 沖縄が念願の本土復帰を果たした次の年で、一種の沖縄ブームの最中ではあったが、この五人の兄妹には、沖縄という風土の匂いよりも、アメリカの匂いが強くした。
 アメリカン・コミックスのような学園ものを、歌にしたいと考えた。
「夢を食った男たち」

 タレント・グッズが商売になったのは、本格的には、フィンガー5からではないかと思う。学用品から、子供の日常の用品、ファッションに至るまで、フィンガー5の名前の入ったものが売れに売れた。
「夢を食った男たち」

 ボーカルのAKIRAが声変わりしていなければ、彼らの時代はまだまだ続いていたかもしれません。しかし、このグループの成功は次なる企画、さらなる成功の下準備にすぎなかったのかもしれません。

<ピンクレディー登場!>
 都倉俊一と組んでの、非日常性のエンターテイメント路線というのは、過去に相当な実績があった。ぼくらはそれを、テレビ時代の歌とも言い、歌のアニメーション化とも呼び、二人が開拓して発見した路線だと、自信と誇りも持っていた。
「夢を食った男たち」

 歌のアニメーション化の完成形として誕生したピンクレディーの快進撃はまさに驚異的でした。
 1976年「ペッパー警部」こそオリコンの4位でしたが、その後はどの曲も1位に輝く大ヒットととなります。
 「S・O・S」「カルメン’77」「渚のシンドバッド」(初のミリオン・ヒット)、「ウォンテッド(指名手配)」(12週連続1位)、「UFO」(最多売り上げ155万枚を記録)、「サウスポー」「モンスター」「透明人間」「カメレオン・アーミー」・・・
 ピンクレディーはまさに企画の勝利でした。しかし、次々と仕掛ける企画には限界があります。その上、ファンに驚きを与え続ける企画を出し続けることができたとしても、それを演じるのはあくまで生身の人間でした。

 当時、ブームの最中にあっても、ピンクレディーが売れるのは企画の勝利である、というのが定説になっていた。これは、ぼくら作り手の人間にとっては、何ともくすぐられる言葉であったが、歌う本人たちにしてみたら、どうなのだろうか。・・・それをもし、自分たち自身でも認めたとしたら、彼女たちの実体がなくなってしまうことになる。企画があれば、助手は誰でもよかったのだと思ったりしたら、それはいたたまれない。
「夢を食った男たち」

 作詞家・阿久悠にとっても、この時代はまさに頂点を極めていた時期でした。1976年「北の宿から」(都はるみ)、1977年「勝手にしやがれ」(沢田研二)、そして1978年「UFO」で日本レコード大賞を三年連続で受賞。さらに1978年は「サウスポー」で日本歌謡大賞も受賞しています。他にも、「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり)、「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」(ペドロ&カプリシャス)、「憎みきれないろくでなし」「時の過ぎゆくままに」(沢田研二)、「舟唄」(八代亜紀)など、数多くのヒット曲が、この時期に誕生しています。

 ピンクレディーは、宇宙人でもロボットでもなく人間だったがゆえに、いつかは終わりを迎える運命を背負っていたといえます。その上、時代もまた変わりつつありました。1979年になり、レコード業界の雰囲気が急激に変化し始めます。そうした時代の変化に合わせるように、ピンクレディーの時代は終わりを迎えることになります。彼女たちの15枚目のシングル「マンデー・モナリザ・クラブ」は、二人にとって初めて本人たちが歌いたかった大人のための歌でした。この曲を最後にピンクレディーは解散することになりました。
 後にモーニング娘がヒット曲を連発し始めた頃、阿久悠はこう言ったそうです。
「ああ、なんでピンクレディーを二人にしちゃったんだろうなあ・・・

「やや酷な言い方をすると、阿久悠という作詞家は、虚構世界に献身する、そうした『短期決戦型アイドルの製造請負人』として異能を発揮したマルチ人間だったのだ。」
高澤秀次「ヒットメーカーの寿命」

<個人誌「you」スタート>
 彼にとっての絶頂期だった1970年代、彼は作詞とは別のジャンルにも挑み始めていました。その一つが個人発行の雑誌の発行でした。
 1976年9月15日月刊誌「you」創刊。ささやかな個人メディアの誕生でしたが、これは後に登場するネット上のホーム・ページの先駆だったともいえそうです。
<創刊号のエッセイより>
 史上最高幻の強大支配者GHQが、無知につけ込んでいとも簡単につくり上げた民主主義の参考書をそろそろ捨てなければならないだろう。そのついでに身につけた政治意識というものが、政党支持ということとイコールになってしまったあやまちにもう気がつかねばならないだろう。本当の民主主義とは、政党に義理立てすることではなく、自由に政党を使い捨てするところにあるということを知らなければならない。そして、その知恵を身につけなければならない。

 この雑誌の執筆者は当然豪華でした。上村一夫、小林亜星、久世光彦、篠山紀信、赤塚不二夫、大林宣彦、浅井慎平、和田誠、横尾忠則、倉本聡、手塚治虫、堤清二、板元元・・・

 1978年「you」に小説「瀬戸内少年野球団」の連載が始まりました。後にこの小説は篠山監督によって映画化されることになります。

 以前から、等身大の戦後史、つまり、当時の少年の目の高さから見た戦後史といったものを、現在の視点からの修正を可能な限り避けて、小説の形で書いてみたいと思っていた。
「瀬戸内少年野球団」文庫版あとがきより

 こうして彼は作家、ジャーナリストとしての活動へと向かい始めますが、それは才能をもてあまし、より広い範囲で活躍したいという思いからだったのでしょうか?歌謡界、作詞家としての仕事にもしかすると不満、いや疑問を持ち始めていたのではないかと思います。

 あまりにも巧みすぎて、逆に「阿久悠さんはほんとうはどう思ってるの?」と訊きたくなることもあるんです。阿久さん自身にもその思いはあったんじゃないか。自分が本気で思っていることを言わなきゃだめなんだ、と。だから小説のほうが向かってんじゃないかと思うんです
小椋佳

 1980年、しばしの休養から復帰した後、阿久悠は八代亜紀の「雨の慕情」で再び日本レコード大賞と日本歌謡大賞をダブルで受賞しました。
 彼は1970年代を振り返って、彼は「作家の時代」だったと、こう書いています。
「この時代が歌謡曲の黄金時代、唯一作品論が語られた作家の時代で、ぼくらは実に幸福だった。・・・
 その時代のぼくらが思った歌は、心の中のささやかなシンパシーといったものではなかった。歌はたとえば大きな翼を持った鳥のようなもので、それが時代という空を飛ぶ時、如何なる風が起きるだろう、人はその風をどう受けるだろう、というようなことを考えていたのである。・・・」

「生きっぱなしの記」より

<ニューミュージックの時代へ>
 1980年代に入り、時代は確実に変わりつつありました。それまでフォーク・ソングと呼ばれていた若者たちの自作自演の音楽は、しだいにより幅広い世代を対象とするポピュラーな音楽「ニューミュージック」へと変化。ヒット・チャートの上位をそうした音楽のスターたち、ユーミンやサザン・オールスターズらが占めるようになります。

「これは音楽が変わるなあ、と思ったんです。やっぱり自分のメロディーをつくり、自分の言葉で歌うほうが真実味がある。僕らのほうはつくりものだから。ただ、それはどっちがいいのかという話ではないんです。阿久さんの詞は芝居がかっていて、ドラマチックでした。シンガーソングライターの楽曲は、私的でスケールが小さいんですが、人々がそういうものを望む時代が来た、ということなんです」
筒美京平

・・・同じルールの下で若い才能が登場して、彼らに追い抜かれてしまったわけではない。ルールが変わって、ヒット曲の定義も変わり、いきおい、そこに求められる作詞や作曲の作法も変わってしまっただけ - だからこそ、戸惑いややるせなさはつのってしまう。
重松清

目立たぬように はしゃがぬように
似合わぬことは無理をせず
人の心を見つめつづける
時代おくれの男になりたい

河島英五「時代おくれ」(1986年)より

 美意識とか美学とかを持ち出すとややこしくなるが、これは、やせがまんの歌である。やせがまんをカッコ良く思わせたかった。もう時代の中で、やせがまんはカッコ悪くなっていたのである。
 この言葉は沢田研二の「サムライ」(1978年)についての言葉です。
 1977年に阿久作品「勝手にしやがれ」でレコード大賞を受賞した沢田研二は、阿久作品によって育てられたアーティストでした。しかし、彼は時代の変化を自ら感じとることで阿久作品からの脱皮を図りたいと自ら提案。作詞を当時時代の寵児となっていたコピーライターの糸井重里に依頼します。

「阿久悠さんの言葉は『こってり』してるんです。その『こってり』が、ちょっとかなわんなあ・・・と思いつつ、やっぱりみごとなものだとも思うわけです」
糸井重里
 こうして、沢田研二は1980年代を象徴するヒット曲「TOKIO」を発表することになります。

<アナログからデジタルへ>
 1980年代の中ごろになると音楽界は、もう一つ別の角度から大きな変化の時を迎えることになります。それはアナログ・レコードからCDへのハードにおける変化です。この変化は、表面的には音楽(ソフト)に変化を与えるものではなかったのですが、今振り返ると、着実に音楽の本質的な部分にも影響を与えることになったと思います。

 ぼくは、時代を見ることを何より重要視した作詞家であり、作家である。背景に時代の匂いを感じさせない詞は、一篇も書いていない。
「清らかな厭世」より

 過去の作品というのは、かならず二つの面を持ちます。その時代ゆえという歴史性によって輝くものと、時代を超えていつの時代でもその時代なりの感性で受とめられるものと、両方である。
「ただ時の過ぎゆかぬように」より

 しかし、もし、そうした時代性をこめた歌詞がウットウしいと感じられる世代が登場したら・・・。時代とともに音楽を聴く側のニーズもまた変わりつつありました。1990年代いや1989年1月から始まった「平成」は、まさにそんな時代となりました。偶然ですが、この年昭和天皇とともに、他にも時代を象徴する多くの存在がこの世を去っています。
 手塚治虫、松下幸之助、美空ひばり、開高健、カラヤン、イスラムの指導者ホメイニ、「ベルリンの壁」、そして「昭和歌謡」。

「阿久先生の詞は、提言や説得なんです。強くて壮大なメッセージがある。僕の場合は、共感や納得なんです。だから、筆圧という意味では、阿久さんほど強くない。そこが一番大きな違いなんだと思います」
秋元康

 秋元康は、今ではAKB48の仕掛け人として日本を代表するプロデューサーとなりましたが、元々は阿久悠と同じように放送作家としてスタートした後、作詞家となり、その後、現在の地位を築いたある意味、阿久悠の後継者ともいえる存在です。そして、彼の作詞家としての代表曲として忘れられない作品として美空ひばり最後の大ヒット曲「川の流れのように」(1989年)があります。

 ぼくは、偉大な存在であるところの美空ひばりから逃げまわっていて、ついに、真正面から相対してヒット曲を作らなかったことを後悔した。
阿久悠
 自らが企画、主役でアーティストを育てたが、自分に匹敵する優れた才能をもつアーティストとはやりにくかったのでしょうか?
 阿久悠が美空ひばりの曲を一曲もかかなかったというのは有名ですが、けっして彼女の歌が嫌いだったわけではなく彼女のためにラジオ番組の企画として詞を発表していました。

お酒はぬるめの燗がいい
肴はあぶった烏賊がいい
女は無口なひとがいい
灯りはぼんやり ともりゃいい
しみじみのめば しみじみと
想い出だけが 行き過ぎる
涙がぽろりと こぼれたら
歌い出すのさ 舟唄を

 この曲はラジオ番組「阿久悠の実践的作詞講座」において、美空ひばりのために作られた詞でした。(1976年頃)それが、1979年、八代亜紀の曲「舟唄」となり、大ヒットを記録することになるのです。
 もうひとり、彼が曲を書いていないアーティストとして、山口百恵がいます。「スター誕生!」出身のアーティストなので、関わりはありながら、彼女は作詞家を選べる立場になっても、彼を指名しませんでした。逆に彼女は、ニューミュージック系のアーティストたちの曲を書いていた宇崎竜堂と阿木耀子のコンビに自分から曲つくりを依頼しました。彼女のこの選択により、阿久悠作品と常に対決することになった彼女は、結局一度もレコード大賞を受賞することができませんでした。ある年のレコード大賞の授賞式を去る山口百恵のことを彼はこう語っています。

 喪服のように黒いドレスで、彼女の遠ざかる客席通路のあたりがシンと静まりかえり、空気の凍てつく気配さえ伝わって来て、ぼくはステージ上で笑顔をこわばらせたことがある。それは、考えようによっては、受賞者を道化にしてしまうくらいの、強烈な矜持の証明であるようにさえ思えた。
「夢を食った男たち」

 自ら企画を立ち上げ、その企画によってアーティストを育てたり、変身させたりすることで時代の波に乗せる。それは広告業界で時代の流れに乗ることを学んだ彼が得意とする手法でした。しかし、そこに時代の流れを自力で変えることのできる人材がいたとしたら・・・。山口百恵と美空ひばりはそんな逸材だったのかもしれません。

 阿久悠作品を通して「昭和」という時代を見ると、そこには「欲望」というもうひとつの言葉が見えてきます。「昭和」という時代は、高度経済成長とともに日本が「欲望」を増幅させてゆく時代でもありました。特に1970年代には、「革命」という未来を失った若者たちが、それに代わる「旅」「モノ」「恋」「音楽」「スポーツ」などに方向を転換。「欲望」を満たそうとし始めた時代だったともいえます。
 阿久悠作品=昭和歌謡=欲望のテーマ曲という図式は、いくらなんでも単純化しすぎかもしれませんが・・・。1990年代以降、彼が作詞活動よりも、作家活動やジャーナリスト的な活動へと軸足を移していったのは、そうした思いから必然的なことだったように思えます。それもまた時代に必要な仕事だと感じていたと感じていたに違いありません。しかし、作詞家としての活動の偉大さに比べれば作家として活動は低く見られがちで、残念ながら大きな実績を残すことはできませんでした。
 2001年に腎臓に癌が見つかり、手術は当初成功するものの活動はもう限界で、2007年8月1日、彼は70歳でこの世を去りました。
 2009年時点、オリコンにおける作詞家の総売り上げランキングで、阿久悠は6826万枚で第1位。第2位の松本隆が5000万枚ですからその差は歴然です。レコード大賞では、大賞受賞が5回、作詞賞は7回受賞しています。

「それまでの流行歌の詞は、視覚的には一つのカメラでずっと映していたんです。ところが、阿久悠さんの詞はカメラが切り替わるんです。遠景を見せておいてからポンとクローズ・アップに行ったり、ヒロインの姿を外から見せておいて、不意に彼女の心象風景に入ったり・・・。テレビの歌番組に向くんですよ。最初からカメラ割りをされた歌詞なんだから」
小西良太郎

「曲ももちろん大切ですけど、やっぱり、詞なんです。ずっと歌い継がれる歌は、言葉が残ってるということなんです。鼻歌を口ずさむときも、詞と一緒に出てくるでしょう?それを思うと、作詞家は詩人なんです。阿久悠さんは不世出の詩人だったんですよ」
五木ひろし

「阿久さんの詞って、おとなになってから必要になるんですよ。世の中や人生のいろいろなことがわかってきて、悩んだり迷ったりするようになってから聴き返すと、力づけられるんです」
北沢夏音(音楽評論家)

「いまでも歌謡曲を否定的にとらえるロックの人はいっぱいいるでしょうけど、僕はそうではないです。だって、阿久さんの歌、いい歌いっぱいありますよ、ほんと泣きたくなるようなやつ、ロックのカッコつけ競争に、阿久さんは『売れることは悪いのか?』『多くの人に聴いてもらうことがほんとうに悪いの?』ってアンチテーゼを突きつけてくれたんです。それはすごく自分にとって幸せなことだったと思います」
山口隆(サンボマスター)

 「音楽」の場合は最初から主義の合った人同士が共有して作っている。しかし、「歌」は、人々にぶつかり、跳ね返りながら、世の中を駆け抜けていく。そうして、人から人へと乱反射しながら、さまざまな受け取り方をされてだんだんと広がっていくのだ。
重松清

 本来、歌謡曲とはいかに聞く気のない人々の耳に飛び込み、一瞬で心を惹きつけ、その音をまわりの人と共有させるかでその真価を発揮するものだ。
「『企み』の仕事術」より

 歌謡曲は時代を食って色づき、育つ。時代を腹に入れて巨大化し、妖怪化する。ぼくはそう思っている。これを確信したことによって、ぼくは、五千も六千もの歌謡曲の詞を書くことが出来たのである。
「歌謡曲の時代」より

「ひとつの歌詞の中で大河ドラマだって作れるのではないか」
「『企み』の仕事術」より

「流行はいちばん古いものの隣に新しいものがひそんでいる」
阿久悠

「阿久悠の功績は、日本の戦後歌謡を、美空ひばりを究極とする世界から、別の場所に大きく動かしたこと。ひばりの演歌の延長では考えられない、新世界の可能性を切り拓いたことに尽きるのではないのだろうか。」
高澤秀次「ヒットメーカーの寿命」

<その後の音楽界>
 昭和歌謡以後に主流となったJーポップとは、いかなる音楽なのでしょうか?間違いなく言えることとしては、CMとのタイアップがあたり前になったことで、「欲望のテーマ曲」としてのJ−ポップは、それまで以上に露骨になっているといえそうです。
 ただし、ジャンルの多様化により、コマーシャリズムに乗りにくい曲も、また世に出ることが可能になったのも確かです。音楽のダウンロード配信販売の開始によりバブルがはじけるまでは、まさに「欲望のテーマ曲」として音楽業界は右肩上がりで伸び続けました。それは音楽にとって確かに幸いな時代でした。
 音楽業界にとって不幸な時代ともいえる21世紀に入って以降、音楽は「癒しグッズ」のひとつになっている気がします。そして、それもまた時代のニーズということなのでしょう。

<参考資料>
「星をつくった男 - 阿久悠と、その時代 -」
 2009年
(著)重松清
講談社

阿久悠(前編へ)へ   ジャンル別索引へ   アーティスト名索引へ   トップページへ