
- アラン・フリード Alan Freed -
<50年代ポップスの象徴>
アラン・フリード、50年代アメリカにおいて「ラジオ界の帝王」となった白人DJ、「ロックン・ロール」という記念すべき名称の発案者、エルヴィス・プレスリーやチャック・ベリーを世に広めロックン・ロールをメインストリームに押し上げた功労者、人種差別が当たり前だった時代に黒人音楽を白人たちの耳に届けた先駆者、そして、レコード・ビジネスの世界におけるアメリカン・ドリームの体現者であると同時に、スキャンダルによってどん底へと突き落とされた悲劇の男。
もしかすると、彼は当時のどんなミュージシャンよりも、50年代のポップスを象徴する存在だったのかもしれません。まして、当時ラジオはどんなメディアよりも人々に影響を与えることのできる力をもっていたのですから。
<憧れのDJを目指して>
アラン・フリードは、1922年ペンシルバニア州のジョンズ・タウンに生まれました。その後家族とともにオハイオ州のセーラムへと引っ越し、そこで青春時代を過ごしています。高校時代、トロンボーン奏者として、ジャズ・バンドを率いていた彼は、その後ラジオ放送の世界に興味をもつようになり、ペンシルバニア州のニューキャッスルでスポーツ解説者として、ラジオのマイクを握るようになりました。その後ラジオ局を転々と移り変わりながら、夢だったDJになるチャンスを待っていました。
<ミスター・ロックン・ロール>
1951年クリーブランドのラジオ局WJMで働いていたある日、ある番組のDJが病気で倒れ、急遽彼にDJを担当するチャンスがめぐってきました。そこで、彼は自らレコード店に出かけ気に入ったR&Bのレコードを買いあさり、その日の番組でかけまくりました。ところが、ラジオ局は彼を首にしてしまいます。それは彼が番組のプログラムにあった曲をかけなかったからではなく、彼が一般大衆向けの番組でかけてはならないブラック・ミュージックばかりをかけたからでした。
ところが、たった一夜の彼の番組は大変な反響を呼び、彼のもとにリクエストが殺到します。そこで局側はあわてて彼を雇い、番組を担当させることに担当させることになりました。
彼の番組「ムーンドッグズ・ロックン・ロール・パーティー」は、あえて深夜枠に組み込まれたにも関わらず大ヒットします。「ロックン・ロール」という言葉は、まさにこの頃彼が発明したものでした。
<モリス・レヴィーとの出会い>
こうして、一躍彼は人気DJの仲間入りを果たします。しかし、彼の目標はさらに上にありました。「ショービズ界の中心地、ニューヨークで一流DJになること」これが彼の次なる目標でした。そして、その目標を達成するために力を貸してくれたのが、当時ニューヨークの音楽界で絶大な力をもっていた人物、モリス・レヴィーでした。彼は、ジャズの名門クラブ「バードランド」のオーナーであるだけでなく、ニューヨークの裏社会に強力なコネをもつ大物でした。(彼がマフィアともつながっていたらしいことは、後に明らかになってきます)彼の音楽に対する嗅覚は、確かなものがありましたが、それ以上にビジネスは彼の得意とする分野で、ニューヨークに来たアラン・フリードを気に入った彼は自らマネージャーをかって出ます。そして、すぐに彼をニューヨークの有名ラジオ局WINSのDJの仕事をつかんできたのでした。彼ほど優秀なマネージャーはいなかったかもしれません。しかし、それが後に彼を不幸に陥れるきっかけになるとは、当然気づくはずもありませんでした。(モリス・レヴィーという人物は、彼だけで一本映画ができるほど謎と伝説に人物だったようです)
<ブラック・ミュージックの伝道者>
彼は誰よりも黒人達の演奏するR&Bやブルース、ロックン・ロールを愛しており、ルース・ブラウン、ラヴァーン・ベイカー、レイ・チャールズ、リトル・リチャードらの黒人アーティストを積極的に番組で取り上げました。そのおかげで、それまでパット・ブーンらに代表される甘口の白人アーティストによるカバー・ナンバーしか知らなかった若者たちの耳に本物のR&Bが届くことになったのです。(もちろん、黒人専用のラジオ番組もありましたが、それは白人層にはほとんど聞かれていませんでした)
中でもエルヴィス・プレスリーとチャック・ベリーは、彼がいち早く目を付けたアーティストで、彼ら二人を発見し、世に広めたたことだけでも彼は「ロックン・ロールの育ての親」と呼ばれるに相応しいかも知れません。
<「ペイオラ」の甘い罠>
彼はこうして新しい時代のヒーローとして、どんどん力を付けて行きます。そして、レヴィーは、フリードの持つ力を利用して巨額の富を得る方法を次々に見つけます。元々DJの仕事だけで食べて行くことができるほど給料が良いわけではなかっただけに、それは「必要悪」だったのかもしれません。少なくとも初めのうちは、・・・。(当時のDJの給料の安さは半端ではなかったようです)そして、彼が取り上げる局が次々にヒットしてゆくのですから、それは当然の流れだったのかも知れません。
こうして、「ペイオラ」と呼ばれる賄賂が当たり前のように彼の懐に入るようになります。
<金のなる木と裸の王様>
当時のフリードの人気はすさまじいもので、彼が主催するコンサートというだけで観客はいくらでも集まりました。そこで彼らはコンサートに新人アーティストを出演させ、観客からもアーティスト側からもお金が入る仕組みを作りました。(もちろん、このアイデアはレヴィーが考えだしたものでした)
あるアーティストを売り出すためにフリードの家にプールを作る業者をよこしたのは、あのアトランティック・レーベルでした。こうして、彼のもとには、奇蹟を起こしてもらおうとする信者たちのように、毎日レコード会社の営業マン(それも社長クラスの大物たち)が列を作るようになりました。
こんな状況の中、フリードはしだいに自分を見失いだし、性格はどんどんわがままになって行きます。ついには、彼に悪知恵を吹き込んだレヴィーすら信じなくなり、お払い箱にしてしまいます。まるで彼は「裸の王様」でした。そのうち、彼の回りには金を目的とするギャングまがいの友人達?しかいなくなっていました。
<ラジオ・スキャンダル>
そんな頃、ラジオのクイズ番組における八百長問題が世間を騒がせ大スキャンダルへと発展し始めました。この事件はしだいに放送業界全体を巻き込み、DJと賄賂(ペイオラ)の問題がクローズ・アップされることになります。(ロバート・レッドフォード監督の名作「ラジオ・ショー」は、この事件を題材にした映画です。作品的にも素晴らしいので是非ご覧下さい!)
ついにこの捜査は、人気ナンバー1DJである彼をも巻き込みます。ついに、彼は議会での公聴会に召還されることになりました。
<スケープ・ゴート>
この時、彼と共に「テレビ界の帝王」と呼ばれていた人物、「アメリカン・バンド・スタンド」の司会者、ディック・クラークも召還されますが、彼はほとんどおとがめもなく、その場を逃れました。ところが、フリードには、その後大陪審で収賄について有罪の判決が下されます。と言っても、その罪に対する罰金はわずか300ドルたらずだったのですが、それをきっかけに彼は放送業界から完全に締め出されてしまいました。
業界の彼に対する厳しい対応は、確かに自業自得の面もありましたが、この追放劇は彼を陥れるための仕組まれた罠だったという説もあります。黒人ミュージシャンのオリジナルにこだわり、白人アーティストによるカバー曲を無視した彼のことを疎ましく思っていた保守的な業界人は多く、そんな業界を代表する組織のひとつASCAP(アメリカ作曲家作詞家出版者協会)が、彼を陥れたという説はかなり信憑性があるようです。彼は国民の注目を集めていたペイオラ疑惑のスケープ・ゴートにされてしまったのです。(もちろん、この後業界からペイオラがなくなったわけではありません。より巧妙になっただけのことのようです)
<非業の死>
こうして、ラジオ界の帝王はそれまでの栄光が嘘のようにバッサリと業界から切り捨てられました。それまでも不摂生な生活をしていた彼は、この後さらにアルコールに溺れるようになります。その上交通事故によって受けた傷がもとで彼の内蔵はボロボロになっており、あっという間に彼は病に倒れてしまいました。(尿毒症による肝硬変だったようです)
そして、1965年1月20日、まだ42歳という若さで彼はこの世を去ったのでした。
<ロックン・ロールの伝道者>
あまりに純粋だったがために業界のワルに乗せられ、いつしか自分を見失い、自らの手で栄光を失ってしまった悲しきヒーロー。彼は賄賂まみれになっていた時でも、けっして自分の好きな曲以外はかけなかったと言います。それに黒人アーティストによるコンサートの開催を認めない保守的な街にあえて乗り込み、そこでチャック・ベリーらのコンサートを開催しようとした彼の勇気は誰にもマネできないものでした。(実際、彼はこうしたコンサートで暴動を扇動したとして逮捕されたこともあるのです)
こうして、10年にも満たないわずかの期間に伝説のDJは、ロックン・ロールという宗教を全米中に広め、あっという間にこの世から消えていったのです。
<締めのお言葉>
「今日ではペイオラはだいたい、大手レーベルがポピュラー局の選曲に口を出し、弱小レーベルを放送から締め出す手段として使われている。しかし、R&BラジオのDJにとってのペイオラは、彼らの才能がもたらす利益の当然の分け前を手にする手段だったのである」ネルソン・ジョージ著「リズム&ブルースの死」
「ペイオラをもらわなきゃ生活すらできなかっただろう。私たちはリスナーに直接つながってて音楽のことをちゃんとわかってる人間を助けてやりたかったんだ。悪いことじゃないだろ。彼らは誰から金がとれて、誰からとれないかを知っていたよ。彼らDJ、金のある人間から金をとった。あるDJは、あるレコード会社からは一文ももらおうとしなかった。そのレーベルが全然儲かっていないことを知っていたからだよ」
レコード・プロモーションマンの元祖、デイブ・クラーク
「リズム&ブルースの死」より
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