- アルバート・アインシュタイン Albert Einstein (後編) -

<ノーベル賞受賞>
 1919年11月、彼の「一般相対性理論」が正しいことを証明する実験が行われました。実験を行ったのはイギリスの天文学者、アーサー・エディントン。彼は皆既日食の際、太陽の重力が別の星からの光を曲げていることを確認しました。(太陽の光が遮られることで観測が可能になったわけです)
 こうして、彼の理論は見事に証明され、一躍彼の名は世界中に知れわたり、ついにはノーベル物理学賞を受賞することになります。当時の彼の人気は、今では考えられないほどのものでした。その風貌が特徴的だったことと、彼の理論の難しさがかえってカリスマ性を高めたのかもしれません。
 ヨーロッパのカフェでは、人々が彼の「相対性理論」について議論をし、重力によって曲げられた空間を表現したチョコレートがテーブルにのせられていたと言います。
 彼は世界で最も有名な科学者として、各国から講演依頼を受けるようになり、インド、中国、南米そして日本にまで講演旅行をしています。それも1920年代のことですから、すべて船の旅でした。1920年代前半は、彼にとって幸福の絶頂だったと言えるかもしれません。

<ユダヤ人迫害と戦乱の時代>
 しかし、1930年代に入ると彼の人生には、しだいに暗雲がたれ込めてきます。それはヒトラーの台頭によるユダヤ人への迫害から始まりました。社会主義者、自由主義者、知識人そしてユダヤ人の存在を否定するナチスにとって、「知の象徴」でありユダヤ人でもあるアインシュタインは、まさに格好の迫害対象でした。そのため、彼に対する嫌がらせが国家ぐるみで行われるようになります。そして、1933年、彼がアメリカにいる間に自宅がナチスの親衛隊によって強制捜査される事件が起きました。それは彼に反政府活動のための武器隠匿容疑がかけられたからでした。この事件により身の危険が明らかになり、彼はついに家族とともにアメリカへと渡る決意を固めます。当時、数多くの才能豊かなユダヤ人がアメリカへと渡りましたが、彼はそれらの亡命者たちの象徴的存在でした。

<映画「マリリンとアインシュタイン」>
 1985年公開のイギリス映画「マリリンとアインシュタイン」という作品があります。あのマリリン・モンローが実はアインシュタインに恋をしていたという物語で、その恋敵として彼女の元夫のジョー・ディマジオと「赤狩り」で有名な政治家のジョゼフ・マッカーシーが登場します。監督は「地球に落ちてきた男」などで有名なニコラス・ローグ。アインシュタインとその時代のアメリカの雰囲気がよくわかる興味深い作品です。必見!
 マリリンは、あるパーティーでアインシュタインにこう言いました。
「私の美貌とあなたの頭脳をもった子供ができたら、どんなに素晴らしいでしょう」それに対し、アインシュタインはこう言いました。
「私の顔と、あなたの知能をもつ子供が生まれるかもしれませんよ」20世紀最高の頭脳はジョークに関しても最高のセンスを持っていたようです。

<原子爆弾開発計画>
 1939年、無事アメリカに移住した彼のもとに、彼と同様ハンガリーから亡命してきた物理学者レオ・シラードが現れます。彼はドイツが原子爆弾の開発を行っているという情報を入手しており、アメリカも急いで原子爆弾を開発しなければ手遅れになると告げ、大統領への直訴に協力してほしいと迫りました。アインシュタインは2週間迷いに迷いましたが、ついに大統領にあてた原子爆弾開発推進のための陳情書にサインしました。もちろん、彼は物理学界における自分がサインするということの重大性を十分理解していました。後に彼はこう言っています。
「私があらゆる権威に対して反抗の姿勢をとってきたことに対する罰として、神は私を一人の権威者にしてしまった」

<日本への投下>
 ロバート・オッペンハイマーを中心とする「マンハッタン計画」に彼は直接は関わっていません。彼は元々反戦主義者であり、ナチスによるユダヤ人迫害と原子爆弾開発の情報を知らなければ、けっして協力することはなかったはずです。
 しかし、結局原子爆弾はアメリカが完成することになり、ドイツが全面降伏したにも関わらず、もうひとつの敵国日本に対して、二度までも使われることになってしまいました。彼はシラードらとともに原爆の使用をやめるよう大統領に手紙を書きましたが、まったく無視されてしまいました。
 かつて自分が訪れ、大歓迎された東洋の美しい国が自らがその開発に手を貸した原子爆弾によって破壊されたことは、彼にとって大きなショックでした。この後、彼は核兵器廃絶運動と戦争廃絶のための世界政府樹立のための活動に半生を捧げることになります。

<ガンジーとアインシュタイン>
 アインシュタインは平和運動に力をつくしますが、その活動に最も影響を与えたのは、同時代に活躍していた『非暴力』の英雄、マハトマ・ガンジーでした。二人は結局直接会うことはなかったのですが、手紙のやり取りによる意見の交換は行われていたようです。

<さらなる悲劇>
 彼にとっての悲劇はこれだけではありませんでした。すでに離婚していた最初の妻ミレーバとの間の子供達とはその後会うことができず、二人目の妻エルザがこの世を去ったことで、彼はアメリカで孤独な生活を送らざるを得なくなりました。
 もうひとつ、「相対性理論」に次いで彼が取り組んだ「統一場理論」を完成することができなかったことも、彼にとっては大きな悔いとなりました。
 ヨーロッパで発展し「相対性理論」に匹敵する注目を集めていた「量子力学」に対して、彼は不満をもっており、それを否定するためにも彼は統一場理論を目指しました。しかし、その理論は未完に終わり、それどころか「量子力学」に破れる結果になりました。それはある意味、アインシュタイン時代の終焉を告げるものでもありました。

<量子力学とは?>
 量子力学とは、物理を構成する未知の粒子を「重さをもつ小さな粒子」ととらえると同時に「存在確率で現れたり消えたりする非現実的で不確定な物質」、その両方であると考える理論です。この考え方によると、世の中に100%確実なことはないということでもあります。ある時は石ころのようにぶつかり合って分裂し、またある時はそこに存在しないかのように見えない存在になる。そんな不思議な存在から物質はできているというのです。
 この考え方をアインシュタインは死ぬまで認めようとしませんでした。彼は神様が作り上げたこの美しい宇宙がそんな「不確定な確率の法則」によって支配されているとは考えられなかったのです。
 彼は量子力学を発展させた物理学者の中でも最も偉大な人物と言われるニールス・ボーアにこう言ったことがあります。
「あなたは本当に、神がサイコロ遊びのようなことに頼ると信じますか?」するとボーアはこうやり返したそうです。
「あなたは、物の性質をいわゆる神の問題に帰するときには、注意が必要だと思いませんか?」

<まるで哲学のような世界>
 この時代の物理学はまるで哲学のようであり、宗教のようでもありました。数多くの物理学者たちがそれぞれの理論を発表し、激論を戦わせる様子を描いたこんな文章があります。
「アインシュタインが発言を求めて立ち上がった時、興奮が巻き起こった。彼ははっきりさせずにはいられなかった。彼は不確実性を嫌い、真実を捨てることを嫌った。・・・大勢の人がめいめいの言葉でがやがやとしゃべり出した。議長であるローレンツは、平静を取り戻すために卓をたたき、穏やかに秩序正しく議論を進めようと努力した。しかし、動揺はひどかった。エーレンフェストは壇上に登って、黒板に、『主はそこで全地上の言葉を乱された』と書いた」
1927年ソルヴェイ会議より
(注)黒板の言葉は、旧約聖書「バベルの塔」の部分からの引用

<孤独な死>
 1955年9月16日、彼はニュージャージー州プリンストンの病院で息をひきとりました。しかし、臨終の際、彼のそばには家族が一人もいなかったといいます。20世紀を代表する偉大な科学者の最後はあまりに孤独なものでした。

<光にかえった男>
 「エネルギーとは、質量と光の速度の2乗をかけたものである」
 これはアインシュタインが相対性理論の論文で証明した有名な公式です。この公式により、あらゆる物質には膨大なエネルギーが隠されていることが明らかになり、「核」という禁断のエネルギーを知る大きなきっかけになったのです。20世紀が生み出した偉大な発見の多くは、人類がそれを受け入れる準備をする間を与えることなく社会を大きく変えてゆきました。彼の後半生は、この現実を思い知らされるつらいものでした。
 幸い、彼の理論によれば物質はその存在が失われても光のエネルギーとして宇宙に存在し続けます。ならば、彼自身も光のエネルギーとなって未だ宇宙のどこかに存在し続けているわけです。アインシュタインが霊魂の存在を信じていたとは思えないのですが、少なくとも彼の生み出した数々の科学的理論だけはしっかりと現代に生き続けているのです。

<締めのお言葉>
「自然の書物は数字でしるされている」
 ガリレオ・ガリレイ
「神は企みぶかいが悪意はもたない」 アルバート・アインシュタイン
「思考とは驚きからの絶えざる飛翔である」 アルバート・アインシュタイン

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