「光電子効果、特殊相対性理論、一般相対性理論」

- アルバート・アインシュタイン Albert Einstein (前編)-

<20世紀を代表する一人>
 「20世紀はポピュラー音楽の世紀だった」これは、このサイトを始める際の重要なキーワードでした。しかし、それ以上に20世紀を「戦争の世紀」「核の世紀」「科学の世紀」ととらえる人は、多いに違い有りません。
 「科学」の進歩によって狭くなった地球。「科学」の進歩によって、持てる者と持たざる者に別れてしまった地球。こうして、地球は「戦争の世紀」へと突入し、人類にとって現時点での最終兵器「核爆弾」を生むにいたったのです。
 これまでも、科学は単に技術の進歩によって社会を変えただけでなく、ひとつの「思想」としても、社会に大きな影響を与えてきました。なかでも、ガリレオの地動説が教会中心の社会に大きな衝撃を与えたり、ダーウィンの進化論が生物学だけでなく社会学や経済学をも根本的に変えてしまったことは有名です。同じように、アインシュタインの「相対性理論」も「思想」として人類に大きな影響を与えました。実際、彼の提示した理論からは、テレビやレーザーの技術だけでなく、「ブラック・ホール」や「タイム・トラベル」「ビッグ・バン」などの新しい概念が数多く生まれているのです。そう考えると、彼はどんな思想家や宗教家、政治家よりも大きな影響を20世紀の世界に与えたと言えるのかもしれません。

<天才アインシュタインの頭脳構造>
 僕は理学部の物理科を卒業しています。(一応中学理科と高校物理の教職免許も持っています)そんなわけで、大学では相対性理論についても勉強したわけですが、それだけに天才といわれたアインシュタインの頭の構造がいかに普通人と異なるのか、わずかながら理解できる気がします。
 エジソンは天才とは、99%の努力と1%の才能から生まれると言ったそうですが、それは違うと思います。それは、エジソンという人物が本当の意味の天才ではなかったことの証明でもあるのですが、「本物の天才は生まれつき天才なのだ」というのが正しい認識だと僕は考えます。ただし、その天賦の才能が社会に認められ活かされない場合は多いかもしれません。あまりに特殊な才能は、かえって社会に受け入れられず、認められないまま一生を終えた人も多かったことでしょう。

<天才少年の生い立ち>
 1879年3月14日、アルバート・アインシュタインはドイツのウルムという町に生まれました。父親は事業家で電気機械の工場を営む真面目なユダヤ人で、母親は音楽が大好きな優しい女性でした。
 生まれた時、彼は頭の形がいびつで、体重も標準を大きく超えていたことから障害があると考えられていました。実際彼は3歳になるまでまったく言葉を発せず、両親は彼の知能の遅れを心配していました。ところが、彼はある日突然大人と変わらない会話を始めました。彼はどうやら頭の中で秘かに大人の会話を学習し、完璧に修得するまでそれを口にしなかったのです。やはり彼は生まれながらにして天才だったのでしょう。
 1890年になって、彼はミュンヘンのギムナジウム(日本の中学校にあたる学校)に入学します。しかし、頭は良かったものの団体行動や規律重視の教育方法が大嫌いだった彼に、当時のドイツ式軍国主義教育が合うはずもなく、結局彼は学校を飛び出し、父親の住むイタリアに渡りました。

<苦難の学生時代>
 1895年、16歳になった彼はスイスの高校で学び始め、そこで初めて勉強することの楽しさを知り、翌年にはいっきに名門のチューリッヒ工科大学に入学します。(ただし、この学校に入学できたのは、試験科目が数学だけだったからです)ところが、当時のチューリッヒ工科大はヨーロッパでも指折りの学校だったにも関わらず、教授陣は前近代的な体質のままだったため、彼は教授たちとことごとく衝突してしまいます。
 結局、彼は卒業後大学に助手として残ることも許されず、父親の工場が倒産したこともあって、仕事を探さなければならなくなりました。しばらくは臨時雇いの学校教師や家庭教師をしながら、こつこつと論文を書く生活が続きます。しかし、論文はまったく認められず、結局彼は博士号ももらうことができませんでした。
 それでも、友人の紹介でスイス特許局の職を得たことで、生活はなんとか安定し、1903年には学生時代からの恋人ミレーバとの結婚を果たします。

<新理論を生んだ研究室>
 彼が発表した数々の新理論はどうやって生み出されたのか?どんな研究から生まれたのか?アインシュタインの研究室とは、いかなる場所なのか?その答えは、彼の机とその引き出しにしまわれたノート、そして彼の「脳」、それだけです。 
 「思考実験」という言葉は、まさに彼のためにあると言っていいでしょう。彼は自らのたてた数式を頭の中にイメージとして描き出すことができました。そして、それを宇宙や時間の姿と比較することで、自らの学説を確認していったのです。彼が考えだしたほとんどすべての理論は、「紙とペン」から生まれたものでしたが、論理的破綻さえなければ、その証明にはなんの実験も必要とはしなかったのです。彼の理論は、その後今に至るまで多くの学者たちによって証明され、正しかったことが確認されていますが、発明した本人とっては証明など不要だったかもしれません。理論に破綻がなく、美しさを兼ね備えていれば、それでもう理論としては完成品なのです。

<アインシュタインとバイオリン>
 母親の影響で早くから楽器に親しんでいた彼は、死ぬまでバイオリンを手元から離さなかったそうです。その腕前はなかなかのもので、たびたびチャリティー・コンサートを行うなど、人前での演奏にも積極的だったようです。いかんせん、彼は常に自分のペースで弾くことを好んだため、合奏は苦手だったそうです。物理の道に彼が進まなければ、もしかすると彼は天才的な作曲家になっていたかもしれません。たぶん、彼の頭の中では、音楽もまた数式のように具体的なイメージを描き出すことが可能だったのではないでしょうか?

<歴史的論文の発表>
 1905年、彼は後にノーベル賞を受賞することになる「光電子効果」の論文と「相対性理論」の論文を発表します。ところが、これらの論文は当初まったく無視されていました。それは博士号ももたない無名の公務員の論文だったせいもありましたが、それ以上に彼の論文の意味するところを理解できる学者が当時ほとんどいなかったせいでもありました。その証拠に彼の論文に対して、最初に反応した人物は物理学の世界において、当時最高峰に君臨していた学者マックス・プランクでした。
後に「相対性理論」と並んで世界の物理学における最重要理論となる「量子力学」の基礎を築いたドイツの物理学者マックス・プランクは、当時すでにドイツ物理学界の大御所のひとりでした。
 そんな彼が「分からない点があるので、説明して欲しい」という手紙を書き送ったのですから多くの学者に理解できなかったのも当然でしょう。

<光電子効果とは?>
 金属に光を当てることで、そこから電子を飛び出させる効果のことで、この現象によって「光とはある種の粒子である」という仮説が生まれました。それまで光は音と同じように空間(エーテル)を伝わる波の一種だと考えられていましたが、アインシュタインはそれが光量子という極微粒子からできているとしたのです。そして、この理論をもとにして研究され、後に実用化されたものがテレビ(真空管)です。その後、この理論はレーザーなどの新技術をも生み出すことになるだけに、実用化されることを重視するノーベル賞の委員会が彼のこの理論にノーベル物理学賞を与えたのもうなずけます。(アインシュタイン自身は、相対性理論の論文にこそ、賞が与えられるべきだと思っていました)
 実は、光は粒状の物質ではないことが後に明らかになります。「光は粒子であると同時に波動でもある」ということが明らかになったのです。
 この理論こそ、マックス・プランクから始まり、その後シュレディンガーやパウリ、ローレンツ、そして大御所ニールス・ボーアらによって確立された「量子力学」なのです。ここから先はいよいよ哲学的で面白いお話になってくるのですが、・・・これは後編でまた。

<「特殊相対性理論」とは?>
 この理論は、「特殊相対性理論」(1905年)と「一般相対性理論」(1915年)とから成り立っています。「特殊相対性理論」が証明してみせたのは、「自然界において、絶対不変なもの、それは光の速度であり、それ以外はみな相対的な存在にすぎない」ということです。実は光速度の不変性は、すでに1880年代アメリカの物理学者アルバート・マイケルソンとエドワード・モーリーによって証明されていました。それは地球の公転進行方向と垂直方向に光を放った時、光の速度が公転の影響によって変わることを観測しようと試みたものの、まったく同じだったことから明らかになりました。(マイケルソンはこの実験結果があってもなお、自らは相対性理論を認めようとしませんでした)
 アインシュタインは、この事実が導き出す驚くべき仮説を理論によって、見事解き明かしてみせたのです。光が地球の回転速度の影響を受けないとは、いったいどういうことか?もし、光の速度に近いスピードをもつ宇宙船が地球を離れながら光を放ったらどういうことになるでしょう。常識的に考えて、宇宙船が後ろ向きに放った光は地球になかなか届かないはずです。それは光の速度と宇宙船の速度がお互いにうち消し合ってしまうからです。しかし、現実にはそうはなりませんでした。だからこそ、光のスピードは絶対的なものであると言えるのです。
 では、光が変わらない時間で届くと言うことはどういうことでしょうか?それは、宇宙船にとっての時間が遅くなったということなのです。宇宙船の乗組員にとっては、確かに光はゆっくり進んでいるということになり、地球からは普通に届いたように見えるのです。さらに、もし、宇宙船が光速に達したとすると、時間の流れは止まったことになります。しかし、光速を越えることが出来ない限り、時間の壁を越えることもまた不可能なことになります。
 結論としては、映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」はありえないということになるのです。さて、理解していただけましたか?

<一般相対性理論とは?>
 実は、「特殊相対性理論」は条件を単純化したもので、「一般相対性理論」の方が、より現実に近い理論であり、より複雑な理論になります。
 さて、その一般相対性理論においては、新たに「重力」の影響を理論に加えることになります。ではいったい「重力」とは何なのでしょうか?これもまた物理学における大いなる謎のひとつです。アインシュタインは、この「重力」という存在を「空間の歪み」として表現しました。そして、この空間の歪みは光をも曲げてしまうことを証明してみせたのです。では、光が曲がるというのは、どういうことなのかというと。光の速度は一定なので、曲がった道を通ることで、光にとっては余計に時間がかかることになります。それは、逆に言うと時間の流れが遅くなると言うことと同じなのです。さらにう言うと、この理論は光をも逃がさない究極の重力の歪み「ブラック・ホール」の存在を予見していました。もちろん、このブラック・ホールの存在は後に確認されることになります。
 みなさん、ここまでのところご理解いただけたでしょうか?ちょっとお疲れかもしれませんので、このへんで休憩にして後編に移ることにしましょう。

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