- アルフレッド・ヒッチコック Alfred Hitchcock (前編) -

<不安の世紀>
 20世紀は、もしかすると「不安の世紀」と呼べるのかもしれません。二つの大きな戦争こそあったものの、ほとんどの時代は平和で、人々はいつ起きるとも知れない大災難におびえながら生きていたからです。それは、再び起きるかもしれない「世界大戦への不安」であり、同時に終末に向かいかねない「核戦争への不安」でもありましたが、それだけではありません。国によっては、「共産化への不安」や「宗教戦争、民族紛争への不安」「エネルギー不足、食料不足、人口爆発への不安」「エイズなど新たな病への不安」そして、世紀末に訪れた「テロリズムへの不安」へと、その不安が増え続けていったのが20世紀だったように思います。
 マスコミや政治家、企業は、そんな「不安」をあおることで利益を得てゆき、「不安に関するビジネス」は巨大な富を生むことになりました。例えば、それは「兵器産業」「警備保障会社」「占い師」「保険会社」「医薬品会社」「宗教法人」「証券会社」「ビジネス・コンサルタント」「エネルギー産業」・・・などなど。しかし、そんな「不安の時代」にあって、「不安」をエンターテイメントへと変えることで一時代を築き上げた人物がいました。サスペンス映画の巨匠、アルフレッド・ヒッチコックです。そして、不安を煽って利益を得た連中の中でも、彼だけは誰からも愛され続けたと言えるでしょう。

<映画界の革新者>
 アルフレッド・ヒッチコック、彼は「映像」によって人々に不安を植え付ける天才でした。彼の映画の中で、その「不安」はしだいに高められ、突然「恐怖の叫び」へと昇華させられます。彼の映画は、映像によって体験する乗車時間90分のジェット・コースターのようなものでした。人々は彼が作り出すこの「不安と恐怖の世界」を覗くのが大好きになり、「ヒッチコッキアン」と呼ばれるマニアまで現れました。そうしたファンの中からは、フランスのフランソワ・トリュフォー、それにスティーブン・スピルバーグなど偉大な監督が数多く現れています。
 もちろん、彼の映像文化への貢献は、「映像技術の革新者」としても、優れた作品を生む天才作家という点でも、群を抜くものがあります。にもかかわらず、彼はアメリカのアカデミー賞において監督賞を取ることができませんでした。(4度もノミネートされているのですが・・・)アメリカの映画界は、彼の作り出す映像のジェット・コースターを「娯楽であって、芸術ではない」と判断したのです。
 しかし、今や彼が作り出した作品のもつ美しさ、複雑さ、恐ろしさ、お洒落さ、ユーモア感覚、豪華さ、斬新さ、意外性は、20世紀が生んだ芸術、「映画」における教科書として、なくてはならない存在になっています。
 しかし、なぜ彼はそこまで「不安」にこだわったのでしょう。彼の作品に隠された心の不安とはいったい何なのでしょう?そして、いかにして彼はそれを映像化したでしょうか?その革新的なチャレンジの数々に迫ってみたいと思います。

<厳格すぎる父親>
 アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコックは、1899年8月13日、移民や貧しい人々であふれたロンドンの下町イースト・エンドに生まれました。彼の父親は青果店を経営しており、真面目で厳格なカトリックの信者でした。そのうえ、おじいさんは警察官ということで、彼は人並み以上に厳しくしつけられました。(イギリスおけるカトリック教徒は少数派であり、警察官の親族ということもあって、彼の家は地域ではちょっと浮いた存在だったようです)
 こんなエピソードがあります。
 彼が5才になったある日、彼は父親に手紙を届けてくれと頼まれました。届け先は父親の知り合いの警察署長でした。ところが、彼が手紙を届けに行くと、突然署長は彼を逮捕し、留置場に入れてしまったのです。彼はまったくわけがわかりませんでした。5分ぐらいして、彼はそこから出され「悪いことをすると、こうなることを憶えておきなさい」と言われたというのです。なんちゅう親じゃ!ヒッチコックの作品で、警察官が活躍する作品がほとんどないのは、この時から生まれた警察官への不信感のせいだとも言われていますが、その気持ちも当然でしょう。
 こんな話しもあります。
 彼は11才になるとカトリックの有名な組織イエズス会が運営する聖イグナチウス・カレッジに入学しました。この学校は規則が厳しいだけでなく、規則違反に対する厳しいむち打ちの刑でも有名でした。当時、彼は何度もこの罰の対象となったため、むち打ちが執行されるまでの待ち時間がもたらす、迫り来る恐怖感を身をもって体験することになりました。
 もうひとつあります。
 これはもしかすると体験したことのある方もいるでしょう。彼が4才か5才の頃、ある夜彼が目覚めると家には彼以外誰もいませんでした。真っ暗な中、彼はひとりぼっちでした。実は、両親は外出していただけだったのですが、そのことを知らなかった彼にとって、それはまさに恐怖のひとときだったようです。
 ヒッチコックのファンの方なら、以上三つの体験から、彼の映画を何本も思い浮かべることができるのではないでしょうか。
「無実の罪で終われる主人公」「迫り来る恐怖におびえる主人公」「暗闇で孤独な闘いを強いられる主人公」もちろん、警官や政府の人間は助けてなどくれません。ヒッチコック映画の基本はすでに少年ヒッチコックの心に植え付けられていたのです。(ただし、彼の体験は人格が破壊されるほどのもではなかったのが幸いしたとも言えます)

<旅オタク>
 経済的にも、時間的にも余裕がなかった彼の家では、旅行をする機会がほとんどありませんでした。そのため、彼は地図と鉄道の時刻表を愛読書として空想の旅にでかけるのが趣味でした。後に彼が有名になってからは、実際に車や鉄道を使って旅をするのが趣味となり、自ら観光地めぐりをしては、映画に使えそうな場所を見つけることになります。(「北北西に進路をとれ」で有名になったラシュモア山も、もとはと言えば彼が家族旅行で訪れた時に目を付けた場所でした)

<犯罪オタク>
 エドガー・アランポーやG・K・チェスタトンが大好きだったヒッチコックは、大人になるにつれて本物の「犯罪事件」に興味をもつようになります。いつしか、殺人事件の裁判を傍聴したり、ロンドン警視庁の犯罪博物館に通う「犯罪オタク」になっていました。もちろん、実際にそれを実行に移そうとは思わなかったのですが、この頃の勉強が後に大いに映画に役立つことになります。・・・人間、なにが役に立つかわからないものです。

<映画オタク、映画業界へ>
 彼が15才の時、父親が亡くなってしまったため、彼はすぐに働き始めます。電信ケーブルの会社に入った彼は、そこで技術者として働きますが、彼には秘かな夢が生まれつつありました。犯罪小説以上にアメリカ映画が大好きだった彼は、映画と本に埋もれた生活を送りながら、何か映画に関わる仕事につきたくなっていたのです。
 1920年、そんな彼に大きなチャンスがめぐってきます。あるアメリカの映画会社がロンドンに撮影所をつくることになり、スタッフの募集を行いました。ヒッチコックはすでに描き始めていた映画の絵コンテをもって採用試験に挑み、先ずは字幕のデザイナーとして採用されました。しかし、実際に会社がスタートするとスタッフが不足していたため、彼にはあらゆる仕事が回ってくるようになります。結局この撮影所は経営的に上手く行かず、イギリス人の映画プロデューサー、マイケル・バルコンが買収。イギリス映画の撮影所として使われることになり、ヒッチコックはそのまま雇われることになりました。そして、この時彼は人生における最も重要な出会いをします。それは彼にとって最高の相談相手であり、最高の妻ともなる女性アルマ・レヴィンとの出会いでした。

<最高の妻、最高の助言者との出会い>
 彼女は記録、編集担当として、彼よりも長い映画界でのキャリアをもっていただけでなく、映画について彼に匹敵する鋭い目をもっていました。その確かさは、後に彼が映画製作の現場で迷ったとき、常に彼女を頼りにしていたことからも明らかです。
 監督として一流になってからも、彼は出来上がってきた脚本を読んで気に入ると、その作者に「家内が誉めていたよ」と言っていたそうです。そしてそれは、彼の最高の賛辞でもあったそうです。
 一歩間違うと単なる犯罪オタク、映画オタクで終わってしまったかもしれないヒッチコックをサスペンス映画の巨匠にまで押し上げたアルマの功績は計り知れないものがありそうです。それより何より、当時すでに完全な肥満体型だったヒッチコックと小さくて美しいアルマの組み合わせは、「美女と野獣」ならぬ「キャメロン・ディアスとシュレック」のようなものでした。それだけでも、彼女がヒッチコックの才能に惚れ込んでいたのかがわかるとういうものです。

<映画監督へ>
 1925年、婚約中の彼に初監督のチャンスがめぐってきました。こうして、彼はドイツで「快楽の園 The Plesure Garden」「山鷲 The Mountain Eagle」を撮ることになります。しかし、二本ともごく普通のメロドラマだったこともあり彼の才能は発揮できず、経営側は公開に値せずと判断。お蔵入りになってしまいました。そのこともあり、1926年5月に撮影が始まった「下宿人 The Loger」は、下手をすると彼にとって映画監督として最後の作品になる可能性もありました。幸い、この作品は題材が彼お得意の犯罪もの、それも「切り裂きジャック」だったこともあり、それまでの作品とはまったく違う出来映えになりました。そして、公開後は見事に大ヒットを記録、彼はその後も作品を作り続けることが出来るようになりました。
 この「下宿人」では、早くも彼ならではの斬新な手法が用いられています。2階の部屋を歩く怪しい「下宿人」の足音に怯える1階の住人たち。彼らが天井を見上げるとそこには「下宿人」の歩く姿が透けて見えるという、特殊撮影のシーンがあります。
 なんとこの場面、2階の「下宿人」にガラスの板の上を歩かせて撮ったものだそうです。さすがは、ヒッチコックです。

<ヒッチコック式カメオ出演の始まり>
 それと、この作品中彼は新聞社のシーンに後ろ姿で自ら出演しています。実は、この時は単にエキストラの不足を補うための出演だったのですが、その後も時折場面に登場することになり、しだいにそれが映画の重要な一要素となって行きました。
(1942年の「逃走迷路」以降は、全作品に登場していますが、シルエットだけでもわかる彼の容姿、体型だからこそのご愛敬と言えるでしょう)
 その後、彼は映画会社を移籍して次々に作品を世に出しますが、原作を自分で選べなかったこともあり、ことごとく失敗してしまいます。それでも、トーキー映画としての第一作目となった1929年の「恐喝 Blackmail」は、題材がお得意のサスペンスだったこともあり久々のヒットとなります。1934年の「暗殺者の家」は、それを上回るヒットとなり、「三十九夜 The Thirty-Nine Steps」、「間諜最後の日 The Secret Agent」「サボタージュ Sabotage」「第三逃亡者 Young and Innocent」そして、イギリス時代の集大成となった「バルカン超特急 The Lady Vanishes」(1938年)を発表。いよいよハリウッド進出の機が熟しました。
 1938年7月、彼はアメリカの大物プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックと契約を交わし、翌年ついに家族とともにハリウッドへと旅立ったのでした。

<ハリウッド・デビューに向けて>
 当時セルズニックは、自らのプロデュースした超大作「風と共に去りぬ」の仕上げにかかっていたため、なかなかヒッチコックの企画にとりかかれずにいました。そんな中、まず最初に浮上した企画は、なんとタイタニック号を題材とした作品でした。残念ながら、この企画は資金の問題と船舶会社からの圧力などによりボツになってしまいましたが、もし実現していたら?ゆっくりと沈没する船に取り残された人々の恐怖を描くことで、あのジェームス・キャメロンの「タイタニック」とはまったく異なる恐怖に満ちたリアルなタイタニック号体験ができたかもしれません。
 結局、彼のハリウッド・デビュー作は、もうひとつの企画「レベッカ Rebecca」に決まりました。

<セルズニックとの闘い>
 ハリウッドのプロデューサーの中でも、最も現場に対する注文、こだわりが多いと言われたセルズニック。そして、彼同様完璧主義者で細部にこだわるヒッチコックの現場でのぶつかり合いは、大変なものだったようです。幸い、ヒッチコックは、風貌どおり温厚な人物であったため、けっして切れてしまうことはありませんでした。おかげで撮影はなんとか進んで行きました。
 彼の作品すべてに言えることですが、彼は映画全編にわたる完璧な絵コンテに基づいて撮影を行うため、撮影中余計なシーンはほとんど撮りません。従って、編集作業は出来上がったフィルムをつなぐだけでほぼ終わっていたといいます。しかし、そのために、自分の意見を反映させたいセルズニックは、フィルムをいじることが出来ず激怒したそうです。それでも、作品をいじりたくて仕方のないセルズニックは、音楽やセリフを勝手に変えてしまいました。これには、大人しいヒッチコックも大いに怒りました。しかし、そんなぶつかり合いがかえって良い緊張感を生んだのか、この作品は見事な出来映えとなり、見事1940年のアカデミー最優秀作品集を獲得します。
 しかし、監督賞を逃したヒッチコックは、作品賞のトロフィーを手にする製作者のセルズニックの姿を見て、自分の賞を獲られたような気になったと言います。この時から彼は、今後自分の作品は自分でプロデュースしようと決意したのでした。

<隠れた名作「海外特派員」>
 ハリウッドでの第二作「海外特派員 Foreign Correspondent」は、あまり有名な作品ではありませんが、僕にとっては非常に思い出深い作品です。この映画をリバイバル上映で観てから、僕はヒッチコックに完全にはまり、「彼については古い作品も見る価値あり」ということを実感したからです。
 この映画は、第二次世界大戦間際のヨーロッパを舞台にしたスパイ映画でしたが、撮影中すでにナチス・ドイツはフランスにまで進撃してきていました。撮影終了後、彼はロンドンに住む母親をアメリカに移住させようとしますが、母親は祖国を離れることを拒否しました。母親の説得をあきらめた彼は、ナチスによる空爆が目前に迫っていることを知り、急遽追加のシーンを撮影します。それは、ナチス・ドイツによる空爆にさらされたロンドンの放送局から、主人公がアメリカに向けて危機を知らせるメッセージを送るというシーンでした。
 彼の映画において、ナチス・ドイツやテロ活動、スパイ活動などの存在はあくまで恐怖の象徴にすぎないのですが、このシーンだけは、彼の母と祖国イギリスに対する思いがこめられているのかも知れません。常にクールに作品をとり続けた彼にとって、この作品は唯一ホットな作品だったように思います。僕が、この作品を見たときに胸が熱くなったのは、そのせいだったのだと思います。

<充実した時代と精神的な不満>
 この作品の以後、しばらくは彼にとって順調な時代が続きます。そして作品的にも、彼の代表作と呼べるものが次々に生まれました。
 「断崖 Suspicion」、「逃走迷路 Saboteur」、「疑惑の影 Shadow of a Doubt」、「救命艇 Lifeboat」、それにシュールレアリズムの巨匠サルバドール・ダリを美術協力者に迎えて作られた異色作「白い恐怖」など、実にバラエティーに富んだ作品群が生まれています。しかし、当時の彼は「第二次大戦において母親とともに国を捨てて逃げた男」という非難を浴びていたこともあり、あまり幸福ではなかったとも言われています。そんな状況を打破するためか、彼はこの後自ら会社を立ち上げ、いよいよ誰にも文句を言わせずに映画を作れる環境を整えようとします。しかし、その試みも、そう簡単に軌道に乗ったわけではありませんでした。この続きは後編で。

ヒッチコック(後編)へ   20世紀異人伝へ   トップページヘ