港町リスボンが生んだファドの女王


- アマリア・ロドリゲス Amalia Rodrigues -

<ファドの女王>
 「ファドの女王」とも呼ばれるだけに、アマリア・ロドリゲスとポルトガルの音楽「ファド」は切っても切れない関係にあります。従って、アマリア・ロドリゲスを語ることは「ファド」について語ることと同義ともいえます。そこで、先ずは彼女について書く前に「ファド」というポルトガルのポップスについて調べてみました。
 「ファド」はポルトガルを代表する音楽として知られていますが、これといった音楽的な定義があるわけではないようです。その点では、フランにおける「シャンソン」に近いのかもしれません。ただし、キーワードともいえるいくつかの重要な言葉はあります。それをアマリア・ロドリゲスのベスト・アルバムに収められた曲のタイトルからひろってみました。
「暗いはしけ」、「暗き宿命」、「真夜中のギター」のような「夜」のイメージ。
「難船」、「かもめ」、「暗いはしけ」のような「海」のイメージ。
「孤独」、「失った心」、「暗き宿命」のような「悲劇」のイメージ。
「夜」、「海」、「悲劇」の3つのキーワードこそ「ファド」の本質を表しているように思います。
 ただし、リスボンを中心とする「ファド」のスタイルとは別に、ポルトガルの北の都コインブラでは、学生を中心に黒いマントを羽織ってギターを弾きながら歌うラブソングもまた「ファド」の一ジャンルとして存在しています。大学の街であるコインブラだからこそ生まれた男たちによる明るい恋の歌は、「ファド・デ・コインブラ」として知られています。やはり例外はあるのでしょう。アマリア・ロドリゲスもこのスタイルの明るいファド「ポルトガルの四月(コインブラ)」という曲を歌っていて、決してファドは暗い失恋の歌ばかりではないようです。
 ちなみに、日本では一時期ちあきなおみが「ファド」を積極的に歌っていました。彼女のその後の人生を思えば、「ファド」というジャンルに挑んだのは必然的なことだったようにも思えます。

私は自分の愛を知っている、あんたが
離れていってしまったんじゃないって事を
で、周りのものは皆、あんたはいつも
私と一緒にいるといってくれる
ガラス玉を浜辺に叩きつける様な風の中
消え入る様な灯りの中で歌う水の上に
木の葉の様に揺れる舟、月明かりの暖かさの中に
私の胸の中にあんたはいつも私と一緒にいる


「暗いはしけ Barco Negro」より

<ファドの楽器編成>
 リズムや曲調、歌詞などに決まりごとがない「ファド」ですが、一応楽器には基本的な編成があるようです。
 最も重要なのがギターラと呼ばれる楽器です。それは名前と違い、ギターではなくボディがずっと大きなマンドリンの親分のような弦楽器です。6組の金属製復弦を持ち、ビンビンとよく響く音を出す楽器で、ルネッサンス時代にヨーロッパで広まったシターンという楽器が元祖と言われています。
 主役的な楽器であるギターラに加え、普通のギターも使われますが、それはギターとは呼ばれず、ヴィオーラと呼びます。さらにそこに低音用のギターとして、ヴィオーラ・バイショが加わることもあるようです。
 この編成にヴォーカルが加わる音楽として思い浮かぶのは、ブラジルのサンバやボサ・ノヴァ、それにインドネシアのクロンチョンですがその両方とも、ポルトガルの植民地だった土地です。これは偶然ではないでしょう。こうした類似性からも、19世紀半ばにはリスボンの酒場などで歌われていたという「ファド」のスタイルは、ポルトガルで生まれた音楽というよりも、ポルトガルとかつて植民地だった国々との交流の中で生み出された混血音楽だったと考えるのが順当な気がします。
 さらに、そこにヨーロッパからアメリカへと交流があったとされるケルト民族の音楽、さらにはアジアへの中継地でもあったアフリカのリズムも加わったのではないかという説もあるようです。
(「ミュージックガイドブック」中村とうよう氏の説)

<アマリア・ロドリゲス>
 アマリア・ロドリゲス Amalia Rodrigues は、1920年7月23日ポルトガルの首都リスボンのペーニャ区で生まれました。父親が港で働く肉体労働者だったため、生活は貧しく、彼女は10代の頃から港でオレンジを売り歩きお金を稼いでいました。その時、すでに彼女は歌を武器に人々の心をつかんでいたようです。
 ある日、彼女はお祭りの歌唱コンテストに出場したところを、スカウトされ歌手としてデビューするチャンスを得ます。こうして20歳でデビューした彼女の歌声はその時すでにファドにぴったりのしゃがれた声だったようです。この時点で、すでに彼女は「ファドの女王」になるべき貫禄を兼ね備えていたようです。すぐに歌手として人気を獲得した彼女は、ポルトガルを飛び出し、スペイン、イギリス、同じポルトガル語圏のブラジルなどで海外公演を行い国際的スターとなります。
 デビュー時にすでに完成された存在として、あっという間に大スターになった歌手としては、美空ひばりアレサ・フランクリンスティービー・ワンダーなど世界各地の大スターたちと共通するところです。デビューするための苦労を知らないからこそ「ファドの女王」の威厳を持つことができたのかもしれません。
 1949年、彼女はフランスに招かれショービジネスの聖地シャンゼリゼ劇場でリサイタルを行った後、1954年にはフランス映画「過去を持つ愛情」(監督はアンリ・ヴェルヌイユで主演はフランソワーズ・アルヌール)に出演し、その中で歌った「暗いはしけ」や「孤独」が大ヒットします。彼女の人気はフランスでも高まり、1956年にはフランス最高の劇場パリのオランピア劇場でのリサイタルも開催されます。この時点で、彼女は「ファドの女王」として世界的なスターの仲間入りを果たしたのです。

わたしの五官の中にはファドがある
心には悲しみ
わたしの中にはなくした夢がある
大交響曲のあらゆる響きで演奏される交響曲
悲しみと苦しみの
わたしには漬け込んだにがさがある
精神のきらめきが向こう見ずなおろかさが
わたしの眼は乾いている
子供のときから泣いてきたから


「私の中のファド Trago Fados Nos Sentidos」より (作詞)アマリア・ロドリゲス

<ポルトガルという国>
 北大西洋に面した港町リスボンは、かつてヨーロッパから世界へと開かれた窓として繁栄した時期がありました。しかし、そんな栄光の時代も、遥かな昔の事。ポルトガルはその時代に獲得した植民地も富も失い、今やヨーロッパの中でも貧しい国のひとつになりました。
 そんな栄光からの没落が「ファド」のイメージに映し出されているのかもしれません。ただし、そう単純にイメージに押しこめるのは安直すぎる気もします。ポルトガルを旅した知人たちはみな、ポルトガルという国を絶賛します。古き良きヨーロッパ文化や街並みが残り、懐かしく美味しいリーズナブルな料理が食べられるポルトガルという国は、歴史的にもつながりが深い日本人にとっては、特にお気に入りの国になるのでしょう。(僕は昔スペインには行ったのですが、ポルトガルには行きませんでした)

ポルトガルの家にはテーブルの上にパンと葡萄酒がよく似合う
誰かが慎ましやかにドアを叩けば
愛そうよくテーブルに迎えられる
この鷹揚さは決して裏切る事のない、また
貧しさの中に快活さのある国民にぴったりしている
そこには人々に満足を与える偉大な富がある
白塗りの壁


「ポルトガルの家 Uma Casa Portuguesa」より

 彼女は1999年10月6日79歳にこの世を去りました。
 もしかすると「ファドの女王」アマリア・ロドリゲスにとって唯一の心残りは、彼女があまりに偉大過ぎたために後継者が現れなかったことかもしれません。

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