世界で唯一の移民国家アメリカの歴史


「移民国家アメリカの歴史」

- 貴堂嘉之 Yoshiyuki Kido -
<アメリカ合衆国とは?>
 アメリカ合衆国という国の本質はどこにあるのでしょうか?
 あらゆる民族、あらゆる宗教に属する人々の移住を認めることで成立した世界史上、唯一の国、それがアメリカ合衆国です。そのことが、アメリカという国を他の国とは異なる存在にしているのだと思います。このことは、アメリカの憲法にも記されています。

 アメリカは「民族国家」としてではなく、移動・移住が作り出した世界史上にも特殊な「移民国家」として成立したのである。そこでは特定の民族や人種といった属性は不問とされ、国民が共有可能な、独立宣言や憲法に謳われた共和主義や自由といった啓蒙主義的「理念」が統合の核となった。
 国民の成員となるためには、その「理念国家」の領域内で生まれたことが重視され、「出生地主義」が原則となった。南北戦争後に制定された憲法修正第14条で明確に規定されたように、「合衆国で生まれ、あるいは帰化した者、およびその司法権に属する者すべては、アメリカ合衆国の市民であり、その居住する州の市民」なのである。


 ある意味、それは人類の歴史が生み出した理想的な国の形なのかもしれません。しかし、その国の誕生の裏には、「原罪」とも言える様々な歴史があります。そして現在のアメリカが移民に対し優しい国ではなく、それどころか移民の受け入れを拒否する国になりつつあることも事実です。
 先ず第一に、アメリカはアメリカ先住民からその土地を奪った「侵略国家」としてその歴史をスタートさせています。そして、その広大な土地を利用するために、アフリカから誘拐してきた黒人たちを利用する「奴隷国家」として、その財を成した国でもあります。
 歴史の教科書によれば、メイフラワー号に乗船した清教徒たちがヨーロッパから宗教難民として旅立ち、新大陸にたどり着き開拓を始めたのが、アメリカ誕生の瞬間とされています。しかし、実際はそれより以前、すでに別のグループが新大陸に到達していました。それも黒人奴隷たちを乗せてすでに開拓を始めていたことがわかっています。

 1620年冬のニューイングランド、プリマスに上陸したメイフラワー号の清教徒が最初の植民者であるというのが神話化された事実とされている。
 実はこの時の資料があまりに少なかったため、後の人々が神話化しやすかった。メイフラワー号の乗員は102名だが、そのうちピューリタン(プロテスタント)は41名だけでした。彼らが冬を越すのにアメリカ先住民から食料を分けてもらった。それが感謝祭の起源になったという説もあやしい。
 黒人奴隷の不自由の物語が混入せず、先住民との友好親善が加わったプリマスの、1620~21年のわずか2年の短い起源神話は、イギリス出身者を中心とするヨーロッパ系移民向けの物語としては、最も効能のあるあらすじだったのだろう。


 アメリカ最初の入植地は、1607年ロンドンの商人たちが設立したヴァージニア会社が、建てたジェームズタウンだと言われています。この時、すでに黒人の年季契約奉公人が強制労働させられていたようです。(当時はまだ奴隷制自体が誕生していなかった)
 商人が開拓のために、黒人奴隷を持ち込んで作り上げた街では、アメリカ合衆国誕生の聖地には相応しくないと考えられたのでしょうか?そうした欺瞞とも思える誕生神話もまたアメリカの国の体質を表していると言えます。
 しかし、こうして始まったアメリカの建国に向けた作業のためには、イギリス人だけの労働力だけでは不足だったことは確かです。そのため、イギリス人は現地の先住民を使って開拓を進めようと考えますが、彼らは白人たちに従順ではなく反抗的であり、ヨーロッパから持ち込まれた新手の病原菌にも弱く、労働力として役に立ちませんでした。アメリカの建国時、先住民を除くとイギリス人の比率は6割程度で、総人口の2割は黒人奴隷でした。(今日では、英国系人口比率は1割強にまで減っています)

 こうしてスタートしたアメリカは、その後も歴史の流れとともに世界各地の移民や難民たちを受け入れながら発展を遂げて行くことになります。そして、そんな流入する移民たちの内訳や数の変化からは、アメリカだけでなく世界全体の歴史の変遷が見えてくるのです。

 アメリカの移民の歴史を世界史として描くということは、近代のグローバルな人流を構造的に把握したうえで、移民の歴史を叙述するということである。「移民」の人流を特権化せずに、奴隷貿易から苦力貿易、自発的な移民渡航まで、あらゆる人流を統合して検証することが第一義的に重要なステップであり、本書では、この枠組みを「人の移動のグローバル・ヒストリー」モデルと呼ぶことにする。

 今回参考にした本「移民国家アメリカの歴史」(貴堂嘉之)によると、黒人に対する差別問題やトランプ大統領がつくろうとしているメキシコとの間の壁の問題とは別に中国や日本などアジアからの移民の急増についても詳細に書かれています。この部分は、今までなかなか書かれてこなかった部分で大いに勉強になりました。
 今後の予測によると、2055年アメリカの人種別の人口比率の予測では、白人46%、ヒスパニック24%に次ぐのは黒人13%を抜いてアジア系14%になると言われています。このことは、奴隷解放によって黒人のアフリカからの流入が止まったことに対し、アジアからの契約労働者が増え続けていることから考えると当然の結果です。

・・・つまり近代世界とは、決して「自由」一色で塗り固められていたわけではなく、「不自由」が共存する時代であった。世界規模で奴隷貿易が廃止され、奴隷解放が達成されるなか、世界の労働形態が「不自由労働」から「自由労働」へと不均衡に移行していく時代が近代なのである。アメリカに即して言えば、奴隷制という不自由を抱えて船出した「奴隷国家」アメリカはいかにして、自由労働者からなる「移民国家」へと移行したのか。こうした観点から歴史をとらえ直すことで、従来の移民史を乗り越えることができるのではないか。
 これまで、移民史と黒人史/黒人奴隷史は奇妙なほどに交差せず、別個の領域として研究が進められてきた。しかし、アジア系移民の問題は、実は奴隷解放問題と不可欠に結びついて社会問題だった。
・・・・

 ここからは、アメリカにおける移民の歴史を10年ごとに分けて、その主な出来事と共に振り返って行きます。なぜ10年刻みかというと、アメリカでは10年ごとに国勢調査が行われており、そのたびごとに人種の分類が変わっています。(1790年から1850年は変わりがありません)
 そこで、それぞれの期間の人種分類と共に10年間の出来事を追ってみます。それにより、アメリカにおける人種問題がどう扱われてきたのかも、より深く理解できると思います。

1790年~
 (1)自由白人男性/女性(2)その他のすべての自由な人々(3)奴隷 
1850年~
 (1)白人(2)黒人(3)ムラトー(白人、黒人の混血)  
<1790年>帰化法制定
 この年制定の帰化法で、市民権申請ができるのは、「自由白人」のみと規定されるとなります。
この規定により、アメリカ社会は実質上WASP(White Anglo Saxon Protestant)文化を規範とすることになりました。
<中国系の流入>
 太平洋を渡った中国人流入には大きく二つの波がある。最初の波は、1848年~54年頃のゴールドラッシュを契機とするものである。 
 1860年代後半からの二つ目の波は、1869年に完成するセントラル・パシフィック鉄道の建設が影響している。鉄道王リーランド・スタンフォードらは、山岳地帯の危険を伴う建設現場に積極的に中国人労働者を導入し、1869年には1万人の建設労働者のうち9000人までが中国人であったといわれる。
サンフランシスコ
 このベイエリアのもうひとつの特徴は、圧倒的な男性単身社会として形成された点にある。1852年時に総人口の約45%を占めた男性労働者で溢れかえる都市空間のなかで、家族的なものとは無縁に、白人労働者は男性支配的でホモソーシャルな階級文化を作っていった。男性社会の欲望は、すぐにバーバリーコーストのような歓楽街を出現させ、ギャンブル、酒場、売春宿、サーカス、ミンストレルショーなど、快楽を追い求める男性たちのための娯楽を作り出した。・・・

 カリフォルニアでは、黒人不在のため、白人(自由労働)とモンゴロイド人種(中国人=不自由労働)という構図のもとで白人性が築かれ始めており、その証拠に当時描かれた風刺画でも、中国人はニグロ化したものが多数ある。
1860年~
 (1)白人(2)黒人(3)ムラトー(4)中国系(5)インディアン 
<1865年>憲法修正第13条により「奴隷制廃止」
<1882年>一般移民法が制定され、「白痴、精神異常者、犯罪者、および公共の負担となる恐れのある者」の入国禁止を定めました。
 これによって、連邦政府は移民申請者を「不適者」として選別することにより、移民を選び捨てることが可能になったと言えます。ここからアメリカは「移民」に対しての対応を大きく変えることになって行きます。
<1868年>「バーリンゲイム条約」締結
 これ以降、中国からの苦力輸出は禁止となり、「自由意志」にもとづく移民だけとなりました。(ただし、書面上だけでも「自由意志による」とすれば認められたようですが・・)
<1882年>「排華法」が改正される
<1892年>ギアリー法の施行により、中国からの移民に対する入国管理がより厳しくなります。すべての中国人に在留資格を得るための居住証明の登録が義務づけられます。
 アメリカ史上初めて、「不法滞在」が連邦法における犯罪行為とされることになり、中国人は常にその容疑者として扱われることになります。
<1875年>ページ法が施行され、「猥褻で不道徳な目的」での女性の入国が禁止され、これが中国からの移民にストップをかけます。
<1879年>移民に対する量的規制
<1882年>労働者の全面的な入国禁止と同時にアジア系移民に対し「帰化不能外国人」というレッテルが貼られることになりました。
<自由の女神>
 1886年アメリカ独立100周年を祝ってフランスから送られ、ニューヨークのリバティ島に建てられました。建設提案者は、フランスの法学者エドゥアール・ドゥ・ラブレ。設計は彫刻家のフレデリック・バルトルディ。構造の設計については鉄骨構造技師ギュスターヴ・エッフェル。像の正式名称は、「世界を照らす自由 Liberty Enlightening the World」といい、右手に自由のたいまつ、左手に1776年7月4日と刻印された独立宣言書を抱えています。
 像がフランスから出発した時、まだ台座が未完でその基金活動のために作られたのがママ・ラザルスの14行詩でした。しかし、この詩が台座に取り付けられたのは1903年のことです。実は、当初「自由の女神」は移民たちのためのシンボルではなかったようです。

「新しい巨像」 エマ・ラザルス作
国からの国へ征服の翼を広げたとされる、ギリシャの有名な青銅の巨像とは異なり、ここ、海に洗われ、日の沈む、この国の門にたいまつを掲げた大いなる女人が立つ。
そのたいまつの炎は幽閉された稲妻、そしてその女人の名は「亡命者の母」。
彼女の指し示す手からは世界への歓迎の光が輝きでて、彼女の優しい眼は、双子の都市をつなぐ架け橋の港を望む。
「旧い国々よ、歴史で飾られた貴国の威厳を保ち続けなさい」と彼女は叫ぶ、物言わぬ唇で。
「私に与えなさい、貴国の疲れた人々、貧しい人々の群れを、自由に生きたいと請い願う人々の群れを人間が溢れんばかりの貴国では屑ともみなされる、惨めな人々を。

 1892年、エリス島に連邦移民入国審査施設が誕生。この島に着いた移民たちが「自由の女神」に感動。それが世に広まり、移民のシンボルとしての女神像が人気になって行きました。
 1924年に移民法が制定され、同時に「自由の女神」が国定史跡に認定されます。これでいよいよ「自由の女神」の存在は、移民たちにとって決定的なものとなりました。
映画「ゴッドファーザー Part 2」や映画「アメリカ、アメリカ」では、そんな感動のシーンが描かれています。
<1890年>フロンティアの消滅
「フロンティアはアメリカ人にとって、複合的な国民性の形成を促した。・・・フロンティアの坩堝のなかで、移民はアメリカ化され、解放され、国民性も特性もイギリス人とは異なった人種へと融合されていった」
フレデリック・ジャクソン・ターナー(歴史家)
<1908年>「人種の坩堝」
 ユダヤ系の作家イズラエル・ザングヴィルの戯曲「るつぼ Melting Pot」初演(ロシアで迫害されアメリカに渡ったユダヤ人家族の物語)
「ヨーロッパのあらゆる人種は融け合い、再形成される偉大な坩堝。・・・ドイツ人もフランス人もアイルランド人もイギリス人も、ユダヤ人もロシア人も、すべて坩堝のなかに溶け込んでしまう。神がアメリカを造っているのだ」
1910年~
 (1)白人(2)黒人(3)ムラトー(4)中国系(5)日系(6)インディアン(7)その他 
<エンジェル島>
 サンフランシスコ沖のエンジェル島に連邦移民入国審査施設が設置され、この後、約550万人の移民がここを通って入国することになります。(1940年まで)
 ここから入国した移民の内訳は、中国系17万8000人、日系8万5000人、南アジア(インド系)8000人となっています。
 ニューヨークのエリス島がヨーロッパからの移民の入国審査を行うための通過点的存在だったのに対し、エンジェル島は、アジア系移民の流入を制限・拘留し、実質的には帰化を阻止することが目的でした。中国人の多くが、この島で数週間から数か月に渡り、偽装移民かどうかを疑われ尋問を受けることになりました。
<エリス島>
 エリス島での審査は、上流階級が乗る1等、2等の乗客に関しては簡単な検査のみで終わり、3等の乗客だけが審査対象となりました。
 3等船客は小舟に乗せられて、エリス島に向かい、そこで(1)医師による医療検査(2)法律検査・尋問の後、移民登録(3)上陸許可
 こうした業務を700名の連邦職員が行っていました。
<日系移民>
 中国人労働者の差別境遇に関しては、清朝が海外同胞の問題に不介入の姿勢をとり続けたため国際問題化することはなかったが、日本の場合には、初期段階から在外邦人の差別問題が国辱的な外交問題として認識された。海を渡った当事者の意思はともかく、日本人渡航者たちは中国人苦力とは差別化され、文明国の一員にふさわしい、自由意志にもとづく移民として官による管理を受ける対象となっていく。
<第一次世界大戦の影響>
 第一次世界大戦における移民兵の数は終戦までに41万4389人に達し、その約8割が東欧、南欧出身者でした。
 彼らにとって軍隊とは、近代的規律や公衆衛生、アメリカの共通文化を学ぶ場であった。訓練基地には、移民兵向けの英語教育プログラムがあり、戦時アメリカ化は広範囲な統合効果を持った。移民兵を多く受け入れた師団が、しばしば「メルティング・ポット師団」などの愛称で呼ばれたように、軍隊は間違いなく坩堝としての効果を持った。 
1920年~ 
 (1)白人(2)黒人(3)ムラトー(4)中国系(5)フィリピン系(6)ヒンズー(7)日系(8)コリアン(9)インディアン(10)その他 
<1922年>日系人の帰化問題
 第一次世界大戦には数多くの日系移民がアメリカ兵として出兵しましたが、帰国後も帰化申請が認められない状態が続きました。そこでこの年、ハワイ在住の日系一世の小沢孝雄が、帰化申請が認められないことは違法であると連邦最高裁判所に上訴します。しかし、1870年に改正された帰化法により「白人、あるいは、アフリカ出身者及びその子孫」だけであるとされているとして、政府が勝訴しました。
 さらに1924年の移民法の制定により、アジア系の帰化はさらに困難となります。しかし、日本国内ではこの法律は「排日移民法」であると批判されることになり、日米関係悪化のきっかけとなります。
<中国との違い>
 中国人労働者の差別境遇に関しては、清朝が海外同胞の問題に不介入の姿勢をとり続けたため国際問題化することはなかったが、日本の場合には、初期段階から在外邦人の差別問題が国辱的な外交問題として認識された。海を渡った当事者の意思はともかく、日本人渡航者たちは中国人苦力とは差別化され、文明国の一員にふさわしい、自由意志にもとづく移民として官による管理を受ける対象となって行きます。
<1924年>移民法制定(ジョンソン=リード法)
(1)1890年以降に急増した東欧・南欧からの移民を制限する。1890年時点で在住していた各国出身者の2%以下とする。
(2)アジア系移民の全面禁止
(3)西半球諸国に関しては量的割当を免除
 こうしたアメリカの政策に対して賛同の意思を示した人物がいます。

 これを見れば、現在広範囲にわたり、部分的には信じられないくらい勇敢な工夫がなされている国はアメリカ合衆国である。これは偶然ではない。戦争と移住によってとめどなく計り知れないその最良の血を失ってしまった古いヨーロッパにアメリカが、今や人種的に選ばれた若い民族として対立しているのである。・・・
 危険が特に大きくなったのは、われわれがまったく関心を払っていない間に、アメリカ合衆国自身が、自国の民族研究者の所論に刺激されて、移住に特別な基準を設定して以来である。
・・・
「続・わが闘争 - 生存圏と領土問題」アドルフ・ヒトラー 
 第一次世界大戦以後、世界各地にパスポートのシステムが広がり、それにより国境を越える移動は国家の管理下におかれる時代となりました。
<パスポートの誕生(移動の独占)>
 かつてマックス・ウェーバーは、国家が個人から「暴力手段」を収奪することに成功し、国家だけが暴力を「合法的に」用いることができるようになったことを、近代の特徴として挙げた。つまり国家による暴力の独占である。これと同じようにジョン・トーピー(社会学者)は、個人や私的な団体から合法的な「移動手段」を収奪することによって、近代国家とそれらからなる国家システムが誕生したと考える。
1930年~  
 (1)白人(2)ニグロ(3)メキシコ系(4)中国系(5)フィリピン系(6)ヒンズー(7)日系(8)コリアン(9)インディアン(10)その他 
<第二次世界大戦>日系人兵士の活躍
 442部隊が1945年、第二次世界大戦での戦いを終えた時、戦死者は600名を超え、死傷者数はのべ9486名となり、死傷率314%という犠牲を払っていた。442部隊は、米軍史上、最も多くの勲章を得た部隊となった。・・・
<兵士たちの帰化問題>
「戦争をしているときのみマイノリティはアメリカ人になる」 
 第二次世界大戦は、国内人種問題が国際的にも注目を集めたことで、人種差別主義への取り組みに大きな覚醒を促す結果となった。国内のマイノリティを総動員した総力戦となった戦争で、マイノリティの国民化が一気に進んだのである。
 南部から北部・中西部・西部への黒人の大移動(1910年~1970年に約600万人が移住)は、戦中の大規模な軍需産業への動員により加速し、1942年~1945年に50万人の黒人が南部を去った。軍需産業では、1941年の大統領令により人種差別を禁止していたため、黒人やフィリピン人らが異人種同士の工場労働を経験した。
(軍隊内の同様に変化し、この後の朝鮮戦争では人種隔離の壁はほぼ完ぺきになくなっていたようです)
<1948年>避難民法 Displaced Persons Act
 それまで「移民」と「難民」を区別していなかったアメリカでしたが、東西冷戦期に共産圏から多くの難民がアメリカに流入したことから、その区別を行う必要に迫られます。そこで「避難民法」が制定されました。

ペレス判決
 米軍は、敵国軍人や被占領地の住民と親しくなることを戒めるとともに、士官・下士官とのあいだでの恋愛を禁止するなど、軍人として相応しくない関係を規制する方針を打ち出していたが、戦地では結婚を希望する兵士の数が増えて、最終的には100万人近くの女性が米兵・軍属と結婚し、そのうち75%が「戦争花嫁」としてアメリカに入国したとされる。地域別にはイギリスで10万人以上、オーストラリア・ニュージーランドで1万6000人、ヨーロッパ人女性が15~20万人、アジア人女性が5~10万人結婚したとされる。(1944年~1950年)そのうち日本人花嫁の移住は3~5万人。
 こうした戦争花嫁の米国流入による後押しもあり、国内の異人種間結婚禁止法の法体系においても、第二次世界大戦の教訓が従来の体制を突き崩す判決をもたらした。メキシコ系女性と黒人女性の異人種カップルをめぐるカリフォルニア州最高裁ペレス判決において、首席判事らは、結婚は「個人の権利であり、人種集団の権利ではない」とし、人種のみを理由に個人の行動を制限することは合衆国憲法修正第14条の平等保護条項違反である、と裁可した。
(この後、1965年までにすべての州で禁止条項は廃止されることになります)
<1952年>移民国籍法(マッカラン=ウォルター法)
 アジア系移民を排除してきた「帰化不能外国人」の指定が廃止され、移民一世の帰化が認められた。日本以外の他のアジア諸国にも一定割合の枠が与えられた。
 ただし、もう一方でこの法律は、米国在住14歳以上の外国人に登録を義務づけ、18歳以上は登録証の携帯が必要になりました。
 これにより1954年にメキシコからの「不法移民掃討作戦」が実行され、100万人を越えるメキシコ人が強制送還されることになりました。 
<1956年>ハンガリー動乱
 1956年にソ連軍がハンガリーに侵攻する「ハンガリー動乱」が起きると、多くのハンガリー人が祖国を捨て、アメリカに向かうことになりました。そのため、司法長官が「臨時入国許可」を用いてビザのない難民の入国を許可しました。
 1960年代のキューバ難民、1970年代のインドシナ難民に対しても同様の対応がとられました。
1960年~ 
 (1)白人(2)ニグロ(3)中国系(4)フィリピン系(5)日系(6)アリュート(7)アメリカ・インディアン(8)エスキモー(9)ハワイ(10)パート・ハワイアン(11)その他 
<1963年>「人種のるつぼを越えて」ネイサン・ブレイザー、ダニエル・モイニハン
 ユダヤ人哲学者ホレス・カーンは、1915年に「民主主義対坩堝 - 米国国民性の研究」を発表。その中で、彼は移民にアメリカ化を求める国の姿勢を批判。移民集団としてのアメリカをオーケストラに喩え、それぞれの民族を楽器に喩え、そこから移民としての母語や文化を捨てなくても美しい交響曲を生み出しうると主張しまた。そして、これが後の「サラダボウル理論」の原点となります。

<1965年>移民法
 ニューヨークのリバティ島で移民法の署名式が行われ、ジョンソン大統領が署名。(この法律は暗殺されたジョン・F・ケネディが制定準備をしました)
 この背景には、冷戦下の国際情勢とその世界世論に訴えた国内の公民権運動の進展があった。また、東側の共産主義に対抗して西側陣営の自由や民主主義の価値を強調するうえで、より「公平」かつ「民主的」装いでルール化を行い、アメリカのグローバルな構想と合致した法改正が必要とされたからであった。
1970年~  
 (1)白人(2)黒人orニグロ(3)中国系(4)フィリピン系(5)日系(6)コリアン(7)アメリカ・インディアン(8)ハワイ 
 <ヒスパニック、ラティーノ>
(1)メキシコ系(2)プエルトリコ系(3)キューバ系(4)中米・南米(5)その他のスペイン系 
<1979年>聖域都市の誕生
 「不法移民」労働者を強制送還しようとする米国連邦政府入国管理局への協力を拒否し、彼らを保護してきた地方自治体を「聖域都市」と呼びます。その主な理由は、地域経済に移民労働者が不可欠な存在になっているという地域のニーズにありました。
 この年、ロサンジェルス市が初めてその方針を宣言し、「聖域都市」の第一号となりました。その後も「聖域都市」は増え続けており、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、シアトルなど、全米に320程度存在します。
 こうした不法移民への対応の変化は当時の民主政権下アメリカの政治的変化を象徴していたとも言えます。
 この年、世界人権記念日に行われた当時の大統領ジミー・カーターの演説は、そんな時代の空気を示しています。
「難民は、我々の世界が、平和と人権の原則に則って生きている犠牲者であります。彼らを助けることは人間としての単純な義務であり、アメリカ人として、すなわち大半が難民の子孫からなる国民として、われわれはその義務を痛いほど感じているのであります」
<1970年>リドレス運動始まる
 日系のサンフランシスコ大講師エディソン・ウノらが第二次世界大戦中の日系人の強制収容に対する補償を要求するため、「全米補償請求委員会」を設立。 
 ここから日系人の資産や人生を奪った米国政府に対し、「不正義を糾す」という意味のリドレス運動(Redress)が始まることになりました。
<1978年>「追憶の日」初開催
 ピュヤラップ仮収容所跡に2000人以上の日系人が集まり、「追憶の日 Day of Remembrance」を開催。
<1980年>「戦時民間人転住・収容調査委員会 CWRIC」設置
<1983年>「拒否された個人の正義」刊行
 CWRICが行った公聴会などの調査結果を「拒否された個人の正義」としてまとめて刊行。
<1988年>「市民的自由法」成立
 ロナルド・レーガン大統領が正式に謝罪し、一人につき2万ドルの補償金支払いが決定。
<なぜ日系人リドレスを成功できたのか?>
 1960年代の公民権運動の時代に、アジア系、というわけで日系人は、最も成功したエスニック集団、「モデル・マイノリティ」であるとの報道がメディアでなされるようになった。高収入、高学歴の代表格が日系人である。・・・
 一方、戦後冷戦下や公民権運動、反戦運動の時代には、マジョリティである白人保守派にとって既存の白人優位の社会秩序を保つうえで、不平を言わず、耐え忍びながら成功者となったモデル・マイノリティ、日系人の成功物語は、他のマイノリティの過激な要求を退け、マイノリティの運動を分断するうえで好都合な武器となった。市民的自由法とは、「日系人が人種差別と不公平に忍従したことに対する報酬であり、同時に、日系人のような不平不満を口にせずおとなしい態度を示すのであれが他のマイノリティにもまた将来同様に報われるかもしれないと示唆するもの」だったのである。
2000年~  
(1)白人(2)黒人orニグロ(3)中国系(4)フィリピン系(5)コリアン(6)ベトナム系(7)日系(8)インド系(9)その他のアジア太平洋諸島系
(10)アリュート(11)エスキモー(12)アメリカ・インディアン(13)ハワイ(14)グアム(15)サモア(16)その他の人種
 <スペイン系、ヒスパニック、ラティーノ>
(1)メキシコ系(2)メキシコ系アメリカ人(3)チカーノ(4)プエルトリコ(5)キューバ(6)その他のスペイン系、ヒスパニック、ラティーノ
2010年~  
(1)白人(2)黒人orアフリカ系アメリカ人orニグロ(3)インド系(4)中国系(5)フィリピン系(6)日系(7)コリアン(8)ベトナム系(9)その他のアジア系
(10)アメリカ・インディアン(11)アラスカ先住民(12)ハワイ先住民(13)グアム(14)チャモロ(15)サモア(16)その他の太平洋諸島系(17)その他の人種 
 <ヒスパニック/ラティーノ/スペイン系>
(1)メキシコ系(2)メキシコ系アメリカ人(3)チカーノ(4)プエルトリコ(5)キューバ(6)その他のヒスパニック/ラティーノ/スペイン系
 2016年時点で非合法の移民人口は全米で約1100万人と言われます。彼らの存在無くしてはアメリカ経済は回らない状況にすでになっています。 
<2013年>ワシントン大行進50周年記念イベントより
「私には夢がある」の移民版(ホセ・アントニオ・ヴァルガス)
 私には夢がある。我が家と呼べる国の市民権を持ち、その国に貢献し続けたいという夢を。
 私には夢がある。運転免許証を手に入れ、就労ビザを手に入れ、壊れた移民行政の制度に縛られない夢を。
 私には夢がある。家族が別れ別れになることなく、20年も直接会えずにいる母さんを抱きしめる夢を。
 私は米国を出国することができない。戻って来られる保証がなく、母は渡米のためのビザの発給が認められない。
 私には夢がある。書類のあるなしで判断されるのではなく、私自身の人格や才能、私の提供できる技能で判断される夢を。
 私には夢がある。怖がらずに生活でき、恥ずかしくて隠れたりすることがない夢を。法律ではなく、正義によって報われる夢を。
 私には夢がある。自由な人間である夢を。


<モン族>
 「モン族」は、第一次インドシナ戦争で戦闘員としての高い能力を見出され、ベトナム戦争ではアメリカ中央情報局との契約により、特殊ゲリラ部隊として秘密裏にアメリカの軍事行動に協力した。米軍側には、ラオスの中立を承認したジュネーブ協定違反やモン族の傭兵化に対する国際的な非難をかわすため、モン族の関与した「秘密戦争」を隠蔽する必要があり、米国内で彼らの活躍が報じられることはなかった・・・・。

 ラオスでは、サイゴン政府うを支持していたロイヤル・ラオと北ベトナムを支持していたパテト・ラオとの内戦が勃発。ベトナム戦争で米軍の撤退が決定的になると、ロイヤル・ラオやアメリカに協力していた山岳地帯のモン族らが、アメリカに難民として渡った。

 モン族は、クリント・イーストウッド監督の映画「グラン・トリノ」(2008年)で主人公の隣人で重要な役で登場しています。

<参考>
「移民国家アメリカの歴史」
 2018年
貴堂嘉之 Yoshiyuki Kido
岩波新書

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