アメリカ文学の原点への旅


- ナサニエル・ホーソン、エドガー・アラン・ポー、ヘンリー・ジェームズほか -
<アメリカ文学の歴史>
 アメリカ文学の歴史は、国の歴史同様、19世紀以降のごく短いものです。新大陸に移民した人々は、それぞれ母国の歴史・文化を背負っていましたが、現在「アメリカ文学」と言われる文学作品の多くは新大陸ならではの文化を背景にした新しいスタイルを身につけるようになります。
 2013年に出版された「アメリカン・マスターピース古典篇」は、そんなアメリカ文学の代表的作家の作品(短編小説と詩)を集めたものです。取り上げられている作家は、「名前だけは聞いたことはあるけど、読んだことはないかも?」という作家が多いかもしれません。ただ「古典篇」とはいっても、それぞれの文章は決して古臭くはなく、読みやすい作品が並んでいるので、アメリカ文学の入門用としてもお薦めです。(翻訳のおかげでもあるのでしょうが・・・)
 文学が好きなあなたなら、それぞれの作品の魅力に新鮮な驚きを感じるはずです。それぞれの作品は、現代文学につながるある種の文学スタイルのルーツとも思えるかもしれません。例えば、マイケル・ジャクソンのヒット曲の数々から、そのルーツ・サウンドのジェームス・ブラウンやR&Bの大御所たちの曲も聴きたくなるように・・・。さらには、そのまたルーツともいえるブルースの大御所たちマディ・ウォーターズからブラインド・レモン・ジェファーソン、ロバート・ジョンソンにまでさかのぼって聴いてしまったあなたなら・・・理解してもらえるはず。
 村上春樹のファンが、彼が好きなルーツともいえる作家であるカート・ヴォネガットやトルーマン・カポーティ、J・D・サリンジャー、スコット・フィッツジェラルドへとさかのぼって読みたくなるというものです。アメリカ文学ルーツの旅へあなたもどうぞ!

「ウェイクフィールド」  ナサニエル・ホーソン
「モルグ街の殺人」  エドガー・アラン・ポー 
「書写人バートルビー」  ハーマン・メルヴィル 
「詩」  エミリー・ディキンソン 
「ジム・スマイリーと彼の跳び蛙」  マーク・トウェイン 
「本物」  ヘンリー・ジェームズ 
「賢者の贈り物」  O・ヘンリー 
「火を熾す」  ジャック・ロンドン 


ウェイクフィールド 1835年
 Wakefield
ナサニエル・ホーソン Nathaneil Hawthorne
 妻のいる普通の男が、ある日突然、理由もなく家を出て行方不明になります。彼は20年以上にわたり名前を変え、姿を変えて、妻の住む家の近くに住み続けます。そして、ある日突然何事もなかったかのように家に戻っていた。そんな記事をもとに書かれたというお話です。
 新聞の片隅に載った小さな記事から、その人物になり切って想像力のみで物語を構築してみせる。これぞまさに優れた作家の成せる技です。「世にも奇妙な物語」的な不条理小説の原点ともいえる作品です。「都会」に住む人々の中だからこそ起こりうる20世紀的な「都会小説」でもあります。
 都会の中の「孤独」と「仮面性」が生み出した物語は、今読んでも十分に新鮮です。
<ナサニエル・ホーソン>(1804年~1864年)
 初の長編小説「緋文字」(1850年)によって、アメリカ文学初期の代表的作家となります。しかし、それまでは文芸誌に短編小説を発表する短編作家として活躍していました。(当時は、文学作品は、単行本として売る物ではなく文芸誌に発表するのが主流の時代でした)ただし、多くの作家が新大陸アメリカならではの希望に満ちた娯楽小説を書いていたのに対し、彼はそんなアメリカの影の部分にいち早く注目する作家でした。その意味でも、小説は「都会の中の孤独」を描くことで、その後のアメリカ社会を予見していたともいえます。
 現代アメリカを代表する作家ポール・オースターの代表作「幽霊たち」は、この小説を下敷きにしているはずです。より最近では、映画化もされた「ものすごくうるさく、ありえないほど近い」にも影響を与えているのでしょう。様々な作品に影響を与え続ける「ルーツ・オブ・ルーツ」的作品といえます。

・・・この神秘なる世界の、見かけの混乱の只中にあって、人間一人ひとりは一個の体系にきわめて精緻に組み込まれ、体系同士もたがいに、さらには大きな全体に組み込まれている。それゆえ、一瞬少しでも脇にそれるなら、人は己の場を永久に失う恐ろしい危険に身をさらすことになる。ウェイクフィールドのように、いわば宇宙の追放者になってしまうかもしれぬのである。
「モルグ街の殺人」 1841年
 The Murders in the Rue Morgue 
エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe
 殺人犯の意外性から推理小説ファンの間でも有名な短編小説。とはいえ、描かれている殺人事件の残虐さは、当時としては異常なものだったはずです、「羊たちの沈黙」のような異常殺人事件を描いた小説の先駆でもありました。(初期の推理小説の殺人といえば、ナイフによる刺殺か毒殺が基本でした)そこは、アメリカン・ホラー作家のルーツだけのことはあります。
 とはいえ、この殺人事件の真犯人に関しては、さすがに「?」ですよね。この小説のおかげで、どれだけ「森の人」のイメージが悪くなったことか・・・まだ「都会生活者」は少数で、「アスファルト・ジャングル」という言葉もなかった時代ですが。
 大都会では隣の住人がどんな人かもわからず、ましてや人間ですらないかもしれない?という、これまた「都会」ならではの小説といえます。
<エドガー・アラン・ポー>(1809年~1849年)
 13歳のいとこと結婚するも、貧しい生活のために彼女を結核で失い、酒浸りの生活を続けることで命を縮め、最後には野垂れ死に状態となった典型的な破滅型作家。そんな混沌とした人生を歩みながら、彼は詩人として活躍したり、編集者としても活動。作家としても、様々なジャンルのルーツ的作家となった偉大な作家です。
「黒猫」「ウィリアム・ウィリアムソン」のような「世にも奇妙な物語」的な奇譚。「アッシャー家の崩壊」「赤死病の仮面」のような元祖オカルト小説。そして、「モルグ街の殺人」「盗まれた手紙」「黄金虫」のような推理小説。どれも、そのアイデアは今でも多くの作品に影響を与え続けています。

 世に分析的と呼ばれる知的能力は、それ自体は分析の対象とはなり難い。我々はあくまで、それがもたらす結果を評価できるのみである。何より我々は、そうした力を並外れて豊かに所有している人物にとって、それがつねにこの上ない愉しみの源であることを知っている。・・・
書写人バートルビー ウォール街の物語」 1853年
 Bartleby,the Scrivener : A Story of Wall-Street
ハーマン・メルヴィル Herman Melville
 ウォール街で法律事務所を経営する主人公が雇った法律文書を書き写す書写人のお話し。複写機が登場するまでは人力で行われていた複写の仕事は、几帳面でさえあれば、何の個性もいらないものでした。ところが、主人公が雇った書写人は書写の仕事に熱心過ぎて、それ以外の業務を受け付けません。なぜ、いうことを聞けないのだ?と問うと。
「そうしない方が好ましいのです」としか答えません。ならば、首にすればよいはずですが、主人公はなぜか彼を雇い続けます。その書写人は何者なのか?
書写人も不思議なら、彼を辞めさせられない主人公もまた不思議な存在です。
 ただし、「白鯨」で「捕鯨の文化」を通して「人間」を描いて見せたハーマン・メルヴィルですから、この小説も単なる「不条理小説」には収まらない奥深さがあります。「ウォール街」という世界経済の心臓部で働く人々の仕事が、文字を書き写すだけの「コピー」にすぎないというのも実に象徴的です。そのうえ、最後に謎の書写人のそれまでの仕事が、配達不能郵便の処理係だったとも明らかにされます。
 まさに大都会ならではの仕事を担当する書写人の「空っぽさ」こそ、現代社会の「空っぽさ」の象徴ですが、20世紀に入るとそんな書写人も不要の存在となります。そのおかげで、ウォール街の「空っぽさ」は埋められたのでしょうか?
 様々な深読みができる作品です。
<ハーマン・メルヴィル>(1818年~1891年)
 ハーマン・メルヴィルは、「二度発見された作家」と言われます。一度目は1840年代に若き海洋冒険小説作家としてのブレイク。その後、彼は長きに渡る忘れられた存在となり、1891年にこの世を去っています。そして、死後30年たってやっと「白鯨」が世界の文学史の残る傑作と再評価され、二度目のブレイクとなり今に至っています。
 1851年の発表当時、「白鯨」はほとんど理解されず、失意のまま彼は小説を書き続けており、2年後に発表したのがこの作品だったわけです。そのことを知ると、謎の書写人は黙々と「白鯨」を書き続けたメルヴィルのことではないかと考える人がいても不思議はないかもしれません。
 100年後、同じニューヨークに現れる「コピー」を愛したアーティスト、アンディ・ウォーホルなら書写人の魅力に気づいてくれたかもしれません。書写人をなぜか憎めなかった主人公は、そんな未来の読者の登場を予見していたのかもしれません。

・・・そうとも、バートルビー、衝立の奥に留まるがいい。もう君を虐げはしない。君は古い椅子の如く無害にして無音なのだから。君がここにいると判っている時こそ、私にとって、一番自分が独りになれたと思える時なのだ。とうとう私にも見える。私にも感じられる、我が人生の予め定められた目的を私は看破する。私は満足だ。バートルビーよ、君が望む限りの間、君に事務所の部屋を提供することなのだ。
「詩 Poems」 1858年~1864年
エミリー・ディキンソン Emily Dickinson
そして何かが変わるのだ - わたしのなかで -
わたしだったあの人間と -
いまここにいるじぶんと - おなじな気がしない -
もしかしてこれが- 狂うってこと?

「時は癒す」とひとは言う -
時は癒したことなんかない -
ほんとうの苦しみは
筋肉と同じで、年とともに強くなる
時は不幸を試すが -
治すのではない -
治すとしたら、それはつまり
病なんてなかったということ -

 マサチューセッツ州の小さな町アマーストに住み続け、そこで詩を書きながら、注目も評価もされないまま、この世を去った女流詩人。「アメリカ的」なテイストの作品です。
「ジム・スマイリーと彼の跳び蛙」 1865年
 Jim Smiley and His Jumping Frog
マーク・トウェイン Mark Twain
 ジム・スマイリーという賭け事大好き人間のあまぬけな逸話を並べただけの物語。なんの感動も、なんの教訓ももたらしてはくれません。純粋無垢の与太話。アメリカ版の落語のようなものでしょうか?主人公の憎めないキャラクターに引き込まれて、人々がついつい賭けに乗せられてしまう気持ちもわかる気がします。何とも言えない話術の魅力です。
 アメリカ文学の娯楽性の原点でもある「トム・ソーヤーの冒険」「ハックルベリー・フィンの冒険」の基本は、この作品のように登場人物のキャラクターのもつ不思議な魅力にあるのだと思います。彼の登場以降、アメリカ文学はそれまでのイギリス文学の影響から離れ、南部アメリカに代表されるのどかでアメリカ的な文化を取り入れた新しい文学を生み出し始めることになるようです。時代は、南北戦争によって、大きく変わりつつあったともいえます。
 アメリカのルーツ・サウンドでもあるブルースの歴史をたどると、アメリカ南部にたどり着くように、アメリカ文学のルーツも、そのオリジナリティーの原点にはやはり南部アメリカの文化があるわけです。残念ながら、この時代の音楽は今ではもう聴くことができませんでした。(レコードの登場は20世紀に入ってからのことになります)
 しかし、文字媒体によって残された文学については当時のものがそのまま残されています。考えてみると、マーク・トウェインのこのお話は、音楽に乗せるとそのままフォークソングとしてありそうな気がします。よりアメリカ的、より南部的な雰囲気を伝えるのはこんな馬鹿話なのかもしれません。(南部人がブッシュさんに代表されるアホの土地というわけではないのですが・・・)

・・・けど何にせよあんなに変わった男はおらんかったな、何せ賭けの種とみればとにかく何にでも相手を探すんだ、で、誰も賭けないと見ると、じゃあ俺がそっちに賭けるからあんたこっちに賭けないか、あんたがよければ俺もそれでいいから、なんて言って、とにかく賭けさえできりゃ満足なわけさ。・・・
「本物」 1893年
 The Real Thing
ヘンリー・ジェームズ Henry James 
 名家だったにも関わらず財産を失い、その貴族的な容姿を売りに挿絵のモデルとして働こうと考えた夫婦。そんな二人を当初は憐みから雇った画家。当初は理想的なモデルに思われた二人でしたが、出来上がった絵には何か不足するものが・・・
 同じようにモデルとして雇われた貧しいイタリア人青年や無学な少女との対比により、「本物」とは何か?「絵画」とは何か?究極の問いかけがなされます。
 失われゆく「貴族文化」へのオマージュともいえる作品は、アメリカだけでなくヨーロッパにも共通しますが、アメリカではそれが100年早く起きていました。アメリカでのこうした「貴族階級」の崩壊をテーマにした作品には、「風と共に去りぬ」、「欲望という名の電車」などもあります。(ちなみに、ヨーロッパでは1970年代に入っても「家族の肖像」(1974年)のような映画が作られています)そして、スコット・フィッツジェラルドもその延長に位置しているのかもしれません。
<ヘンリー・ジェームズ>(1843年~1916年)
 ヘンリー・ジェームズは、裕福な家に生まれています。父親のヘンリー・シニアは神学者で、兄のウィリアムは有名な哲学者として、それぞれ成功しています。1870年代にはロンドンに移住し、亡くなる直前にイギリス国籍を取得しているので、この作品は半分イギリス人の立場で書かれたともいえます。
 消えゆく貴族階級へのオマージュともいえるこの作品が、イギリスで書かれていたというのは納得です。彼の緻密な文章による優れた心理描写は、アメリカ文学の中でもよりヨーロッパ的な文学だったのです。

・・・「私たちから直接なさる絵は、私たちそっくりですからね」と彼女は私に摘し、勝ち誇ったようににっこり笑った。そして私は、これこそまさに彼らの欠点なのだと思いあたった。モナーク夫妻を描くと、なぜか彼らから離れて、こっちが再現したいキャラクターに入っていくことができないのである。・・・
「賢者の贈り物」 1905年
 The Gift of the Magi 
O・ヘンリー O.Henry
 これもまたある意味没落した人々を描いた悲劇の文学です。ただし、そこには娯楽小説としての見事なヒネリがきかされていて、多くの文学ファンに愛されてきた名作です。今どきの読者ならオチが読めてしまうかもしれませんが、それでもラストにはほろりとさせられます。(50歳過ぎて涙もろくなったせいもありますが・・・)
 かつては、彼の職人技ともいえる作風は、「O・ヘンリー調」と揶揄されるほど、陳腐なお涙頂戴物語の代名詞にもなっていますが、・・・よくできています。
 こうしたお話が脚本化され、その後、ハリウッド映画の定番的ストーリーとなります。この本に収められた作家の中では、最も読者の多い作家かもしれませんが、最も文学史的には評価が低い作家かもしれません。
「火を熾す」 1908年
 To Build a Fire
ジャック・ロンドン Jack London
 究極のアウトドア冒険小説であると同時にスティーブン・キング的小説に通じる恐怖小説としても読める作品です。
この小説とジャック・ロンドンについてはここから 


「アメリカン・マスターピース 古典篇 American Masterpieces : Classics」 2013年
柴田元幸(編・訳)
スイッチ・パブリッシング

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