ミンストレル・ショーからティンパン・アリーまで

- スティーヴン・フォスター Stephen Foster -

1755年~1930年
<アメリカン・ポップのルーツへ>
 ここでは、20世紀のポピュラー音楽をリードした「アメリカのポピュラー音楽の歴史」を振り返ろうと思います。
 移民国家であるアメリカのポピュラー音楽は、それぞれの民族が持ち込んだ音楽が融合して生まれたハイブリッドな音楽です。ただし、その基礎となった音楽の中でも、アフリカから来た黒人奴隷たちが持ち込んだアフリカの音楽とヨーロッパから来た白人が持ち込んだクラシック音楽は、最も重要な要素といえます。
 黒人音楽のルーツについては、別のページ「黒人音楽の進化史」に詳しく書いてあります。ここでは、白人側のポピュラー音楽の歴史を中心に振り返ります。

<「グレゴリオ聖歌」(讃美歌のルーツ)>
 後にブルースと融合し、「ゴスペル」を生み出すことになる讃美歌は、もちろんヨーロッパの教会で生まれた音楽です。その中でも16世紀のグレゴリオ一世時代にそれまでにあった礼拝用の歌が標準化され、「グレゴリオ聖歌」として知られるようになります。
 この「グレゴリオ聖歌」が生み出した「ハーモニー」という技法は、現代の音楽にとって今やなくてはならない存在です。実は、それまでの讃美歌は、どれもユニゾンで歌われていました。推測としては、僧侶たちの誰かが偶然メロディを外れ、それが美しく聴こえたことから「ハーモニー」が誕生したと考えられます。その他にも、わざと時間をずらして歌たう手法や対位法、ポリフォニーなどの技法が生み出されることになりました。これらの技術は、オーケストラによって演奏されるクラシック音楽の基礎ともなって行きます。それに比べると、ブルースやジャズにはクラシック音楽の知識はあまり役立たないかもしれません。しかし、ビッグ・バンド・ジャズのようにメンバーの人数が15人以上に増えてくると、そこには楽譜によってバンドをスウィングさせるだけの音楽的知識が必要になります。

<20世紀以前のヒット曲>
 1755年、アメリカ初の全国的なヒット曲が生まれました。
 作者不詳のこの曲は、独立戦争の際、イギリス、アメリカ双方の兵士たちが歌っていたといいます。(1775年~1783年)その後、南北戦争(1861年~1865年)においては、歌詞が変えられて歌われるようになり、現在では国家にならぶアメリカ人の愛唱歌となっています。

「ヤンキー・ドゥードル」
グッドウィン大尉といっしょに
父さんと私はキャンプを訪ねた
まるで早づくりプリンのような、たくさんの男たち、少年たちがいた
ヤンキー・ドゥードル、がんばれ
ヤンキー・ドゥードル・ダンディ
音楽とステップさえ気をつければ、女の子もお手のもの

 1828年、ミンストレルマンの先駆となったトーマス・ダートマス・ライスによるヒット曲が、大人気となりました。彼は自らの劇団と訪れた中西部の町で、馬小屋で働く黒人の老人が踊るのを見て、それを自らの踊りに取り入れ始めます。小さく飛びながら踊るそのスタイルは、大人気となります。焼いたコルクを顔に塗って黒人の真似をした彼のスタイルは、多くの模倣者を生み、白人が黒人の真似をする「ミンストレル・ショー」の原点となりました。「ミンストレル・ショー」は単なる流行ではなく、19世紀後半のアメリカにおける最も人気のあるショーのスタイルとなります。
 1880年、南部の州が定めた人種差別法に「ジム・クロウ法」という名前がつけられたのは、それだけこの歌の知名度が高かったということです。

「ジャンプ・ジム・クロウ」
もうずっと昔、おいらはケンタッキーからやってきた
あそこで、おいらはくるりと向きをかえ、
ジム・クロウのジャンプするのを覚えたんだ
ぐるっとまわって向きをかえ、
そうやって、いつも向きをかえ、
ジム・クロウのジャンプする

 1843年、ミンストレル・ショーの基本的な形式が生まれたのは、ヴァージニア・ミンストレルズを率いていたダニエル・ディケイター・エメットだと言われています。彼は作曲家でもあり、有名な「デキシ―」の作者です。白人が黒人に扮し、南部での彼らの暮らしを歌を歌と踊りを交えて演じるミンストレル・ショーの基本が、この後半世紀、アメリカのショービジネスをリードすることになります。ミンストレル・ショーはその代表的な作曲家スティーヴン・フォスターに象徴されるように、その中で実際に南部の黒人たちが歌っているブルース、ゴスペルなどは歌われていませんでした。したがって、本物のブルースが白人の前で歌われるのは、1912年にW・C・ハンディが「メンフィス・ブルース」をヒット以降のことになります。

<スティーヴン・フォスター>
 ショービジネスの基本となったミンストレル・ショーからは、当然、アメリカの大衆を魅了するヒット曲が次々に生まれることになりました。そして、それらのヒット曲の多くを書いた最大の人気作曲家が、ステーヴン・フォスターでした。
 彼が生まれたのは、1826年7月4日、偶然にも独立記念日でした。ペンシルバニアの裕福な名家に育った彼は、南部で暮らしたこともなければ、旅をしたことすらなかったと言われます。彼にとっての黒人文化との出会いは、彼の家で働いていた二人の黒人の召使と彼らが連れて行ってくれた黒人教会での礼拝だけでした。そんな彼が当時大人気だったミンストレル・ショーを見て、聴いて、曲作りを始めます。「スワニー河 Old Folks at Home」、「ケンタッキーの我が家 My Old Kentucky Home」、「主人は冷たい土の中に Massa's in De Cold Ground」、「Old Black Joe」、そして「おおスザンナ」などは、アメリカだけでなく世界中で知られる曲となりました。

「おおスザンナ Oh! Susanna」(1848年)
一日中雨降りだったその夜、私は旅立った
日照りが続いた
太陽は輝き、私は凍え死しそうだった
おおスザンナ、泣かないでおくれ

 彼は、もともとは簿記の仕事をしていて、その傍ら趣味として曲を作っていました。「おおスザンナ」も、彼が友人にプレゼントした曲でした。(その友人はこの曲によって1万ドルは稼いだといわれます)その後、彼は作曲家として食べて行けるとして、屋根裏部屋を仕事場としてミンストレルの曲を書き始めました。前述にもあるように彼は南部のことはまったく知らず、「スワニー河」の中でスワニー河を取り上げたのも、部屋で地図を広げて、名前の語呂から選んだもので風景どころか、綴りすら知らなかったといいます。
 彼はその後、ピッツバーグの医師の娘と結婚しますが、夫婦喧嘩と別居、和解を繰り返す生活が続くことになります。娘が生まれると、家族は音楽業界の中心地ニューヨークに移住。しかし、都会での生活で彼は酒に溺れることになり、妻と娘にも捨てられてしまいます。家庭を失い、病にも冒された彼は、曲も書けなくなり、1864年1月13日ペレヴュー病院の慈善病棟で38歳の若さで孤独な死を遂げています。その時、彼の財布の中には数セントしか残っていなかったといいます。
 彼が自らの作品から、継続して印税収入を得られていれば、そこまで悲惨な最期にはなかったはずです。

<ジェイムズ・A・ブランド>
 フォスターと同時代のミンストレルの作曲家の中で黒人版フォスターと呼ばれたのが、ジェイムズ・A・ブランドです。1854年生まれの彼もまた経済的に恵まれた自由黒人の家庭に育っています。ウィルバー・フォース大学を卒業した彼の父親は、ワシントンDCの合衆国特許局で検察官として働いていました。エリート黒人だった父親は彼を弁護士にしようと名門のハワード大学に入学させます。しかし、本人はバンジョーとミンストレル・ショーと出会ったことで、音楽家への道を志すことを決意していました。
 彼は黒人だけで構成されたミンストレルの一座に加わりアメリカ各地を巡った後、一座と共にヨーロッパに進出します。彼はそこでエンターテナー、作曲家として人気者となりました。その後も、多くの黒人ミュージシャンやアーティストがアメリカからヨーロッパに渡り、そこで母国以上の歓迎を受けることになりますが、彼はその先駆だったといえます。そして、多くの黒人アーティストが帰国後に陥ったように、彼もまた母国で不遇の人生を終えることになります。
 1911年5月6日、彼は孤独のうちにヴァージニア州でこの世を去っていましたが、それがわかったのは死後35年もたった1946年のことでした。

<ティンパン・アリー>
 19世紀、アメリカにおける音楽出版産業は、ほとんど印刷会社のオマケのような仕事でした。1831年、ニューヨークで設立され、後にスティーヴン・フォスターの曲を出版することになるファース・ポンド社も、そうした会社のひとつでした。この会社は、各地の大都市に支社を構えていましたが、その本業は結婚案内状や文具用品の印刷や販売でした。その片手間の仕事で、「リパブリック讃歌」、「デキシ―」、「テンティング・オン・ジ・オールド・キャンプ・グラウンド」、「アイル・テイク・ユー・ホーム・アゲイン」などのヒット曲を出版しました。しかし、それらの売り上げもそれで会社を支えられるほどではなかったようです。当時、音楽出版での利益は楽譜の売り上げだけで、そこから作曲者に著作権料を渡すのでは利益はごくごくわずかでした。この当時の音楽出版業は、楽譜という特殊な本を出版しているのと同じだったのです。
 1880年代に入ると、そうした音楽出版業界に変化が表れます。それはスティーヴン・フォスターのようなヒットメーカーを積極的にスカウトし、自社のお抱え作曲家にすることでした。こうして、フランク・ハーディング、T・B・ハームズ、ウイリス・ウッドワード、M・ウィットマーク&サンズ社などが誕生します。その中でも異業種から参入したジョセフ・W・スターン、エドワード・B・マークスは、地方の販売店にセールスマンを派遣してプロモーション活動を行い始め、ピアノ用しかなかった楽譜をオーケストラ用に編曲して販売するなど、様々な工夫をこらすことで営業利益を拡大。音楽出版だけで行けることを証明しました。
 こうして次々に誕生した音楽出版社の多くが事務所を構えたのが、ニューヨーク5番街とブロードウェイを結ぶ28番ストリートの一区画でした。この地区の評判を聞いた「ニューヨーク・ヘラルド」の記者、モンロー・ローゼンフェルドは、街を歩きながら、それぞれの会社から聴こえてくるピアノを叩くやかましい「ブリキを叩くような音」に驚かされます。こうして、その音から「ティン・パン・アリー Tin Pan Alley」という言葉を思いついたのでした。
 189年代になり、ティンパン・アリーがヒット曲を連発し始めると、それまでヒット曲を生み出し続けていたミンストレル・ショーの人気は一気の衰えて行きました。ティンパン・アリーが生み出す曲は、ニューヨークを中心としたビア・ホール、バーレスク小屋(キャバレー)、賭博場、レストラン、劇場、ミュージック・ホールなどで演奏され、ヒットに結びつくようになります。さらに音楽出版社の営業マンたちは、ヒットへの近道は、ヴォ―ドビルやミュージカルのステージで人気スターにその曲を歌わせることだと気づきます。こうして、スターたちへのワイロ攻勢が始まることになりました。
 ティンパン・アリーの黄金時代には、どのミュージックストアやデパートにもシート・ミュージック(楽譜)の売り場があり、曲をデモンストレーション(演奏)するためのピアニスト(ヴォーカリストを兼ねる場合も)がいました。歌も歌えるそうしたデモンストレイターは「ソング・プラガー」と呼ばれていました。客は、気になる曲を選ぶと、それをソング・プラガーに演奏させ、気に入ればその楽譜を購入しました。この音楽の販売システムは、1930年代まで続きました。「ソング・プラガー」出身の作曲家やミュージシャンも多く、「ラプソディ・イン・ブルー」の作者ジョージ・ガーシュインもその一人でした。
 シート・ミュージックも単なる楽譜ではなく、その曲を歌うスター歌手の写真が印刷されるなど、それなりの書籍になっていたようです。

<ポール・ドレッサー>
 アメリカを代表する文学者のひとりセオドア・ドライサーの弟、ポール・ドライサーは、この時代を代表するソンググライターでした。彼は「届かなかった手紙」、「見知らぬ浮浪者」、「許すには遅すぎた」、「ワバッシュの上手の上で」などのヒット曲により、50万ドルもの著作権料を得ました。バーレスクのスターだった女性と結婚しますが、その後彼女に捨てられ、財産も失い、若くしてこの世を去りました。残された最後の曲「マイ・ギャル・サル My Gal Sal」もまた彼の代表曲となりました。

<ティンパン・アリーのヒット曲>
「スイート・アデリン(君は心に咲く花だ)」(1903年)
「ルイス、セントルイスで会おう」(1904年)
「イン・マイ・メリー・オールズモービルIn My Merry Oldsmobile」(1905年)
「ユー・アー・ア・グランド・オールド・フラッグ(大いなる旗の下で)」(1906年)
「スクール・デイズ」(1907年)
「シャイン・オン・ハーヴェスト・ムーン」(1908年)
「女房が田舎へ帰ってしまった」(1909年)
「プレイ・ザット・バーバーショップ・コード」(1910年)
 戦場にならなかったこともあり、1914年に始まった第一次世界大戦からも、ティンパン・アリーからヒット曲が生まれています。
「オーヴァー・ゼア」、「グッドバイ・ブロードウェイ・ハロー・フランス」、「ティッペラリーへの長い道」

<ジャズ時代の始まり>
 1918年、白人ミュージシャンからなるオリジナル・デキシ―ランド・ジャズ・バンドがニューオーリンズからニューヨークに来て、ライゼンウェバー・カフェでライブを行い大きな話題となりました。さらにキング・オリヴァーらの黒人ジャズ・ミュージシャンのバンドもシカゴに進出。その影響を受けてシカゴからは多くの白人ミュージシャンが育つことになりました。こうして、一躍アメリカ全土に広まったジャズが1920年代のアメリカのポップスをリードすることになります。

<ブリル・ビルディング誕生>
 1930年、ニューヨークのブロードウェイと49番ストリートの交わるところにブリル・ビルディングが建ち、そこに多くの音楽出版社が集まり始めます。
最上階をフロアごと借り切っていたのは、ジャズ界の白人人気スター、トミー・ドーシーでした。その他では、「あなたが来るとわかっていたら、ケーキを焼いておいたのに」のロバート・ミュージック・コーポレーション、「It Was A Very Good Year」のレイチェル・ミュージック、「Lasy Bones」や「Return To Me」などのサザーン・ミュージック、「スターダスト」のホーギ―・カーマイケル、「ダディ」、「It's The Talk of The Town」などのワールド・ミュージック、「ルドルフと赤鼻のトナカイ」のセントニコラス・ミュージックなどがありました。

<参考>
「アメリカン・ポップス」
 1972年
And the Beat Goes On / A Survey of Pop Music in America
(著)チャールズ・ベックマン Charles Boeckman
(訳)浜野サトル
音楽之友社

トップページへ