ならず者国家アメリカと大統領たちの歴史

- アメリカの政治は大統領で変わるのか?-


「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史(43
 帝国の緩やかな黄昏」


- オリバー・ストーン&ピーター・カズニック -

- ジミー・カーター、ロナルド・レーガン、ジョージ・ブッシュ、ビル・クリントン・ジョージ・W・ブッシュ -
<オリバー・ストーンらの書簡>(2016年5月24日追記)
 映画「プラトゥーン」を観て、監督のオリバー・ストーンのベトナム戦争についての考えにがっかりした思いがありました。しかし、あれから30年が過ぎました。アメリカがこれまで行ってきた戦争に関する彼の考え方は大きく変わったようです。そのことは彼が制作したテレビ・ドキュメンタリー「もうひとつのアメリカ史」からもわかりました。
 2016年オバマ大統領の広島訪問が決まり、彼は言語学者ノーム・チョムスキー氏や「もうひとつのアメリカ史」の共著者でもあるピーター・カズニック氏らと共に大統領当てに書簡を送りました。その中で彼らは大統領に、広島・長崎での原爆使用についての謝罪を行い、それをこれからの核廃絶への重要なきっかけとしてほしいと要請しています。
 彼らの提言がオバマ大統領の心を動かし、最後の最後に彼が核廃絶への一歩を歩み出すことを願いたいと思います。

<オバマ大統領の広島訪問>
 2016年5月、オバマ大統領の広島訪問は核廃絶への一歩となるのか?
 核なき世界を目指すと宣言して、ノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領は任期を終えようとする2016年まで、実質的な核廃絶への活動をまったくしなかったといえます。それが最後の最後にまるで、アリバイ作りのように広島を訪問。
 あれだけ世界を感動させる演説を行いながら、なぜ彼は何もしなかったのか?それともやろうとしてもできなかったのか?
 思えば、アメリカの大統領は時代と共に様々なヒーローを生み出しましたが、アメリカの政治姿勢は実はそれほど変わっていません。
 今回のバラク・オバマ大統領の広島訪問も、時代を変えるきっかけにはならないかもしれない。
 改めてカーター大統領以後のアメリカ史を見直すと、そう思わざるを得ないのですが・・・。少なくとも、彼は現役大統領として初めて日本に来てくれたことで例外を作ったことも確かです。
 カーター元大統領が大統領を引退後、遅まきながら平和外交のために大きな活躍をしたように、彼にももういちど頑張ってもらいたい。まだ若いので、これからも十分に時間はあるはずです。

<オバマ大統領の演説を聴いて>(2016年5月28日)
 オバマさんの演説は在日米軍、第二次世界大戦の兵士たち、イスラム過激派と戦う同盟国、朝鮮人被爆者、そして広島・長崎の日本人被爆者らへの配慮を行うことで、妙に長く起伏のないものになった気がします。
 だから、あなたはどうしたいの?と聞きたくなった方も多いのではないでしょうか?
 オバマさんが来た意味はあったのか?それは帰国後の彼の行動を見守るしかなさそうです。


<アメリカの大統領は世界を変えたのか?>
 世界の歴史において、20世紀は「アメリカの世紀」だったといえるかもしれません。1920年代のローリング・トゥエンティ―ズから、1930年の世界恐慌への流れでは、どちらもアメリカが時代の中心でした。そして、1940年代の第二次世界大戦でも、勝敗を決したのは、アメリカ軍主体のノルマンディー上陸作戦と広島、長崎への原爆投下でした。戦後の冷戦時代に入ると、世界の中心はソ連とアメリカの二強となります。そして、そのソ連を中心とする共産主義国家の拡大を恐れたアメリカは、朝鮮、ベトナム、中南米での局地戦で、休むことなく戦争を続けます。しかし、資本主義国の頂点に位置していたはずのアメリカはベトナムで屈辱的な敗戦を喫します。

「歴史家ならば皆、知っているとおり、この世界に存在した文明はすべて、最後には崩壊している。歴史とは、失敗に終わった努力、実現されなかった野心、満たされなかった願いについての物語だ。物事の結果が、誰かの思いとは違ったものになった。それを物語るのが歴史だよ。だから、歴史家は、あらゆるものにいつか訪れる悲劇というものとつきあって生きていくことになる」
ヘンリー・キッシンジャー(1974年ニクソン退陣後のインタビューより)

 ここでは、映画監督オリバー・ストーンと歴史家ピーター・カズニックによるテレビ・ドキュメンタリー「もうひとつのアメリカ史」を参考に、カーター以降のアメリカ大統領の失敗の数々を追い、なぜアメリカは「ならず者国家」になってしまったのか?どの大統領でも、変えられなかった悲劇の歴史を振り返ろうと思います。
 まずは、「ウォーターゲート事件」により政界を追われたニクソン大統領の後を受けたジミー・カーターから。

ジミー・カーター ロナルド・レーガン ジョージ・ブッシュ(パパ・ブッシュ) ビル・クリントン ジョージ・ブッシュ バラク・オバマ


ジミー・カーター Jimmy Carter の場合>
1924年10月1日ジョージア州プレーンズ生まれ
1977年1月20日~1981年1月20日(第39代大統領)
「ハト派の大物政治家」から「弱腰の腰抜け政治家」に成り下がったお坊ちゃん大統領。彼の平和のための外交は大統領の任期終了後にやっと実行されることになります。
 「世界の警察」を自負していたアメリカは、ベトナム戦争での屈辱的な敗戦で多くの事を学びました。共和党の大統領ニクソンは、ベトナムでの敗戦だけでなく民主党本部の盗聴(ウォーターゲート事件)が明らかになり、辞任に追い込まれます。こうして誕生した民主党のカーター政権は、それまでの政権とはまったく異なる路線、平和主義を選択するだろうと世界が注目しました。実際、カーターは選挙中、以下のようにアメリカの新しい政治姿勢を変更すると発言していました。

「アメリカは他の主権国家に対して、核兵器を作ることを控えよと要求しているが、それは自身が決して受け入れないであろうものだからだ」
「実質的な核軍縮が遅れれば遅れるほど、他の国々が核武装する可能性が高まることになる」
「今後、我が国、もしくは国民に対して明らかに直接的な脅威がない限り、他国の内政問題に軍事的に干渉することはあってはならない」

ジミー・カーター

 さて、こうしてスタートしたカーター政権はアメリカを動かし、世界を変えたのでしょうか?
 残念ながら、歴史はそうは教えてくれません。それどころか、カーター時代もアメリカは右へ右へと向かい、ついにはイランのアメリカ大使館を占領されるという事件が起きてしまいます。それはカーター政権が弱腰だったから、そこを付け込まれたとする意見もありましたが、実際はそうではなかったようです。
 なぜカーターは道を踏み外したのか?

 もともとアメリカ南部の大金持ちの御曹司であるジミー・カーターは、人は良いが政治にはうとく、その手腕は疑問視されていたようです。当然、本人もそのことはわかっていたので、具体的な政治運営についてはブレインに頼らざるをえませんでした。そんな状況を利用して、強い影響力を行使するようになった存在として「チームB」と呼ばれるグループがありました。リチャード・パイプス(ポーランド系のロシア史学者)、ポール・ニッツェ、ポール・ウォルホウィッツらからなる右派バリバリの連中によって、カーター政権は右へ右へと舵を切ることになるのです。

<イランのアメリカ大使館人質事件>
 カーター政権を追い込んだ決定的な事件である「イランのアメリカ大使館人質事件」は、アメリカ側の姿勢に外交政策に問題があり、事件が起きない可能性も十分にあったと言われています。事件のスタートとなるイスラム原理主義政権の誕生についてもアメリカ政府はその予測を誤っていました。当時、国務省でイラン担当事務官だったヘンリー・プレヒトは、当時のイランの状況について、こう語っています。

「1978年11月、イランの専門家を集められるだけ集めて会議をした。これから何が起きるのかを話し合ったんだ・・・その前の夜に私は、アメリカン大学に呼ばれて客員講義をした・・・教室にはイラン人の学生が大勢いる・・・彼らにイランで次に何が起きると思うか尋ねてみると、皆が口を揃えて「イスラム教政権ができる」と言う。翌日の会議に集まった識者は、全員が「国民戦線によってリベラルな政権ができる。・・・」という主旨のことを言った。イスラム教政権ができると発言したのは、私一人だけだ。」

 まさかのイランにおける政権交代により、イランから逃げ出した独裁的国王シャーは、逃げ場を失いアメリカに向かいます。アメリカがそれまで支えてきたシャーがアメリカを頼るのは当然でした。しかし、シャーを受け入れることで、アメリカはイランを実質的に支配していたことを国内外に示すことにもなりました。これはある意味イラン国民に喧嘩を売っているようなものです。そのことを理解していたCIAのイラン担当者は、政府がシャーを受け入れることに反対しますが、その言葉はあっさり無視されます。

「大使館への攻撃はもうないから安心しろ。そんなことが起きるのは、シャーがアメリカに逃げ込んだ場合だけだ - テヘランの市民はそれほどバカじゃない」
 この発言は正しかったことがすぐに証明されましら。
「バカな」カーターがシャーをアメリカに受け入れたため、アメリカ大使館が占拠されたのです。人質はそれから444日間拘束されることになります。


<ソ連のアフガン侵攻>
 イランのアメリカ大使館が占拠されたのと同じ時期に起きたソ連によるアフガニスタン侵攻もまたアメリカに責任の一端があったことがわかっています。その仕掛け人が、カーター政権を右へ右へと方向転換させた影の主役、ポーランド出身のユダヤ人ズビザネフ・ブレジンスキー(国家安全保障担当補佐官)です。

カブールの親ソ政権に対抗する勢力への秘密支援は、1979年7月3日にカーター大統領がサインした命令書から始まっている。それが最初の命令だった。そしてまさにその日、私は自分の意見を書いたメモを大統領に渡している。彼らを支援すれば、ソ連の軍事介入を招くことになるだろう、と伝えたんだ」
 ブレジンスキーの予想は適中した。もたもたしていると中国が侵攻すると判断したソ連はアフガンに進攻。ブレジンスキーはアメリカがベトナムで失敗したようにソ連もアフガンで泥沼にはまることを見こしていた。


 ゲーム感覚で見るならこれは見事な作戦だったわけですが、アフガニスタン国民にとってはこれは最悪の作戦でした。こうして21世紀に至るまでの長い長い悲劇が始まり、それがアフガニスタン国民のアメリカへの強い恨みを生み出すことになります。腹が立って当然でしょう。
 こうしてカーター政権は、平和主義から一転して対ソ強硬、対イラン強硬路線へと歩み出すことになります。
 国防費を大きく削減すると約束したカーターでしたが、彼はその約束を果たさなかったばかりか、逆に大きく増やしています。政権スタート時、最初の予算では1152億ドルだった国防費が、最後の予算では1800億ドルに達しているのです。
 カーター政権の危機はそれだけではありませんでした。継続する冷戦を解消する努力もなく、より危険な状況を作ったことで、一触即発の危機があったことが後に明らかになっています。それは1979年11月9日のことでした。

<核戦争まであと数分>
 ブレジンスキーは午前3時に目を覚ました。オドム(軍事補佐官)から電話に起こされたのだ。ソ連からアメリカに向け、220発ものミサイルが発射されたという。ソ連がミサイルを発射した場合、大統領はその連絡を受けた後、3分から7分のあいだに報復するか否かの決断をし、命令をしなくてはならない。ブレジンスキーはそれをよく知っていた。そこで彼は、大統領への連絡の前にまず、ソ連のミサイル発射が事実なのか、また指定の標的が本当にアメリカなのかを再確認するようオドムに指示した。
 攻撃されたのなら反撃しなくてはならない。ブレジンスキーは同時に、戦略空軍の飛行機をすぐに出撃の可能な態勢にすることも指示した。オドムは二度目の電話で、再確認の結果、ソ連の発射したミサイルは2200発だとわかったと報告した。敵は全面攻撃に出たということだ。大統領に電話をする直前になって、オドムから三度目の電話がかかってくる。他の警戒システムからは、ソ連が攻撃してきているという報告はないという。


 結局、後にこれは誤報だったことが明らかになりましたが、そうした事態になっても不思議ではない状況に当時はあったということです。J・F・ケネディ時代の「キューバ危機」が、世界にとって最大の危機だったとよく言われますが、この時期もそれに匹敵するぐらい危機的状況にあったと考えられます。
 カーター政権は、長く続いたイランのアメリカ大使館からの人質救出作戦に失敗し、支持率も40%まで落とし、人気はがた落ちとなります。こうして迎えた1980年末の大統領選挙、共和党の候補者だったレーガン側は密かにイランの指導者たちと接触し、アメリカ大使館の人質をレーガン政権発足後まで解放しないよう依頼したといいます。カーター政権は、平和路線からスタートしながら、右派の官僚たちによって右へ右へと舵を切らされ、終わってみると時代は最悪の状況になっていました。
 特に1980年という年は、僕だけでなく多くの人にとって最悪の年だったかもしれません。(ジョン・レノンの死はそれを象徴する出来事でした)
 カーターは大統領職を失ってから、政財界からの圧力を気にする必要がなくなり、北朝鮮訪問、キューバ訪問など孤立していた共産圏国家国々との交渉の窓口として大きな貢献を果たすようになり、それらの活動を評価され、2002年にはノーベル平和賞を受賞しています。皮肉なことに、「アメリカ大統領」という職が彼から自由な活動を奪っていたわけです。
ロナルド・レーガン Ronald Reagan の場合>
1911年2月6日イリノイ州タンピコ生まれ~2004年6月5日(93歳で死去)
1981年1月20日~1989年1月20日(第40代大統領)
元祖おバカ大統領はB級アクションの大根役者にぴったりの役どころ。そんなおバカ大統領をやり手の官僚たちが思い通りに操って行われた新たな植民地政策とは?
 1981年にカーター政権の崩壊によって、圧倒的な勝利を収めて誕生したレーガン政権。ハリウッドのB級俳優上がりのロナルド・レーガンは、当初からその能力が不安視されていました。そして、その心配はやはり正しかったことが明らかとなります。当選後、最初のラテン・アメリカ諸国への訪問を終えて戻った大統領は、記者会見でこう語ったのです。

「いろいろと学んだよ・・・驚いたね。ラテンアメリカがあんなにたくさんの国に分かれているなんて」
 レーガンの世界観は、オールマークのグリーティングカードや、カリアー&アイブズのリトグラフ、ベンジャミン・フランクリンの金言、ハリウッドの大作映画、中華料理店のフォーチュン・クッキーなどを寄せ集めたような、至極単純なものだった。


 1982年に国家安全保障担当補佐官となったウィリアム・クラークは、レーガンがあまりに世界について何も知らないことにショックを受けました。そこで彼は、今後レーガンが顔を合わせる世界の指導者について解説する映画を至急制作するよう、ペンタゴンとCIAに指示したそうです。
 でも大統領が、その出来上がった解説の映像を見てくれたのかどうかは、かなり疑問です。

「私は大統領に、簡単な状況説明をした。その場には副大統領、CIA長官、FBI長官に加え、国家安全保障会議のメンバーが何人かいる。だが、大統領はゼリー・ビーンズを二つほど食べたかと思うと、居眠りを始めた。私はすっかりやる気をなくしてしまった」
アンソニー・クイントン(テロ対策コーディネーター)

 そんなおバカな大統領となれば、カーター以上に官僚たちに思い通りに動かされるのは当然のことでしたが、その官僚たちもまたおバカだったとしたら・・・。
 例えば、CIA長官のウィリアム・ケーシーは、ソ連をすべてのテロ事件の黒幕と考える病的な反共産主義的人物でしたが、彼がその思想の手本としていた著書「テロ・ネットワーク - 国際テロ組織の秘密戦争」の著者クレア・スターリングについて、CIAの分析担当官のメルビン・グッドマンはこう説明しています。

「われわれの部署の人間が何人かケーシーに会い、説明をした。スターリングが著書で自らの主張を裏づける証拠としているもののほとんどは、CIAが共産主義に対抗するためにヨーロッパのマスコミに流した偽情報なのだと。しかし、彼は取り合わなかった。そればかりか『彼ら全員と話をするより、スターリングの本を読むほうが多くを学べる』などとメモに書いていた」

<対ソ連強硬路線>
 レーガン政権は、カーター時代に一度は雪解けが始まりつつあったソ連との「冷戦」を再び始め、軍備の増強を推し進めます。コリン・グレイやキース・ペインらのアドバイザーは、核戦略の方針として、「核の均衡」を保つための軍拡ではなく、ソ連に打ち勝つためという考えを基本にしていました。この作戦により、アメリカ国民のうち2000万人は犠牲になると見積もっていましたが、それでも勝利を収められると彼らは考えていたようです。恐ろしいことに、本当にアメリカは、ソ連に勝つつもりでいたのです。
 実は、おバカ大統領のレーガンは、核戦争によるアメリカの崩壊を描いた映画「ザ・デイ・アフター」を見て、その恐怖に気づいていたようです。彼は映画を観た後、日記にこう書いていました。

「ソ連との核戦争でカンザス州ローレンスの街が一瞬で壊滅する場面があった。力作だ。制作費は700万ドルだそうだ。強く訴えかけるものがある。私も見て、非常に憂鬱になってしまった」
 人間としてのレーガン自身はごくごく単純な人間で、決してソ連との戦争を望んでいたわけではないのでしょう。ただタカ派の官僚たちに「核戦争なら勝てますよ!大統領」と説得されていただけだったのかもしれません。
 実は、時代は大きな曲がり角に来ていて、この時期アメリカの敵国だったソ連自身が自ら「核戦争」の放棄を呼びかけようとしていました。なぜなら、ソ連はチェルノブイリ原発事故をきっかけに、経済政策、軍事政策すべてが失敗だったことが明らかになり、崩壊の危機が迫ろうとしていたのです。
 もう後戻りできない状況に追い込まれていたソ連の指導者ゴルバチョフは、ライバルであるアメリカのレーガン大統領当てに手紙を発送します。

 われわれの国は、互いに社会制度が違っており、イデオロギーも異なっています。しかし、それが互いに憎しみ合う理由となってはならないでしょう。どちらもそう思っているはずです。いずれの社会制度にも存在する権利があります。その優越性を、力によって、軍事的手段によって証明するということはすべきではありません。競争するにしてもそれは平和的な競争であるべきです。すべての人には、外から無理に押しつけられることなく、自ら選んだ道を行く権利があります。

「彼は、先頭を切って進むことを宣言した。しかも単独で、である。そのことに驚かされる。危険だ。実に大胆で、純粋である。思わず目を奪われてしまう。英雄的ともいえる。・・・彼の提案は、真剣に受け止めるに値するし、実際、大統領に選ばれたばかりのブッシュ氏をはじめ、各国の指導者たちは最大限の真摯な対応を求められることになるだろう」
「ニューヨークタイムズ」より

 1986年、ソ連の革新的な指導者ゴルバチョフの登場により、冷戦の終結、核兵器の消滅に向けた奇蹟的な交渉がアイスランドのレイキャビクで始まることになりました。この会議でソ連は核兵器全廃に向けた提案を行い、その条件としてアメリカが行っているSDI(スターウォーズ計画)の中止を求めました。もともとその実現が危ぶまれていて、実際、途中で中止になるこの計画を止めることは、なんの問題もなかったはずです。そころが、アメリカは、その提案を拒否します。レーガンは、今ならソ連に勝てるのだから、核兵器を捨てる必要はないというブレーンたちの言葉を信じたのです。
 1988年5月、モスクワでの首脳会談でゴルバチョフは、「両国の平和的共存を認め、他国の内政問題への軍事的介入を否定する」という内容の声明に共同で調印するようレーガンに求めましたが、レーガンはこれを拒否。自ら冷戦終結への道を閉ざしてしまいます。

<イスラム圏への深入り>
 アメリカがイスラム圏の国々に積極的に関りだし、21世紀の同時多発テロ事件の原因を作ることになった原点は、レーガン政権時代に端を発しています。カーター政権時代に始まったソ連のアフガニスタンへの侵攻に対し、アメリカは対ソ連陣営への援助という形で関り始めます。まさかそれが、21世紀まで続くアフガニスタンとの泥沼の戦いの始まりになるとは、誰も思っていなかったはずです。

 われわれは慎重に選択をした。はじめは誰もが、ソ連を打ち負かす方法などないと思っていた。われわれにできることと言えば、誰か適当な人間を見つけ、自分たちの代わりにソ連と戦わせることくらいだった。その結果、多くの人が巻き添えを被ることになった。われわれは、自分たちの選んだのがどういう人間かよく知っていたし、彼らの組織がづいうものかもわかっていた。だが、それは特に気にしなかったのだ。われわれは、彼らが穏健派の指導者を排除することも許した。現在のアフガニスタンんみ穏健派のリーダーがいないのはそのためだ。すべて殺すことをわれわれが狂人たちに許したからである。彼らは左翼も、穏健派も、中道派も殺してしまった。1980年代以降に全員、排除したためである。
シェリル・ベナード(ランド研究所研究員)

 アメリカが行ったのは、これらの人的援助における失敗だけではありません。それは軍事的な面でもいえることです。例えば、イラン・イラク戦争でイラクが使用した化学兵器は、アメリカから輸入された化学薬品によって作られていました。この時期、アメリカの化学企業ダウケミカルは150万ドル分の殺虫剤をイラクに売り、それが毒ガスに転用されています。同じように炭疽菌もイラクに輸出されていて、それが後にアメリカ自身の首を絞めることにもなります。

「われわれ国民は皆、恥ずべきである。レーガン政権の経済政策がいかに愚かなものであったとしても、それはいずれ忘れ去られるだろう。しかし、人間の残酷さに鈍感であったという事実はアメリカの名を汚す。その汚点は長く残るに違いない」
アンソニー・ルイス(ニューヨーク・タイムスのコラムニスト)
ジョージ・ブッシュ George Herbert Walker Bush の場合>
1924年6月12日マサチューセッツ州ミルトン生まれ
1989年1月20日~1993年1月20日(第41代大統領)
CIA上がりのパパ・ブッシュはソ連の弱体化に付け込んで中東で大暴れ。それが後に自分の首を絞めることになるとも知らずにいました。
 1989年レーガン政権の後、副大統領を勤めていたジョージ・ブッシュが大統領に就任します。元CIA長官でもあるブッシュは、レーガンの路線を継承し、アメリカをさらに右へと向かわせます。彼の元で、アメリカは東西ドイツ統合の際、ドイツはNATOに入らないこと、東に拡大させることはしないと確約するものの、それを平気で反故にします。ソ連の弱体化をチャンスとして、アメリカはいよいよ暴走を始めます。

 この時期、アメリカはベトナムで懲りたはずの第三世界での代理戦争を再び始めます。その代表的なものとしては、社会主義のサンディニスタ政権を倒すために行ったニカラグアの反政府組織「コントラ」への支援があります。そのために、アメリカが育てた秘密兵器とのいえる存在が、独裁者マヌエル・ノリエガでした。

マヌエル・ノリエガ将軍
 元々はアメリカ陸軍米州学校の生徒でCIAに雇われてパナマで活動。アメリカのための反共産主義活動を現地で指揮。その間、巨大な麻薬組織「メデジン・カルテル」の麻薬売買にも協力して利益を得るようになり、次第に独裁色を強め、暴走し始めます。その残虐な独裁政治と麻薬のアメリカへの流入を止めるため、1989年12月アメリカは1万5000人の部隊をパナマに派遣。ノリエガを逮捕します。アメリカは自らが育てた飼い犬に手を噛まれ、自分でその処分を行わざるを得なくなったのです。しかし、それには多大な犠牲が伴います。このバカげた独裁政権との闘いは、その後、イスラム圏の多くの国々でも同じ展開を見せることになります。アメリカは、同じ間違いを様々な国で経験するだけでなく、世界中の多くの国民を敵に回すことになります。
 ちなみに、この作戦により、パナマのバチカン大使館に逃げ込んだノリエガを逮捕するため、米軍は大使館の周囲を取り囲み、大音量で「I Fort the Law」(クラッシュ)、「Nowwhere to Run」(マーサ&ザ・ヴァンデラス)、「悪いあなた」(リンダ・ロンシュタット)などの曲をかけ続けたとか・・・

「あの時、ブッシュ・シニアの政権は、パナマ侵攻の命令を下した。その軍事行動で、マヌエル・ノリエガというたった一人の男を排除するためだけに、民間人の住む地域も爆撃し、何千人というパナマ人を殺したのだ。これは国家によるテロではないのか」
ニカラグアの雑誌「エンビオ」の編集者
(これは、2001年同時多発テロ事件後の記事からの抜粋です。いかにアメリカが南米でも嫌われる存在になっているかが伺われる例と言えるでしょう)

<湾岸戦争>
 1990年、イラクのクウェート侵攻を受け、アメリカはそれを利用してイラクだけでなくサウジアラビアにも軍の拠点を確立しようとします。そこでチェイニー、パウエル、シュワルツコフ将軍らがサウジアラビアのファハド国王と会談を行ないます。そして、国王に加工した写真を見せて、イラク軍15万が1500台の戦車と共にサウジとの国境に迫りつつあると信じさせました。これにより、アメリカ軍はサウジアラビア国内に拠点を持つことが可能になります。(後に、このインチキは日本の新聞社によって暴露されることになりますが・・・)
 実際は、イラクにはサウジ侵攻の意思はありませんでした。クウェートからイラクを撤退させるには、石油の輸出をストップさせるだけで軍事的な攻撃は不要だったと言われています。しかし、ブッシュはフセインをヒトラーに匹敵する独裁者と批判し、イラクへの侵攻作戦を主張します。そのために、ブッシュ政権は様々なデマにより、フセインを「ヒトラー化」してゆきます。

「あの人たち(イラク兵)は病院の保育器から赤ちゃんを取り出して、冷たい床の上に放置して死なせたのです」
 これは下院の人権議員集会で、クウェートの病院でボランティアを勤めていた15歳の少女が行った証言です。ところが、この少女は実は駐米クウェート大使の娘だったことが明らかになります。同じようにフセイン政権が、核兵器を準備していて、テロリストを訓練しアメリカ攻撃の準備をしているというのもまったくのデマでしたが、結局、アメリカはそうしたデマを理由にイラクとの戦闘を開始。「湾岸戦争」が始まることになりました。
 「湾岸戦争」に勝利したブッシュはこう語っています。
「ベトナムの亡霊はもういません。アラビアの砂漠に埋葬されました。いまは砂の中で安らかに眠っていることでしょう」

 この戦争の勝利によりアメリカは、「世界の新秩序 New World Order」を築いたと宣言しました。しかし、それはいじめっ子による弱い者いじめに毛が生えたような勝利であり、いじめられた子供たちは、心の中で復讐を誓うことになります。「新秩序」とは、そうした人々の犠牲の上に成り立つ非常に脆い秩序だったことがすぐに明らかになります。「湾岸戦争」でのイラク国民の犠牲者は20万人(半数は女性と子供)に達していましたが、それに対し米軍の死者は、わずか158人にすぎませんでした。

「アメリカは、多数の国から戦費を集め、見せかけの連合軍を組んで、GNPがケンタッキー州ほどしかない小さな国一つを破壊したのだ。それで勝ったと喜んでいるが、本当に喜ぶべきことだろうか。そうは思えない」
ジョージ・ウィル(政治評論家)

 再びアメリカは、「世界の警察」としての地位を確立したかのように思えました。

「われわれは、我が国の玄関先に『ここに超大国あり』と書いた看板を立てるべきだ。ソ連の行動がどうであっても、たとえ彼らが東ヨーロッパから撤退しても、われわれに関係はないのだ」
コリン・パウエル統合参謀本部議長(アメリカ軍のトップ)
ビル・クリントン Bill Clinton の場合>
1946年8月19日アーカンソー州ホープ生まれ
1993年1月20日~2001年1月20日(第42代大統領)
色ボケ大統領は久々の民主党。しかし、やはり彼も右派の官僚グループに操られ、後にアメリカを直接攻撃するオサマ・ビンラディンを自らの手で育てていました。
 1993年、大統領に就任した民主党のビル・クリントンは、ブッシュの不人気を受け、圧倒的な支持を得ていました。12年続いた共和党政権により、世界各地で軍事行動を行うようになっていたアメリカの強硬な外交路線に歯止めをかけることが期待されての当選だったともいえます。ところが、実際にはクリントン政権時代にも、それ以前からの強硬な外交、そして海外での陰謀は続けられていました。
 特筆すべきは、2001年の同時多発テロ事件を起こすことになるオサマ・ビンラディンとアルカイダを生み出したのがこの時期のアメリカの政策にあったことでしょう。なぜ、アルカイダは生まれたのか?
<オサマ・ビンラディン>
 ソ連の撤退後、政権崩壊により、イスラム教の派閥抗争、民族間紛争が勃発したアフガニスタンからは多くの人々が難民となって国外へ逃れました。その中で、サウジの出資によってパキスタンに作られたイスラム教の神学校「マドラサ」でジハード(聖戦)の兵士となった「タリブ」と呼ばれる人々が、パキスタンの諜報機関の援助を受けて「タリバン」を組織します。
 CIAが出資したキャンプで軍事訓練を受けた彼らはネブラスカ大学のアフガニスタン・センターが作った教科書をもとにイスラム教への狂信と反ソ連の思想をたたきこまれました。子どもの頃から、暴力による戦闘を教え込まれた「タリバン」たちに1996年新しいリーダーがやって来ます。
 それがサウジアラビア出身で「アルカイダ(基地)」という過激派組織のリーダー、オサマ・ビンラディンです。アルカイダの目標は、アメリカとその同盟国をイスラム世界から追放し、カリフの府を復活させることでした。ビンラディンはもともと、親ソ政権と戦うべくアフガニスタンに大量に流入した過激派を民兵として採用し訓練するという、CIAの秘密組織を担当していました。アルカイダの資金の多くは反米のサウジアラビア王族たちが出資していました。
 ソ連というライバル国を失ったアメリカは自らの手で、新たな敵を育てることになります。

 世界最強の国家となったアメリカは、平和路線を目指していたはずのクリントン大統領の政治姿勢をも変え始めます。その中心となったのが後にブッシュ・ジュニア政権でその中心となるメンバーからなる新保守主義派のグループ「アメリカ新世紀プロジェクトPNAC」です。その創立メンバーには、エリオット・エイブラムス、ディック・チェイニー、ドナルド・ラムズフェルド、ポール・ウォルフォウィッツらがいました。
 1997年に結成されたこのグループの基本理念はヘンリー・ルースによる「対抗者の存在しないアメリカの世界覇権」のビジョンに基ずくものです。彼らがクリントン政権に強い影響を与えるようになり、クリントン政権はレーガン政権時代へと引き戻されることになります。

「われわれが武力を行使するとすれば、それはわれわれがアメリカだからだ。アメリカは世界にとって欠くべからざる国である。他のどの国よりも高みに立ち、はるかに遠い将来までも見通している」
オルブライト国務長官
ジョージ・W・ブッシュ George Walker Bush の場合>
1946年7月6日コネチカット州ニューヘイブン生まれ
2001年1月20日~2009年1月20日(第43代大統領)
怪しげな選挙によって選ばれたブッシュJrはパパ以上のおバカ大統領。ついには国際社会からもはみ出した独自路線を歩み出します。

 2000年11月から12月にかけた行われた大統領選挙において、ブッシュ大統領の息子であるブッシュ・ジュニアが微妙な選挙戦を制して勝利を収めます。再集計の作業を暴動によって妨害したのはブッシュ陣営だったこともわかっていて、その勝利はかなり不正に近かったようです。(もし、ラルフ・ネイダーが出馬していなければ・・・など、ブッシュが勝たなかったもうひとつのアメリカ史もあり得ましたが、それはもう仕方のないこと)

<国際社会からの逸脱>
 「思いやりのある保守主義」を掲げることで、当選したはずのブッシュでしたが、すぐにその本性を見せます。自らネオコンの先頭に立って、「ならず者国家」を指揮。様々な国際条約をアメリカは無視し、我が道を歩み始めます。

「国際刑事裁判所設立条約」の批准見送り、そして拒否。(戦争犯罪を裁くための国際的な裁判所ができて困るのはアメリカだからこその判断)
「包括的核実験禁止条約(CTBT)」への署名拒否。(核戦争になっても、アメリカは勝てるという判断をしていたからこその拒否)
「京都議定書」への批准拒否。(温室効果ガスを削減し、地球温暖化を止めようという国際協力が、アメリカの経済を停滞させると判断しての決定)
「弾道弾迎撃ミサイル制限条約(ABM条約)」を無効化。(ロシアからの提案であるミサイル開発の制限も、アメリカに得はないと判断)
「宇宙空間における軍拡競争の防止決議」(2000年)の採択を拒否。(国連では163対0で採択されたのに・・・棄権は他にイスラエルとミクロネシアのみ)
「宇宙軍拡防止決議」(2006年)に世界で唯一反対(国連での投票結果は、166対1)
 自国の利益にならないなら、どんな条約も認めないという北朝鮮並みにわがままな姿勢は、世界中からひんしゅくを買うことになります。
<対ソ連>
 ブッシュは以前父親が大統領時代にゴルバチョフと交わした約束も破っています。それは、旧ソ連の解体において、ロシアが軍事力を削減する代わりに、旧共産圏の国々にはNATO軍の基地を作らないという約束をしていました。しかし、ブッシュ政権はそんな約束など無視して、共産圏の国々をどんどんNATOのメンバーに取り込んで行きました。2004年時点で、NATOのメンバーとなった東ヨーロッパの国は、ブルガリア、ルーマニア、スロバキア、スロベニア、リトアニア、ラトビア、エストニア、そしてさらに2008年時点ではクロアチア、アルバニアが加盟。ソ連がアメリカを信用しなくなるのも当然かもしれません。

 2008年のアメリカの開発援助費は、GDP(国民総生産)の0.2%以下で、他の先進国の平均0.47%を下回り最下位依でした。(OECDの発表値)海外へ軍隊をあれだけ派遣していながら、アメリカの国際的な経済的貢献度はどこよりも低いということです。(日本はその逆なのですから、もっと評価されていいはず)

<9・11同時多発テロ事件>
 ブッシュのこうした政治姿勢は、様々な国を敵に回すことになり、それがアメリカへの報復攻撃の原因になるのも必然でした。ところが、ブッシュ政権はそうした報復攻撃に対する警戒をまったく行っていませんでした。あの同時多発テロ事件も、様々な方面から予測がなされながら、それを政権側が無視していたことが今では明らかになっています。

 ブッシュが8月6日にテキサス州クロフォードにある自身の牧場で受け取った日齢報告書には、「ビンラディンがアメリカ攻撃を決意」との見出しがついていました。報告書本文では、アルカイダの航空機ハイジャックによる作戦の脅威が論じられていた。この時もブッシュは興味を持たず、報告をしたCIA当局者には「わかったよ。これでラー、何かあっても君たちは言い訳が立つってことだな」と言った。

 さらに事件の直前の9月9日、ドナルド・ラムズフェルド国防長官は、ミサイル防衛予算のうち6億ドルをテロ対策に回すという、上院軍事委員会の計画に拒否権を発動するよう大統領に迫っていました。彼らにとって、アメリカへの直接的なテロ攻撃はほとんど重要視されていなかったわけです。

 そうした事実がありながら、2004年に行われた記者会見でブッシュはこう言っていました。
「飛行機をビルに衝突させるなど、まったく予測できませんでした。もし、ほんのかすかな予兆でもつかんでいたとしたら、われわれは国を救うため、ありとあらゆる手を尽くしたでしょう」

<イラクへの空爆>
 ブッシュ政権がテロ攻撃を無能にも見逃していたのは明らかでしたが、それ以上に愚かだったのは、彼がテロの主犯としてイラクを名指しし、米軍による攻撃を開始したことです。なぜ、イラクが攻撃対象となったのか?ビンラディンはサウジアラビア出身だし、アルカイダもアフガニスタンで生まれた組織だったので、イラクは何の関係もなかったはずなのですから・・・。
 当時テロ対策の担当責任者だったリチャード・クラークは、イラクへの米軍による攻撃に対し、こう語っています。
「アルカイダに攻撃されたからといってイラクを爆撃するのは、日本が真珠湾を攻撃したからという理由でメキシコを攻撃するようなものですよ」

 アメリカは当初国連軍によるイラクへの侵攻を提案。しかし、国連の安全保障理事会15カ国のうち、イラクへの武力行使に賛成したのは、アメリカとイギリス、スペイン、ブルガリアだけで、残りのカメルーン、チリ、ギニア、アンゴラ、メキシコ、フランス、ドイツは反対にまわりました。
 この時、ドイツの報道官ウーヴェ=カルステン・ハイエは、ブッシュとの会談についてこう語っています。
「私たちは、当時、最も重要な国の大統領だった人物の知的水準がきわめて低いことに気づきました。そのせいで、彼と意思を疎通するのは困難でした。彼は世界で何が起きているのかをmかったく理解していなかったのです。・・・」

 結局、アメリカは国連からの支持を得ることができず、単独でイラクを攻撃する道を選択します。そして、3月20日、米軍はイラクへの大規模空爆を実行します。この攻撃の目的は、フセインの独裁体制を終わらせることにあったはずですが、実際はイラクを徹底的に破壊するのが目的になっていました。以下は、彼らの攻撃の基本となっていた考えです。

「国家を停止状態に追い込むためには、しかるべきインフラを物理的に破壊して停止させると同時に、すべての重大な情報と関連する商取引の流れを迅速に管理下に置いて、広島と長崎へんも核爆弾の投下が日本人におよぼしたのと同じレベルの国家的な衝撃を与えなければならない」
「軍事または戦略目標を直接叩くのではなく、瞬時にほぼ理解不能なまでの大量破壊を行って社会、すなわちその指導者たちと民衆に大々的な影響をおよぼし、政権に”衝撃と畏怖”を与えることである」


 こうしてブッシュ政権はテロ事件の犯人たちを追うため、新たなテロを阻止するために様々な超法規的活動を可能にする権利を獲得し始めます。そのおかげで、CIAはアルカイダのメンバーを追いつめて、世界中のどの国でも大統領の許可のもと暗殺する権限を得たのです。しかし、その暗殺任務において、膨大な数の一般市民が巻き込まれ犠牲になることになります。

「しかしわれわれは、言うなれば暗黒面も使わなければなりません・・・諜報活動の闇のなかで時間を費やさなければならないのです。そこでやらなければならないことの多くをうまくやりたければ、議論は抜きで、わが国の諜報機関に利用可能な情報源と手段を駆使し、静かにやりとげる必要があります。それが諜報機関員の活動している世界です。したがって、目的達成のためには、基本的には、使える手段はすべて使うことが肝要なのです」
討論報道番組「ミート・ザ・プレス」でのチェイニー副大統領の言葉

 しかし、アメリカの攻撃は思惑どおりには行きませんでした。2003年11月までに、多国籍軍は平均して日に35回の攻撃を受けることになります。・・・ビンラディンとザワヒリは同胞なるイスラム教徒に、アメリカ人を「イラクの墓場に埋め」てやれとけしかけ、それに答えるように9月には1000人から3000人が到着し、さらに何千人もの応援がやってこようとしていました。
 あるアメリカ政府高官はこう言っていました。
「今やイラクは聖戦スタジアムだ。原理主義者がめざすべき場所に、西側諸国を痛い目に遭わせてやれる彼らにとってのスーパーボウルになっているんだよ…新人には無限の可能性があるのさ」

 アメリカはイラクに勝利しますが、結局アメリカが主張した核兵器はイラク国内からは見つかりませんでした。もちろん、アメリカにとっては核兵器があろうとなかろうと関係はなかったのです。ただ単に、イラクのフセイン政権を倒せればそれでよかったのですから。これでイラクからはアメリカに反抗する「ならず者」フセインが消え、アメリカの目の上のタンコブが一つ減りました。それで味をしめたアメリカは、次なる目の上のタンコブであるアフガニスタンのアルカイダへ攻撃を開始します。

・・・金正日(キム・ジョンイル)は、イラクの大きな間違いは核兵器を保有していなかったことだと語った。イラクがもし核兵器を保有していたら、アメリカは侵攻しなかったことだろう、と金正日は主張した。・・・
 北朝鮮には、核兵器の保有のほかにもうひとつ、イラクより「有利」なことがあった。北朝鮮には、世界第二位の既知の石油埋蔵量がないことだった。
・・・

<アフガニスタンへの攻撃>
 イラクへの攻撃は、核兵器が存在するというデマカセを理由にしたものでしたが、アフガンへの攻撃は、アルカイダのメンバーをアフガニスタンがかくまっているというのが表立っての理由でした。しかし、同時多発テロ事件の主犯たち19人のハイジャッカーの中には一人もアフガニスタン人はいませんでした。(15人はサウジアラビア、2人はアラブ首長国連邦、一人はレバノン、一人がエジプトの出身でした)
 行きがかり上、アフガンのイスラム組織「タリバン」側は、アルカイダの指導者ビンラディンをかくまってはいましたが、彼を持て余し、本当はアメリカに引き渡したかったといわれます。ただし、彼らにすると、同じイスラムの同胞をアメリカに売り渡すとなると、それなりの理由が必要でした。タリバンの体面を保つ駆け引きにより、ビンラディンの無血での引き渡しは可能だったのかもしれません。しかし、アメリカ側はそうしたタリバンの心情に配慮する気などさらさらなかったのです。

私たちのあいだには共通の言語がなかったのです。私たちは『ビンラディンを渡せ』と言い、彼らは『ビンラディンを渡せるようにしてくれ』と言い続けたのです。・・・
 私はタリバンがビンラディンを厄介払いしたがっていたと確信しています」


 当時のことを、元CIAのアフガン支局長、ミルトン・ベアデンはこう語っていますが、結局アメリカはここでも多くの市民が爆撃などにより犠牲になることを知りながら、タリバンとの交渉を受け付けなかったのです。
 ブッシュは、ホワイトハウスの法律顧問アルバート・ゴンザレスの助言に従ってアメリカが1955年に批准した捕虜の待遇に関するジュネーブ条約は、タリバンとアルカイダのメンバーである容疑がかけられている者に適用されないと宣言。独自の方法、「拷問」による自白の強要を行い続けます。
 目隠しと耳覆いにより容疑者からは「視覚と聴覚が奪われます」。さらに彼が積極的に自白しないなら、全裸にしてまばゆい光を浴びせ、最高79デシベルに達する大音量を聞かせ続けます。こうして容疑者は自分の無力さをさんざん思い知らされ、その後本格的な尋問が始まります。ただし、それでもダメな場合も多いので、手枷、足枷、首輪を使用しての平手打ちや壁に頭を投打するなどの暴行。トイレを使わせずにオムツを着用させ、さらには天井から鎖でぶら下げ、最後は水責めによる拷問。
 後に米軍によるこれらの拷問が兵士たちらによって暴露され、世界中から批難を浴びることになり、戦争犯罪として裁かれることになります。しかし、大統領がその命令を下した責任者として裁かれることはなく、責任の所在は明らかにされずに終わりました。

 レーガン、ブッシュ・シニアの元で働いてきたブルース・バートレットは2004年にブッシュ・ジュニアについてこう語っています。
「ジョージ・W・ブッシュが敵であるアルカイダとイスラム原理主義者に関して迷いがいっさいないのはそのせいなんだ。ブッシュは、彼らを皆殺しにすべきだと信じているんだよ。彼らは説き伏せることが不可能な、邪悪な信念に突き動かされている過激派だと。ブッシュが彼らを理解できるのは、自分にそっくりだからだ。・・・だから彼は不都合な事実を突きつけてくる人々の話に耳を貸さない。彼は自分は神から使命を託されていると本気で信じているのさ。そんな絶対的な信仰を持っていたら、分析なんかしなくてかまわなくなる。信仰を持つというのは、実証的な証拠のないことを信じるということだ。だが、信仰で世界は動かせない。・・」

 「ならず者国家」として暴走を続けたアメリカですが、そのツケは他国の国民だけでなく、本国アメリカの国民も払わされることになりました。それも一般のアメリカ大衆が支払うことになりました。
 クリントン政権末期、アメリカの国家債務は5.7兆ドルでしたが、ブッシュ政権崩壊直後には、10兆ドルを超えていたのです。そして、その影響は、賃金の低下や失業者の増加の原因となります。
 2009年、アメリカの収入のほぼ4分の1は、上位1%のものとなり、最も豊かな0.1%が最も1億2000万人と同じだけ稼ぐ国になっていました。それはブッシュ政権が企業への大幅な減税を行うことで、一部の金持ちを優遇する措置を行っていたからです。こうした、国民への負担増は、彼の人気をどんどん下げ、9.11同時多発テロ事件直後の支持率90%から、ついには20%にまで下落。こうしてブッシュ政権は終わりを迎え、久々の民主党、それも若いだけでなくアフロ・アメリカンの大統領を誕生させることになります。
バラク・オバマ Barack Obama の場合>
1961年8月4日ハワイ州ホノルル生まれ
2009年1月20日~2017年1月20日(第44代大統領)
様々な面で大きな期待を背負いながら何もできなかった残念な大統領。ノーベル平和賞返還を求められるべき核廃絶の公約違反!
<オバマの経済政策>
 バラク・オバマの登場は、かつてアメリカがジョン・F・ケネディを大統領に選んだ時以来の世界的事件でした。多くの人が、オバマの登場は、アメリカを変え、世界を変えるのではないか、と希望を抱きました。(僕もそうでした)しかし、その表の顔とは異なり彼を支えることになった官僚たちの顔ぶれは、実はそれまでと大差はありませんでした。例えば、その経済面でのブレーンは、ビル・クリントン政権で財務長官を務めたボブ・ルービンの弟子で師匠と同じように金持ち優先の経済政策を続ける道を選びます。
「ボブ・ルービンとその一味は、典型的なリムジン・リベラルだ。ようするに、彼らは投機経済で腐るほど金を稼いでおきながら、貧しい人に少しばかり余計に分け与える気があるからという理由で自らを良き民主党員と呼びたがる輩なのだ。それがこの民主党のモデルになっている。金持ちには好きにさせろ、ただし、ほんの少しばかり余計にほかの全員に与えろ、というわけだ」
デヴィッド・シロタ(経済学者)

 オバマ政権の大企業優先の政策は、2008年に起きたリーマン・ショックによって経営危機に陥ったシティ・グループの救済でも明らかでした。自らの欲深さが原因で危機に陥った一企業を救うために、オバマ政権は巨額の費用をつぎ込んだのです。経済学者のジェームズ・ガルブレイスはその政策について強く批判しています。

・・・発足以来のオバマ・チームの行状は擁護のしようがない。法も政策も政治もすべて一方向を指していた。すなわち、システム上危険な銀行をシーラ・ベアが総裁を務める連邦預金保険公社に委ねるということだ。預金者を守り、経営陣を入れ替え、ロビイストたちを首にし、会計監査を実施し、不正を行った者を起訴し、組織を改革・縮小する。そうしていれば、金融システムはすっかり浄化されていただろう。そして、大手の銀行家たちは政治的な力を奪われていただろう。
 だが、オバマ・チームは以上のようなことは何一つしなかった。


 2011年、世界経済機構OECDは「OECDにおける社会正義 - 加盟各国の比較」という統計データを発表しました。それは、OECD加盟国(31カ国)の貧困、所得格差、教育支出、医療支出などを比較したものです。それによると、最下位がギリシャで、チリ、メキシコ、トルコと続いて後、27位にアメリカが位置していました。いかにアメリカが貧困率が高いかを証明する結果でした。当選前に主張していた国民全員が健康保険に加入できるようにという改革も、ほとんど骨抜きにされ、低所得者層の救いとはなりませんでした。
 連邦準備制度理事会が3年に1度公表する金融資産調査によると、アメリカの平均的世帯の純資産は、2007年の12万6400ドルから2010年には7万7300ドルへと、3年間で39%も減少しています。高卒未満の学歴の人に限れば、純資産は54%の激減となっています。これで低賃金層が政府に不満を抱かないなんて、おかしな話です。(2016年のサンダース上院議員の大統領選挙での活躍はある意味当然ともいえます)

<オバマの秘密主義>
「現政権は、情報を知らせまいとする者でなく、知らしめようとする者の側に立つ。たんに、何かを秘密にしておく法的権限があるからといって、その権限をいつでも行使すべきであることにはならない。透明性と法の支配がこの政権の試金石となる」
 オバマは政権発足の際、こう宣言していましたが、この言葉はすぐに忘れられてしまいます。

 多くの面で、オバマは病的なまでに秘密主義だったブッシュ=チェイニー政権に輪をかけて秘密主義を貫いている。オバマ政権の前政権よりも多くの情報を機密扱いにし、情報公開法に基づく請求に対する反応が遅い。オバマ政権は歴代の政権を合わせたよりも多くの政府の内部告発者を起訴した。1917年に成立した諜報活動取締法は、オバマ就任前の92年間は都合3回しか適用されなかったが、オバマは6件の個別ケースでこの法律を行使した。
 ウィキリークスに機密文書を漏えいした米軍のブラッドリー・マニング上等兵は、米軍による拷問など様々な戦争犯罪を告発したため軍に拘束されました。そして、まだ軍事法廷も開かれていないのに、独房に裸もまま拘束されていました。
「もしマニングが戦争犯罪を明るみに出す代わりに犯していたならば、今頃自由の身になっていたことだろう」
マージョリー・コーン(法律学者)

 アメリカ政府が9・11をきっかけに獲得した新しい権限は、いくつもあり、それらのいくつかは大いに問題がありました。
(1)アメリカ国民の暗殺を命じる大統領の権限
(2)犯罪者と疑われる者の無期限に渡る拘留
(3)囚人が連邦裁判所と軍事法廷、どちらで裁かれるかを決める大統領権限
(4)令状なしの監視行為
(5)非公開の証拠を使っての拘留と裁判
(6)戦争犯罪人の起訴の拒否権
・・・・
「専制国家とは、たんに専制的な権力の行使によってばかりではなく、そうした権限の行使能力によっても定義される。もし大統領が人の自由や生命を自らの権限に基づいて奪い取れるなら、あらゆる権利は行政者の意思のなすがままであり、自由裁量で処理される承認にすぎなくなる」
ジョナサン・ターリー
 この言葉はそのまま現在の日本にもあてはまりそうです。自衛隊の戦争参加もまた総理大臣の裁量に任される事態になりそうなのですから・・・。

<ウィキリークス>
「グローバルな報道クーデターを起こした。テロとの戦いがどのように行われているかから、外交上の非道行為や、上層部による狡猾な取引、各国の内政への干渉まで、ウィキリークスによる暴露は否定しようもないほどの衝撃を与えた」として称賛された「ウィキリークス」は、2011年11月にオーストラリア版ピュリッツァー賞ともいわれる賞を授与されました。
 自国の戦争犯罪を暴露されたアメリカは、「ウィキリークス」の設立者ジュリアン・アサンジ(オーストラリア人)を逮捕しようとしますが、結局、ロシアに逃げ込まれます。そんなアメリカの行為に対し、ロンドン「ガーディアン紙」の記者はこう書いています。
「つまり、自由の国では情報公開の自由はろくにないわけだ」
 2009年にオバマ政権の副大統領ヒラリー・クリントンは、「中国がインターネットの規制を行い自由な情報公開を妨げている」と非難しています。しかし、それも冗談にしか思えないと、「ガーディアン紙」は書いています。

<アフガニスタンへの攻撃>
 オバマ大統領はアフニスタンへの米軍の侵攻は、アフガニスタンがアルカイダの避難場所を提供したからであると説明していたが、三つの点で説明がなされていませんでした。
(1)全世界で合計300人のアルカイダ幹部がいますが、そのうちアフガニスタンにいるのは50人から100人程度であり、その多くはパキスタンを拠点にしているという事実。そして、彼らはアメリカが政権を支持しているサウジアラビア、クェート、イエメン、アラブ首長国連邦の国民から援助を受けていました。
(2)タリバンの指導者ムラー・オマルはアメリカ国内の標的に対する9・11の攻撃には反対していたという事実。
(3)テロリストは秘密作戦を実行するのに、訓練キャンプを完備した安全な避難場所を必要とせず、世界中どこでも基地を移すことは可能だということ。

 オバマ大統領に代わり、米軍のイラクからの完全撤退が発表されましたが、逆にアフガニスタンの米軍はいよいよ泥沼にはまりつつありました。当初は、2011年7月に撤退を開始し、2014年には完全撤退を完了すると宣言していましたが、そうなりませんでした。国内からの批判が強まったこともあり、オバマ政権は人的被害を減らそうと、無人機による攻撃で対応するようになります。そして、米軍は3年間でテロリストの指導者と思われる人物14人の殺害に成功します。そころが、無人機による攻撃では多くの一般市民が巻き添えになり、無実の民間人700人がその犠牲になっています。それはあまりに「無駄な死」であり、当然、米軍に対する憎しみを増幅させる原因になりました。
 「ニューヨーク・タイムズ」の記者は、実際にその攻撃現場にいた従軍将校への取材から、2009年にこう書いています。

「攻撃のあとには、あたりに肉片が散らばっているだけだ。死体は見当たらない。だから地元民はその肉片を拾い集め、アメリカを呪う。私たちの国内で、私たちの家の中で、アメリカが私たちを殺している。それも、私たちがイスラム教徒だという理由だけで、と彼らは言う。攻撃された箇所の周辺地域の若者たちは、正気を失う。無人機による攻撃を目撃した者の中には憎しみが積み重なる。アメリカは攻撃が効果を上げていると考えるが、与えている害の方がはるかに大きい」
パキスタン人カメラマン、ヌール・ベーテム

 アメリカのこうした無人機による攻撃が許されるなら、中国が日本でウイグル人活動家を目標に東京を空爆したり、ロンドンのチェチェン人過激派を殺すためにロシアが軍隊を上陸させることも許されることになるでしょう。

 しかし、アメリカにも戦争被害はありました。多くの若い兵士がアフガニスタンで命を落としただけでなく、精神的なダメージによる影響も無視できなくなりつつありました。2011年以降、退役軍人の自殺者はイラク、アフガニスタンの戦場で亡くなった数を上回ったといわれます。
 さらに、ジョセフ・スティグリッツとリンダ・ビルムズによる試算によると医療費を含めると、イラクとアフガニスタンの戦争のほんとうの費用は4兆ドルを超えると推定した。アルカイダが9・11同時多発テロを起こすのにかかった費用がおよそ50万ドルだったことを考えると、数兆ドルをかけたアメリカの反応は、アメリカを破産させることをもくろんでいたビンラディンの、まさに思う壺だったといえるでしょう。
(2010年、アメリカの国家予算3兆8000億ドルのうち、1兆6000億ドルが歳入を上回る財政赤字となりました。歳入の不足分は、その大部分が中国と日本からの借り入れでまかなわれていました。秘密工作や諜報活動、対外軍事援助、民間契約者雇用、退役軍人への手当などにかかる費用を含めると、軍事費は総額で1兆ドルを超えていました。アメリカは国家予算の1/4を軍事費に用いているわけです。この金額は、アメリカ以外の国々の軍事費をすべて合わせた数字に匹敵します)

 国際原子力機関の元事務局長でノーベル平和賞受賞者のモハメド・エルバラダイは、この地域全体の何十年にも及ぶ後進性と弾圧はアメリカのせいだとしている。「アメリカは、弾圧を支持する不適切な政策によって、ほんとうにエジプトを、そしてアラブ世界全体を、過激化へと押しやっている」と非難した。
 実際、アメリカは、サウジアラビア、バーレーン、イエメン、シリアなど親米国におけるイスラム保守政権による民主化への弾圧を見て見ぬ振りを続けています。

 100万人以上のアフガニスタン人が紛争で命を落としている。その一方で、パキスタンの独裁政権は利益をあげた。パキスタンはアメリカにとって、世界第3位の対外援助受領国となったのだ。アメリカは、パキスタンが核爆弾の開発を進めていることについても見て見ぬふりをした。
 異教徒に対する聖戦に参加するため、何百万という数のアラブ人がパキスタンへとが流れ込んで来た。その中には、サウジアラビアの裕福な一族の子息、オサマ・ビンラディンや、エジプトの医師、アイアン・アル=ザワーヒリーなどもいた。彼らの多くがパキスタンのキャンプで訓練を受け、暗殺の方法や、自動車爆弾の爆発のさせ方といったことを学んでいる。これにより、のちの何千人ものテロリストが誕生することになるのだ。


<対イスラエル>
 イスラム圏への対応と共にアメリカが中東を過激化させた原因に、アメリカとイスラエルの関係があります。
 アメリカは、パレスチナ領へのイスラエルの入植は違法であるばかりではなく和平への障害でもあると糾弾する国連安全保障理事会決議に拒否権を発動し、イスラエルとパレスチナの紛争に関する国政世論など歯牙にもかけないことを改めて示した。この決議案は少なくとも130カ国が共同提案し、アメリカを除く安全保障理事会の全14カ国が賛成していました。
「イスラエルの右派は永続的な戦争を必要とする」
シーブ・スターンヘル(イスラエルの知識人)
 ユダヤ系経済人が昔から大きな力を持ち続けているアメリカでは、政界へのイスラエル(ユダヤ人)の影響力は大きく、中東への政治対応にはイスラエルからの圧力が常に影響していました。
<対キューバ>
 オバマ大統領は2016年になって、突然キューバとの国交を回復し、世界を驚かせました。しかし、アメリカのこの動きは遅すぎるものでした。
 2012年に開催された米州首脳会議(南北中アメリカの首脳たちが参加)において、キューバの参加を認めるべきという意見が出され、それに反対したのはその時点でカナダとアメリカ2カ国だけでした。この時点で中南米におけるアメリカの影響力は、21世紀に入り急激に弱まっていて、ついにはアメリカもキューバを無視できなくなった、というのが現実なのです。
<対核兵器>
 世界から核兵器を無くすことを宣言し、ノーベル平和賞を受賞したはずが、彼は結局在任中、そのための動きをまったく見せずに終わりました。最後の最後にアリバイ作りのためともいえる広島への訪問を実現させましたが、それも遅きに失しました。オバマ大統領は、ノーベル平和賞を返還しべきでしょう。これでは詐欺です。


<参考>
「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史3 帝国の緩やかな黄昏」
 2012年
(著)オリバー・ストーン Oliver Stone 、ピーター・カズニック Peter Kuznick
(訳)金子浩、柴田裕之、夏目大
早川書房



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