- アンディー・ウォーホル Andy Warhol -

<ロック世代のカリスマ・ヒーロー>
 アンディー・ウォーホルがロックに与えた影響は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを世に送り出したということだけでも特筆すべきものがあります。しかし、それ以上に彼自身の作品が直接ミュージシャンたちに与えた影響の方が大きいのも確かでしょう。スター大好き人間のアンディーが親しくしていたミュージシャンは多かったので、直接彼の生き方や哲学が及ぼした影響も大きかったはずです。(ローリング・ストーンズ、ビートルズ、ボブ・ディランなど)
 21世紀に入り彼の存在は、いよいよ伝説になりつつありますが、未だに彼の作品は生きた芸術として、いたるところでその存在をアピールしています。
 1962年に彼の「キャンベル・スープ」シリーズが発表されて以後、芸術の歴史はまったく異なるものになったと言われています。彼を中心に展開されたポップ・アート革命は、芸術の世界をどう変えたのでしょうか?
 ここではアンディ・ウォーホルの様々なジャンルでの活躍それぞれについて分けてご紹介します。

<ウォーホラ家の一員として>
 1928年8月6日、アンディーはピッツバーグで生まれました。本名はアンディー・ウォーホラといい、チェコからの移民である熱心なカトリック教徒の両親によって育てられました。建設現場の作業員として働いていた父親のアンドレイは、彼が14歳の時にこの世を去り、その後は母親によって大切に育てられました。
 アンディーは母親のジュリアが不治の病で倒れるまで、ずっと同じ家で生活し、週に数回は息子と共にミサに出かけていたといいます。(彼が有名になってからも、この生活が続いていたということです)こうした、両親の真面目な性格とカトリックという宗教は、彼に大きな影響を与えました。そのおかげで、彼はどんな人物とつき合おうと、どんな遊びに熱中しようとけっして精神的に堕落してしまうことのない確固とした意志の力をもつことができたのです。(これは、ボブ・ディランが熱心なクリスチャンであることを思い出させます)
 彼の少年時代は、時代的、民族的、地域的に映画「ディアハンター」の前半部に描かれるクレアトンの街の若者たちの青春時代と非常に近いようです。

「アンディの伝統破りの行動はまったく予想がつかず、ときとして人を驚かせるが、それはおそらく母親から受け継いだものだろう。感情をおもてに出さないという点は共通していたが、アンディの無感動は生来のものであると同時にこれ以上傷つきたくないという防衛本能から育まれたものでもある。一方、母親には精神を安らかにしてくれる信仰があった。ジュリアはひたすら祈りを捧げ、自分の生き方を神にゆだねていた。」
トゥルーマン・カポーティ

<コマーシャル・アーティストとして>
 1945年アンディーはカーネギー・インスティテュート・オブ・テクノロジー(現在のカーネギー・メロン大学)に入学し、絵画を専攻します。そして、この頃から彼はアルバイトでデパートなどのウインド・ディスプレイの仕事をし始めています。
 1949年、大学を卒業するとすぐに彼はニューヨークに出て、そこでイラストレイターとしての生活を始めます。雑誌や新聞に載せる広告のデザイナーとして、彼はしだいにその名を知られるようになり、1952年には早くも新聞広告部門のアート・ディレクターズ・クラブ・メダルを受賞しています。この頃から彼はアンディー・ウォーホルという名前を用いるようになっており、同年初めて個展を開いています。こうして彼はコマーシャル・アーティストとしての成功を手にし、自由に純粋なアート活動に向かう足場を得ました。しかし、彼にはそこから先の方向性はまだ見えていなかったようです。

・・・アンディは広告の世界に素描というすぐれた手法をいもちこみ、それがきっけけとなって雑誌や新聞に芸術的な広告が流行するのだが、具体的にはI・ミラー・シューズの広告が突破口となったのである。アンディをはじめとする一握りのコマーシャル・アーティストが広告の水準を引きあげ、残りの者はそれに追いつこうとして必死になった。アンディが登場してから、ほとんどの広告ではコピーがそれほど重要ではなくなり、しかもコピーはデザインと切り離せなくなった。広告は正当に評価すべき立派な作品となったのである。アーティストが全力を傾けてコマーシャル・デザインにとりくむようになった。・・・

<シリアス・アートの作家として>
 アンディは食べて行くためにコマーシャル・アートの世界に入りましたが、常に目標はシリアス・アートの世界にありました。そして、目標となるアーティストもいました。
 アンディは自分の芸術の行きつく先を本能的に察知していた。足を踏み入れようとしているコマーシャル・アートの世界はじつは中継ぎであり、目的に至るための手段だった。アンディがプロの画家として共感を抱いていたのは、手の届かない銀幕上の神秘的な女神たちでもカポーティのようなゲイの文学者でもなく、ダダイストのマルセル・デュシャンだった。
(アンディは世界に5点しかないデュシャンの代表作「泉」のひとつを所有していました)

 デュシャンのほかにも、もうひとり、憧れのフランス人がいた。多芸多才の芸術家ジャン・コクトーである。コクトーはゲイだったが、そのことを恥じなかった。
 ウォーホルがシリアス・アートに転身した後、映画製作や雑誌の発行などに次々と手を染めたこと、自己宣伝に熱心だったことなどはコクトーを手本にしたにちがいない。


 画家としてのアンディの作品はほとんど知られていませんが、実は彼のフリーハンドのスケッチの素晴らしさは有名です。その繊細かつ大胆な作品は高く評価されていました。

 天分に恵まれたアンディの手 - 画家のラウシェンバーグは、それを「呪い」と呼んだが、おそらくあまりにも楽々とスケッチができてしまうために、いったん名をなしたあとは画家としての成長がとまってしまうという意味だろう -

 当初は、シリアス・アートと見なされずラウシェンバーグらの先行するアーティストとかぶると見なされがちだったアンディですが、しだいにその個性が認められてゆきます。
「ぼくに芸術を教えてくれたのは、エミール・デ・アントニオだ。ぼくの知るかぎり、彼はコマーシャルを本物の芸術とみなし、本物の芸術をコマーシャル・アートとみなした最初の人間だった。彼の影響で、ニューヨークの芸術界全体でもそんな見方をするようになった」
アンディ・ウォーホル
 アンディとロバート・ラウシェンバーグの代理人として、ポップ・アートの仕掛け人的存在となったエミール・デ・アントニオは、単に彼らの作品を売り歩いただけではなく、作品作りにも関わり、アンディも彼の判断に頼ることがあったようです。そんな判断の仕方にもアンディの生き方仕事の仕方に、「自分の消す」ことが重視されていたことがわかります。
 あの有名な「コカコーラの壜」が誕生した裏にもそうした判断がありました。

・・・一つは上半分の片側に抽象表現主義風の荒っぽいタッチが見られるコークの壜。もう一つは、無駄な線を省いた、くっきりした輪郭のコークの壜。ぼくは何もいわなかった。説明する必要はなかった - ディーは、ぼくが何を知りたいのか、よくわかっていた・・・。
「そうだな、アンディ」。二三分じっと見つめてから、彼は口を開いた。「あっちだめだ。いろんなものをごたまぜにしただけ。でも、こっちすごくいい - いまの社会そのもの、われわれ自身の姿だ。美しく、赤裸々だ。最初の作品は捨てて、あとのを発表すべきだね」


<アメリカン・キャラクターの肖像画家として>
 すでに活躍を始めていたロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズが純粋ながらも貧しい芸術活動をしているのに対し、ウォーホルは異なる方向から現代美術の可能性を切り開いて行くことになります。それはコマーシャル・アーティストとしてスタートした彼が、ビジネス・アーティストへと踏み出して行くことでもありました。彼は商品としての作品を生み出す最初の芸術家になったと言えるかもしれません。
 彼が憧れていた芸術作品とは、ピカソでもゴッホでもなく、リーバイスのジーンズであり、キャンベル社のスープでした。だからこそ、彼は自ら最も素晴らしいと思う「人気アイテム」をテーマとして取り上げ、キャンパスに描き始めます。これは彼自身にとって必然的なことでしたが、ある意味この時代にとっても必然的な行為だったのかもしれません。彼はそれを実に素直に実現してみせたのです。
 1960年には「バットマン」「ディック・トレーシー」「スーパーマン」など、アメリカが生んだヒーローたちを油絵化しています。後にこれらのヒーローを題材にキャラクター商品という大きな市場が生まれることになることを考えると彼はその先駆けだったとも言えるのかもしれません。
 そして1962年、彼は最も彼らしい作品「キャンベル・スープ」を発表します。彼自身が20年は食べ続けたと言っているほどの大好物だったスープの作品化は、この後も数多くのバリエーションを生み出し続け、彼の代表作として、20世紀美術史の記念碑的作品として歴史に刻まれることになります。

・・・感情に関していえば、アンディは自分がなりたいといったもの - 機械 - になった。機械的になりすぎることさえあった。彼は人々の身にふりかかる悲惨な出来事を淡々と記録する機械だった。「ツナ缶の惨事」、「電気椅子」、「人種暴動」「交通事故」のシリーズ、「自殺」などを制作したとき、彼は感情のない記録マシンになっていた。ゲイであり、美貌をもたなかったため愛されず、その悲しみから作品が生まれた。それは、人間が倫理から見放された時代、いわゆる文明社会とやらが頂点にいたる瞬間を記録した。

<シルクスクリーン手法の先駆者として>
 この頃から彼は、キャンパスに油絵の具で描くのではなく、シルクスクリーンを用いた印刷をその手法の中心にするようになって行きます。
 繰り返し食べ続けてもあきないキャンベル・スープやハインツの商品。繰り返しテレビに登場するスーパーヒーローたち。それらを描くために同じものを何枚でも制作できる印刷の手法が取り入れられたのは、必然的なことだったのかもしれません。そして、この展開をさらに進めて行くことで、彼は次々に話題作を世に送り出して行くことになります。
 特に彼のこの手法を支えた人物として、ルパート・スミスの名を忘れるわけにはゆきません。1977年からその死まで、彼はアンディのシルク・スクリーン作品を技術的に支えていました。アンディがコンセプトを描き、それをルパートが技術的に実現させる。この関係が、一時期低迷していたアンディの創作活動を1980年代に復活させる原動力になったといわれます。

<20世紀という時代の肖像画家として>
 コカコーラ、ドル紙幣、エルヴィス・プレスリー、マリリン・モンロー、マーロン・ブランド、ジョン・F・ケネディー、ジャッキー・ケネディー、自由の女神、ミッキー・マウス、ブリロの洗剤・・・
 どれもが、アメリカ資本主義が生み出した世界的定番商品と言えるものばかりです。
その後彼が取り上げた人物以外の題材も、「交通事故」「人種暴動」「電気椅子」「原子爆弾」「ピストル」「月面歩行」「凶悪殺人犯たち」・・・これらもまたアメリカが生んだ事件、事故の定番商品と言えるのです。(その多くは危険物であり、その後20世紀末には世界中に輸出され広がって行くことになります)

<ザ・ファクトリーの工場長として>
 こうして彼は一躍時代の寵児となりました。それは子供の頃からスターのブロマイド集めが好きだった彼にとって、夢のような世界の始まりでした。
 1963年、勢いに乗る彼はニューヨークに彼のアトリエであり、パーティー会場でもある「ザ・ファクトリー」を設立します。それは、ウォーホルの作品群の中でも最も彼らしい作品と言えたのかも知れません。それは、彼がこの後進めて行く新たな芸術活動のために不可欠な存在であると同時に、そこに集まる人間たちの生き方こそが時代を象徴する巨大な作品となっていたからです。
 その工場長、アンディー自身もまた、独特のカツラを身につけた不思議な作品であり、多くの芸術家たちが彼を競って描くようになります。ただし、彼の人見知りは半端なものではありませんでした。人前で話すことなど到底できないことで、目立ちたがり屋でありながらインタビューは受けず、人前で話したり講演をすることを極力避けていました。そんな彼ならではの事件も起きています。
 1967年に彼はアメリカ各地の大学から講演の依頼があり、それを受けたものの、自分には講演などできないと言い出します。そこで彼は、スタッフのひとりだったアラン・ミジェットにかつらをかぶせ、肌を白く塗ってサングラスをかけさせ身代わりにしてしまいました。なんとその替え玉は15回近く講演を行い、映画上映会のあとで質問をうけるなどして全米各地を回りました。ほとんど無言で通したものの、ついに嘘がばれても、アンディはまったく悪びれてはいなかったとか・・・。さすがです。
<愛すべき人間性>
 常に周りに人を置き、孤独を恐れた彼でしたが、人を信じない人間でありながら周囲からは愛されていたようです。だからこそ、ファクトリーには常に多くの人間は集まり、ほとんどがノーギャラで彼の手伝いをしていたのです。
「ひとりぼっちになろうと心の中に決めたとたん、「追随者」ができた。何かをあきらめたとたん手に入る。これは完全な法則である。」
「アンディ・ウォーホルの哲学」より

 ニューヨークでドラッグが最も盛んに使われていた場所のホストをつとめていた10年間、ドラッグの常用者をまわりに集めながら、アンディは一度も警察に「逮捕」されなかった。彼の相棒だったフィリップ・パールスタインは、アンディには天使のようなところがあると評した。・・・

<アンディの女神イーディ・セジウィック>
 アンディはゲイではありましたが、ファクトリーには常に女神のような存在がいました。その中でも最も有名な存在だったのが、イーディ・セジウィックです。

「イーディはアンディがなりたかったものだったんじゃないかな。彼はイーディに乗り移った - 「ピグマリオン」だ。女房が服を買いにいくのについてきたがるタイプの男がいるんだろう?あれは自分が着たいと思っているにちがいない。アンディ・ウォーホルはイーディ・セジウィックになりたかった。」
トルーマン・カポーティ

<バスキア>
 アンディはファクトリーにおいて多くの若者たちを育てたのですが、中でも彼の弟子ともいえる存在として有名なのが映画にもなった「バスキア」がいます。

 アンディはときたまバスキアをファクトリーに呼び、一枚のキャンバスで共作を試みることがあったが、これは画期的な事件だった。というのも、アクリルであれ油彩であれ、アンディがキャンバスの表面に自分で絵筆をふるうのをやめてから、すでに20年以上もたっていたからである。

<超前衛映画作家として>
 さらにこの年、彼は新たなジャンル「映画」の世界へと進出を開始します。と言っても、彼の作品はそれまでの劇映画とはまったく違い、かといってドキュメンタリー映画とも言い難い不思議な作品群がほとんどでした。一人の男が眠る姿を一晩中撮り続けた作品「眠り」に代表されるように、観客を馬鹿にしたかのようなとんでもない作品は、意外なことに彼が取り組んできたそれまでのテーマからすれば首尾一貫していたとも言えました。延々と続く変わらない出来事「眠り」、それはまさに彼が求めている理想そのものだったのです。
 彼はその後も映画を撮り続けますが、一般公開されることはほとんどなく、1966年の「チェルシー・ガールズ」が初の一般公開作品となります。
映画「チェルシー・ガールズ」(1966年)
 ニューヨークに実在する「チェルシー・ホテル」には、マーク・トウェイン、サラ・ベルナール、O・ヘンリー、ユージン・オニール、トマス・ウルフ、ブレンダン・ベーハン、ディラン・トーマス、ウィリアム・バロウズ、アーサー・ミラー、ニコ・・・19世紀から長きに渡り、数多くの有名人が宿泊し、中には暮らしていたり、作品つくりの場として利用したりしていました。そのホテルを舞台に撮影された当時の宿泊者たちの記録映画として、撮られたのが「チェルシー・ガールズ」でした。
 アンディの創作パートナーだったジェラード・マランガは、この映画を「権力者」に似ている」と語っていました。
「なぜなら、上から見下ろして、あちこちで起こっていることを見渡しているんだからね。チェスの駒みたいに、人々を思いのままに動かす。そのうえ、人にはすべてをさらけだすよう要求するのに、自分はあくまで傍観者のままで、姿を見せようとしない。自分だけは謎に包まれていたいんだ」
 この映画の上映時間は3時間半強で2画面を使い、同時に異なる映像を放映するという異色の作品でした。

 彼が撮った作品としては他に、「二十四時間映画 またの名を★★★★」(1967年)もあります。上映時間はもちろん24時間で、リアルタイムで24時間撮影を行った異色の作品です。公開されたのは、1967年の12月に一回だけだったようです。残念ながら、この映画のフィルムは今はもう行方不明になっているようです。
 こうして彼は絵画以外のジャンルへと進出を開始し、1966年の個展で「牛の壁紙」の部屋とその中に浮かぶ「銀の雲」のオブジェを発表、絵画からの撤退宣言をします。

映画「真夜中のカウボーイ」(1969年)
 ジョン・シュレシンジャー監督によるアメリカン・ニューシネマの名作。この映画ではニューヨークのゲイ・シーンをリアルに描き出すために、ファクトリーのメンバーが数多く出演し、画面にリアリティーを与えています。(モリッシーがアングラ映画の監督役、ヴィヴァがパ―ティーのホステス役、ウルトラ・ヴァイオレットはスーパースター役等)
 この年は6月28日に同じニューヨークのクラブ、ストーンウォール・インでゲイによる暴動が発生。警察によるゲイの人々への度重なる嫌がらせに対して、彼らは初めて暴力によって対抗し、ゲイ・パワーの力を示しました。時代はウーマンリブに続き、新たな弱者による抵抗と地位向上への動きを活発化させようとしていました。

<音楽プロデューサーとして>
 さらにさらにこの年、彼はいよいよヴェルベット・アンダーグラウンドに関わることになります。ウォーホルと出会う以前からルー・リード、ジョン・ケイル、スターリング・モリソンらによって結成されていたV・アンダーグラウンドは、グリニッヂ・ヴィレッヂのカフェ・ビザールを中心に活動を行っていました。彼らのアバンギャルドな演奏が気に入ったウォーホルは、自分の映画とのコラボレーションを企画します。こうしてウォーホルによる歴史上初のメディア・ミックス・イベント「Exploding Plastic Inevitable」が行われ、そこでV・アンダーグラウンドは華々しいデビューを飾りました。
 1967年、ウォーホルは彼らのプロデュースも担当し、ドイツ出身のエキセントリックなヴォーカリスト、ニコを加えデビュー・アルバムの制作に取りかかります。アルバム・ジャケットも自らデザイン。あの有名なバナナのジャケットが誕生しました。しかし、発表当時このデビュー・アルバム「ヴェルベット・アンダーグラウンド&ニコ」は、ほとんど音楽的には話題にならず、バンドに他のメンバーの反対を押し切ってニコを参加させたことで、バンドとウォーホルの間には溝ができてしまいます。
 本当に彼らが音楽界から評価されるようになったのは、ウォーホルが離れ、中心メンバーだったジョン・ケイルが離れてからだったというのは、実に皮肉なことです。(いや、未だに彼らは正統には評価されていないかもしれません)

「アンディのしていることは、ぼくらのしていることと同じだと思った。ただし、ぼくらは音楽を、彼は光を手段にしていた・・・けっして、遊びではなかった。つまり、ぼくは内心こう感じていたんだ。音楽をやっている連中は、リアルなものに近づくなんてことを考えてもいなかった。そんなことを考えていたのは、ぼくらだけだ。・・・ぼくが彼を好きだと思う第一の理由は、彼がすごくリアルだからだ。」
ルー・リード
(参考)
 アンディーとヴェルヴェット・アンダーグラウンドの関係は、ドキュメンタリー映画「ルー・リード:ロックン・ロール・ハート Lou Reed : Rock and Roll Heart」に詳しく紹介されています。
 アンディーの死後、ルー・リードとジョン・ケイルは久しぶりに出会い。二人はアンディーの思い出を正しく残すため、アルバム「ソング・フォー・ドレラ」を制作します。「ドレラ」とは、彼らがアンディーにつけたドラキュラとシンデレラを合わせたあだ名、実に的確なあだ名です!

 彼の音楽に関わる仕事で最も有名なのは、ローリングストーンズに関わる仕事かもしれません。アルバム「スティッキー・フィンガース」のジャケット・デザイン(ジッパー付デニム)は有名ですが、それ以上に有名なのがあのストーンズのベロだし唇のロゴ・デザインです。

<暗殺未遂事件の被害者として>
 ヴェルベット・アンダーグラウンドの場合だけでなく、彼は常に他のアーティストたちとの共同作業に積極的でした。それは元々彼が誰よりも人の話を聞くのが好きだったせいかもしれませんが、そのおかげで彼は絵画以外のあらゆるジャンルで活躍してゆくきっかけを得ていました。しかし、さらに重要なのは、「彼は誰の意見でも受け入れる。と同時に誰の意見も受け付けない人間だ」と言われてもいたということでしょう。
 そして、そんな彼の生き方は危険をはらんでもいました。彼のスタジオには誰でも出入りできましたが、その人物が突然危険な人物となる可能性も秘めていたのです。
 1968年6月3日、彼はS.C.U.M.(全男性抹殺協会)の代表、ヴァレリー・ソラニスの銃弾によって、ファクトリー内で狙撃されます。(映画「ウォーホルを撃った女」をご覧下さい)彼はしばらく死の淵をさまよいましたが、かろうじて現世に戻ることができました。しかし、この事件以後、彼の活動はかつてのような勢いを失います。すべてを受け入れていたはずの彼にとって、この運命の神による裏切り行為は致命的なものだったのかもしれません。
 アンディは「ヴァレリー・ソラニスに撃たれた時に死んだ。いまの彼は、晩餐の食卓についている連中の一人にすぎない。魅力的ではあるが、かつて天才だった人間の幽霊だ。ただのゴースト、歩く幽霊だ」
テイラー・ミード

「何日もたって、ほんとに生き返ったのかどうかわからなくなった。死んだような気分だった。ぼくはずっと考えていた。『死んだみたいだ・・・』って。死に近づくも、生に近づくのも同じことだ。なぜなら、どちらも無からだ・・・これまでのぼくはもう恐怖なんか感じないはずだ。それなのに、いまは、ぼくは怖い。どうしてかな」
アンディ・ウォーホル

<世界一の肖像画家として>
 1972年、彼は再び絵画の制作を開始し、依頼をもとに肖像画を描き始めます。その後世界一有名な肖像画家となった彼は毎年50枚から100枚というかなりの枚数を描き続けて行きます。この肖像画の仕事ほど利益率の高い商売はなかったかもしれません。(なにせ買い手はあらかじめ決まっているのですから・・・)これぞ究極のビジネス・アートと言えるでしょう。
 しかし、こうして彼が描き続けた有名人や金持ちの絵もまた彼がかつて描いていたアメリカを代表するキャラクターたちの延長線上にあったと言えるでしょう。意外なことに彼は、こうして数多くの異なるキャラクターを描きながらも、それらをすべて同一視していました。彼がマリリン・モンローを描いたのは、彼女が他の誰よりも美しかったからではありませんでした。
 ウォーホルはかつてこう言いました。
「この国アメリカの素晴らしいところと言えば、最も金持ちの連中が最も貧乏な連中と根本的に同じものを買うという伝統を始めた点にある。・・・」
 だからこそ彼は、コカコーラやキャンベル・スープを愛し、同じようにマリリン・モンローやエリザベス・テイラーを愛したのです。彼にとっての「美」とは、すべてのものが同一に見えることだったのです。
 しかし、それでもなお、彼が完全に同じもののみを求めていたのかというと、どうもそうではなかったようです。彼は同じように見えるものの中に存在する微妙な違いにこそ意味を感じていたようなのです。なぜなら、彼はシルクスクリーンやコピーなどの印刷技術を使用しながらも、そこに必ず手作業の要素を残し、印刷屋にすべてを任せることはけっしてしませんでした。それは手作業や繰り返しの工程によって生まれる微妙なズレを彼が求めていたからに違い有りません。

 アンディは肖像画家としてもてはやされただけでなく、ニ十世紀美術の空隙にすっぽりとはまりこんだ。これほど世界中を駆け回り、国際的に名を知られるようになった肖像画家はほかに一人もいない。
フレッド・ローレンス・ガイルズ「伝記ウォーホル パーティのあとの孤独」より
(残念ながら、アーティストとしての評価を上げたわけではありませんでしたが・・・)

 この時代、彼は世界一の肖像画家であると同時に、ニューヨーク社交界最大のスターになっていました。(もうひとりのスターは、彼がかつて憧れていた作家トルーマン・カポーティでした)

<テレビ大好き人間として>
 彼は楽しみが二倍になると言って、部屋で同時に二台のテレビを見ていたといいます。(それも同じチャンネル!)

「・・・コマーシャルはいい気晴らしだ。コマーシャルが少ないと、番組の密度が濃くなりすぎる。『コマーシャルの中断までお楽しみください』っていう番組を見ていると、いつだってむずむずしてきちゃう。」
アンディ・ウォーホル

「ぼくはショックを受けたくない。世間で何が起こっているかは知りたいが、それも自分が耐えられる範囲内でのことだ」
アンディ・ウォーホル

 だから彼はテレビが好きなのかもしれません。テレビなら過激すぎる内容は放映されないし、嫌ならいつでもチャンネルを変えられますし、音を消すことも可能ですから・・・。
 一時期彼は映画に次いでテレビの制作に乗りだした時期もありました。ほとんどは実現することなく終わりましたが、わずかながら実現した番組もあります。1986年のテレビ番組「アンディ・ウォーホルの十五分間」は珍しく実現した番組でした。その番組は、彼の名言「人は誰でも15分間は有名になれる」という言葉のとうり、彼の知人たちがゲストで登場し、そのプライベートを紹介するポートレイト番組でした。(例えば、彼の親友の画家デヴィッド・ホックニーなどが出演しました)

<永遠に繰り返す理想世界の住人として>
 その後1970年代から1980年代にかけ、ウォーホルは世界中で数多くの個展をひらきながら、ビジネス・アーティストとしての活動を活発化させて行きます。さらにジャン・ミシェル・バスキア、フランチェスコ・クレメンテら若手のアーティストたちとのコラボレーション作品を発表するなど、あいかわらず共作活動にも力を入れ新たなチャレンジを続けていました。しかし、1987年彼は胆のうの手術を受けますが結果が思わしくなく2月22日あっさりとこの世を去ってしまいました。
 彼が描き続けた有名人たちのほとんどは、今やあの世の人となってしまいます。ウォーホルの自画像もまたそれらの列に加わり、変わることのない永遠の命を授かったのです。
 物事がどんなに繰り返しても、まったく変わらないことが大好きだと言い続けた彼にとって、「死」こそ理想的な結末だったのかもしれません。

 生涯の終わり、いざ死ぬときになったら、ぼくはあとに何も残したくない。ぼく自身もあとに残されたくない。今週テレビを見ていたら、一人の女性が光線を出す機械の中に入っていって、消えてしまうという場面があった。あれはいいな。だって、物体だってエネルギーなんだしね。その女性はすっと消えてしまった。何よりもアメリカ的な発明といえるんじゃないかな。アメリカの発明の中でも最高だ - 消えるための機械ができたらね。つまり、そんなふうになったら、人のことを死んだとか、殺されたとか、誰かのせいで自殺したなんていえなくなるだろう?
 死んだあとで、何がいちばんいやがっていったろう。ミイラにされてピラミッドの中に安置されることだ。・・・


<アンディの仕事の流儀とは?>
 アンディの様々な仕事は、ジャンルを越えた共通するなにかを持っていた気がします。それは何だったのでしょうか?

 アンディは自分の使命を悟った。彼が世界に送りつけたメッセージは奇妙なものだった。「ここには報告すべきことが何もない」。だが、アンディはその空虚さを、誰にもわかるような大胆なかたちで表現したのだ。
・・・ニ十世紀アメリカ(そして、少なくとも西欧世界のほとんど)の生活は、人が目もくれないシグナルだらけで、真の関係などけっして築けないのだ、と。あっというまに消費されてしまう品物にかこまれ、無関心が満ちている。それらの品物は人の消化作用や意識を示す信号にすぎない。そんな状況をいくらかでも伝えると思われるすべてをアンディは記録した。


「アンディの成功の秘密は、自分自身を消滅させたことにある」
ジェラード・マランガ

 アンディ・ウォーホルは芸術は自己を表現するのではなく、どこまで自己を表現しないことで成立し得る形式なのかということに徹底しようとした芸術家だった。彼は表現するというより、見ることに徹しようとしたのである。

 彼はすべての存在が無意味であると示しただけでなく、自分自身をも無意味な存在として生きて見せたことにあるのかもしれません。彼自身の生き様こそが最高のパフォーマンスだったわけです。

<締めのお言葉>
「彼は思えば、生きている死者のメロドラマを繰り返し繰り返し演じ続けていた。・・・」

トーマス・ローソン

<参考>
「ウォーホル画集 Andy Warhol a retrospective」
 1990年
(編)キナストン・マクシャイン
(訳)東野芳明
(株)リブロポート
「伝記ウォーホル パーティのあとの孤独」 1989年太字部分はこの本からの引用です)
(著)フレッド・ローレンス・ガイルズ
(訳)野中邦子
文藝春秋

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