アンディ・ウォーホル、もう一つの人生

「アンディ・ウォーホル・ダイアリーズ The Andy Warhol Diaries」

- アンディ・ウォーホル Andy Warhol -
<アンディ・ウォーホルの日記>
 アンディ・ウォーホルが自らの行動を記録するため、知り合いの女性ライター、パット・ハケットに電話での口述筆記という形で記録させた日記。それは、1976年11月24日から始まり、彼の死の直前まで続きました。なぜ彼はそうした形で自らの人生を残そうとしたのか?前日に起きた出来事や行動の記録、時にはそれに対する感想を、翌日の朝、電話口で彼が語り続けました。
 もちろん、そこで語られたことがすべて真実とは限りませんが、少なくとも彼にとってはそれは真実だったと考えるべきでしょう。それはもしかると、孤独に耐えきれない彼が、唯一心を許せるカウンセラーの役目を果たしていたのかもしれません。
 その日記は、彼の死後、1989年に記録者でもあったパット・ハケットによって編集・発表され、彼の知られざる人生の裏側が明らかにされました。そして、その日記をもとにして、彼の半生を再現し、再評価した映像作品が制作されました。
 ここではそこからアンディ・ウォーホルのもう一つの人生をまとめてみます。(彼の芸術家としての人生についてのページは別にあります。アンディ・ウォーホル

<イコン画とアンディ>
 アンディ・ウォーホルは、ペンシルバニアに住むチェコからの貧しい移民一家に生まれました。ひ弱で色白の少年は、学校でいじめの対象になりますが、クラスメイトの肖像画を描くことでなんとか危機を乗り切ったといいます。その時点で、彼の絵の才能が人生を変え始めていたのです。
 ただし、その頃から彼は自分自身がストレイトではないことに気が付いていて、自分の居場所に思い悩み始めていました。そんな彼にとっての救いの場所として、街の教会があったようです。彼の母親が熱心なクリスチャンで、東方典礼カトリック教会に彼を毎週日曜日に連れて行っていました。
 実は、カトリックの教会は、同性愛者にとっては数少ない逃げ場ののひとつでした。結婚することが許されないカトリックの聖職者はゲイであってもカミングアウトする必要はありません。そのせいか、彼にとって教会は心が休まる場だったのかもしれません。そんな教会の壁に飾られていた聖人たちの肖像画である「イコン」こそ、ウォーホル絵画の原点だったと言われます。平面的で原色を使ったきれいな色使いのイコンは、後に彼の代表作となる「セレブたちの肖像画」とよく似ています。

<アンディを撃った女>
 子供時代から大好きだったキャンベル・スープ缶のイラストによってポップ・アートのブームを巻き起こした彼は、アート制作の拠点として「ファクトリー」を設立。美術だけでなく音楽、映像も含めたライフスタイルすべての総合的アートの場には、アーティストだけでなくビジネスマンや薬物中毒者など様々な人々が集まっていました。そこはアンディの城でしたが、彼自身は他者とのコミュニケーションを嫌い、常にどこか孤独でした。そのうえファクトリーが有名になり、アンディが富と名声を得て行く中で、ファクトリーの中には彼への不信感や妬みの感情が広がって行きます。ついにはそれが彼への怒りとなり、衝撃的な事件を生み出すことになります。
 1968年6月3日、彼はヴァレリー・ソラナスによって狙撃され、死の淵を彷徨うことになりました。幸い彼のまだ死にたくないという強い思いがあったせいか、体はボロボロになったものの、なんとか彼はそこから復帰することができました。

<ア―ト・ビジネス>
 命の危機から逃れたものの、彼は心身共に介護を必要とする状況でした。そこで彼を介護するために同居することになったのが、その後アンディと愛し合うことになる人物ジェド・ジョンソンでした。再び誰かに狙撃されるのではないかと恐れる彼は家から出たがらなくなり、旺盛だった創作意欲も衰えてしまいます。
 そんな状況で彼が始めたのは、自らのアート活動のビジネス化でした。彼はそのためにAWE(Andy Warhol Enterprise)を設立し、そこで様々なプロジェクトを立ち上げることになります。
(1)雑誌「Interview」
 最新情報を扱い、アンディの情報発信の場ともなった雑誌。
(2)委託ポートレイト
 最も資金源となるこの時期唯一の創作活動。セレブから数万ドルで受注して、マリリンやケネディなどの有名作品の仲間入りができるという肖像画制作。
 1時間で20枚程度のポラロイド写真を撮影。それを拡大してシルクスクリーンに印刷し、キャンバスにトレース。そこから彼が色を選んで、着色作業を行い完成させます。ミック・ジャガーやファラ・フォーセットなどの芸能人から普通の資産家まで「セレブのイコン画家」として、この仕事は莫大な利益を生み出し続けます。
(3)商品宣伝部門
 「いいビジネスは最高のアートである」という彼のモットーを実現するための部署。
 CM出演やタイアップ広告など企業とのコラボを積極的に展開し、アンディ・ウォーホル自身のブランド化を行いました。当時、彼はバブル景気の日本のテレビCMにも出演しています。
 こうして彼のビジネスモデルは、世界のアート界に大きな影響を与えることになりますが、アート界からは当然批判的な目で見られることになりました。
(4)映画制作
 映画ビジネスがニューシネマの登場で混沌とする中、彼も映画制作に参入しました。しかし、彼は自分で監督するよりも製作にまわり、数々の作品を世に出しますが、どれも話題にはなってもヒットせず、評論家からもほとんど評価されませんでした。
 1977年には、彼の恋人だったジェフを監督に抜擢し、映画「BAD」製作します。不気味で残虐な女性殺し屋を描いたその作品は、興行的にも批評的にも大失敗となり、アンディはこの後、ついに映画業界から撤退します。

<ジェフとアンディ>
 映画を監督し失敗したジェフは、映画界での活動をあきらめてインテリア・コーディネイトの世界に転身。アンディの家のセンスの良いコーディネイトは、良い宣伝となり、ミック・ジャガーからの注文により彼の自宅のコーディナイトを任されます。これでセレブの間で彼の仕事は有名になりました。
 しかし、その頃アンディは創作活動に戻るどころか、当時人気絶頂だったディスコ「スタジオ54」に入りびたり、夜遊びを繰り返す日々でした。そこでの遊び仲間でゲイの人気アーティスト、ヴィクター・ヒューゴと共同で男性モデルを雇って、ヌード写真を撮影しまくっていました。アンディにとって、そうしたアンダーグラウンドな活動は、ファクトリー時代への回帰であり、精神的なバランスをとる作業だったのかもしれません。そして、この作業の延長で生まれたのが、1979年の「SHADOWS展」でした。しかし、よく見ると男性器を思わせるイメージの作品たちは、再評価には結びつきませんでした。
 ある日、ジェドはアンディが撮影していた男性ヌード写真を見つけ激怒。彼からの愛情表現のなさにうんざりしていた彼は、つにいにアンディの家を出てしまいました。

<ジョン・グールドとアンディ>
 ジェドに去られ、再び孤独になったアンディでしたが、知人からの紹介もあり、すぐに彼は新たな恋人と出会います。パラマウント映画の若き重役で典型的なWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)のイケメン、ジョン・グールドです。
 時代は、1980年代に入り、ロナルド・レーガン政権下保守回帰が進み、プレッピースタイルがブームとなっていました。ライフ・スタイルもファッションも、そうした保守上流階級をマネる時代でした。アンディもまたそんな時代の流れに乗りながら、その裏でゲイ・ライフを楽しむようになります。

<モデル活動、テレビ制作>
 自らの老いを意識しつつも、彼はファッション・モデルに挑戦します。ニューヨークの一流男性モデルたちと共にランウェイを歩いたり、様々な商品のCMにモデルとして出演。自らのブランド化を進めます。(同時にマスコミへの露出願望を満たしていたのでしょうが)
 1981年、彼は自らが企画・制作・司会まで務めるテレビ番組「アンディ・ウォーホルTV」をスタートさせます。それはマスコミ、大衆のスターであり続けるために彼が選んだ究極の戦略でした。この年には、彼は自らが女装してモデルになって撮影された写真展「オルタード・イメージ展」も開催しています。それは、かつてダダイズムの黄金期にマン・レイとマルセル・デュシャンが行った企画の再現でもありましたが、そのルーツは彼が1975年に行った「レディース&ジェントルメン展」だったかもしれません。それはポートレイトの仕事の延長として、彼がニューヨークの街から様々なドラッグ・クイーンをモデルとして雇って来て撮影したポートレイト写真の個展でした。その中には、1969年の「ストーン・ウォールの反乱」で一躍有名になったドラッグ・クイーン界のレジェンド、マーシャ・P・ジョンソンもいました。
 しかし、その個展で展示された作品が高額な価格で売れたにも関わらず、被写体となったドラッグ・クイーンのモデルたちにはその見返りはなく、それがアンディへの不信感へと発展することになったとも言われます。彼が再び狙撃されるのではないかと精神的にまいったのは、そうやって彼自身がファクトリーのスタッフやゲストから孤立していったことも原因だったのでしょう。
 そもそも彼は幼少期から自分の容姿には自身が持てず、常に思い悩んでいました。
 団子鼻で色白でやせっぽちの彼は、生涯そのコンプレックスに苦しみ続けました。ニューヨークに出てからの彼は、そんな自分の見た目を補うため、カツラ、化粧、メガネ、衣装にこだわり続けました。それは独特のスタイルによって、自らのイメージを作り上げてアピールするドラッグクイーンの戦略だったとも言われます。

<バスキアとアンディ>
 1980年代初めは、ニューヨークでヒップホップ文化が登場した時期です。それまでは黒人たちが多く住むブロンクスで展開していたヒップホップが、地下鉄車両に描かれたグラフィティ・アートと共にダウンタウンにも進出。そんなグラフィティ・アーティストたちにとってもアンディは英雄で、キャンベルスープの缶を描いたグラフィティ作品も数多く地下鉄車両にありました。ニューヨークに住む彼にとっても、その存在は刺激的で、早くから彼はキース・へリング、ケニー・シャーフらの個展を訪れていました。
 1982年10月4日、ある画商が彼を昼食会に誘い、その場で彼に新進アーティストのバスキアを紹介しました。ところが、彼はすでにバスキアを知っていて、それどころか彼の作品を購入し、お金まで貸していました。アンディと再会したバスキアは、帰宅するとすぐに自分とアンディの肖像画を描き、彼に届けました。ここからアンディはバスキアの父親代わりの存在として付き合い始め、その後の共同作業へとつながることになります。
 1983年に始まった二人の共同作業からは、80作品が生まれます。アンディはバスキアからの影響で、久しぶりに手描きに戻り、デビュー当時の創作意欲を取り戻しました。

<エイズとアンディ>
 1981年ニューヨーク・タイムズの記者が記事で初めて「エイズ」を取り上げました。その後、その治療法のない恐るべき感染症が、同性愛者たちの間で広がり、多くの死者を出すことになります。「エイズ」は、神がゲイ社会に与えた天罰であると言われ始めたこともあり、ゲイの人々はさらなる差別の対象となり、社会からの孤立へと彼らを追い込むことになりました。
 1983年、アンディとジョン・グールドが同居し始めたのはまさにそんな時期でした。それまでにも、アンディには何人かの男性の愛人がいたと言われています。エドワード・ワロウィッチは青春期の相手で、ジョン・ジョルノ、ダニー・ウィリアムズなども愛人だったと言われています。しかし、そうした相手との関係とジョンとのそれはまったく異なるものでした。
 二人の間では、アンディからの愛情の告白もあり、親密な手紙のやり取りもあったようです。ジョンもアンディを独占しようとせず、アンディとバスキアの関係を嫌がることもない、理想的な関係を築いていたようです。

<ニューヨーク・アート界の危機>
 1985年9月14日、「バスキアVSアンディ展」が開催されます。バスキアのパワーも全開となり大成功だったはずが、マスコミの多くはバスキアをアンディのマスコット的存在と評価。アートの世界においても、人種差別の壁は厚く、バスキアは傷つきました。それでもバスキアの作品は、キース・ヘリングらと共に時代の波に乗って、どんどん価格が高騰。アート界のバブルがニューヨークのアーティストたちの関係をバラバラにし始め、そんな状況の中、エイズの猛威が彼らを襲います。
 多くのゲイの仲間がいるアンディは、恐る恐るエイズの検査を受け、無事に陰性の結果を得ます。しかし、彼の同居人ジョン・グールドが肺炎で緊急入院し、エイズを発症していることがわかります。退院後、ジョンはエイズと闘うため、気候が良く、様々な治療が試せるカリフォルニアへと引っ越してゆきました。
 1986年9月18日、ジョン・グールドは壮絶な闘病の後にこの世を去りました。彼は死の直前まで自分がエイズであることも、同性愛者であることも認めなかったそうです。

<「最後の晩餐」とアンディ>
 1985年10月30日、自身の新刊「ウォーホルのアメリカ」出版記念サイン会で、ファンの少女にカツラを奪われる事件が起きます。たかがカツラとは言え、容姿にこだわり老いを気にしていたアンディにとっては1968年の狙撃事件に匹敵する衝撃的な事件だったかもしれません。
 1985年から、彼は画商のアレクサンドル・イオラスから依頼を受け、「最後の晩餐」をモチーフとしたシリーズの制作を開始します。様々なイメージを用いて「最後の晩餐」を手描きによって描くこのシリーズは22作品になり、彼にとって最後の個展として1987年にイタリアのミラノで大々的に発表されることになりました。
 しかし、ミラノの個展のオープニングに合わせてイタリアに渡った彼はパーティー続きの旅で体調を崩してしまいます。かつて狙撃事件で受けたダメージが残る胆のうが炎症を起こしていたため、彼は緊急入院。手術によって胆のうの除去を行い危機を脱したと思われましたが、その後合併症を併発し、1987年2月22日不整脈によってこの世を去りました。

<葬儀にて>
 アンディの死後、4月1日に葬儀が大々的に行われ、アメリカ中から多くの芸術家、セレブたちが集まった中、美術史家のジョン・リチャードソンは、弔辞でこう述べました。

 アンディは傍観者だったという認識は妥当なものでしょう。しかしながら別の一面もありました。
 親友にしか見せなかった - 信仰心です。
 驚かれる方もいるでしょうが、そのおかげで芸術家の精神を保てたのです。
 彼の知られざる信仰心を知れば皆さんの認識は変わるでしょう。
 彼は世界を欺き、次のように信じこませました。
 ウォーホルはカネと名声と美に執着した - 冷酷なほどに無関心な人間だと。
 表面だけで判断しないでください。
 冷淡な傍観者は、神の使いだったのです。
 アンディは無関心を装い故意に世界との距離を保っていました。
 それは何よりも誠実さと芸術のためでした。
 内に秘めていた宗教心が作品に現れたのは数年前のクリスマスです。
 彼は「最後の晩餐」のシリーズに着手しました。
 ひらめきを与えたのはタイムズスクエアで見つけた石膏の模型です。
 アンディは奇抜なアイデアで神聖な題材に活力を与え宗教美術に大きな風穴を開けました。
 とてつもなく素晴らしく先験的な作品を - 晩年に残しています。
 そこにはこう書いてあります。
 「天国と地獄は紙一重だ」と。

 Heaven And Hell Are Just One Breath Away !

 葬儀の映像には、これまで登場した人々が次々に写し出されます。見ているこちらも、なんだか彼の人生を共に生きたような錯覚になり、なんとも懐かしく愛おしい気分になりました。

<アンディの日記>
 アンディの日記は、その記録を行ったパック・ハケットの編集により、彼の死後2年後に発表されました。その内容については疑問視される部分もあり、アンディ自身がゲイであることを示すような記述もありません。アンディの友人でもあったパットは、彼の言葉と願いどおりに日記を書き、編集したのかもしれません。そう考えると、彼の日記は20世紀最高のアーティスト、アンディ・ウォーホル最後で最大の作品と呼べるのかも知れません。

<アンディの死後>
 彼の死後、自らの精神的な支えでもあったアンディを失ったバスキアはさらにドラッグに深入りし、1988年8月12日にオーバードーズにより、この世を去ります。まだ27歳という若さでした。
 アンディの大切なパートナーだったジェドは、1996年に飛行機事故によって非業の死を遂げています。
 多くのゲイの人々を死に追いやったエイズ禍を生き延びた彼の愛する人々は、彼と同様、早くにこの世を去りました。
 自らが望んだように機械としての人間を演じ続けたアンディは、最後までカラッポな存在であろうと愛や憎しみや怒りを拒否し続けました。
 それがどこまで彼の本当の姿だったのか?それは彼の日記でも明らかにはされず、さらに謎は深められ、偉大なパフォーマー「アンディ・ウォーホル」は永遠の謎となりました。
 それは、彼の思うツボだったのかもしれません。
 死してなお、我々を刺激続けるアンディよ。永遠なれ。

「アンディ・ウォーホル・ダイアリーズ」 The Andy Warhol Diaries(N)
1-1「狼煙」1-2「SHADOWS アンディとジェド」1 - 3「2つの顔 アンディとジョン」 1 - 4「共同制作 : アンディとバスキア」
1-5「15分」 1-6「ラヴィング・ジ・エイリアン」
(監)(脚)(製総)アンドリュー・ロッシ(アメリカ)
(製)マーヤ・E・ランドルフ他(製総)アレックス・M・ウーダル他(撮)ウルフガング・ヘルド、メイス・アルベルティ(編)スティーヴン・ロス
(原編)パット・ハケット「アンディ・ウォーホル日記」(音)ブラッド・オベルホッファー(ナレーション・アンディの声)ビル・アーウィン&AI
1989年発表のアンディの日記を基にしたドキュメンタリー・シリーズ 
「狼煙」
アンディの生い立ちからブレイク。ポートレイトでセレブ入り。ファクトリーを設立しアート界だけでなく時代の寵児として活躍。
しかし、活躍の裏側では、自らの容姿への不満、ゲイであることの負い目を背負い続けます。
そんな中、彼はヴァレリー・ソラナスによって狙撃されて死にかけます。
「SHADOWS アンディとジェド」
暗殺されることを恐れるアンディはファクトリーを閉鎖し、AWEを設立し、アート・ビジネスでの活躍を開始。
自らをブランド化しますが、ポートレイトでセレブを描くだけの活動はアート界で批判されます。
そんな中、彼はジェド・ジョンソンと出会い、二人の生活が始まります。
しかし、アンディがスタジオ54で遊び、ドラッグにはまる姿にジェドは幻滅。
彼がゲイ・ヌード写真にのめり込んでいることを知って激怒。そんな中開催された個展「SHADOWS」(1979年)
自殺未遂を繰り返したジェドは、ついにアンディのもとを去ります。
「2つの顔 アンディとジョン」
ジェドと別れてすぐに出会ったジョン・グールド。パラマウント映画の重役で典型的WASPエリートとの関係。
共にゲイであることを認めない微妙な関係だがお互いを支え合う理想の関係となり、同居を開始。
1981年「オルタード・イメージ」展とためにアンディは女装し、もう一つの顔を作品化。
それは1975年「レディース&ジェントルメン」の自分自身による再現となった。
NYのドラッグ・クイーンのポートレイト作品は、当時は理解されなかった。しかし、それはファクトリー時代に回帰した作品だった。
「共同制作:アンディとバスキア」
NYからグラフィティが登場。彼らはポップ・アートに憧れていて、アンディも彼らの作品に憧れていました。
特にキース・へリングやケニー・シャーフは、アンディに影響を与えました。
画商にバスキアに紹介されたアンディは、彼を路上で見て知っていて40ドル貸していた。
そこからアンディとバスキアの共同制作が始まります。
「15分」
テレビ番組「アンディ・ウォーホルの15分」のスタート。
1985年「バスキアVSアンディ」展開催。エイズの蔓延とジョン・グールドの死。
「ラヴィング・ジ・エイリアン」
「アメリカ」の出版サイン会でのカツラ事件。
アンディ最後の個展となった「最後の晩餐」シリーズ展ミラノで開催。
胆のう炎の発症と手術からの合併症による速すぎる死。

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