
「天使の恥部 Pubis Angelical」
- マヌエル・プイグ Manuel Puig -
<マヌエル・プイグの代表作>
じっくりと読む必要がありますが、それだけ奥行きのある読み応えのある小説です。映画かもされ話題となった「蜘蛛女のキス」の原作者マヌエル・プイグの小説を初めて読むという方は、その特殊な構造に混乱させられるかもしれません。プイグの小説は多くの作家とは異なり、一種類の文章スタイルから構成されたシンプルな作品ではありません。代表作でもある「蜘蛛女のキス」の場合は、主人公二人の会話部分と報告書として書かれた部分、それとホモセクシュアルに関する著者による脚注部分から構成されていました。そして、この作品もまた、まったく異なる部分から構成されています。
(1) 三人称で書かれた実在の女優ヘディ・ラマーの物語
彼女は大金持ちで異常に嫉妬深い夫によって閉じ込められていた島からテオという男に助け出されアメリカへと向かいます。彼女はアメリカへと向かう船の中でテオがスパイである知り、彼を殺してしまいます。ところが、彼女はその現場をハリウッドの映画プロデューサーに目撃されてしまい、その後アメリカで映画女優として働くことになります。どうやら彼女には人の心を覗き見たり、夢によって未来を知る能力があるらしく、その能力が狙われているらしいことがわかります。ところが、その後彼女はハリウッドでのトップクラスの美人女優として活躍しますがメキシコで謎の死をとげてしまいます。
(2) メキシコの病院に入院しているアニータと見舞いに来たベアトリスとの会話
アニータの別れた夫フィトと左翼の活動家のために弁護活動をしている元彼の弁護士ポッシなどについて、そして自分の病気について語られています。
(3) メキシコの病院に入院しているアニータとポッシとの会話
アニータに結婚を迫る保守派の重要人物アレハンドロと故国アルゼンチンの政治問題について。彼女にアレハンドロをおびき出すように頼むポッシはアニータの病が不治であることを告げ、最後にアルゼンチン人民のために協力をしてほしいと要請しますが、・・・・・。
(4) アニータの日記
自分の母親とともにアルゼンチンにあずけてきた娘クラリータに対する思いなど、客観的な自分の気持ちを残そうと書き始めた。彼女自身の思いが冷静に記述されている部分でもあります。
(5) 三人称で書かれたW218の物語
SEXによって癒しを与えることを任務とするセックス治療師として生きる未来の女性。彼女にはW218という名前しかない。そんな彼女にLKJSというコードNo.をもつ他国からやって来た謎の男に接近してきます。彼に誘われて豪華なパーティーに出た彼女は、いっしょに国外に出ようと誘われます。しかし、彼女は彼の心を覗いてしまいスパイであることを知ってしまい、思わずナイフで殺してしまいます。殺人罪で逮捕された彼女は裁判で無期懲役を求刑されてしまいます。しかし、その時、彼女は刑務所での服役よりも
厳しい万年氷に覆われた隔離棟で最も危険な政治犯や伝染病患者たちを癒す仕事のつくことを望んだのでした。
僕自身、この小説の全体像を把握するのに、かなり読み進まなければなりませんでした。というか、ほとんど最後まで読んだ後、こうして書き並べてみてやっと理解できた気がしています。
<この小説の主人公>
この小説が書かれた当時、1975年にメキシコの病院に入院していた不治の病に冒された女性アニータ。彼女こそが、この物語の主人公であり、三人称で書かれた部分は彼女が見た夢物語のようなものと考えるとわかりやすいのかもしれません。
女優ヘディ・ラマーは彼女を手放した母親。W218は、彼女がメキシコに置いてきた娘のクラリータ。すべての物語はアニータを中心に展開していると考えると確かにすっきりします。小説の構成としては、確かに難解な構成と文章でありながら、読者の理解を助けるヒントはいっさい示されていないのがプイグ作品の特徴なのかもしれません。僕が好きな村上春樹、スティーブン・キングらの作品とは対極に位置する邪道ともいえるスタイルでありながら、世界中から高く評価されている異色の作家といえるのかもしれません。
W218の物語だけを見ると近未来ディストピア小説。ヘディ・ラマーの部分はハリウッド黄金時代の伝説的物語。それぞれまったく異なる物語が不治の病に冒されて朦朧となった意識の世界に住む一人の女性の頭の中で、時代を越えた女性もしくは母性の苦悩の歴史として統一されることが可能になったのです。
男に騙され、男に利用され、それでもなお愛すべき理想の男性の存在を信じる不運な女性たちの物語。それは遥かな昔から、そして未来永劫、世界に男と女が存在する限り生まれ続けることになるのかもしれません。
そうした悲劇の物語を作者はあくまで淡々と描き出しています。悲劇のヒロインを生み出した男性中心の現代社会を声高に批判するわけでもなく静に現実を見つめるだけにとどめています。だからこそ、ラストに作者の分身ともとれる人物がW219のために神へ祈る言葉は心に強く響きます。
<マヌエル・プイグ>
この小説の作者マヌエル・プイグ Manuel Puig
は、1932年12月28日アルゼンチンのブエノスアイレス州ヘネラル・ビジューガスで生まれています。子供の頃から映画オタクでグレタ・ガルボ、リタ・ヘイワースなど、ハリウッドの美人女優たちに憧れる少年でした。
1945年に首都ブエノスアイレスに引っ越した後、大学で外国語を学び、1950年に奨学金を得てイタリアに留学。イタリア映画の聖地チネチッタで子供時代からの憧れだった映画界で働くため、監督、シナリオ作家になる修行を積み始めます。この頃彼はイタリアの巨匠ヴィットリオ・デ・シーカやフランスの巨匠ルネ・クレマンの助監督も勤めたこともあるそうです。しかし、映画業界の内情を知り、自らの思い描く世界とのギャップに気づいた彼は映画の道をあきらめ、より自由な表現が可能な作家の道を目指す決意を固めます。
1963年、彼はヨーロッパを離れアメリカに渡り、本格的にニューヨークで作家活動に入ります。彼は映画を撮る代わりに自らの頭の中で映画を作り上げ、それを文章に書き起こすという独自の道を選んだといえます。物語を現実と幻想を交えて多角的に描き出そうとする彼の複雑な表現方法が映画化困難なのは、彼が目指したより複雑な世界観から当然なのかもしれません。映画で表現できるなら、彼は映画界で働いていたはずなのですから・・・・・。
想像力をより多く必要とする小説という表現方法は、時に難解ではあっても、読者の協力によっては映像化が困難な世界を構築することが可能な魔法の表現方法です。問題はこうした高い目標をもつ作家の作品に付き合うことの喜びを知るためには、「読書」という文化に早くから親しみ、その訓練を積んでおく必要があるということです。小さな子供たちが絵本を読み始めてから、マヌエル・プイグの世界にまで到達するには21世紀の今、あまりに障害が多すぎます。・・・おっと話がそれました。
<アルゼンチンの近代史>
もうひとつ彼の小説にとって重要なテーマとしては、この小説の中でアニータとポッシの会話で展開されるアルゼンチンの政治問題があります。プイグはニューヨークで処女小説「リタ・ヘイワースの背信」(1968年)を発表し、いきなり世界的にその名を世界的に知られることになった後、アルゼンチンに帰国。その後、「赤い唇」(1969年)、「ブエノスアイレス事件」(1973年)もベストセラーとなります。しかし、1973年にアルゼンチンで起きた大きな政変により、彼は再び国外へと旅立つことになります。
1955年にクーデターによって政権の座を追われていたペロン元大統領が経済不況に乗じて復活。この小説にもたびたび登場する「ぺロニスト」と呼ばれる彼のシンパとともに政権を獲得します。「左翼ファシスト」とも呼ばれたペロン政権が復活して以降、国内は反政府勢力への圧力が強まり、彼は亡命を余儀なくされました。
<ペロン政権>
中産階級の労働者家庭で育ったペロンは軍隊に入った後、そこで地位を確立。たたき上げの政治家として、その名を知られるようになり、ついには大統領にまで上り詰めます。時代は1946年、戦後の食糧危機が世界中を苦しめる中、アルゼンチンは戦争の被害をほとんど受けなかったこともあり、食料の供給地として一気に豊かな国となります。彼はその状況を生かしながら、他国とは異なる独自の政治を行なってゆき、アルゼンチンの黄金時代を築きます。
彼はドイツの戦争犯罪人の重要人物の亡命を助けたことから「ファシスト」と呼ばれましたが、彼自身はユダヤ人の迫害は批判していました。そうかと思えば、民族主義的な考えに基づき経済的な自立のために欧米系企業を国営化してしまい、共産圏の国に似た手法を用い、海外の国々を驚かせたりもしました。(それは石油という最強の輸出製品をもつことで、独自の独裁政権を確立したベネズエラの大統領チャベスを思い起こさせます)
こうして、政治手法はアルゼンチン経済が好調な間は国民から高く評価されます。しかし、農業の好調に安心している間にアルゼンチンは、世界的な工業化の流れに乗り遅れてしまいます。1950年代に入り、その影響は国内経済の急激な不況として現れ始めます。こうして、1955年クーデターが起き、彼は国外へと亡命することになったのでした。
ところが、一度崩壊した経済体制はそう簡単に立ち直らせるものではありません。彼の後を受けた政権もやはり、経済を立て直すことはできず、再び国内は経済、政治ともに混乱。かつての栄光を夢見たぺロニストたちが彼を国内に呼び戻し、1973年再び彼に政権を任せたのでした。ところが、ペロン大統領は翌年突然この世を去ってしまいます。そのため、彼が副大統領に指名していた妻のイザベルがその地位を引き継ぎますが、なんと彼女は夫以上に権力を濫用し始めます。政府を批判する政治家や文化人を次々に逮捕。場合によっては、拷問も行い「恐怖政治」を展開。その横暴ぶりに政府内部、軍内部からも批判がおき、1976年には無血クーデターによって彼女は国外追放となりました。
ところが、それでもなおぺロニストはアルゼンチン国内で力を保ち続けます。それはなぜか?彼に中南米の政治家特有のカリスマ性があったのは確かであり、作者自身も彼の魅力にひかれていた部分があったのでしょう。だからこそ、この作品の中でプイグはぺロニストについて、しつこいほど何度も語っているのです。
<プイグ死す>
1990年、彼は57歳という働き盛りの年齢でこの世を去りました。死因はエイズだったようです。考えてみると、1980年代はまさにエイズの時代でした。ニューヨーク・タイムズが記事の中でエイズについて初めて取り上げたのが、1981年。この小説が発表されたのが、1979年ですからゲイの人々の間にはまだ、その恐怖は広がっていない時代だったかもしれません。彼の作品は、ニューヨーク、映画、ポップ・アート、ゲイ・ムーブメントから大きな影響を受けていたといわれていますが、それは残念ながらエイズへの最短距離でもありました。(もちろん、その当時のことですが!)しかし、その場所は、当時、アートの世界にとって最も熱い場所でもあったのです。
ご冥福をお祈りします。
「天使の恥部 Pubis Angelical」 1979年
マヌエル・プイグ Manuel Puig(著)
安藤哲行(訳)
国書刊行会
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