手塚治虫とTVアニメ時代の始まり


- 戦後アニメのスタートと「鉄腕アトム」の誕生 -

<1945年~1963年>
<アニメ時代の始まり>
 1960年、早生まれの僕は、テレビ・アニメのスタートをほぼリアルタイムで見られた最初の世代です。当時は今と違いテレビでしかアニメは見られず、一日に放送されるアニメも毎日1作品程度だったので、当時放送されていた作品をほとんど見ることができました。もちろんまだ10歳前だったので、記憶はあいまいになっていますが、子供時代の記憶は意外に鮮明です。
 そんなテレビ・アニメ草創期の記録を収めた本「アニメ大国建国記」が出版されました。当時の多くの漫画家たちがこの世を去りつつある21世紀の今、貴重な本です。そんなわけで僕も記憶と合わせて、当時のことを振り返ろうと思います。

<1945年>
アニメ映画「桃太郎海の神兵」
(監)瀬尾光世(原画)桑田良太郎(音)古関祐爾(詞)サトウハチロー(美)黒崎義介
 ミュージカル仕立ての74分のアニメーション作品です。
 南方戦線セレベス島マナドへの海軍陸戦落下傘部隊による奇襲作戦を描いた作品。この作品を戦争の混乱の中で観た手塚治虫は衝撃を受け、その後の人生を変えられることになりました。手塚治虫は、この時の思いをこう記しています。
「ぼくは焼け残った松竹座の、ひえびえとした客席でこれを観た。観ていて泣けてしようがなかった。感激のあまり涙が出てしまったのである。全編に溢れた叙情性と童心が、希望も夢も消えてミイラのようになってしまったぼくの心を、暖かい光で照らしてくれたのだ。『おれは漫画映画をつくるぞ』と、ぼくは誓った。『一生に一本でもいい。どんなに苦労したって、おれの漫画映画をつくって、この感動を子供たちに伝えてやる』」
1945年4月手塚治虫

 1945年8月に戦争が終わると、それまで仕事を失っていたアニメーション関連の作家たちがアニメ制作会社を設立し始めます。
「株式会社 新日本動画社」
 山本早苗、政岡憲三、村田安司、大工原章、古沢日出夫らが設立。後の社名は「日本漫画映画株式会社」に改名されます。

<1947年>
「日本動画」
 日本漫画株式会社はこの年分裂。山本、政岡、村田は日本動画を設立し、そこに薮下泰司も参加します。
 そして「日本漫画映画株式会社」には、大工原、古沢、瀬尾光世が残ります。
「芦田漫画映画製作所」
 そんな中、芦田巌は一人で独立し、「芦田漫画映画製作所」を設立します。
 戦前から漫画を描いていた手塚治虫は、ディズニー映画の影響からアニメを作りたい思いが募り、神戸から東京に出て来てアニメ制作の現場で働こうとします。求人広告を見て彼が訪れたのは三軒茶屋にあった芦田漫画映画製作所でした。彼は自作の「新宝島」を見せて働かせてほしいと社長の芦田に話しますが、断られます。
「・・・これは個人作業ではなく共同作業なんだから、いったんマンガなんかを出版したそういう単行本作家になってしまった人が来た場合、きっとすぐ飛び出してしまう。やめてしまうだろう。それだったらいっそのことあなたはマンガ作家になりなさい。アニメーションはすっぱり諦めた方がいいです」
 この言葉により、手塚は東京で漫画家として働く決意をしますが、漫画家として成功してもなお、彼はアニメ制作の夢を忘れることはありませんでした。

<1952年>
「日本テレビジョン株式会社(TCJ)」
 自動車輸入会社梁瀬自動車(現在のヤナセ)の社長梁瀬次郎は、ハワイで日系アメリカ人のジョン田中と出会い、彼からこう進言されます。
「これからはテレビの時代になります。テレビ番組の制作会社を作り、日本のディズニーを目指しませんか、一緒に新しい文化を作りましょう!」
 こうして設立されたのが、日本テレビジョン株式会社(Television Corporation of Japan Co. Ltd)。略してTCJと呼ばれることになります。
 TCJは品川にスタジオを建て、1953年始まったテレビ放送における最初のテレビCMの制作を担当することになりました。日本テレビで放送された最初のCMは時計の大手メーカー、精工舎(セイコー)のアニメによるCMでした。ただし、まだアニメのノウハウがほとんどなかったことから、芦田漫画映画製作所の芦田巌とスタッフが招かれてそのノウハウを教えることになりました。

<1956年>
「東映動画」
 東映の大川博社長は、ディズニー・アニメの成功を知り、新たな映画の方向性としてアニメ映画への進出を考えていました。そこで倒産寸前だった日本動画をスタッフごと買収。1956年8月に「東映動画」として再スタートさせました。
 スタッフとしては、山本、薮下に加え、大工原、森康二が参加。練馬区大泉の東京撮影所近くに新社屋を建設。1957年1月9日に完成すると、さらに新入社員として、大塚康生、中村和子、紺野修司、坂本雄作らを雇います。8月には、楠部大吉郎やNHK朝ドラ「なつぞら」のモデルとなった奥山玲子も入社。
 東映動画は、さっそく長編アニメ映画第一作の制作準備に入ります。東映アニメは当初から海外進出を目指していたこともあり、第一作には台湾の映画会社との提携が決定。中国市場を意識して、題材として中国の民話をもとにした「白蛇伝」が選ばれました。
「白蛇伝」(1958年)
 日本初の長編カラーアニメ映画として製作された東映動画作品。
 79分で原画枚数は16、474枚、動画65、213枚、総作画枚数214,154枚、製作費は4千47万円。
 ブルーリボン賞特別賞などを受賞し、海外でも公開され一応の成功を収めました。

<1959年>
 NHK,NTVに続く放送局としてフジテレビが放送を開始。開局記念番組として、実写版「鉄腕アトム」が製作されました。しかし、その出来は手塚が気に入るようなレベルではなく、この後、自身の作品を実写化することを手塚はほとんど許さなくなります。そんな手塚に念願だったアニメ制作のチャンスが訪れます。
「西遊記」(1960年)
 1959年に「少年猿飛佐助」が東映動画の長編アニメ第二作として公開され、次の作品に手塚治虫原作の「ぼくの孫悟空」を基にした「西遊記」が選ばれます。突然、手塚は念願だったアニメ制作に関わることになり、ディズニーが制作現場で用いているストーリーボード方式を導入し、自ら原画、キャラクター・デザインを担当することになります。ところが、すでに多くの仕事を抱えていた手塚にアニメ制作のために使える時間はほとんどなく、原画の制作はどんどん遅れてしまいます。結局、彼はラフ画をもとに原画をアシスタント数名に任せることにします。そこで手塚プロから東映動画に派遣されることになったのが、月岡貞夫と石森章太郎でした。
 ちなみに映画版「西遊記」の脚本を書いたのは黒澤明の傑作「酔いどれ天使」の脚本家、植草圭之助。手塚による映画のエンディングで悟空の恋人は死ぬことになっていました。ところが東映側は子供向けの作品には向かないとして、手塚によるアンハッピー・エンディングを拒否。結局、手塚は自分が望む「演出」、「キャラクター・デザイン」、「エンディング」を実現できないまま現場から追い出されてしまうことになりました。
<石森章太郎>
 「西遊記」の制作に関わった石森は、手塚と逆にアニメ制作の仕事が自分の天職と思い、東映動画への入社を考えます。しかし、東映動画の白川大作は、彼の移籍を認めず、君はマンガ家として優れた作品を生み出しなさい、それを我々がアニメ化しようと言ったそうです。石森のアニメ好きは後に彼の作品が誰よりも多くアニメ化される一因となったのかもしれません。
 1960年「西遊記」は、1時間28分の長編アニメ映画として、実写映画「水戸黄門」と2本立てで公開され、ヒットを記録します。しかし、手塚にとってこの作品は不満の残るものとなりました。

<東映動画の混乱>
 東映動画では「少年猿飛佐助」の制作中、労働組合が結成され、労働運動が本格化します。1960年に入り、次作となる「安寿と厨子王」の制作が始まると組合活動にウンザリした坂本雄作ら社員7名が退社し、虫プロダクションに移籍します。(ただし、当時はまだ虫プロの名はなく「手塚治虫プロダクション動画部」であり、法人ではなかった)
 手塚の元にはさらに紺野修司、杉井ギサブローも参加。手塚は杉井に日本動画でもらっていた時の給料の倍を約束したと言います。当時、虫プロの給料は非常に良かったので、後に手塚が低いギャラでアニメーターを雇ったことがアニメ業界の劣悪な労働条件を作ったというのは間違いなのかもしれません。逆に手塚はあまりに高いギャラを払いすぎたことで、虫プロは後に大きな赤字を背負い込み、ついには倒産に追い込まれたとも言えるのです。
 それでも手塚は念願のアニメ制作を自分の手で行うため、優秀なメンバーを確実に自分の元に集めており、そこにいよいよ「鉄腕アトム」のテレビ・アニメ化の企画が来ることになります。

<1961年>
 日本初のアニメは実は「鉄腕アトム」ではありません。1961年5月1日から放送された平日5時47分からの3分番組。フジテレビの「インスタント・ヒストリー」が原点でした。制作は横山隆一の「おとぎプロダクション」で、鈴木伸一ら7人のアニメータが制作にあたっていました。その日にあった歴史的な事件を描く歴史番組でした。
<1962年>
 1961年、東映動画は30分のテレビ・アニメの制作を断っています。理由は、長編アニメ映画に取りかかっていたいて手が足りなかったのと、そもそも予算段階で採算が取れないと判断したからでした。試算によれば毎週放送するアニメ番組の制作には、3000人という膨大な数のスタッフが必要とされたからです。
 虫プロもまだまだ人材が不足しており、スタッフの募集を続けます。そんな中、杉井ギサブローの勧誘で林重行(りんたろう)も演出家希望で入社。東映動画から石井元明、中村和子も入社。(中村和子は「なつぞら」で貫地谷しおりが演じた「マコ」のモデルとなったアニメーター)その後もアニメ界を担うことになる優秀なスタッフがいよいよそろってきます。

<「鉄腕アトム」放送に向けて>
 この年2月、坂本雄作が「鉄腕アトム」のテレビアニメ化を提案します。そして、その情報を知った中村和子の夫でもあった広告代理店「萬年社」の穴見薫は、この企画に乗り、スポンサー探し、放送局への売り込みに動いてくれることになります。
 幸い手塚治虫自身がこの企画実現に積極的だったため、巨額な製作費の問題を自らクリアしてしまいます。「鉄腕アトム」の制作費は、1話30分が2460万円と試算されましたが、手塚はあえて55万円を提示します。(その後、穴見らが手塚に秘密でテレビ局に掛け合い155万に訂正したらしい)手塚は実写ドラマの制作費が55万円程度と知り、それと同等でなければ契約したもらえないと判断したようです。そして、この時の金額がその後放送界で独り歩きし、アニメ制作費の相場が決まってしまったとも言われます。
 ただし、そのあまりにも低い予算に合わせようとすることで、虫プロのアニメはそれまでなかった独自の制作手法のアイデアを生み出すことにもなりました。
「リミテッド・アニメ」(1秒24枚が普通のアニメーションの原画を三分の一の8枚に減らすことで、動きはギクシャクしても成立すると判断しました)
「止め絵」(人物の顔や身体を止めたまま、口だけを動かすことで原画の必要枚数を減らす手法)
「バンク・システム」(一度使った原画を廃棄せず、分類して保存。別のシーンでもそれを利用することで原画の枚数を極力減らす工夫)
 面白いストーリーなら「紙芝居」に子供が喜ぶように動きのリアルさは関係なく子供たちは喜ぶはず!というのが手塚の考えでした。
 そもそもこれらのやり方は、「アニメーション・スタジオの社長と原作者、アニメーション演出家が同一人物」であるからこそ思いつき、実行に移すことができたと言えます。そして、この後のテレビ・アニメはこの手塚と虫プロの手法を模倣することで制作現場が成り立つことになって行きます。さらにこの模倣は、単に原画と動画の制作だけでなく、キャラクターとストーリーを人気漫画から借りてくるという作品の構造にまで及ぶことになります。
 テレビアニメは、その出発点が「人気のある漫画家を原作とする」だったことから、以後も漫画とアニメは密接な関係を持ちながら発展していくことになります。海外のアニメは決して「漫画」や「コミックス」ばかりが原作ではありません。

 実は手塚が赤字覚悟でアニメの制作に挑戦しようと思っていたのは、自分にその赤字を補うだけの連載漫画による稼ぎがあったからでもありました。と言っても、彼には採算をプラスにするtめの奥の手がありました。彼はアニメを、版権ビジネスとして海外でも収益を上げられる有効なコンテンツになると考えていたのです。フジテレビとの契約の際も、放映権はフジテレビに譲るとしたものの著作権については、あくまでも虫プロが権利を持つとしています。そしてこの契約は虫プロだけでなく日本のアニメ業界にとって、後に大きな意味を持つことになります。
 いよいよ「鉄腕アトム」の制作が始まりますが、やはり手塚は忙しくアニメ現場に関わる暇はほとんどありませんでした。そこで坂本、杉井、山本暎一、石井、紺野がひとり一本ずつ「演出」を担当することで、アニメ制作現場の自転車操業が始まることになります。それぞれが月一本を原画まで責任を持って描き、それを元に動画班が毎週分の1500~1800枚の動画を描くというペースで作業が進みました。

<「鉄腕アトム」放送スタート>
 1963年1月1日火曜日18時15分フジテレビとその系列局でテレビ・アニメ「鉄腕アトム」の放送がスタートしました。
 当初、プロのアニメ専門家は「鉄腕アトム」の「手抜きアニメ」をプロの仕事ではないと批判。しかし、子供たちにとってそんなことはどうでも良かったようです。手塚が予想した通り、お話が面白ければ子供たちは喜んでくれたのです。視聴率は第4回の「ゲルニカの巻」で32.7%に達し、以降、30%代をキープし続けます。
 さらにこの年、手塚はアメリカに渡り、アメリカのNBCテレビと「鉄腕アトム」の放送契約を結びます。1本1万ドルで523本分を契約。現在のレートだと10億円以上の巨額契約が実現しました。こうして「鉄腕アトム」はアメリカで「Astro Boy」として放送されます。
 NBCは放送開始に合わせて、独自のオリジナルの主題歌を制作しました。
 実は番組放送開始時点では、「鉄腕アトム」には主題歌はありませんでした。NBC版の主題歌を聴いた手塚は帰国後、すぐに主題歌の制作を提案。歌詞を急遽詩人の谷川俊太郎に依頼して制作し、7月30日ごろからあの有名な主題歌が追加されました。こうして「史上初のアニソン」が誕生したのでした。
 「鉄腕アトム」はアメリカへの放送権売買以外にも、様々な分野で著作権料の威力を証明し、著作権ビジネスの先駆となりました。
 スポンサーの明治製菓は、マーブルチョコレートのオマケに「アトム・シール」をつけて大ヒット。虫プロは、売り上げの3%が入る契約だったので、1962年だけで1億380万円の収入となりました。その後も一業種一社の原則でスポンサーが増え続けることになり、虫プロはそのための専門部署として版権部を作ることになり、子供用品のあらゆる商品にアトムのキャラクターが印刷されることになります。
 「鉄腕アトム」の成功はアニメ業界だけでなく、放送局やスポンサーを驚かせ、次になるアトムを目指し、アニメ戦国時代が始まることになります。
 1963年秋、「鉄腕アトム」の連載にアニメが追いついてしまいます。テレビのために原作が必要になりますが、手塚は手一杯なため、代わりにSF作家の豊田有恒が書くことになります。彼はそのまま虫プロ入りし、脚本の執筆まで担当。さらに虫プロには、この年、出崎統も入社し、翌年には富野由悠季も入社しています。

 手塚治虫という才能と情熱とそれなりの資金を持っていた、ひとりの青年によって、「テレビアニメ」という新しいジャンルの文化が生まれた。それは10年もたたずして巨大な産業に発展した。
中川右介

<参考>
「アニメ大国建国記 1963-1973 テレビアニメを築いた先駆者たち」 2020年
(著)中川右介
イーストプレス

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