アニメ黄金期のスタートとSFアニメ・ブーム

「鉄人28号」、「エイトマン」、「スーパージェッター」、「ジャングル大帝」、「オバケのQ太郎」

<1963年~1965年>
<1963年>
<スタジオ・ゼロ>
 おとぎプロの鈴木伸一が退社したため、トキワ荘の仲間たちが集合。藤本弘、安孫子素雄(藤子不二雄)、石森章太郎、つのだじろうたちは、アニメ制作の夢を語り合ううちに自分たちでアニメ制作会社を立ち上げよう!という話になります。こうして、1963年5月トキワ荘のメンバーを中心にスタジオ・ゼロが立ち上げられます。それぞれのメンバーは会社設立と運営のために10万円を出資。さっそく放送局に提案するテレビ・アニメ番組のための企画会議を開催します。
 するとその企画が決まる前に早くもアニメ制作の以来が舞い込みます。虫プロから、テレビアニメ「鉄腕アトム」を1話作ってくれないか?という以来でした。実は、当時、「鉄腕アトム」は大ヒットはしていたものの、手塚が忙しすぎてアニメ化するための原作が尽きてしまい、制作スタッフの仕事量もパンク寸前になっていました。そこでなんとか毎週の枠を埋めるため、外注もやむなしの判断が下されていました。そんな中、かつて手塚も住んでいたトキワ荘のメンバーが立ち上げた「スタジオ・ゼロ」なら仕事を任せられると判断されたようです。
 こうして「スタジオ・ゼロ」は、第34回「ミドロが沼の巻」の制作を任されることになりました。ところが、完成した作品はそのままでは放送できないものでした。役割分担をしないで描いた鉄腕アトムの絵は、それぞれ石森章太郎や藤子不二雄のクセがはっきりとわかるほど個性的だったらしいのです。もしその原画が残っていたら、物凄いお宝になっていたのでしょうが、そうはなりませんでした。それぞれの場面の顔は虫プロのスタッフによって大幅に修正されていたようです。もちろん、スタジオ・ゼロにその後、虫プロからの仕事の依頼はもうなかったようです。

「鉄人28号」
 横山光輝による最初の巨大ロボットアニメ。横山光輝は、他にも少女&魔法使いものの最初の作品となった「魔法使いサリー」。忍者アニメの最初の作品「仮面の忍者赤影」の作者でもありますが、どの作品も原作のみでアニメ化には関わっていません。
 「鉄人28号」は1956年7月号からマンガ雑誌「少年」に連載された作品です。そのアニメ化は、萬年に先を越されたライバルの広告代理店「電通」が主導の企画でした。スポンサーはグリコで制作担当はTCJで、放送するのはフジテレビ。放送開始は1963年10月の日曜日夕方8時でした。

「鉄人28号」(歌)デューク・エイセス(曲・詞)三木トリロー
 ビルのまちにガオ!
 夜のハイウェイにガオ!
 ダダダダダーンとたまが来る
 バババババーンとはれつする
 ビューンと飛んでく鉄人28号
 あるときは正義の味方
 あるときは悪魔のてさき
 いいもわるいもリモコンしだい
 手をにぎれ 正義の味方
 たたきつぶせ 悪魔のてさき
 敵にわたすな 大事なリモコン

「エイトマン」
 少年マガジンは「鉄腕アトム」に匹敵するSFマンガを生み出すため、若手のSF作家、平井和正に原作を依頼。殉職した刑事の頭脳を移植した人間型ロボットが警視庁捜査一課の刑事として活躍するというお話です。(これって「ロボコッブ」と一緒ですよね!)こうしてマンガ「8マン」が誕生。作画担当には桑田次郎が選ばれ、すぐにアニメ化も決定し、原作者の平井和正には脚本制作の仕事も回ってきます。アニメの制作担当はTCJで放送開始は1963年11月の木曜日夕方6時。スポンサーは「ふりかけ」の丸美屋。しかし、1964年1月には、原作が間に合わなくなり、平井以外にも、豊田有恒、半村良、辻真先らも参加することになりました。この時代、優秀な若手SF作家が登場し始めていましたが、彼らはマンガの原作者としてとりあえず食べて行けるようになり、その後、小説を書き始めることになります。
 テレビ・アニメ化の際、放送局はTBSとなりますが、「8マン」ではライバル曲フジテレビの「8」(チャンネル)とかぶるとして「エイトマン」に変更されたそうです!

「狼少年ケン」
 東映動画による劇場用長編アニメ「わんぱく王子の大蛇退治」が公開。次なる作品「わんわん忠臣蔵」、「ガリバーの宇宙旅行」の制作が始まる中、東映の大川社長からの圧力もあり、テレビ用アニメの企画が動き出します。
 企画を託された月岡貞夫が提案したのが「狼少年ケン」でした。スポンサーは明治製菓、グリコに先を越されていた森永製菓。これで「アトム」「鉄人」「狼少年」による菓子メーカーの代理戦争が本格化することになります。
 月岡は自ら「大野寛夫」名義でキャラクター設計、演出、原画、動画の一部、主題歌の作詞を担当。1963年11月25日月曜夕方6時5分NET(テレビ朝日)で放送が始まります。この作品は原作のないアニメでしたが、伊藤章夫によってマンガ誌への連載が始まります。
 原作者がいるマンガをアニメ化する場合、著作権は原作者にあるのですが、先に企画があって放送局主体で制作されたアニメは利益がそのまま放送局に入ることになります。そのためこの作品の成功以後、放送局主体のアニメが数多く制作されることになります。放送が決まると、マンガとしての連載が連動して始まることになります。「スーパー・ジェッター」、「宇宙少年ソラン」なども同じようにテレビ曲主体の作品です。
 月岡はこの後、東映動画を辞めてフリーになったため、代わりの演出担当に抜擢された中に高畑勲がいました。さらにこの年の春、新人として入社した中には宮崎駿もいました。彼もまた「狼少年ケン」のチームに参加しました。

<その他の番組>
「仙人部落」

 1963年9月毎週火曜夜11時40分から放送開始。翌年からは日曜夜10時半からに変更。制作はTCJ。

<1964年>
「0戦はやと」
 明治製菓の子会社キンケイカレーは、「鉄腕アトム」のスポンサーをはずされたため、スポンサーになれるアニメ作品を探していました。そこで目をつけたのがマガジン、サンデーに続いて発刊された「少年キング」の人気作「0戦はやと」でした。原作は辻なおき。大東広告の照井広はアニメ化をうしおそうじのピープロに依頼します。それはうしおそうじが実写映画「ハワイ・マレー沖海戦」の特撮に参加していた経験をかわれたからのようです。放送開始は1964年1月21日火曜日の夕方6時15分フジテレビでした。ちなみに、このシリーズの脚本家チームの中には倉本聰もいたといいます。

「ビッグX」
 「0戦はやと」が視聴率が今一つで半年で打ち切られることになりましたが、制作担当のピープロは5人だったスタッフを350人に増員していました。そのままでは経営困難に陥るところでした。幸いTBSから次の企画「ビッグX」のアニメ化企画が提案されますが、「0戦はやと」と同時進行は不可能と社員が反発して拒否。
 TBSの制作部は、人形劇団「ひとみ座」の映画制作部門「東京人形シネマ」の代表、藤岡豊を呼び出し、彼に「ビッグX」のアニメ化を依頼します。「東京人形シネマ」は、人形劇として横山光輝の漫画「伊賀の影丸」をTBSで放送していましたが、もちろんアニメなどまったく未経験でした。TBSは人形を動かすのも、絵を動かすのも似たようなものだろう、と彼を説得します。結局、藤岡はひとみ座を離れて、新会社を設立してアニメ制作会社を立ち上げることになります。こうして急遽スタッフをかき集めて「東京ムービー」が設立されます。もちろん、スタッフは根本的に不足していたため、演出はひとみ座の長浜忠夫、大隅正秋、脚本はスタジオ・ゼロのつのだじろう、藤子不二雄とSF作家の広瀬正、山野浩一らが担当することになりました。
 「ビッグX」は、1964年8月3日月曜夕方7時TBSで放映が始まります。広告は萬年社が担当し、メイン・スポンサーは花王石鹸でした。作画が酷かったわりに作品の評判は良かったのですが、寄せ集めの外注スタッフが多すぎたため赤字となってしまい長く続けることはできませんでした。(僕は「ビッグX」はけっこう好きでした)

「少年忍者 風のフジ丸」
 大阪電通が広告担当でスポンサーに藤沢薬品が決まったことで、原作のタイトル「風の石丸」が「風のフジ丸」に変えられたいう異色のアニメ。そもそも原作者の白土三平はアニメに興味がなく、制作は放送局に任されていました。
 白土三平は貸本出身の漫画家で、父親はプロレタリア画家の岡本唐貴。「風の藤丸」は少年マガジンに白土にとって初の週刊作品として連載され、1960年から52号続いたロングランヒットでした。
 この作品は、1964年6月から65年8月までNET(テレビ朝日)で日曜夕方6時半から放送され、制作は東映動画が担当し、宮崎駿が作画に加わった作品でもあり、高い評価を得ています。(僕も大好きで、欠かさず見ていました!)
<東映動画>
 この時期、東映動画の社員は575名となりますが、これ以後、正社員をとらず、契約社員制となります。出来高払いをし、優秀な人材には高額の給与を支払うことで、外部への人材流出を防ごうとします。そのおかげで、一部社員の中には社長以上の収入を得る者も現れます。
 その一人が東映動画一期生の一人、楠部大吉郎でした。彼は正社員の10倍を稼ぐアニメーターとなり、月収150万となりますが、労使双方から問題視されることになり、独立してフリーで仕事を続けることになりました。
 それでも東映動画は人材が足りず、テレビの仕事が増えたことで長編アニメ映画「ガリバーの宇宙旅行」の制作がストップしてしまいます。そこで東映は苦肉の策として、テレビ版のアニメを再編集することで、長編風のアニメ作品を作り上げ、それを春休みに公開しました。するとそれが予想外のヒットとなったため、他社も追随し始め、現在でもその方法が普通に使われています。

「トムとジェリー」(アメリカ製)
1964年5月、今も再放送が行われている超ロング・ヒットアニメ「トムとジェリー」の放送開始。
 日本版のテーマ曲の作曲・作詞を作担当したのは、三木トリローでした。忘れられないこの曲です!

 トムとジェリー 仲良くケンカしな
 トム トム トム ニャーゴ
 ジェリー ジェリー ジェリー チュウ

<1965年>
「スーパージェッター」
 TBSは原作者との著作権問題が起きない局企画のオリジナル作品の制作を検討。「エイトマン」の脚本家の中から三輪俊道、加納一朗にストーリーを依頼し、「風のフジ丸」のコミカライズを担当した久松文雄にキャラクターデザインを依頼。久松はコミカライズもそのまま担当し、少年サンデーへの連載も始めます。制作はTCJが担当します
 その後、局企画で始まったオリジナル企画のはずが、意外な横やりが入ります。脚本に関わった加納と山村正夫が推理作家協会に入っていたため、その協会から著作権問題が指摘されることになったのです。そのため、著作権料の半分は作家に渡ることになりました。
 こうして「スーパージェッター」は、TBSで1965年1月木曜夜7時から放送が始まります。

「宇宙少年ソラン」
 TBSが「スーパージェッター」に続き、局オリジナルの企画として、原作を福本和也、宮腰義勝に依頼。制作は再びTCJに任されました。放送は1965年5月火曜日夜7時から始まります。
 この作品に出てくるキャラクター、宇宙リスのチャッピーは手塚治虫が同じ頃準備していたアニメ用作品「ナンバー7」に登場するキャラクターに酷似。盗作疑惑が発生し、手塚は怒って「ナンバー7」の企画を中止してしまうというトラブルが起きました。

<タツノコプロ>
 1962年10月に設立された吉田竜夫(長男)、吉田健二(次男)、九里一平(三男)の吉田三兄弟が中心のプロダクション。株式会社として設立された最初のマンガ・プロダクションでした。ただし、当初はあくまでも連載マンガのための制作会社でアニメを制作する会社ではありませんでした。吉田竜夫は美術学校を卒業した画家出身の漫画家で、その仕事場には望月三起也、笹川ひろし、辻なおきがいました。
「宇宙パトロール・ホッパ」
 東映動画からテレビ・アニメ制作の依頼がタツノコプロに来ます。そこでタツノコプロ作品の「Zボーイ」をアニメ化し、「宇宙エース」とタイトルを変え放送することになります。ところが、東映動画はタツノコプロから設定やキャラクターの著作権をすべて買い取ることを提案します。それはキャラクター商品などで上げる利益をほしかったからでしたが、タツノコプロはそれを拒否。東映動画は「宇宙エース」を諦めると、自社で「宇宙パトロール・ホッパ」を企画。制作の中心には、後にスタジオ・ジブリの社長となる原徹が選ばれ、自社で制作し放送にこぎつけます。1965年2月NETで月曜夜7時から放送開始。(12月まで)

「宇宙エース」
 タツノコプロの第一作となった作品。東映動画からの提案を拒否したため、流れてしまった「宇宙エース」のアニメ化。その企画を自社で実現するため、タツノコプロはアニメ制作のためのスタジオを建設します。そのために必要なスタッフも集め、放送に向けた準備を始めます。スポンサーには菓子メーカー「カネボウハリス」が決まり、広告代理店の読売広告がテレビ局への打ち込みも行いフジテレビでの放送が決まりました。1965年5月夜6時15分からフジテレビで放送開始。
 この後、そもそもアニメ制作が好きだったこともあり、吉田竜夫は漫画家をやめ、アニメ制作を本業とすることになります。こうしてタツノコプロはアニメ制作を基本にした制作会社として発展し、現在まで長く続くことになります。

「ワンダー3」
 「宇宙少年ソラン」で起きた盗作疑惑で中止となった「ナンバー7」を改変して生まれた作品。当時、「ワンダー3」は少年マガジンに連載されていましたが、同じ雑誌に盗作疑惑が問題視されていた「宇宙少年ソラン」が連載されると知った手塚は激怒し、「ワンダー3」を引き上げ、ライバル誌の「少年サンデー」で再スタートを切ります。そうした経緯もあり、この作品は手塚治虫が原作・総監督として参加することになります。同時期に「ジャングル大帝」の制作も進めていた虫プロの人材は、手塚派は「ワンダー3」、反手塚派が「ジャングル大帝」へと別れるかたちになり、「ワンダー3」の制作は遅れることになりました。
 6月6日毎週日曜日7時からフジテレビで放送が始まり、20%以上の視聴率をキープしましたが、1966年に「ウルトラQ」が同時刻に始まると急降下してしまいます。

「ジャングル大帝」
 「ジャングル大帝」は、日本初のTVカラーアニメとして企画され、予算確保のためにアメリカで2万ドルで52話分の契約が行われました。1965年日本とほぼ同時に「Kinba the White Lion」として放送されています。
 それでも赤字になる可能性があったため、52話の制作予算は1億3000万に設定され、時間のロスを無くすために手塚治虫自身の参加をなくすことにします。虫プロはすぐに制作準備に入り、既存の番組「鉄腕アトム」の制作のうち、原画・動画の作画、トレースや彩色などはピープロに任されることになりました。
(21世紀の現在、企画、脚本、演出、原画、動画、背景、彩色、撮影を一括して行っているのは、京都アニメーションぐらいで、他はみな分業制を利用しているようです)脚本は、虫プロのメンバーだったりんたろう、山本暎一、永島慎二、瀬山義文、北野英明らが担当。音楽には冨田勲がフルオーケストラと共に参加。制作費の1/3が音楽。
 放送開始は1965年10月から水曜夜7時からフジテレビにて放送が始まりますが、視聴率は19.1%と期待を裏切る数字となりました。
 この後、映画版の長編も制作されヴェネチア国際映画祭で児童映画部門のサンマルコ銀獅子賞を受賞するなど高い評価を得ますが、テレビの視聴率はさらに低下。1966年10月からは手塚治虫が自ら制作に参加、テコ入れを行いますが改善はしませんでした。

 こうしてアニメの世界では次々と新しいアニメ作品が誕生しますが、そのほとんどはSF作品でした。「鉄腕アトム」の大ヒットから「鉄人28号」「エイトマン」のヒットと少年向けのSFがヒットしたことで、アニメ業界はどこも2匹目、3匹目のドジョウを狙っていたと言えます。しかし、すでにSFアニメは飽和状態にあり、時代は次なるブームを求め始めていました

「オバケのQ太郎」
 SFアニメが量産される中、日本初の日常系コメディ・アニメが誕生。15分のエピソードを毎回2話放送するスタイルもこの作品から始まった。
 「鉄腕アトム」では失敗したスタジオ・ゼロですが、アニメ業界の人手不足は深刻で、再び彼らに仕事の依頼が来ます。依頼したのは、TBS、小学館、不二家でした。週刊少年サンデーに連載中の「オバケのQ太郎」をテレビ・アニメ化する仕事でした。スタジオ・ゼロのメンバーも手塚治虫同様忙しかったのですが、このチャンスを逃すまいと仕事を受けることにします。そして、メンバーは原画担当を分け合うことで、制作を開始します。Q太郎の原画は藤本、正太を安孫子、その他のキャラクターについては、石森とつのだじろうが描くという今考えると豪華すぎるメンバーによって「オバケのQ太郎」は描かれます。しかし、その後は企画、管理、営業を東京ムービーが任され、制作については東映動画をやめた楠部が設立したAプロダクションが担当することになります。
 そして、この藤子不二雄と東京ムービーの組み合わせが、後に「ドラえもん」の大ヒットを生み出すことになります。そして、Aプロには楠部を信頼するスタッフが集まることになり、東映動画から芝山努、小林治、森下圭介や大塚康生、宮崎駿、高畑勲、小田部羊一らが移動しています。
 1965年8月から日曜日夜7時30分から始まり、15分のエピソードを2話放送するスタイルの先駆ともなりました。

<その他の作品>
「宇宙人ピッピ」

 1965年4月から毎週木曜6時からNHKで放送開始。制作はテレビ動画。
「遊星少年パピイ」
 1965年6月から毎週木曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。制作はTCJ。
「ハッスルパンチ」
 1965年11月から毎週月曜夜7時半からNET系列で放送開始。制作は東京ムービー。
「戦え!オスパー」
 1965年12月から毎週火曜夜6時15分からの15分番組としてNET系列で放送開始。制作は日本テレビ動画。
(超能力少年ものの先駆作で僕は好きでした!)

<参考>
「アニメ大国建国記 1963-1973 テレビアニメを築いた先駆者たち」 2020年
(著)中川右介
イーストプレス

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