手塚アニメの終りとアニメ新時代の始まり

「あしたのジョー」、「ルパン三世」、「天才バカボン」、「デビルマン」、「ドラえもん」

<1970年~1973年~>

<1970年>
「あしたのジョー」

 1967年12月から少年マガジンに連載されていたボクシングマンガのアニメ化。
 原作は高森朝雄(実は梶原一騎)で、画はちばてつやで、マンガ史に残る傑作となりました。
 梶原一騎によるスポーツものは、この年、月曜日は「赤き血のイレブン」、水曜日は「あしたのジョー」、木曜日は「タイガーマスク」、金曜日は「キックの鬼」、土曜日は「巨人の星」そして日曜日には「柔道一直線」が放送されていました。なんと火曜日以外毎日です!おそるべし、梶原一騎。(本当に一人だったのか?)
 アニメ制作は虫プロで、チーフディレクターは出崎統。元々映画志向の強い出崎にとっては、これが出世作となり、この後数多くの名作を世に送り出すことになります。
 1970年4月1日から毎週水曜夜7時フジテレビ系列で放送が始まり、1971年9月29日まで79話を放送した時点で原作に追いついてしまい放送は終了。1980年に続編が制作されることになります。
<その他の作品>
「赤き血のイレブン」

 1970年4月毎週月曜夜7時から日本テレビ系列で放送開始。制作は日本テレビ動画。
(オリンピックの銅メダル獲得からサッカー・ブームとなり、マンガも登場。サッカー好きではなかったものの見てました)
「昆虫物語みなしぼハッチ」
 1970年4月毎週火曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。制作はタツノコプロ。
「ばくはつ五郎」
 1970年4月毎週金曜夜7時からTBS系列で放送開始。制作はTCJ。
「のらくろ」
 1970年10月毎週月曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。制作はTCJ.
(軍国日本を象徴するマンガ。家にも古い本がありました。ヒットするはずはないのですが・・・)
「キックの鬼」
 1970年10月毎週金曜夜7時からTBS系列で放送開始。制作は東映動画。
(この時代一大ブームとなっていたキックボクシング界の英雄、沢村忠が主人公のスポーツ・アニメ)
「いなかっぺ大将」
 1970年10月毎週日曜夜6時からフジテレビ系列で放送開始。制作はタツノコプロ。
「魔法のマコちゃん」
 1970年11月毎週月曜夜7時からNET系列で放送開始。制作は東映動画。

<1971年>
<虫プロの危機>

 60年代から悪化していた虫プロの経営は、この時期破綻の危機に陥りました。このままでは虫プロの倒産は免れない。そこで最終手段として、手塚治虫がその時点での虫プロの負債を引き受け、責任をとって代表取締役を退任。これにより虫プロの借金はなくなりました。しかし、手塚が虫プロを離れたことで、虫プロは手塚作品をアニメ化しても、著作権などのメリットがなくなります。そのため、ここからの仕事は他のプロダクションとまったく平等な立場での戦いとなります。
「あしたのジョー」、「アンデルセン物語」、「さすらいの太陽」、「国松さまのお通りだい」など、バラバラの作品を制作しますが、状況は悪化し続けることになります。

<仮面ライダー>(特撮ヒーロードラマ)
 「仮面ライダー」は、スポコンものの次に来るであろうヒット・ジャンルを狙い、「仮面のヒーローがバイクに乗って悪者たちをやっつける」ということだけが決まった状態で始まった企画でした。
 放送枠も実写のスポコン・ドラマ「柔道一直線」の後と決まっていました。企画を任された石森章太郎は、アニメ作品ではなくても著作権料が入るなら実写ドラマでも良いという考えがあったようです。そこで彼は少年マガジンで連載中だった「スカルマン」という骸骨の顔をもつヒーローもののアニメ化を提案しました。しかし、主人公が骸骨の顔ではまずいと指摘されたため、急遽顔を変更することになり、そこから生まれたのがバッタの顔だったのです。そのため、最初のタイトルは「仮面ライダー・ホッパー・キング」だったそうです。テレビで放送するため、マンガ連載が必要とあんり、この後急遽「仮面ライダー」は1971年4月から「ぼくらマガジン」に掲載されることになりました。
 石森章太郎は、この時のことを後にこう語っています。
 「仮面ライダー」は、マンガ家の原作ではあったがマンガではなかった。マンガ家(つまりこの場合、ワタシだが)がテレビのために作った物語であり、キャラクターであった。…つまり私はここで、作品発表の場を、印刷媒体から電波媒体へ、雑誌からテレビのブラウン管へと変えたのだ。

「決断」
 タツノコプロによるアニメとドキュメンタリー映像を合成した異色の「アニメンタリー作品」。
 第二次世界大戦における日本軍の闘いを実写映像とアニメを組み合わせて描く画期的な作品でした。「山本五十六の死」、「ミッドウェイ海戦」などのタイトルで、毎回、日本軍の有名な戦闘を取り上げました。
 当初は戦記アニメ企画で「大空のちかい」という原作もありました。しかし、スポンサーとなるサッポロビールからの提案により、ドキュメンタリー要素を取り入れることになりました。ビール・メーカーとして「大人向け」にすることを目指したわけです。そのため、アニメーターたちは本物の日本軍の兵器について徹底的に調査。これにより、メカ・アニメのリアルさが格段と向上し、それがその後の作品「科学忍者ガッチャマン」などに役立つことになりました。
 1971年4月から9月まで毎週土曜夜7時半から日本テレビ系列で放送されました。

<宮崎駿と高畑勲>
 東映動画で飼い殺し状態になっていた高畑勲は、リンドグレーン原作の「長くつ下のピッピ」のアニメ化企画に参加し、やっと働ける場を得ました。ところが、結局この作品も原作者とのアニメ化交渉がまとまらずに流れてしまいます。
 いよいよ東映動画にいられなくなった彼は、同じような立場にいた小田部羊一、宮崎駿等と共に東映動画を退社します。

「ルパン三世」
 「巨人の星」、「アタックNo1」で勢いに乗る東京ムービーは、スポーツものではない次なるジャンルへの挑戦を行います。その一つが、どれまでにない泥棒が主人公という大人向けアニメ「ルパン三世」でした。当初は、泥棒が主人公という設定自体に問題がありました。
 担当した大塚康生(演出は大隅正秋)はこう語っています。
「完全に成人向けのつもりでした。その点、よみうりテレビも誤算だったし、東京ムービーも誤算だった。そもそも、原作自体がエッチでしょ。だから、どの会社も手を出さない。で、双葉社とモンキーさんが東京ムービーに映画化権を渡しちゃったので、とにかく作らなきゃならない。そのときのコンセプトが、「青年アニメ」というものだったんですよ。世に子供向けアニメ番組は多いけど、少し上の、17~18歳くらおをターゲットにして、ちょっと背伸びしている若者向けに作ろうという方針が最初企画書にある。で、ガキものばっかりやっているのはイヤだな、大人向けを作ってみたいとみんな思っていたものですから、そのポリシーに大乗りして『ルパン』をやった」

 スタッフの士気の高さに比べると視聴率は低く、一桁台にとどまり、同じ時間帯の「アンデルセン物語」に惨敗を喫します。家族が観る時間帯にエッチなシーン満載の大人向けアニメを見る家が少ないのは当然でした。逆に再放送では時間帯が子供だけの夕方早い時間になったため、視聴率が上がることになるのですが、それはまだ後の話。視聴率低迷の責任を大塚、大隅がとらされるかたちになります。そして、第7話から制作に密かにあたることになったのが、東映動画を離れたばかりの高畑勲と宮崎駿でした。彼らは大人向け過ぎたシリーズを、アクション中心の少年向けに引き戻す役目を果たします。
 1971年10月毎週日曜7時半から日本テレビで放送開始。

「さるとびエッちゃん」
 石森章太郎の少女マンガ「おかしなおかしなおかしなあの子」が原作のアニメ。特徴的なのは、主人公のエッちゃんは、魔女やスポーツ選手ではないどこにでもいる普通の少女だということです。
 1971年10月から毎週月曜夜7時からNET系列で放送開始。

「天才バカボン」
 同じく大人向けのシュールなギャグ・アニメとして放送が始まった「天才バカボン」もまた視聴率は低迷。こちらも時代の先を行きすぎていたようです。
 1971年9月から毎週土曜夜7時から日本テレビ系列で放送開始。

「ふしぎなメルモ」
 虫プロから離れた手塚治虫が手塚プロの第一作として制作した作品。性教育的な内容のマンガ「ふしぎなメルモ」のアニメ化は、テレビでは困難と思われました。ところが、それを実現したのが手塚のマネージャー的存在だった若き西崎義展でした。この時の営業能力が高く評価され、西崎は手塚プロ、虫プロの大きな影響力をもつ存在となって行きます。
 1971年10月毎週日曜夜6時半からTBS系列で放送開始。

<その他の作品>
「アンデルセン物語」
 1971年1月毎週日曜夜7時半からフジテレビ系列で放送開始。制作は虫プロとズイヨー映像。
「さすらいの太陽」
 1971年4月毎週水曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。制作は虫プロ。
「新オバケのQ太郎」
 1971年9月毎週水曜夜7時半から日本テレビ系列で放送開始。制作は東京ムービー。
「アパッチ野球軍」
 1971年9月毎週水曜夜7時半からNET系列で放送開始。制作は東京ムービー。
「さるとびエッちゃん」
 1971年10月毎週月曜夜7時からNET系列で放送開始。制作は東映動画。
「国松さまのお通りだい」
 1971年10月毎週水曜7時からフジテレビ系列で放送開始。制作は虫プロ。
「スカイヤーズ5」
 1971年10月毎週木曜7時からTBS系列で放送開始。制作はTCJ.
「ゲゲゲの鬼太郎」
 1971年10月毎週木曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。原作は水木しげるで制作は東映動画。
「原始少年リュウ」
 1971年10月毎週土曜夜7時からTBS系列で放送開始。制作は東映動画。

<1972年>
「海のトリトン」

 原作は手塚治虫でプロデューサーは西崎義展、演出は富野喜幸の3人がそろった唯一の作品となりました。原作とは別にオリジナル・ストーリーを追加しましたが、視聴率は低く、半年で終了することになりました。そして、その最終回は多くの人々を驚かせるものとなりました。その衝撃のラストについて、総監督の富野はこう語っています。
「ドラマは、少年期の感受性を、かなりなまでに代表した二人<トリトンとピピ>によって、すすめられました。その共感は、二人の世界から見ているからであって、ポセイドン族から見た時には、はたして良きものだったのでしょうか?その結論が、最終回で語られているわけです。それは悲しく残酷でした。・・・一族の存亡をかけて戦いが『己は悪だったかも知れぬ』という疑問を投げかけられて終了する。それは勧善懲悪のパターンを無視した危険な結末でした」
 この作品で原作を越えるラストを生み出した富野はここからテレビアニメの監督として大きく飛躍することになります。それは、西崎も同様で、この作品の影響が「宇宙戦艦ヤマト」を生んだと彼は語っています。
 そうした意味では、この作品は手塚時代の終りと次なる世代の始まりともなった作品と言われます。
 1972年4月毎週土曜夜7時からTBS系列で放送が始まり、9月に終了。制作は「スタッフルーム」でした。

「デビルマン」
 「ぼくらマガジン」に連載されていた永井豪の「魔王ダンテ」が、「ぼくらマガジン」の休刊により未完のまま終了。しかし、東映動画のプロデューサー有賀健は、この作品をテレビアニメにしようと提案しますが、内容も絵も暗すぎるとテレビ局に却下されます。そこで永井は、アメコミ風のヒーローとして描き直し、タイトルも「デビルマン」に変更することでOKをもらいました。しかし、その放送予定枠は、毎週土曜の夜8時半。それは大人気番組「8時だョ!全員集合」と同じでした。雑誌連載もされていなかったので、雑誌への連載も開始。この年、永井豪は「ハレンチ学園」、「あばしり一家」、「あにまるケダマン」、「オモライくん」、「がんばれスポコンくん」を同時に抱える状態にもかかわらず、この作品に挑戦したわけです。
 初回視聴率は当然厳しく6.6%にとどまりますが、しだいに上昇しついには15%を越えるところまで行きます。人気絶頂だったドリフターズと五分に戦った快挙でした。
 1972年7月毎週土曜夜8時半からNET系列で放送開始。制作は東映動画でした。

「ハゼドン」
 虫プロは手塚治虫が去った後、次々とスタッフが辞めて行き、その中の7名が有限会社サンライズを設立。洋画などの日本語吹き替え版を制作するために設立された東北新社が、アニメ分野に進出するために出資した創映社と共同でアニメの制作を開始。その最初の作品が「ハゼドン」でした。魚のハゼの子供の冒険を描いたアニメということで、後のロボットアニメとはまったく違う分野でのスタートになりました。
 1972年10月毎週木曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。

「科学忍者隊ガッチャマン」
 タツノコプロの人気を決定づけた大ヒット作。原案は鳥海尽三陶山智、キャラクター、衣装は吉田竜夫九里一平でした。さらにSF作家の小隈黎がSF考証を。鳥海永行は総監督を努めました。こだわったメカ描写は大人気となり、視聴率も20%越えのヒット作となり、1974年まで放送が続きました。
 1972年10月毎週日曜夜6時からフジテレビ系列で放送開始。

「マジンガーZ」
 「デビルマン」の放送が始まって4ヶ月後にスタートした永井豪作品のアニメ化。制作は東映動画。
 永井豪はこの作品のために「ハレンチ学園」の連載を終了させてのぞんだ。特撮ドラマ「ジャイアント・ロボ」以来の巨大ロボットもので、当初スポンサーのバンダイは登場するロボットの商品化にそれほど積極的ではなかったと言います。しかし、視聴率が予想以上に高かったことから、60cmの「ジャンボ・マジンガー」を発売。すると50万体が完売してしまいました。
 この作品が玩具メーカーを覚醒させ、「アニメ・キャラクターを商品化するのではなく、商品をアニメ化すればよいのだ!」という発想をもたらしました。「超合金」を商標登録し、ロボットのフィギュアを「超合金ロボット」として売り出し、ヒットを連発することになります。
 1972年12月毎週日曜7時からフジテレビ系列で放送開始。

「哀しみのベラドンナ」(長編アニメ映画)
 手塚治虫原作の長編アニメ映画「哀しみのベラドンナ」がヘラルドから公開されます。当時、ブームとなっていた「ポルノ映画」の影響もあったというセクシーな内容の作品は、海外の映画祭に挑戦しますが賞を獲得できず、国内の公開でもヒットしないまま大きな赤字を生み出すことになりました。

<その他の作品>
「月光仮面」
 1972年1月毎週月曜夜7時から日本テレビ系列で放送開始。制作はナック。
「樫の木モック」
 1972年1月毎週火曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。制作はタツノコプロ。
「ムーミン」(新)
 1972年1月毎週日曜夜7時半からフジテレビ系列で放送開始。制作は虫プロとズイヨー映像。
(1969年にアニメ化されましたが、現在多くの人が知っているキャラクターはこの時のアニメ以降のことになります)
「魔法使いチャッピー」
 1972年4月毎週月曜夜7時からNET系列で放送開始。制作は東映動画。
「ミュンヘンへの道」
 1972年4月毎週日曜夜6時半からTBS系列で放送開始。制作は日本テレビ動画。
(太平洋戦争のドキュメンタリー映像とアニメを融合させた「決断」のスタイル。ミュンヘンオリンピック&男子バレーチームの記録を融合)
「赤胴鈴之助」
 1972年4月毎週水曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。制作は東京ムービー。
「モンシュリCOCO」
 1972年8月毎週日曜夜7時半からTBS系列で放送開始。制作は日本テレビ動画。
「アストロンガー」
 1972年10月毎週水曜夜7時から日本テレビ系列で放送開始。制作はナック。
「おんぶおばけ」
 1972年10月毎週土曜夜7時から日本テレビ系列で放送開始。制作はTCJ。
「ど根性ガエル」
 1972年10月毎週土曜夜7時からTBS系列で放送開始。制作は東京ムービー。

<1973年>
「ワンサくん」

 虫プロが制作した最後の作品。原作はもちろん手塚治虫で、キャラクター・デザインは永島慎二、作画は森田浩光、芦田豊雄、ディレクターは山本暎一。マンガ雑誌「てづかマガジンれお」に連載されていた作品のアニメ化。実は、三和銀行のキャラクターとして生み出されたものでした。
 企画・構成・プロデューサーの西崎義展は、この作品をミュージカル・アニメにするとして宮川泰を起用。そして、このコンビがその後「宇宙戦艦ヤマト」につながります。
 1973年4月毎週月曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。

「ドラえもん」
 原作となるマンガは1970年から連載されていましたが、今一つ人気はなかったためアニメ化の企画はなかった。そして、ここで日本テレビ動画によるアニメ化作品も、ヒットには程遠い結果に終わりました。そのため、この時のアニメ作品は「旧ドラえもん」として扱われ、1979年から始まるシンエイ動画によるリメイクによって始めたヒットすることになります。ちなみにこの時、リメイクの企画書を書いたのは、高畑勲でした。
 1973年4月毎週日曜夜7時から日本テレビ系列で放送開始。

<その他の作品>
「バビル2世」

 1973年1月毎週月曜夜7時からNET系列で放送開始。制作は東映動画。
「けろっこデメタン」
 1973年1月毎週火曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。制作はタツノコプロ。
「山ねずみロッキーチャック」
 1973年1月毎週日曜夜7時半からフジテレビ系列で放送開始。制作はズイヨー映像。
「ジャングル黒べえ」
 1973年3月毎週火曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。制作は東京ムービー。
「ミクロイドS」
 1973年4月毎週土曜夜8時半からNET系列で放送開始。制作は東映動画。
「荒野の少年イサム」
 1973年4月毎週水曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。制作は東京ムービー。
(西部劇マンガという異色の作品でした!)
「ゼロテスター」
 1973年10月毎週月曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。制作はサンライズ。
「ミラクル少女リミットちゃん」
 1973年10月毎週月曜夜7時からNET系列で放送開始。制作は東映動画。
「新造人間キャシャーン」
 1973年10月毎週火曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。制作はタツノコプロ。
「空手バカ一代」
 1973年10月毎週水曜夜7時半からNET系列で放送開始。制作は東京ムービー。
「ドロロンえん魔くん」
 1973年10月毎週木曜夜7時からフジテレビ系列で放送開始。制作は東映動画。
「エースをねらえ」
 1973年10月毎週金曜夜7時からNET系列で放送開始。制作は東京ムービー。
「冒険コロポックル」
 1973年10月毎週土曜夜7時から日本テレビ系列で放送開始。制作はTCJ。
「キューティーハニー」
 1973年10月毎週土曜夜8時半からNET系列で放送開始。制作は東映動画。
「侍ジャイアンツ」
 1973年10月毎週日曜夜7時半から日本テレビ系列で放送開始。制作は東京ムービー。

<虫プロの倒産>
 この年、虫プロの関連企業である虫プロ商事が400万円の不渡手形を出します。この時点で負債は4億5000万円に達していたこと、アニメ制作の依頼がなくなっていたことから、虫プロの倒産は近いとされ、社内で労働争議が始まります。そして、11月11日虫プロ本体も不渡手形を出し、ついに倒産。負債総額は3億5000万円で90名の社員が職を失うことになりました。手塚治虫は虫プロだけでなく自分の家までも失い、マンガ家としてゼロから再スタートを切ることになりました。

 歴史をみれば、革命体制を維持するために多くの革命家は独裁に転じた。しかし、手塚治虫は独裁者にならなかった。虫プロからの退場と虫プロの倒産という「神の失脚」は、意図したわけではないだろうが、次世代が手塚をたやすく乗り越える環境を作ったと言える。
 虫プロの経営が危うくなったことで、多くの人材が出て行き、散らばったことで、日本のアニメは多様化していった。

中川右介

<1974年>
「宇宙戦艦ヤマト」

 西崎義展はSF作家の豊田有恒にロバート・A・ハインラインの「地球脱出」のような作品を作りたいと次作原案を依頼します。そこで豊田が提案したのは、異星人からの攻撃によって瀕死の状態に追い込まれた地球を脱出し、放射能除去装置を求めて長い旅に出るという物語でした。
 マンガの担当は松本零士に決まり、彼がキャラクター、デザイン、人物設定を決めて行きました。その過程で、原案にはなかった日本海軍の「大和」を復活させるというアイデアが生まれました。
 1974年10月毎週日曜夜7時半から放送開始。ところが同じ時間に「アルプスの少女ハイジ」さらに円谷プロの特撮ドラマ「猿の軍団」も放送され、視聴率は6%代に低迷し、全39回の予定が20回に短縮されることになりました。ただし、「ルパン三世」、「天才バカボン」と同様に再放送で人気が出て、地域によっては20%を越えることになりました。さらに1977年公開の映画版は大ヒット。配給収入は9億を上回りました。これにより「宇宙戦艦ヤマト」は伝説的なアニメの仲間入りをすることになりました。

「アルプスの少女ハイジ」
 未だにCMで使用されている永遠の名作。制作はズイヨー映像。プロデュースは高橋茂人、演出は高畑勲、場面設定・構成などは宮崎駿、作画は小田部羊一、絵コンテは富野由悠季という新世代の大物がそろった番組でした。

<1979年>
 1979年は、「ドラえもん」、「機動戦士ガンダム」、宮崎アニメ第一号「ルパン三世 カリオストロの城」という、今もなお続いている偉大なコンテンツが誕生した年です。その意味では、アニメ史における二度目の「元年」だったのかもしれません。

<参考>
「アニメ大国建国記 1963-1973 テレビアニメを築いた先駆者たち」 2020年
(著)中川右介
イーストプレス

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