- アニタ・オデイ Anita Oday -

<白人女性ジャズ・ヴォーカルの最高峰>
 白人女性ジャズ・ヴォーカルの最高峰といえば、多くの人がアニタ・オデイをあげるでしょう。それは彼女こそ、モダン・ジャズ以降のジャズ・ヴォーカルにおける定番ともいえるスタイルを確立したアーティストだからです。では、そのスタイルとはどんなものか?
 その原点には、彼女がもっとも影響を受けたジャズ・ヴォーカリスト、ビリー・ホリデイの存在がありました。けっしてシャウトすることなく「クール」かつ「器楽的な発声」を用いるビリーの歌唱スタイルは、白人であり、なおかつ誰からの指導も受けなかったアニタにとっては唯一の教師でした。ソウルやR&Bを歌うには明らかに不足している声量や音程の不安定さ、彼女はそれを逆手にとります。即興性を生かし、けっしてパワフルに歌わない「軽さ」の重視、それに彼女独特のハスキー・ヴォイスが加わることで、現在では当たり前となっている都会的でお洒落なジャズ・ヴォーカルが生まれたのでした。

<ジャズ界の歌姫へ>
 アニタ・オデイ Anita O'Dayは、1919年12月18日イリノイ州のシカゴで生まれています。彼女は、黒人ジャズ・ヴォーカルの最高峰ビリー・ホリディと白人女性ジャズ・ヴォーカルにおける最初のスター、ミルドレッド・ベイリーのレコードを聴きながら、それを独学で身につけ、10代で歌手として活動を始めました。プロとしてのデビューは20歳の時、マックス・ミラーのコンボとの共演でした。その後彼女は、美人なだけでなくジャズ・ヴォーカリストとして天賦の才能を持っていたことから、すぐに人気者となります。1941年にはジーン・クルーパの楽団に引き抜かれ、さらなる注目を浴びます。この時期の彼女はビリー・ホリディの影響が強かったようですが、1944年にスタン・ケントン率いるビッグバンドに所属してからは、彼女ならではのハスキーな声と乗りの良さを前面に出すようになり独自のスタイルが生み出されることになります。
 1945年、再びジーン・クルーパ楽団に所属してからは、「ブギ・ブルース」のヒットなどでいよいよ知名度も上がり、ジャズ雑誌の人気投票でバンド・シンガーの女性部門で第一位になるなど人気者の仲間入りをします。同年、ソロ歌手となった彼女は歌手活動と平行してクラブの経営にも乗り出します。しかし、クラブの経営には失敗し、そのストレスもありアルコール中毒となった彼女は歌手としての活動も行き詰まってしまいました。

<救世主ノーマン・グランツ>
 経済的にも肉体的にも危機的状況にあった彼女を救ったのは、当時ジャズ界の大物プロデューサーとしてその名を知られていた人物、ノーマン・グランツでした。
 ノーマン・グランツ Norman Grantzは、1918年8月6日生まれのウクライナ系ユダヤ人です。彼はジャズ界の名プロデューサーとして有名でしたが、才能あるアーティストを発掘する達人としても知られていました。ある時、カナダへ出張した彼はタクシーのラジオから聞こえてきたピアノの音が気に入り、さっそくすぐにその演奏者をスカウトし、アメリカに連れて行き録音を行わせます。それがジャズ・ピアノの巨人オスカー・ピーターソンでした。
 そんな彼はアニタの才能もいち早く認め、彼女を自らのレーベル「クレフ」に呼び寄せ自らプロデュースを担当、復活への手助けをします。ちなみに、この「クレフ」は、その後ジャズ界における名門レーベル「ヴァーヴ」へと発展、そこから数え切れないほどのジャズ・ミュージシャンがアルバムを発表することになります。(エラ・フィッツジェラルド、オスカー・ピーターソン、ビル・エヴァンスデューク・エリントン、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカーニーナ・シモンルイ・アームストロングレスター・ヤング、最近ではティル・ブレナー、ジェイミー・カラムなど、その他にはジャズ・ミュージシャンだけでなくヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどロック系のアーティストもいました)こうして、1950年代から60年代にかけてジャズ界の中心人物として活躍したグランツの助けにより、彼女は1950年代絶頂期を迎えることになります。

<映画「真夏の夜のジャズ」>
 絶頂期を迎えた彼女のパフォーマンスを世界中に広めたのは、音楽映画の歴史にその名を知られる名作「真夏の夜のジャズ」です。
 1958年7月に行われたニューポート・ジャズ・フェスティバルのライブ映像に彼女はメイン・アクトではなく、昼間の部で登場しています。しかし、彼女らしいお洒落なファッションと観客のリラックスした映像の組み合わせは、その映画における最高の見せ場となりました。もちろん、彼女が歌う「スウィート・ジョージア・ブラウン」や「二人でお茶を」は、フェスティバルの雰囲気にもぴったり合っていて、50年代ジャズ黄金時代の輝きを象徴する映像になっています。この映画には、その他にダイナ・ワシントン、セロニアス・モンク、ジェリー・マリガン、チャック・ベリー、マヘリア・ジャクソン、ルイ・アームストロングエリック・ドルフィーなど、ジャズ界だけでなく当時の音楽界を代表するアーティストたちが数多く出演していました。そんな大スターたちの中でも、彼女のパフォーマンスは負けない輝きを発していたのです。

<下り坂へ>
 彼女の輝きは1960年代まで続きます。しかし、1964年にノーマン・グランツの元を離れると再びスランプに陥るようになります。それどころか、彼女は麻薬にも手を出してしまいます。そのまま彼女はジャズ界から消えても不思議はありませんでした。しかし、ここでも再び彼女は踏みとどまり、麻薬から抜け出すための矯正施設に入ると、1969年現役に復帰します。
 1973年以降、彼女は活動拠点をそれまでのニューヨークから西海岸へと移します。しかし、環境を変えてもなお、麻薬やアルコールの乱用によって失われた彼女の歌声を完全に取り戻すことは困難で、彼女は二度と黄金時代の輝きを取り戻すことはできませんでした。

<代表作>
「アニタ Anita 」 1956年(ヴァーヴ)
 バディ・ブレグマン・オーケストラをバックに歌う彼女の代表作。「言い出しかねて」「ハニー・サックルローズ」「ユー・アー・ザ・トップ」などの代表曲を収録。完成の域に達していた彼女のヴォーカルを生かした名作として最高傑作とも言われます。

「Anita Sings The Most」 1956年(ヴァーヴ)
 オスカー・ピーターソンをピアノとするカルテットをバックにした彼女の代表作。「テンダリー」「ラブ・ミー・オア・リーヴ・ミー」「星影のステラ」などを収録。これまた彼女の最高傑作と言われるアルバムです。

「Pick Youself with Anita」 1956年(ヴァーヴ)
 こちらもオーケストラをバックにしたアルバム。映画「真夏の夜のジャズ」でも歌われ彼女の魅力を世に知らしめた名曲「スウィート・ジョージア・ブラウン」やスタンダード・ナンバーの「サヴォイでストンプ」、「ドント・ビー・ザット・ウェイ」などが収められています。

「真夏の夜のジャズ」(DVD) 1958年(ソニー・ピクチャーズ)
 1958年に行われたニューポート・ジャズ・フェスティバルのライブ映像を納めたDVD。ただし、ライブ映像以外の観客やニューポート近郊の映像をバックにした音楽シーンも見所で、映画として大ヒットしただけのことはある作品です。観客たちのお洒落なファッションは今見ても古さを感じさせない魅力があります。そんな中だからこそ、アニタのお洒落がまた魅力的に見えます。ある意味、もっとも会場の雰囲気にあっていたのがアニタ・オデイでした。

「アニタ・オデイ・ライブ」(DVDジャズ・アイコン・シリーズ)
 このDVDは、前半が1963年に行われたスウェーデンでのライブ、後半には1970年のノルウェイでのライブが収められています。
(1)1963年スウェーデンでのライブにはバック・バンドに地元スウェーデンのミュージシャンが集められています。収録曲は、彼女の十八番「スウィート・ジョージア・ブラウン」やスタンダード・ナンバーの「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」、「ハニー・サックル・ローズ」そして、これもまた素敵な曲「二人でお茶を」など。
 彼女はこの後、ノーマン・グランツの元を離れ、再びスランプの時代へと向かうだけにこの映像は貴重な黄金期最後のの映像といえるかもしれません。
(2)1970年ノルウェイでのライブでは、時代の変化を感じさせる曲、ビートルズの「イエスタデイ」が取り上げられています。お得意の「スウィート・ジョージア・ブラウン」や「二人でお茶を」も取り上げていますが、7年の歳月は彼女を確実に変えてしまったことがわかる映像でもあります。それでも麻薬中毒などによるスランプから復活した彼女は、元気な姿を見せ観客を喜ばせています。

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