- アントニオ・カルロス・ジョビン Antonio Carlos Jobim -

<ボサ・ノヴァ、二人の天才>
 ボサ・ノヴァを生んだ二人の天才。ジョアン・ジルベルトとトム・ジョビンことアントニオ・カルロス・ジョビン。精神的に不安定でおかしな逸話の多いジョアン・ジルベルトに比べ、トムは大人しく真面目すぎる性格だったためか、あまり語られることがありません。彼の存在が作曲家としてレノン=マッカートニーやガーシュインに匹敵すると言われていることを考えると、ちょっと不思議なくらいです。
 ドラマチックな人生をおくるアーティストが多いブラジルの音楽界において、彼の人生はある意味ドラマ性に乏しいのかも知れません。そう考えてみると、彼の人生で最もドラマチックなのは、彼が生み出した名曲の中のドラマなのかもしれません。

<ボサ・ノヴァという音楽>
 今やイージー・リスニング(聴きやすい音楽)の定番でもあるボサ・ノヴァですが、その音楽性は実に奥深いと言われています。残念なことに音楽的知識に乏しい僕には、その理論的背景はほとんど理解できていません。しかし、それが音楽におけるある種「俳句」のような存在なのかもしれないということは、最近やっとわかってきました。(歌詞ではなく音楽の構造として)ボサ・ノヴァの中でも、特にトムの曲に関してはそのことが当てはまるようです。ちょっと聴くとシンプルでポップな曲に聞こえるけれども、その裏には複雑な構成と革命性な新しさが潜んでいる。どうやら、それがボサ・ノヴァ(新しい波)の真髄のようです。(このあたりがもっと上手く説明できるなら、僕もミュージシャンを目指していたでしょう)

<イパネマの少年>
 トム・ジョビンことアントニオ・カルロス・ジョビンは、本名をアントニオ・カルロス・ブラジレイロ・ヂ・アルメイダといいます。彼は1927年1月25日、リオデジャネイロのチジュッカ地区に生まれました。その後、彼が1歳の時に家族はリオ郊外のイパネマに引っ越しました。と言っても、当時のイパネマは後にあの名曲「イパネマの娘」で有名になる洒落なリゾート海岸ではなく、自然豊かな田舎町だったそうです。その海で、彼はなんとイルカと遊んだこともあったのだそうです。(それは海イルカかアマゾン川イルカかだったのか?)1970年代に入り、彼はブラジルでは誰よりも早く環境問題、森林保護の問題を訴える作品を発表していますが、それは彼が本当の自然の素晴らしさを子供の頃に体験していたからだと思います。
 考えてみると、ブラジルのアーティストのほとんどはリオやサルヴァドールなど、都会出身者です。彼らが大自然について歌うことが少ないのもしかたがないでしょう。本当に心がこもった自然賛歌は、自然の素晴らしさを身をもって体験していなければ歌えないはずですから。その点でも、トムには大自然の美しさを讃美するだけの体験があったのです。彼の音楽がもつ複雑なハーモニー構造は、多種多様な生物たちの織りなす豊かな大自然の織物がイメージの源泉になっているのかもしれません。(そんなわけで、僕は自然の中で遊ぶ喜びを知らない人の自然保護運動を信じる気にはなれません)

<優れた教師との出会い>
 彼が14歳になった年、妹のエレーナのために父親がピアノを購入。いつの間にかトムがそのピアノを弾くようになり、彼にはドイツから移住してきたハンス・ヨアヒム・ケールロイターという先生がつくことになりました。ところが、この先生がただものではありませんでした。名門のベルリン国立音楽アカデミー出身の彼は、ブラジルに渡り住んでからもヨーロッパの現代音楽を紹介したりするなど、クラシックの枠にとらわれないピアニストとして活躍する天才だったのです。ジョビンは、この先生からハーモニーや作曲の高度な技法を学ぶという好運に恵まれたわけです。
 さらにこの頃、彼はブラジル民謡をもとに作られたクラシック「ブラジル風バッハ」という曲と出会い、いよいよ作曲という仕事に魅せられて行きました。

<仕事は仕事?>
 しかし、彼は好きな音楽の道で食べて行けるとは考えない現実的な考え方の持ち主でした。彼は音楽は趣味として、建築の勉強に励みます。彼は建築事務所に勤める堅実な生活を目指していたのです。おまけに、彼には幼なじみの恋人(テレーザ・エルマニー)がおり、彼女との結婚をひかえていたのです。彼が無難な道を歩もうと考えたのも当然かもしれません。
 こうして、彼は建築事務所に勤めるサラリーマン生活を始めますが、その仕事は思った以上につまらないものだったようです。結局、彼は音楽の道で生きて行く決意を固めます。(とはいえ、この頃彼が学んだ建築学は、複雑な構造をもつ彼の曲作りにとって、意外に役に立ったのかもしれません)

<貧しい音楽家生活>
 こうして、いよいよ彼は音楽家としての道を歩み始めましたが、とりあえず食べて行くには、現金を稼ぐ必要があります。まして、彼には養って行かなければならない奥さんがいたのですから。
 しかたなく彼はナイトクラブでピアノを弾く仕事を始めましたが、それはきつい割に稼ぎが少ない仕事で生活は厳しいままでした。それでも彼には作曲や編曲をすることができるしっかりとした音楽的知識がありました。そのため、彼にはしだいに演奏以外の仕事が回ってくるようになります。それは楽譜が読めないアーティストたちに代わって曲を譜面におこすという仕事でした。彼はコンチネンタルというレコード会社で、この仕事を担当、その後編曲の仕事もするようになり、その仕事の合間を見て念願の作曲活動もできるようになります。

<本格的音楽活動へ>
 翌1953年にはオデオン・レコードにA&Rマン(アーティスト&レコーディング・ディレクター)として採用され、いよいよ本格的に音楽業界で働くようになります。彼はオデオンで実績をあげ、作曲家としても使われるようになり、「リオ・デ・ジャネイロ交響曲」という大作を作曲。それを録音するチャンスを得ます。この曲は、それほどの成功を収めることはできませんでしたが、この後いよいよ彼にブレイクのチャンスが巡ってきます。それは、大物作詞家ヴィニシウス・ヂ・モライスとの出会いがきっかけでした。

<ヴィニシウス・ヂ・モライス>
 ヴィニシウス・ヂ・モライスは詩人、作詞家であると同時に外交官、ジャーナリストであり、時にはマイクを持って歌う伝説的な人物で、ブラジリアン・ポップスにおける影のボス的人物でした。彼は1956年にリオで幕を開けることになるギリシャ悲劇のブラジル版「オルフェウス・ダ・コンセイサォン」の台本を書き、その音楽を担当させるため、当時ミュージシャンたちの間でその名を知られつつあったトムに声をかけました。こうして、ボサ・ノヴァの名曲を数多く生み出すことになる黄金コンビが誕生しました。
(この舞台劇は、その後1959年に「黒いオルフェ」として映画化されカンヌのグランプリを獲得、その勢いで世界中で大ヒットし、ブラジリアン・ポップを世界に広める先駆けとなります)

<もうひとりの重要人物、ジョアン>
 こうして、ボサ・ノヴァは少しずつ完成型へと近づいていったわけですが、それはまだジャズ・サンバという混血音楽の新しい形としか考えられていませんでした。そこには、もうひとつ別のピースが欠けていたのです。それが、トムの生み出した音楽を、声とギターによって完璧に表現することのできる人物、ジョアン・ジルベルトの存在だったのです。
 彼のギターは親指で低音リズム、他の指にタンボリン、ガンザー、アゴゴーなどを担当させ、サンバ・チームを十本の指でギターに移し替えたとも言われます。さらに彼のヴォーカルについては、声によってギターのコードにない音を出すことで、そのハーモニーを完成させているとも言われています。彼こそ、トムの求めていた完璧なハーモニー構造を生み出すためのラスト・ピースだったのです。

<ジョアンとの共作>
 ジョアンの実力を認めた彼は、2年間あたため続けたモライスとの共作曲「想いあふれて Chega De Saudade」を彼に録音させます。この曲こそボサ・ノヴァ時代の幕開けをかざる記念碑的作品となります。
 しかし、発売当初オデオン社内でこの曲はまったく評価されず、なんのプロモーションもないまま店頭に並びました。おまけに、この時ブラジル国内はワールド・カップ・サッカーの話題でもちきりとなっており、どんなレコードもブラジル・チームへの応援歌の影に隠れてしまっていました。(1958年、1962年とブラジルはワールドカップ連続優勝を果たしています。ブラジルはサッカーにおいても絶頂期を迎えようとしていたわけです!)
 それでもワールド・カップが終わると、この曲は若者たちの間で静かなブームを巻き起こし、誰もがギター片手にジョアンのマネをするようになります。

<トムとジョアン、決裂>
 勢いに乗るオデオンは、さっそくジョアンにアルバムを作らせます。当然曲の多くはトムが作り、編曲とピアノも担当しました。ところが、この歴史的アルバムは、ボサ・ノヴァのあの繊細さとはほど遠いグチャグチャの大混乱をへてやっと完成されたものでした。完璧主義者で、ずけずけと物を言うジョアンは、録音を自らの気が済むまで何度でもやり直させただけでなく、トムの編曲にまでケチをつけ始めました。スタジオ内は異様な緊張感に包まれ、一触即発の状態だったそうです。もし、トムがジョアンのような天才肌の気むずかしい男だったら、アルバムは完成せず、ボサ・ノヴァの歴史はまた違ったものになっていたことでしょう。
 それでもこの後二人はなんとか次のアルバム、名作の誉れ高い「愛、微笑み、そして花 O Amor, o Sorriso e a Flor」(1960年)を完成させますが、その関係はどんどん悪化。二人が後にその活動拠点をアメリカへと移してからは、まったく交流は途絶えてしまいます。

<名曲、量産体制へ>
 「ワン・ノート・サンバ Samba de uma nota so」「ヂサフィナード Desafinado」「メディテーション Meditacao」「ヂンヂ Dindi」「あなたが必要 Eu Preciso de Voce」・・・次々と名曲が生み出され、ジョアンだけでなく、シルヴィーニャ・テリス、マイーザ、アゴスチーニョ・ドス・サントス(映画「黒いオルフェ」の主役)らによっても、彼の曲は取り上げられるようになります。
 テレビ番組でオーケストラを指揮したり、映画の音楽を書いたり、「オ・ボン・トン(良い男トム)」というテレビ番組では司会まで担当するなど、ついには彼は曲作りの暇もないほどの忙しさに追われることになってしまいました。

<ボサ・ノヴァ世界的ブレイクへ>
 同じ頃、ボサ・ノヴァ人気はいよいよ本格的なものとなり、それをブラジルにやって来たジャズ・ミュージシャンたちがアメリカに持ち帰ることで、ブームは国境を越え、世界中に広がろうとしていました。(チャーリー・バード、ハービー・マン、ケニー・ドーハム、コールマン・ホーキンス、ズート・シムズ、ポール・ウィンターら、そうそうたるミュージシャンがその影響を持ち帰りました)
 そして、ついに1962年11月21日、ニューヨークのカーネギー・ホールにボサ・ノヴァのヒーローたちが登場し、その人気はピークをむかえることになります。
 ルイス・ボンファ、アゴスチーニョ・ドス・サントス、セルジオ・メンデス・セクステット、ホベルト・ネメスカル、ミルトン・バナナ、アントニオ・カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルトなど、そうそうたるメンバーによるライブの出来は、実際には音響や段取りの悪さから最悪だったと言われています。しかし、それでもこの時の参加メンバーの多くには、ライブのオファーやレコード会社からの契約申し込みが次々と寄せられました。こうして、ボサ・ノヴァのブームはブラジルから世界へと広がって行くことになったのです。

<ボサ・ノヴァ海外進出の背景>
 実は、こうして多くのミュージシャンが海外進出を目指したのには、ボサ・ノヴァ人気がブラジル国内ですでにピークを過ぎようとしていたこととも関係があります。彼らは自分たちのことをより高く買ってくれるアメリカやヨーロッパでの活躍を望んだのです。そして、ヒーローたちが海外に出かけてしまうことで、なおさらブラジル国内でのボサ・ノヴァ人気は下火になってしまったのです。
 さらに、1964年ブラジルで軍によるクーデターが起きました。その後20年間、軍事政権による暗い時代が始まります。音楽活動に対する圧力は、当初ありませんでしたが、将来に対する不安を感じた人々が海外へと流出するのは当然のことでした。
 元々ボサ・ノヴァ・ブームを巻き起こしたのは、サンバでもないアメリカからの押しつけ的ポップスでもない新しいブラジル産ポップスの誕生を待ち望む若者たちでした。経済的にも豊かになりつつあった時代の若者たちの自由な気分は、ブラジルの民主化を進めたクビチェク大統領の政治姿勢とも一致し大きな潮流となっていたのです。しかし、その後継者となったジャニオ・クワドロス、ジョアン・グラールの時代には、右派勢力が急激に力を伸ばし、自由な空気にあふれた「愛、ほほえみ、花」の時代は終わりを迎えることになったのです。
 この後、ボサ・ノヴァで育った若者たちは時代の流れに対抗すべくトロピカリズモ運動を開始することになります。こちらのお話は、カエターノ・ヴェローゾのページでどうぞ!

<ボサ・ノヴァ最後の輝き>
 それでも、ボサ・ノヴァ・ブームはまだ終わってはいませんでした。1964年最後で最大のヒット曲が生まれたのです。それがジャズ・ミュージシャン、スタン・ゲッツによるリーダー作「ゲッツ/ジルベルト」とそこからメガ・ヒットした永遠の名曲「イパネマの娘」です。
 この曲は、当時ジョアン・ジルベルトの妻だったアストラッド・ジルベルトが飛び入り参加で英語バージョンを歌ったことで、アメリカ国内で爆発的にヒット。それが海外へも飛び火し、消えかかっていたボサ・ノヴァ・ブームに再び火をつけることになりました。

<ザ・ヴォイスとの共演>
 トムはその後1967年には「WAVE 波」を発表。全編インストロメンタルのこのアルバムは、究極のイージー・リスニングとでも呼ぶべきシンプルで奥深い素晴らしい作品です。さらにこの歳、彼のもとに超大物アーティスト、フランク・シナトラから共演依頼が来ました。
 「ザ・ヴォイス」と呼ばれるほど、ポピュラー界における彼の存在は大きく、そんな彼と2枚のアルバム「フランク・アルバート・シナトラ&アントニオ・カルロス・ジョビン」(1967年)「シナトラ&カンパニー」(1973年)を制作したことで、いよいよジョビン人気はアメリカのショービジネス界においてもその頂点に達したのでした。

<その後のトム>
 その後の彼はある意味悠々自適の生活に入り、作品の数もずっと減って行きます。しかし、その質が落ちたということはなく、70年代以降はいち早く「エコロジー問題」を作品のテーマに取り上げ、「Terra Brasilis」(1980年)などの作品を発表。音楽的にはボサ・ノヴァの枠に囚われないジョビン・サウンドとも言える独自の世界を追求して行きます。
 1994年に発表し遺作となった「Antonio Brasileiro」もまた傑作と言われています。

<トムの音楽>
 世界一の多民族国家が生み出した世界一複雑なリズムとハーモニーをもつ音楽、ボサ・ノヴァは、なぜこうも耳に優しく響くのでしょうか?
 それはもしかすると、それらの名曲を生み出したトム自身が、複雑な心と誰にでも好かれる優しい心をもつ人物だったことと関係があるのかもしれません。
 ジョアン・ジルベルトの生み出す個性の固まりのようなバチーダ(リズム)とヴィニシウス・ヂ・モライスの書く美しいけれども灰汁の強い詩の数々、謎に満ちた共作者ニウトン・メンドーサの存在、スタン・ゲッツなど異国のミュージシャンたちの持ち込んだジャズ・フィーリング、これらを組み合わせて作り上げた複雑な構造を誰もが口ずさめる優しいメロディーへと還元する優れた能力。これこそが、トムの持つ最大の才能だったのかもしれません。

<締めのお言葉>
「創造的活動とは本来、たんに与えられた要素の中からある素材を選択するだけではなく、所与の素材の選択や再配置と同時に、より単純な形態の生成を目指して素材を変化させることを伴う単純化のプロセスである」

ランスロット・L・ホワイト 「形の冒険」より

そしてもうひとつ、彼がこだわり続けたアマゾンの熱帯雨林について
「熱帯雨林という生態系では、生物自身が自己の養分貯蔵庫であり、森林は、全体として、その化学物質貯蔵庫の維持と補給にあたっている。農民が低地の熱帯雨林を切り払うとき、彼は植物を殺し、栄養素の回収システムを破壊しているのである。これによって、栄養素は土中から川へと洗い流され、海に流れ込んでしまう。望みの作物ができないと、彼は土壌が不毛なのだという。もちろん、土壌は不毛である。彼が不毛にしたのである」
ポール・コリンヴォー「猛獣はなぜ数が少ないか」より

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