
- アントニオ・ガウディ Antonio Gaudi -
<サグラダ・ファミリアの価値>
このサイトの制作を開始して6年以上。毎週欠かさず新しいページを追加していますが、未だ完成には至っていません。それどころか、以前よりジャンルの幅が広がったことで、完成は遙か遠くに伸びてしまったようです。
とはいえ、バルセロナのシンボル、サグラダ・ファミリアの存在を思えば、まだまだこのサイトの挑戦など小さいと言わざるを得ません。何せあちらは、すでに建設開始から120年以上の年月が過ぎているのです。もちろん、120年という歳月の長さだけに価値があるわけではありません。それだけの歳月をかけながらも、それが未だに斬新なデザインであり、かつ堅牢強固であり続けていることにこそ価値があります。
かつて、僕もスペインを旅した時にバルセロナを訪れ、この建物を見てきましたが、やはり現地でみる本物の迫力は感動ものでした。まるで生き物のように大地から少しずつ伸び上がる大聖堂の姿は、樹齢数百年の巨大な植物のように生き生きとしているように見えます。
それにしても、なぜ120年もの歳月をかけながら未だに完成していないのでしょう?それに誰がこの建物を建てているのでしょう?そもそも聖家族教会とは、何のため建てられたのでしょう?バルセロナで数々のガウディ建築を見ながら、僕はそんな疑問を持つようになりました。それでは先ず、ガウディ活躍の地、スペイン北東部カタルーニャ地方とその歴史について、ちょっと見てみましょう。
<独自の文化をもつカタルーニャ>
12世紀、バルセロナを中心とするカタルーニャ地方にはカタルーニャ・アラゴン連合王国という国がありました。この国は地中海貿易の中心地として繁栄をほこりましたが、マドリードを中心とするカスティーリャ王国の繁栄とともにカタルーニャの黄金時代は少しずつ終わりを迎えます。それでもこの国の人々の独立心と誇りは高く、カタルーニャ語とカタルーニャ文化は、もうひとつのスペイン文化として確固たる地位を築いて行きます。特にホアン・ミロやピカソ、サルバドール・ダリのようなアーティストは世界的に有名です。
特異な文化をもつ地域の中でもバルセロナの街は、スペインの首都マドリードに対する「アンチ」として常に独自の文化を発信し続けてきました。その関係はサッカー・スペイン・リーグのレアル・マドリードとFCバルセロナとの関係にも表れています。(日本なら巨人と阪神の関係でしょうか?)実は、ガウディが活躍を始める1870年代後半は、そんなバルセロナの街においてカタルーニャ文化の復興運動が起きていた時期でした。そして、彼の活躍とこの運動の盛り上がりは切っても切れない関係にあったのです。
<アントニオ・ガウディ>
アントニオ・ガウディ・コルネットは、1852年6月25日カタルーニャ地方のレウスという街に生まれました。彼の父親は、代々続いてきた銅板加工器具の職人でした。ガウディ独特の空間構成の基本には父から受け継いだこの銅板加工のセンスが生かされていたのかもしれません。幼い頃、慢性の間接リューマチに苦しんでいた彼は、普通に学校へ通うことができませんでした。そのせいもあり彼の学校の成績は幾何学以外みな人並み以下で、手先が器用なだけの大人しい少年だったようです。
そんな彼が建築家という仕事に興味をもつようになったのは高校時代のことでした。レウスの街はずれに立つ廃墟となっていたポブレット修道院を修復し、そこを理想のコミュニティーにしようという計画をたてた彼と友人たち。その中でガウディは初めてデザイン画というものを描いたと言われています。
1868年ガウディはバルセロナに住む兄と同居するために引っ越します。そして、バルセロナ大学に入学後、できたばかりのバルセロナ建築学校に入学。いよいよ建築家になるという夢を現実化し始めます。ただし、当時彼は年老いた父親や姉といっしょに暮らしていたため、その生活費を稼ぐためにバイトに励んでいたため、成績はかなりひどかったようです。そのため、彼の才能を理解できる人は教授陣の中のほんの一握りにすぎませんでした。しかし、その中に後にサグラダ・ファミリアの初代設計者となるビリャール・ロサーノ教授がいました。
<建築家としてのスタート>
1878年3月15日、26歳になったガウディは建築学校を卒業。先ずは助手として働きながら小さな仕事をこなしつつ生計を立てて行きます。そして、その小さな仕事の中から彼は大きなチャンスをつかむことになりました。それはある革手袋の専門店からの依頼で作ったショーケースのデザインがきっかけでした。
彼が作り上げたその小さなショーケースは、1878年開催のパリ万博会場に置かれるものでした。ところが、そのショーケースの斬新なデザインはあっという間に会場の注目を集めるようになります。そして、そんな観客たちの中に後にガウディにとって最大パトロン、最高の理解者となる人物エウセビオ・グエルがいました。
<エウセビオ・グエル>
エウセビオ・グエルはガウディより6歳年上の青年実業家で、父親が築き上げた巨大な繊維会社の後継者として、すでに会社のトップの座にありました。そのうえ彼の経営手腕は父親以上で、元々の繊維工業だけでなく銀行、鉱山会社、セメント会社などの経営にまで手を広げ、スペインを代表する企業家のひとりになっていました。(世界的にも有数の企業家だったと言えるでしょう)そんな彼がパリ万博でガウディのショーケースを見て一目惚れ、ガウディの連絡先をつきとめるとさっそく彼に仕事の依頼を申し込みました。(と言っても、先ずは自宅の家具デザインからでしたが)それでも、この付き合いをきっかけに彼はその知名度を上げて行くことになります。
<サグラダ・ファミリアの歴史>
1865年、ヨーロッパ中がコレラの流行によって大きな被害を受けました。この時、宗教書の出版で財をなしていたホセ・マリア・ボカベーリャという人物が「サン・ホセ教会」という組織を設立します。その目的は、失われつつある宗教心を復活させることでした。あくまでも入りやすい民間団体だったこともあり、この団体はしだいに会員数を増やし1878年には60万人を越えました。サグラダ・ファミリア教会は、このサン・ホセ教会が資金を集めて建設を計画、1882年に着工した礼拝堂なのです。ただし、この教会は一般大衆を中心につくられた組織だったため資金面に問題があり、このことが後に大きな問題となります。
初代の設計者は、バルセロナ建築学校のビリャール・ロサール教授でしたが、彼は建築開始後一年で雇い主のボカベーリャと対立し、仕事を降りてしまいました。困ったボカベーリャは、その仕事を有名な建築家のホアン・マルトレールに依頼しますが、彼もまた多忙のため、その仕事を受けられず、自分の弟子の中でも特に優秀な設計技師ガウディを推薦します。こうして、まだ無名に近かったガウディにサグラダ・ファミリア二代目設計者の大役が回ってきたわけです。と言っても、この時点ではこの建築物が20世紀を代表する偉大なる作品になるとは、ガウディ自身も思っていなかったでしょう。なぜなら、この建物のデザインはその後時代とともに進化をし続け、どんどん新しいアイデアが盛り込まれることで今のような斬新なデザインへと変貌していったからです。
ではなぜ、サグラダ・ファミリアは時代の変化に応じて新しいアイデアを持ち込むことができたのでしょうか?実は、その原因はこの建設計画の欠点である資金の不足にありました。この計画は建設のための資金計画が不十分であったため、途中で何度も建設がストップしています。そのおかげで、ガウディは建築が再会されるまでの間、ゆっくりと設計の見直しや新しいアイデアの導入に取り組むことができたのです。こうして、サグラダ・ファミリアはガウディの建築家としての成長と共に新しい要素を盛り込んでその評価を高めていったのです。
<ガウディ建築時代の始まりと苦悩の日々>
彼はサグラダ・ファミリアの仕事を得たことでいっきに業界での評価が上がりました。さらに奇想館(1883〜1885年)、グエル別邸(1884から1887年)、グエル邸(1886〜1890年)などの仕事を平行してこなし、建築家として一流の仲間入りを果たします。しかし、彼にとってすべてが上手くいっていたわけではありませんでした。
もともと彼同様、身体が弱かった4人の兄姉は、早くにこの世を去ってしまい、1880年代にはすでに父親と自分だけしか家族がいなくなっていました。そのうえ、人一倍内気だった彼は恋をしても、なかなかその思いをうち明けられず、結局生涯独身を通すことになってしまいます。
そんな孤独な彼にサグラダ・ファミリアの建築という大きな仕事のプレッシャーがのしかかることで、彼は少しずつ精神的に追いつめられ始めます。それに対し、彼は1894年突然断食を始めます。なんと40日間何も食べず、ついには死の危険に陥ります。それは自殺に近い行為でした。幸いこの時は、カタルーニャ地方の文芸復興運動の中心人物だったホセ・トーラス・バジェスという神父の説得により、なんとか一命をとりとめました。そして、この時以来彼は自分の命を救ってくれた神に対する感謝の気持ちが、彼の建築における重要なテーマとなって行きます。(サグラダ・ファミリアはまさにその象徴でした)
<ガウディ建築の黄金時代>
その後ガウディはそれまでの迷いが吹っ切れたかのようにぞくぞくと歴史的建造物を生み出し始めます。コローニア・グエル教会堂(1898〜未完成)、グエル公園(1900〜1914)、カサ・バトリョ(1904〜1906)、カサ・ミラ(1906〜1910)どれも20世紀を代表する建築物として未だにその価値を失わないものばかりです。
中でも、バルセロナの中心部から離れた場所に、庭園都市型の分譲住宅地の中心として作られたグエル公園は、まるでおとぎ話の世界を訪れた気分にさせてくれる不思議な空間です。残念ながらこの住宅開発計画は出資者のグエルが途中で亡くなってしまったため未完に終わってしまいましたが、もし完成していたら、いかなる都市空間がそこに生まれていたのか?そんなことを考えながらグエル公園を散歩するといいかもしれません。ガウディにとって数少ない愛弟子だったホセ・マリア・ジュジョールによって作られた公園内ホール天井のモザイクや入り口付近の有名なトカゲの泉水、ベンチなど見所はいっぱいあります。
<ガウディ建築の装飾性について>
ガウディの作品を「実用的でない」とか「過剰装飾である」などという見方をする人も多いようです。確かにアール・ヌーボーの典型とも言えるその生き物のようなデザインは、ル・コルビジェのようなシンプルで機能的なデザインとは対極に位置しているのかもしれません。しかし、彼の場合、けっして無駄な装飾によって美を追求していたわけではなく、そこには常にある種の必然性がありました。それは彼の設計における重要なコンセプト、「建築は有機体を創造する。それゆえ、この有機体は、大自然の法則に合致した法則をもたなければならない」からくるものでした。
そんな考えをもっていたせいか、彼は装飾に用いる彫像をつくる際、常に現物から型をとることにこだわりました。特に生き物については、そのもののもつ構造を完璧に再現するため、人や動物から直接、型をとっていたそうです。(モデルに選ばれた人は、命がけで型をとられたそうです)
ドアノブやイス、机など、実用的な家具も装飾的ではありながら、座り心地、握り心地などを実際に使ってみて試しており、けっして見た目だけのデザインではありませんでした。
さらに建築に使う素材についても、彼はこだわりをもっていました。グエル公園建設の際、その道路は公園内でとられた石材を用いて造られました。ベンチに使用したタイルも廃材となっていたものを用い、無駄を出さないことが常に心がけられていました。(テレビ「北の国から」最終回に出てきた黒板五郎の描いた未来の廃材都市は、ガウディをモデルにしているのかも・・・)
<サグラダ・ファミリア>
1914年、彼の仕事は順調でしたが、サグラダ・ファミリアの建設に関しては資金が底をついてしまい建設が中断、中止の危機にみまわれてしまいました。62歳になっていた彼は、この年からサグラダ・ファミリアの建設だけに専念するようになり、報酬も受け取らないようになります。1918年には、最大の理解者でありパトロンでもあったグエルもこの世を去り、いよいよ孤独になった彼は建設中のサグラダ・ファミリア内に住み着きます。彼の人生のすべてはこの建設に捧げられるようになりました。
1926年6月7日、仕事を終えて近所の教会に祈りを捧げに行こうとしていた彼は、交差点で路面電車にはねられ、その3日後この世を去りました。もちろん、彼の亡骸はサグラダ・ファミリアの地下礼拝堂に埋葬されました。神への捧げ物として作り続けた建物の中で永遠の眠りについたのですから、これ以上の幸福はないのかもしれません。
最近の状況では観光客の落とすお金によって建築資金の不足は解消され、永遠に完成しないと言われていたサグラダ・ファミリアは2022年頃には完成すると言われています。
ガウディは、その完成形を見ることなくこの世を去ってしまったわけですが、彼はそのことをそれほど残念には思っていなかったようです。
「サグラダ・ファミリア聖堂の建設は、ゆっくりしている。なぜなら、この作品のご主人(神)が急がないからだ」 アントニオ・ガウディ
<素晴らしき街、バルセロナ>
かつて、僕はモロッコからスペインへと一人旅を3週間かけてしたことがあります。その旅はモロッコを一週間旅した後、ジブラルタル海峡を船で渡ってスペインに入り、そこから北上してバルセロナ、マドリードへと向かうものでした。その旅をしていてよくわかったのは、モロッコとスペインは本当に目の前にある国であり、文化的にも実に近いものがあるということでした。
特に建物のデザインにはその影響が顕著で、モロッコのイスラム教寺院からアルハンブラ宮殿へ、そしてバルセロナのガウディ建築へとつながるイスラム文化の影響、ヨーロッパ文化との融合の度合いが歴史の深さ、地域文化の特徴を表していて実に興味深く感じられました。やはり優れた文化は異文化の衝突する地にこそ生まれるのでしょう。
バルセロナ!芸術と街並みが一つになった素敵な街。是非、みなさんも訪ねて観て下さい!
<締めのお言葉>
「自然は、最小の被造物における以上に、完全な形で見出されることは決してない」
プリニウス
ロック世代の異人伝へ
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