ワンダーを探求し続けた目と脳の冒険者


- 荒俣宏 Hiroshi Aramata -

「妖怪少年の日々」アラマタ自伝より
<もう一人の師匠>
 理学部の物理科に入学したものの、大学で理系の秀才を何人も見て、自分の居場所はここではないなと自覚した僕にとって、荒俣宏作品との出会いは新鮮でした。特に1981年発表の「理科系の文学誌」からは、大学で学んだ科学的な思考と文学の融合について、大きな刺激をもらいました。この時期、オウム真理教ではなく、荒俣宏教と出会えたことは僕にとって幸せなことでした。
 「ポップの世紀」というこのサイトの原点は、僕が持っていたレコード・CDを年代別、ジャンル別に分類し、そこからポピュラー音楽の歴史の流れを描き出そうという試みから始まりました。そんな中で分類したり、比較したり、法則性を見出したりしようとする思考法は、やはり理系の発想だったと思います。そんな意味でも、荒俣宏は僕の大切な師匠の一人と言えます。
 「妖怪少年の日々」として発表された荒俣宏の新作は、副題が「アラマタ自伝」。ついに師匠の自伝が出た!と歓喜。ぶっちゃけ師匠と元妻のプライベートな部分の記述が一切ないのは少々残念でしたが、まあそこは本筋ではないので良しとしましょう。
 「荒俣自伝」でありながら、様々なジャンルの彼の師匠たちの伝記部分が多く、そのため、肝心の「荒俣自伝」部分が少ない!その方が問題かもしれません。とは言え、「荒俣自伝」は考えようによっては、「荒俣師匠列伝」であっても仕方ないのかもしれません。彼の人生を描くと、必然的に彼に道を示した様々なジャンルのオタクな師匠たちの存在が浮かび上がるのですから、それは当然です。それが「脳内荒俣」のリアルなのだと思います。
 そんなわけで、ここではそんな膨大な脳内荒俣伝の中から、荒俣宏少年の生い立ちや師匠たちとの出会い部分に的を絞ってまとめようと思います。もし、彼の総てが知りたいという方がいたら、是非、「妖怪少年の日々」をご購入のうえ、じっくりとお読みください!
 では荒俣少年の生い立ちから始めます。

<生い立ち>
 荒俣宏 Hiroshi Aramataは、1947年7月12日、東京板橋区で3人兄妹の長男として生まれました。地金の販売をしていた父親が、人の良さから他人の借金を背負ってしまい倒産。引っ越して小さな瀬戸物屋を始め、タバコなども売りながらつましい生活をしていました。
 それでも近くに本家があったことから、その古い大きな日本家屋に泊まりに行くと、夜には祖母や祖父が怪談話を聞かせてくれました。その時に聞かされた「本所七不思議」などの怪談が、彼にとって最初の妖怪体験となりました。
 そんなわけで彼の家は普通以下の生活レベルでしたが、それでも両親は長男だけは大学に入学させたいとして、様々な仕事を掛け持ちしながら彼を育ててくれました。母親も、保険の外交員、柔道着の縫子、さらには自宅を改造したアパートの経営などで、なんとか収入を確保して行きました。(学費は長男だけにまわり、妹は大学へ入らず、就職し漫画家になります!)

<少年期最初の趣味>
 幼少期、上野に住んでいた彼は上野動物園に、柵の壊れた部分から毎日入り、動物を見て回る動物大好き少年でした。

 彼が少年時代、最初にはまったのは、「映画」「漫画」それに魚の採集と飼育だったようです。
 当時、彼が住んでいた大山商店街には映画館が多く、当時は値段も安かったことから、映画を見ることは楽しみの一つでした。なかでも1950年代に一大ブームとなった「狸ミュージカル映画」は、彼のお気に入りのジャンル。「映画」と「妖怪」という後の彼の趣味が、見事に生かされた娯楽映画でした。
「歌まつり満月狸合戦」(1955年)は、美空ひばりと雪村いずみ主演のアイドル映画でもありました。「七変化狸御殿」(1954年)は、美空ひばりと堺駿二の主演。「たん子たん吉珍道中」(1954年)は、松島トモ子主演。
 もちろんジョン・フォードの西部劇やヒッチコックのサスペンス映画、ゴジラ映画、嵐寛寿郎の時代劇なども王道娯楽映画も彼は大好きだったようです。

 彼が小学生だった時期は、貸本がブームの時代で、安くマンガを読むことが可能でした。そのおかげで、彼は、その後日本の漫画界をリードすることになるマンガ家の作品と出会うことができました。
 手塚治虫、辰巳ヨシヒコ、楳図かずお、水木しげる、平田弘史、松本正彦、山森ススム、山川惣治などの作家の作品を読み漁り、その中のお気に入りには「人形少女」(楳図かずお)、「墓場鬼太郎」(水木しげる)、「血だるま剣法」(平田弘史)、「少年ケニヤ」(山川惣治)などがありました。

<勉学に励む日々?>
 両親の願いと努力により、彼は大学入試のために中高一貫校の日大二中に入学。学校は電車通学の距離にありましたが、彼は電車賃を浮かそうと自転車で一年中通い続けました。しかし、当然ながら彼は勉学にだけ励んだわけではなく、それまでにはまった多彩な趣味の世界における「師匠」探しを本格的に始めます。
 ただし、今と違い、当時はネットによる情報収集もできないし、ファン雑誌などもなく、「師匠」と呼べる人物との出会いの場などありませんでした。そこで、彼が選んだ戦法は、気に入った記事、評論、作品の作者に対し、手紙を書き、それを出版社や本人に送りつけるというものでした。驚くべきことに、当時は、多くの作家などが平気で自分の住所を公開していた平和な時代だったのです!こうして、彼はそうした心の師匠たちに直接ファンレターを届けることができ、そこから質問や解答などのやり取りを始めるチャンスを掴みます。

<マンガ界の師匠>
 最初に「師匠」のターゲットとなったのは、漫画界の「師匠」平田弘史でした。
 「血だるま剣法」や「魔像」など時代劇を題材にした劇画の作者として活躍していた平田弘史に手紙を出した彼は、自分が描いた漫画を送り、それを見てもらうことに成功します。(ただし、彼が本当に見てもらいたかったのは、巨匠、手塚治虫でした。実際彼が描いていたマンガのタッチは石森章太郎だったようです)
 その後、彼は大学に入学後、アニメ制作にも挑みますが、アニメ作家の道には進みませんでした。(その代わり妹が漫画家になったわけです)

<幻想文学界の師匠>
 中学時代、彼は幻想文学、オカルト文学にもはまり、中でもエドガー・アラン・ポオの大ファンでした。
 そこで彼は、ポオの作品の多くを翻訳していた作家でもある人物、平井呈一にもファンレターを出し、勝手に弟子入りをしています。
 彼が中学生だった時代、怪奇幻想文学は売れる小説ではなく、翻訳出版されることはほとんどありませんでした。そのため、彼の師匠となった平井呈一や紀田順一郎は、彼にそうした海外の本を自分で取り寄せ、原書で読むことを進めてくれました。
 まだ中学3年生!だった荒俣少年は、アルバイトでためたお金を使い、海外の出版社や本屋に手紙を書き、それを直接購入する本格的なコレクターの道を早くも歩み出すだけでなく、その本を自らの手で翻訳する翻訳家としての仕事も始めることになります。
 高校に入学した彼は、幻想文学の雑誌「ウィアード・テイルズ」などを本格的に収集し始め、そうした本のコレクターたちとの交流にも参加するようになります。
 さらに彼は当時ハードボイルド、探偵小説の雑誌「マンハント」も愛読していました。その雑誌には、植草甚一、大橋巨泉、永六輔、紀田順一郎などそうそうたる顔ぶれが作品を発表していました。
 幸いなことに、彼が通う日大二中の図書館には多くの本が所蔵されていて、その中にはとても彼が購入できないような高価な貴重本もありました。そのおかげで、彼は多くの歴史的著書を読むことができました。
 なかでも、ロバート・リプレーの「リプレーの世界奇談集」庄司浅水(訳)、日野巌の「趣味研究 動物妖怪譚」など、怪奇もののノンフィクション本は彼の大好物となりました。

<野鳥飼育の師匠>
 日本野鳥の会の中西悟堂も彼の師匠のひとりでした。魚を採って飼うだけでなく、彼は同じようにタダで捕らえられる野鳥もつかまえて飼うこともしていて、その方法について手紙で問い合わせていたそうです。それにしても、彼の身体と脳は一つだけだったのでしょうか?

<唯一の学友>
 バイトと趣味の世界に没頭する彼は当然ながら、高校で友人を作る暇もありませんでしたし、同じような趣味を持つ高校生もいなかったようです。ただし、高校で唯一彼と話が合う人物がいました。それは校長先生でした。学内で唯一文学について語り合えることから、彼は放課後になるとよく校長室に行き、お茶を飲みながら文学について語り合ったそうです。

<慶応大学へ>
 1970年、日大にはそのまま入学できたのですが、父親からの薦めもあり、彼は慶応大学を受験し、見事に合格します。父親は彼に政治家や法律家になってほしかったようです。しかし、大学に入学した彼は、そうした父親の思惑など関係なしに、さらなる趣味の世界に邁進します。
 映画と漫画が好きだった彼は、日大のアニメ好きの友人たちとアニメ映画の制作に挑戦しています。この時に作られた7分55秒のオリジナル・アニメ作品「Under the Deep」は海中世界を舞台にしたアニメで、長らく行方不明でしたが最近になってフィルムが発見されました。

<幻の雑誌「リトル・ウィアード」>
 大学時代、彼は友人の竹上昭(野村芳夫)と二人で幻想怪奇文学の自費出版雑誌「リトル・ウィアード」を刊行します。4年間で15冊を刊行し、完成品を伊藤典夫、野田宏一郎、星新一、平井呈一、紀田順一郎、柴野拓美などの作家、翻訳者、コレクターらに送り続けました。(今やこの雑誌はプレミア付きのお宝となっています)
 さらに彼はSFファンが集まる店やファンの集いに出席し、様々な作家たちと直接知り合います。その中には、前述の作家以外にも、矢野徹、鏡明、横田順弥、豊田有恒、小松左京などもいました。

<コンピューター・エンジニアとして>
 慶応大学を無事に卒業した彼は、現在の「ニチロ」、日魯漁業に就職し、資材部に配属後、業務の電算化を進めるため、コンピューターの専門家として働くことになりました。彼の職場は、北海道拓殖銀行が設立した築地の電算センターで、そこでIBMの最新型コンピューターを使って仕事をすることになりました。ただし、そのコンピューターは台数・使用時間に制限があったことから、使用できる時間がそれぞれの企業に割り当てられていて、日魯が仕えるのは夜8時以降となっていました。そのため、彼らは夜に仕事をすることになったため、日中の余った時間を彼は銀座並木座などの映画館で映画を見て過ごすことになりました。(映画界はすでに斜陽の時代に入っていて、彼が主に見たのは、日活ロマンポルノやATGなどによるアート系映画でした)

<執筆活動開始>
 日本初の本格的な幻想文学雑誌「別世界通信」で彼は評論家としての仕事を始めます。
 こうして30代になった彼はサラリーマンとしての仕事をしながら、海外幻想文学の評論家、翻訳者としての仕事もこなす二重生活をするようになります。当時の睡眠時間は3時間程度で、長い休みがあれば、それを利用して海外に調査・観光旅行に行く超多忙な生活を送り続けました。
 そんな中、平凡社の二宮洋隆から依頼され、平凡社の「月刊 百科」への執筆開始。ここから彼と平凡社の長い付き合いが始まることになります。

<専業作家へ>
 1978年、著作家としての仕事が増え、いよいよ忙しくなってきた彼は32歳でサラリーマンを辞め、専業作家となります。しかし、仕事が多いわりに作家としてはサラリーマン時代ほどの高収入は得られず、5年ほど貧乏生活が続くことになりました。サラリーマンを止めてしまった手前、実家に戻ることも出来なかった彼は、平凡社に住み込みで働くことになります。それは平凡社からの依頼による「世界大博物図鑑」を完成させるためでした。彼は当時の平凡社社長、下中邦彦の許しを得て、平凡社の本社ビルに住み込み、そこで8年がかりで図鑑を完成させることになります。
 1985年、彼はそれまでの知識や興味の集大成とも言える小説「帝都物語」を発表します。書き始めるきっかけとなったのは、建築史家・建築家の藤森照信との出会いで、建築物としての都市を生き物のように主役として描いた異色の歴史ファンタジー作品でした。
 作品中、実在の人物も数多く登場することから、小説として発表するにあたり遺族らとのトラブルがないよう、角川書店の角川春樹が事前に各方面への挨拶回りを行ったといいます。そうしたリアリティーも併せ持つ作品だったことから、「帝都物語」は出版界で話題となっただけでなく、大ベストセラーとなり、映画化もされることになります。

<映画版「帝都物語」>
 CGもない時代に、失われた帝都、東京を画面上に再現するには巨額の製作費が必要になりました。幸にして、1980年代当時はバブルの影響もあり、製作費の問題はなんとかなりました。原作者にとっては、夢のようなスタッフが集結した超大作として映画化のプロジェクトが始まります。
 監督には、ATGで前衛的な作品を撮り、特撮ヒーローSFドラマ「ウルトラマン」などの演出でも知られる実相寺昭雄が抜擢されることになりました。
 美術担当は、鈴木清順監督の作品などで独自の美学を貫き、世界的にも知られる木村威夫
 脚色を担当したのは、やはり前衛的なアート作品の傑作「夢見るように眠りたい」や永瀬正敏の人気シリーズ「私立探偵 濱マイク」の監督・脚本の林海象
 俳優では、主人公の加藤役は当初、山崎努や小林薫らが候補だったようですが、オファーを受けてもらえず、オーディションとなり、そこで嶋田久作が選ばれました。今では、加藤役は嶋田しか考えられないほどのはまり役です。
 絵コンテの担当は、後に「シン・ゴジラ」などの監督をすることになる樋口真嗣
 日本初のロボット「学天則」を作った実在のロボット博士、西村真琴を演じた西村晃は、なんとその西村真琴教授の孫ということで著者が指名して実現しました。
 巫女さん役で出演の原田美枝子の美しさは、この頃が最高でした!
 著者自身もここまで豪華なスタッフがそろうと思わなかった豪華なメンバーがそろったこともあり、映画は10億円を超える興行収入を稼ぐ大ヒットとなり、続編も作られることになります。
 CGもなく、盛り沢山のエピソードを2時間ちょっとにまとめることでかなり無理のある作品になりましたが、それでも今見ても見応えのある作品に仕上がっています。
 映画の中には、著者の荒俣さんがカメオ出演しているので、要注意!

<博物学時代へ>
 5年間、専業作家ではあっても厳しい生活が続いていた彼は、「帝都物語」の大ヒットにより経済的に余裕が生まれると本格的に「博物学」にのめり込むようになります。貴重な本の購入や視察・研究のための海外旅行が可能になったからです。
 ちょうどその頃、ヨーロッパでは科学史家ピーター・ダンスらの活動により、一時は過去のものだった「博物学」が盛り上がりをみせつつありました。彼の著作「博物学のアート」は、そのきっかけとなった重要作品です。

<荒俣宏のワンダー>
 荒俣宏が少年時代からこだわり続けてきた興味の原点は、「ワンダーWonder」という言葉で表現されます。僕も大好きな言葉なので、ここでこの「ワンダー」についてのお言葉をまとめておきます。

「ワンダーというのは人の目と心を引き付ける力だ」
アリストテレス
「ワンダーには歓びがある。それも、未知のものにぶつかるときでなく、未知のものの正体が理解できたときに初めて発生する」
フランシス・ベーコン
「ワンダーなるものに対した時、無知ゆえに恐れおののけば迷信的信条となり、知ることに夢中になれば好奇心の発現となる」
アルベルトゥス・マグヌス

 様々な分野に興味を持ち、その探求を続けてきた彼はある時、その「ワンダー」とは「自然」そのものであることに気づいたと言います。
 この気づきのおかげで、これまでもやもやしていた疑問が晴れた。すなわち、自分はどうしてお化けと自然物の両方に好奇心が向いているのだろう、という疑問がである。オカルトのようでいて、科学のおうでもある、そんな中途半端な好奇心とは、いったいなんなのだろうと、と。・・・・・

 こうした非言語的な警鐘やワンダーをポランニーが暗黙知などと学術用語化する前に、作家たちは物語として表現しようとしたし、博物学者は病理や生物形態学の素材として問い詰めようとした。この世界には、言語でなく、形やエネルギーとして人間に語りかける「何か」が存在する。その意味を科学と直観によって解読しようとしたのが、日本ではたとえば熊楠や宮沢憲治のような稀有なる「ナチュラル幻視者」だった。

 この系譜に彼も連なっているのです。
 自然の中にも究極のワンダーがあります。その具体的な例の一つが南方熊楠が研究対象としていた「粘菌」です。それは動物相と植物相、二つの相を輪廻転生するように行き来する生命体です。
 それと彼が自ら海に潜って観察を行なってきた水中の生命体「幼生」も究極のワンダーです。チョウチンアンコウやウナギ類の透明な幼生。リュウグウウノツカイの幼生など、まったくその親たちとは異なる形態である霊的な存在はワンダーそのものでした。
 彼にとっての粘菌や幼生たちは、長年、研究してきた幽霊や妖怪たちと共通する存在です。かつて人間はそうした存在とごく自然に関わったり交流していました。

 わたしが日本製の人魚に関心を向けたのは、最初のうち博物館的な好奇心からだった。このまがいものをどうやって作り、どんな動物を材料にしたか、という解明をしたかった。・・・しかし、博物学には別のロマンがある。寺田虎彦も語ったように、一つの解明すれば、一つさらに神秘が深まる。わたしも海でプランクトンの観察を始めて以来、熊楠における粘菌の神秘にも匹敵する神秘界にたどり着けた。

 彼が好きだったアニメに関しても、それを「人工生命」の一種と考えることで「ワンダー」と考えることができそうです。

 そういうわけで、わたしはアニメーションをどうしても映画という意味だけに限定することができない。
 これは自動人形と同じような一種の「人工生命」だと考えている。そもそもアニメーション animation(命を吹き込むこと)という英語を縮めたものだ。語源も、anima すなわち命に由来する。アニマの本質は魂あるいは霊が宿るという古い理念もアニミズムと呼ぶ。そう、自動人形や映画は、機械・器物が宿った人工物なのである。


 「帝都物語」で描かれたように都市や建築物にも「ワンダー」はやどっていました。

 15世紀末、皇帝ネロの大宮殿が地中から発見され、そのデザインに人々は驚かされた。
 それは、一言で言えば、ヘレニズム文化が西洋にもたらした東洋的な装飾文様であった。日本人が見ると、唐草模様かと錯覚するような曲線と連続模様が多い図柄だった。ルネサンス初期の人々には、まるで異教徒の伏魔殿みたいな装飾に思えたが、あまりにワンダー感があるので、裕福な人々はさっそく自邸の壁にもこれを用い始めた。


 もちろん荒俣さんだけでなく、過去の人々もまた「ワンダー」なものにひかれ、あこがれ、それを手に入れたり生み出すことに熱中してきました。
 そして、それこそが人類文化・芸術・科学発展にとって最大のモチベーションだったことは間違いないでしょう。
 「ワンダー」を追い続け、「映画」「図書館」「貸本屋」から始まった荒俣少年の旅は、その後、海外へ宇宙へ水中へと広がってゆきました。
 その旅の中で手に入れた「知識」は本となり、「物」は博物館の所蔵品となりました。我々は、その本を読み、その博物館を訪れることで、彼の目となり、脳となってもう一度その旅を経験することができます。
 偉大なる「目と脳の探求者」に改めて敬意を表したいと思います。

<角川武蔵野ミュージアム>
 2020年に開館した角川武蔵野ミュージアムに荒俣さんは、全ての本を寄贈したそうです。さらにオープニングイベントに向けて、「博物館」「お化け屋敷」のデザインを担当しました。
 ミュージアムの館長に就任した松岡正剛さんのお言葉です。
「これまでの博物館は、highな文化に執着してきた。その反面、lowな文化の生産物、すなわち一般大衆的なもの、日々消費されていくまがいものやヴァーチャルなもの、あるいはコピーや大量生産品や自然物を模倣した人工物といった世界を無視してきたが、いま、欧米の博物館も美術館も態度が一変しつつある。high & low の双方を重視することの価値を知り始めた。今回の角川武蔵野ミュージアムはこの視点を採用したい」


<主な著作>
「理科系の文学誌」工作舎(1981年)
「大博物学時代 - 進化と超進化の夢」工作舎(1982年)
「図鑑の博物誌」リブロポート(1984年)
「パラノイア創造史」ちくま文庫(1985年)
「帝都物語」全12巻 角川書店(1985年~1987年)
「目玉と脳の大冒険 - 博物学者たちの時代」筑摩書房(1987年)
「世界大博物図鑑」全5巻 平凡社(1987年~1994年)
「日本妖怪巡礼団」集英社(1989年)
「荒俣宏の図像学入門」集英社(1992年)
「ブックライフ自由自在」集英社(1992年)
「地球観光旅行 - 博物学の世紀」角川書店(1993年)
「荒俣宏コレクション」全17冊 集英社(1994年~1998年)
「アクアリストの楽園」角川書店(1994年)
「幻想皇帝アレクサンドロス戦記」1~3巻 角川書店(1996年~1997年)
「ヨーロッパ・ホラー紀行ガイド」講談社(1996年)
「大博物誌」小学館(1997年)
「20世紀雑誌の黄金時代」平凡社(1998年)
「アラマタ図像館」全6冊 小学館(1998年~1999年)
「ホラー小説講義」角川書店(1999年)
「万博とストリップ - 知られざる二十世紀文化史」集英社(2000年)
「荒俣宏のデジタル新世界探検」日経新聞(2000年)
「奇想の20世紀」NHK出版(2000年)
「荒俣宏の20世紀世界ミステリー遺産」集英社(2001年)
「イギリス魔界紀行 - ハリー・ポッターの故郷へ」NHK出版(2003年)
「妖怪大戦争」角川書店(2005年)
「アラマタ大事典」講談社(2007年)
「お化けの愛し方 なぜ人は怪談が好きなのか」ポプラ社(2017年)

「世界大博物図鑑」全7巻 平凡社
「花の王国」全4巻 平凡社

<主な翻訳作品>
「英雄コナンシリーズ」ロバート・E・ハワード
「ラブクラフト小説全集」
「ク・リトル・リトル神話集」
「トールキンの世界」J・R・R・トールキン
「ボアズ・ヤキンのライオン」ラッセル・ホーバン
「リリス」J・マクドナルド
「鉄の夢」ノーマン・スピンラッド
「ケルト民話集」
「図説オカルト全集」オーエン・S・ラクレフ
「本の歴史」ブリュノ・ブラゼル
「新訳ビーグル号航海記」チャールズ・R・ダーウィン

<参考>
「妖怪少年の日々」アラマタ自伝 2021年
(著)荒俣宏 Hiroshi Aramata
角川書店

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