反体制運動の終焉となった総括の時

1972年

「浅間山荘事件」と「総括」

<「総括」と「浅間山荘事件」>
 1972年、当時12歳だった僕にとって、3年前安田講堂に立てこもった学生たちと同様「浅間山荘」に立てこもっていた連合赤軍は英雄に見えていました。思うに、オウム真理教以降の時代とは異なり、あの頃はけっして世の中全部が警察を応援していたわけではありませんでした。当時は、小学生でも、担任の先生によっては、ソ連こそ理想の国家として教えられていた時代です。警察は少年たちにとっては、悪役であり、学生運動の活動家はそんな巨大な国家権力に挑む英雄に見えていました。単に警察が立てこもりの犯罪者集団を逮捕するだけなら、あんなに事件の報道は視聴率をとることはなかったでしょう。あの時、まだ連合赤軍の行動は単なる「テロ行為」ではなく「英雄的な戦闘行為」と考えられていたともいえます。
 しかし、「浅間山荘事件」をきっかけに世間の連合赤軍に対する見方は大きく変わり、それにとどめをさすことになったのが、「総括」という名の「集団暴行殺人事件」でした。1972年以降、もう彼らを英雄視する人はほとんどいなくなってしまいます。そのきっかけとなった1972年の二つの事件に迫ります。
 ここでは時間軸に沿って、「総括」による大量殺人事件から取り上げますが、実際に我々がその事実を知ったのは、浅間山荘事件が解決して以降のことだということをお忘れなく。

「総括」とは何だったのか?
「この事件は、当時の日本の新左翼のあいだで頻発していたセクト間の抗争、いわゆる内ゲバとは異なるものだった。内ゲバは、一つの党派が内部の意見の不一致を調整できなくなって、激しく対立するセクトに分裂したときに起こる。連合赤軍粛清はこれとは逆だった。二つの別々のグループが、連合赤軍の名のもとに一体化しようとした。グループ内の拮抗はあったものの、山中の出来事は明らかに一つのグループがもう一つのグループに対立したためだけで起こったものではない。そうではなくて、それぞれの側から孤立した個人に対して、グループが一体となって集団的に暴力行為におよんだものである。死に至る粛清は、統一という儀式の過程で偶発的に起こったともいえよう。・・・」
「日本赤軍派」パトリシア・スタインホフ著(1991年)

<連合赤軍>
我々はすでに銃を奪取して武装した。プロレタリア革命軍こそ敵から奪った銃を味方の武器として団結する軍隊である。我々がその奪った銃で本格的な的殲滅を開始する時こそ日本革命戦争は本格的な幕開けを迎える」
連合赤軍の機関誌「銃火」創刊号より

 「連合赤軍」とは、左翼の学生グループ「赤軍派」と「京浜安保共闘もしくは日本共産党革命左派(革左)」が合流して誕生したグループです。ただし、「赤軍派」が目指していたのが「世界同時革命」(トロツキズム)だったのに対し、「革左」は「反米愛国」(毛沢東主義)であり「一国革命」であり、そこは大きく違っていました。ある意味、対立していたグループ同士がなぜ合流することになったのか?それは彼らの活動がどちらも行き詰まっていたからでした。
 当時、「革左」は、群馬県の真岡市における鉄砲店襲撃により武器を大量に入手し、ダイナマイトなどの爆発物も多く所有していましたが、活動の基礎をなす資金が不足していました。それに対し、「赤軍派」は銀行襲撃事件などにより多額の資金を入手し、時限爆弾などのノウハウも持っていましたが、逆に自分たちが使用するための武器、爆発物が不足していました。その意味では、二つのグループの共闘は必然だったといえます。
 しかし、二つのグループ間にはもっと根本的な部分で基本的な思想の違いがありました。例えば、彼らの間には、グループ内における女性活動家の立場の違いがありました。「革左」においては、永田洋子に代表される女性活動家は十分に活躍の余地があり、彼らはすでに「フェミニズム」の思想をグループ内で実行していました。しかし、「赤軍派」では、女性は革命戦士(男性)の妻としてしか存在を認められてはいませんでした。実際、連合赤軍の山岳ベースにおける共同戦線に参加した「赤軍派」メンバーの中で女性は、幹部で留置場にいた高原浩之の妻、遠山美枝子しかいなかった。そして、そんな例外的存在の遠山美枝子の存在が、山岳ベースにおける「総括」事件のきっかけを作ることになります。もし、そこに女性がいなければ事件はまた異なる方向に向かっていたかもしれません。しかし、そうした問題は後付の問題であり、二派の合同体制を確立するための山岳訓練はすでに行われていたのです。このことを、警察はまだまったく把握していませんでした。そして、その山岳ベースにおいて、悲劇が起きることになります。

 山岳ベースでの「総括」に関わったメンバーとしては、赤軍派が森恒夫、坂東国男、山田孝、青砥幹夫、行方正時、遠山美枝子、植垣康博、進藤隆三郎、山崎順。革左からは、永田洋子、坂口弘、大槻節子、吉野雅邦、杉崎ミサ子、加藤能敬、尾崎充男、小嶋和子、寺岡恒、山本順一、金子みちよ・・・。

<総括の始まり>
 1971年冬、「革左」と「赤軍派」のメンバーが山岳ベースでの合流を行った時、すでに「革左」では「総括」が行われ犠牲者が出ていました。それは8月に行われた山岳ベースでの訓練でのことでした。そこで脱落したメンバーの向山茂徳と早岐やす子が、情報が外部に漏れる恐れがあるとして殺害されていたのです。
 12月25日、榛名ベースでも、赤軍派出身の森恒夫を中心に革左メンバーだった加藤能敬、小嶋和子に対する総括が始まります。
しかし、二人への追及を行っている中で、尾崎充男(赤軍派)がそこに個人的な恨みを持ち込んだことから、総括対象が尾崎へと変わることになります。結局、尾崎が最初の犠牲者となりました。(12月31日?)もともと尾崎は赤軍派の幹部だった人物でしたが、武闘派の森と対立しており、彼の暴力重視の考え方に批判的でした。そのために、彼は森や永田から裏切り者として総括されることになったといわれています。
 そこに新倉ベースで総括対象になっていた3名のメンバーが合流します。そこには前述の遠山美枝子がおり、他に坂東国男、進藤隆三郎がいました。尾崎を死なせたことで、メンバーの行動はさらに過激化し始め、「総括」は次々と犠牲者を出してゆくことになります。いよいよ歯止めは効かなくなろうとしていました。
 1月1日、進藤隆三郎(赤軍派)、小嶋和子(革左)が死亡。
 1月4日、加藤能敬(革左)が死亡。
 1月7日、遠山美枝子(赤軍派)が死亡。(遠山は活動家としての能力不足や赤軍派から追い出された重信房子の友人だったことなど、様々な理由から反発を買い、追及の対象になりました)
 1月9日、行方正時(赤軍派)が死亡。
 1月18日、寺岡恒(革左)が処刑される。
 1月20日、山崎順(赤軍派)が処刑される。
 1月30日、山本順一(革左)、大槻節子(革左)が死亡。
 2月4日、金子みちよとお腹の中の子(父親は幹部だった吉野椎邦)が死亡。
 2月5日、榛名ベースは解体され、小屋には火がつけられました。そして、この時の火が目撃されたことで、ベースの存在が発覚するきっけとなりました。森と永田はここで資金調達のため東京に出発します。
 2月12日、山田孝が死亡。彼が12番目、最後の犠牲者となりました。
 それぞれの死因は様々で、飢えと寒さによるもの、暴行による内臓破裂、首を絞められての窒息死など。しかし、永田洋子ら女性によるサディスティックないじめの要素も多分にあったと言われます。当時の状況は当事者たちですら、後に冷静に分析することは不可能なほど、状況は異常だったようです。
 こうした状況は、後にオウム真理教による暴行致死事件(ポア)との類似性が指摘されることにもなります。

 「総括」の論理について、その中心となっていた森恒夫はこう語っていました。
「銃による殲滅戦は共産主義化された兵士によってのみ勝ち取ることができるのであって、共産化されていない者は総括によって共産化された兵士に生まれ変わる必要がある。それができない者は組織から排除すべきであり、敵である権力機関に通報させないために死に追いやることもやむをえない」
森恒夫
「共産化」とは何か?殺人を平気で行う精神状態を身に着けるということなのでしょうか?

<運命の浅間山荘へ>
 中心的存在だった森と永田が都内に資金を集めるために戻っている間、二人の不在により、グループの士気に変化が生じます。そのため、統率の緩んだ隙をついてメンバーの中の2名が脱走し、ともに警察に保護、逮捕されます。そして、多くの遺体が隠されている榛名ベースが発見されます。(ただしまだこの時、遺体は発見されません)
 2月16日、榛名ベース(迦葉山)で発見された小屋に残されていたリュックの中から「吉野」というネーム入りの衣類が見つかり、それが「京浜安保共闘」幹部の吉野雅邦のものと推測されました。同日、5人乗りのライトバンが雪で動かせなくなっているのが発見され、そのうち3人は逃亡し、2人は逮捕されます。逃げた3人は、近くの洞窟に隠れていた6人と共に山に入り、雪に埋もれた山道を使って逃走を開始します。
 2月17日、前述の洞窟が発見され、その周辺を捜索していた警察は、山岳ベースに戻ろうとしていた森と永田を逮捕します。異なるグループだったはずの二人を同時に逮捕したことで、警察は初めて二つのグループが共闘していることを確認し、その脅威に気づくことになりました。
 2月19日、軽井沢駅で薄汚れたアノラックを着た男女4名が長野行きの列車に乗るところを駅員が目撃。不審に思った駅の助役が警察に通報し4人を列車内で確保。手製爆弾と散弾銃の実弾を所持していました。
 ラジオで4人の逮捕を知った残りの5人は、レイク・ニュータウン近くに隠れていましたが、あわてて移動を開始。「さつき荘」に逃げ込んでいたところを警察に見つかり、銃撃戦となります。警官の一人が負傷し、その間に5人は山中に逃げ込み、その後、軽井沢の別荘地にあった河合楽器の健康保険組合が所有する「浅間山荘」に逃げ込み、管理人の妻、牟田泰子を人質に立てこもります。「浅間山荘事件」の始まりです。
 後に、ここまでの間に警察は何度も犯人グループを逮捕するチャンスがありながら、それに失敗していたことが批判されることになります。

<浅間山荘事件始まる>
 2月20日、犯人グループが「浅間山荘」に逃げ込んだことを確認した警察は、すぐに対策本部を設置し、事件解決に向けた体制を整えます。その際、当時警察長官だった後藤田正晴から3つの指示が出されました。
(1)人質は必ず救出せよ。これが最高目的である。
(2)必ず公正な裁判で処罰するから、犯人を殺すな。全員生け捕りにせよ。
(死亡させることで犯人が殉教者となることを恐れているともいえます。これは過去、樺美智子さんが学生運動の英雄となった経験を踏まえてのものと思われます)
(3)警官に犠牲者を出さないよう細心の注意を払え。

 2月21日、犯人グループと思われる坂口弘、吉野雅邦の母親が装甲車からマイクで投降を呼びかけます。
心理学的観点で専門家からのアドバイスが本部に与えられます。
(1)心理学的には立てこもっている連合赤軍の方が有利で、警察の方が追い詰められている。
(2)疲れていると不利になるので隊員は交代で休養させるべきである。
(3)隊員が情報不足でイラついているので、隅々まで情報を行き渡るようにする。
(4)人間は夜4時間以上寝ないと参ってくるから、照明や音による陽動作戦で犯人たちを眠らせないようにする。

 2月22日、山荘に立てこもっていたメンバーは、テレビのニュース番組でニクソンの訪中を知ります。反米であり、親毛沢東だった彼らにとって、アメリカが中国に接近するという事態はまったくの想定外だっただけに、それは衝撃的であると同時に彼らの活動が崩壊しつつあることの証明でもありました。
 そんな中、人質の身代わりになると新潟からやって来た一般男性が単独で山荘に入ろうとして、警官と思われ狙撃されます。頭を撃たれ彼は、その後、昏睡状態に陥り、3月1日に死亡します。

 2月23日、事件が長期化する中、人質の安否も不明で犯人グループからの要求もなかったため、状況打破のために初めて警察は強行偵察を行います。発煙筒を用いて山荘に接近し、ガス弾による攻撃を行いながら内部の状況を偵察しますが、ほとんど成果がないまま終了します。

 2月24日、前日に続き強行偵察が行われます。今回は、放水車が参加し、高圧の水によってドアを破り、さらに内側のバリケードも破壊しようとしますが作戦は失敗に終わります。

 2月25日、犯人グループからの銃撃に耐えられるよう防弾楯を2枚重ねに改造したものが300枚配備されます。さらに銃撃に対抗するため、前線に土嚢を積み上げる作業が始まります。記者会見でも警察は突入の日が近いことを匂わせ始めます。

 2月26日、大雪となり気温も最低で-12.2℃にまで下がります。
 Xデーが近づいたことから、報道各社が集められ報道協定が締結されます。それは取材活動が競争となって、事故が起きたり、情報が漏れてしまうことを恐れての決め事を定めるものでした。この後、警備会議の席上で野中庸長野県警本部長が強行突入を28日にするという決定を発表しました。

 2月27日、強行突入についての記者会見が行われます。
 発表された計画によると、午前8時に部隊配備完了。9時55分に最後通告。突入はその後10時に開始する。現場に配備される機動隊の隊員は1500人で、そのうち山荘に突入する部隊は125人。その他にも警察犬5頭、医師4名、救急車8台、ヘリコプター3台などの準備が進んでいました。さらにこの作戦には、東大安田講堂の立てこもり事件に配備が予定されていたモンケンの投入が決定。
 モンケンとは、工事現場でビルなどの建造物を破壊するために用いられる巨大な鉄球を振りまわす作業車のことで、操縦するのは民間の工事会社社長と社員の2名でした。ただし、現場に民間人いることは問題があると考えられ二人は警察の上着を着せられることになりました。この二人の巧みの技により、突入部隊は大いに助けられることになります。

 なぜ、警察は突入作戦の実施まで10日間もまったのか?そのことについて、「浅間山荘の真実」ではこう書かれています。
(1)人質の体力の限界を考慮して、10日まで待った。
(2)モンケンや放水車とそのための水源確保など攻撃のための準備に時間が必要だった。(浅間山荘が構造的に堅牢な要塞のような状態だったことも影響した)
(3)世論、マスコミが突入を望む空気になるのを待っていた。
 
<強行突入>
 2月28日、1階、2階、3階それぞれに別れて、機動隊による強行突入が開始されます。初登場となったモンケンの作業車が現場に登場し、さっそく山荘の壁の破壊が始まります。
 11時27分、放水車に指示を与えていた特科中隊隊長の高見繁光が頭部に銃弾を受けて死亡します。
 二機の突入部隊の中隊長付き伝令の大津高幸巡査も頭部を撃たれます。左眼球と左頭部貫通銃創の重傷で、命は取りとめるものの左目の視力を失い長く後遺症に苦しむことになります。
 その間、1階と2階は機動隊が制圧。残るは3階だけとなりました。
 二機隊長内田尚孝が土嚢から顔を出したところを狙われて頭部を撃ち抜かれ死亡。隊長であることが明らかな上着を着ていたために狙われたと考えられます。
 モンケンによる攻撃で空いた穴から3階へのガス攻撃が連続して行われます。しかし、あまりにもガス弾を使いすぎ突入隊員にも危険な状態になったため、放水車による放水をしながらガス弾攻撃は中断され、その繰り返しが続きます。
 12時50分、信越放送のカメラマンが近づきすぎて犯人から攻撃を受け足にケガをします。テレビの各放送局は危険回避のためにカメラを固定。ここからの映像はカメラが固定されたものになります。
 13時29分、各隊に攻撃中止命令が出されます。ここで1,2階を制圧した九機と長野県機に撤退させることになります。しかし、二機から死傷者が出ていたことから二機を九機と交代させるという命令が出されます。この間、撤退しようとしていた突入部隊の隙をついて爆弾が投げ込まれ、再び二機の隊員が5名負傷してしまいます。これにより、交代を拒否していた二機は九機と交代。撤収は3時すぎに終了します。
 日没までに決着をつけることが決定され、3時30分から強行救出作戦が再開されます。その際、九機と長野県機からそれぞれ2名づつ決死隊として選ばれました。ここでそれまで使用を禁じられていた拳銃の使用が許可されます。
 4時32分、ガス弾攻撃が再開されますが、20分後、火災の可能性があるとされ放水に切り替えられます。この間、3階内部が次々と確保されていき最後にベッドルームに全員が立てこもっていることがわかります。
 決死隊の4人がガス攻撃の間にちゅう房から食堂に突入。ベッドルームへの侵入を目指して、バリケードの撤去を開始。それに対して犯人側からの銃撃が始まります。
 6時10分、隊員に対して「全員。突入せよ!」という指令が出されます。
 6時50分、ベッドルームに突入した決死隊と犯人グループとのもみ合いが始まります。幸い、銃撃戦とはならず、爆弾の使用もなく取り押さえることに成功します。
 逮捕後、犯人グループの5人のうち、二人は18歳と16歳の未成年の兄弟だったことが明らかになり、警察を驚かせました。

<人質の悲劇>
 この間、突入隊は人質の牟田泰子さんの救出に成功します。彼女は218時間にわたる拘束状態にあったことから低体温状態にありましたが、ケガもなく無事でした。しかし、彼女にとっての苦難はそれでは終わりませんでした。
 この後、退院した後に行われた記者会見で、彼女はこんな発言をします。
記者「退院したら、まず何をしたいですか?」
牟田「みんなと一緒に遊びたいです」
 このやり取りに対し、機動隊の隊員が2名も命を落としたのに、遊びたいとは何事か!という批判の声が多数寄せられることになりました。その他にも、彼女のプライベートに関する暴露記事やバッシングが続き、ついに彼女はマスコミからの取材を拒否するようになってしまいます。
 被害者にも関わらずマスコミへの受け答えやちょっとした誤解により、まるで犯人のように批判されてしまう現象。これは、後にイラクで日本人ボランティアが誘拐された事件を思い出させます。彼女は「嘘泣き泰子」や「偽善者」と呼ばれ、事件以上にマスコミ報道によって人生を大きく変えられてしまったのでした。

<テレビ放送の功罪>
 NHKは、この日、朝の9時40分から夜8時20分まで、連続して放送を行いました。民放も同様に8時間にわたる臨時放送を行い、その間、CMを入れないという英断を下しました。当然、視聴率も未だかつてないレベルに達しています。なんと各放送局の総計による瞬間最高視聴率は89.7%に達しました。(もちろん、泰子さんが救出された瞬間です)
 ただし、犯人の逮捕後、山荘から警察が連れ出す瞬間を撮影できたのは、唯一フジテレビだけでした。他の放送局が固定カメラの他に移動できるカメラを用意していなかたのに対し、フジは予備のカメラとして普段使っていない白黒カメラを準備していたため、犯人たちの顔のアップを撮影することに成功したのでした。

「テレビの報道に限っての感想だが、今回ほどテレビが情報源として大きな役割を果たしたことはないのではなかろうか。速報性がフルに発揮され、すべてがテレビ中心に動いた。浅間山荘の生中継 - とくに28日は完全に活字ジャーナリズムを圧倒した。プロセスを刻々と映し出すテレビの強さである。
 ただし、テレビの即応性という機能は感情に訴えることに対しては強力であるが、考える、分析するということになると活字には追いつかない。両刃の剣である所以である」

志賀信夫(テレビ評論家)

「あの当時は学生と機動隊の衝突が頻発していたが、カメラの位置によって学生の背後から見ると機動隊が正当に見えるし、機動隊の背後から見ると学生が正当に見えてしまう。かといって、その衝突をビルの屋上にカメラを構えて見下ろすと、自分が安全な位置にいることが画面からにじみ出てしまうのだ。。浅間山荘事件では、そういう画しかないのだから仕方がなかったが、結果としてそういう画を作ってしまった責任がある。少なくとも制作者の頭には、これはいけないことなんだという感覚がなくてはいけない。ところが浅間山荘ような事件が、今、起きたらどんな画を送り出すかが未だに何も検討されていない。それはテレビの怠慢だと思う」
浅野誠也(日本テレビ)

 さらにこの事件を契機に、現場からのリポートを単にアナウンサーに任せるのでは十分に事件を伝えきれないということが明らかになったことから、現場からのリポートはアナウンサーではなく専門家でもある記者に任せる流れが当たり前になって行きます。

<浅間山荘、総括のその後>
 前述のようにこの時はまだ「総括」による大量殺人は明らかになっていませんでしたから、少なからぬ若者たちがまだ連合赤軍にエールを送っていたかもしれません。
 しかし、「浅間山荘事件」の後、「総括」による12名の死が次々に明らかになると、連合赤軍の異常性がいっきに注目を集めることになり、それまでの「連合赤軍=英雄」という構図は崩れてしまうことになります。(正確には、さらに1年前にアジトかた逃亡した2名がすでに殺されていたので、犠牲者は14人となります)
 僕自身も「総括」による「リンチ殺人」の異常性に衝撃を受け、それ以降、学生運動に対するイメージは一気に変わることになりました。その意味では、「浅間山荘事件」よりも「総括」の方が、その後の歴史に与えた影響が大きかった気がします。
 さらに1975年8月4日、日本赤軍がマレーシアの首都クアラルンプールのアメリカ大使館を占拠。アメリカ領事を含む50名を人質にとります。その後、犯人グループは人質解放の交換条件として、赤軍派のメンバー7人の解放を要求。それにより、浅間山荘事件の坂東がクアラルンプールに移送されて釈放されます。(坂口も解放するメンバーの中にありましたが、本人が釈放を拒否しました)
 さらに1977年9月28日にも日航機が赤軍派に乗っ取られた「ダッカ事件」でも赤軍派のメンバー6人が釈放されています。(プラス16億円の身代金も!)
 しかし、その頃はもう誰も連合赤軍がなんのために戦っていたのか?覚えている人はいなくなっていたかもしれません。

 残念ながら、「総括」に対する総括は未だに終わっていません。様々な人々が、それに挑んできましたが、その多くは挫折してきました。長谷川和彦監督が企画した幻の映画「連合赤軍」はその代表的な例といえるでしょう。そんな中、2008年に公開された若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」は決定版的作品といえるのかもしれません。

<参考>
「一九七二 『はじまりのおわりと』と『おわりのはじまり』」
坪内祐三(著)
2003年 文藝春秋

「浅間山荘事件の真実」
久能靖(著)(著者は当時日本テレビのアナウンサーとして現場にいました。その後、2000年を前に再取材を幅広く行って書かれたので、かなり客観的に真実に近く描かれていると思われます)
2000年 河出書房新社

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