- アスワド ASWAD -

<ブリティッシュ・レゲエを代表するバンド>
 70年代から90年代にかけて、ブリティッシュ・レゲエを代表するバンドとして活躍し続けたアスワドは、元はと言えば、地域限定、人種限定のコミュニティー・バンド的存在です。(アスワドとは、アラビア語で「黒」のこと)
 そんな彼らが地域の枠を越え、メジャーな存在になって行く道のりは、レゲエ自体がワールド・ワイドになって行く過程であり、レゲエという音楽がヒップ・ホップなど新しいサウンドとの融合をしながら、少しずつ変化して行く過程でもありました。そして、彼らはその変化の波に上手く乗り続けることができたからこそ、20年以上もの間イギリスのレゲエを代表する存在でいられたのです。

<アスワドの結成>
 アスワドが結成されたのは1975年、ロンドン西部のノッティング・ヒル・ゲイトの在英ジャマイカンのコミュニティーの中でした。オリジナル・メンバーの3人は、ブリンズレー・フォード(Vo,Gu)、ジョージ・オバーン(Ba)、ドラミー(アンガス)・ゼブ(Vo,Dr)だった。
 翌1976年には、ドナルド・グリフィス(Gu)、コートニー・ヘミングス(Key)が加わり、アイランド・レーベルと正式契約、デビュー・アルバム「アスワド」を発表しました。(彼らはメジャー・レーベルと契約した最初のブリティッシュ・レゲエ・バンドであり、同じくブリティッシュ・レゲエを代表するバンド、スティール・パルスのデビューより2年も早い)
 彼らは、こうしてイギリスのジャマイカン・コミュニティーから出発し、レゲエの故郷ジャマイカとは別のレゲエの歴史を作りながら世界的なバンドへと成長して行きました。しかし、そうなることができたのは、彼らの出身地ノッティングヒルという街のもつ独特のパワーがあったからなのです。(元々カリブの島々の中で、ジャマイカはイギリス領だったため、そこからの移民は断然多数を占めています)

<カリブ系移民の歴史>(2016年3月追記)
 ところでなぜ、イギリスにはカリブ系の移民が多いのでしょうか?
 アメリカに住む黒人たちの多くは、奴隷としてアフリカから連れられてきた人々の子孫ですが、イギリスに住むカリブ系の黒人たちは奴隷としての移民ではありませんでした。2016年放送のドキュメンタリー番組「カリブ海から来た兵士たち」を見て、その歴史がわかりました。
 イギリスはカリブ海の島々、ジャマイカやトリニダードトバゴなどの植民地を所有していましたが、アメリカのように開拓する土地もなく農業に従事する労働者も不足してはいませんでした。そのため、植民地から奴隷を輸入する必要はなかったといえます。ただし、イギリスは一度だけ労働力の不足に苦しんだ時期がありました。それは第二次世界大戦中のことです。
 当時、イギリスはドイツ軍による空爆で多くの街が破壊され、若者たちの多くが戦場へ送られており、人手不足が深刻化。女性や子供たちも工場や農場で働く国家総動員体制となっていました。(BBCの刑事ドラマ「刑事フォイル」では、そんな時代が実に丹念に描かれています)
 イギリスはヨーロッパにおける連合軍の対独基地となり、フランスやポーランドから逃げてきた人々と英国連邦に所属する国々から集まった兵士たちが連合軍を編成し、フランスへの上陸作戦の準備に入っていました。そして、その部隊の中にカリブの島々からやって来た黒人兵もいたわけです。しかし、彼らは徴兵制によって集められた兵士ではなく、母国である英国女王を守るために志願した人々でした。彼らのそうした思いに対して、イギリス軍内部では差別意識もなくほぼ平等に彼らは扱われていたようです。奴隷制のないイギリスではアメリカとは根本的に違う部分があったようです。1940年にアメリカ軍が参戦して以降、そのことはより鮮明になりました。
 黒人兵への差別が当たり前だったアメリアの白人兵たちは、イギリスに来てもその態度を変えず、地元のパブで店にいる黒人たちを追い出そうとしました。それに対し、アメリカの黒人兵はもめごとを恐れて素直に店を出え行きましたが、イギリス軍内の黒人兵たちはアメリカ兵の横暴に抵抗。店内のイギリス人の多くも彼らの側についてと言われます。(最後まで参戦しなかったアメリカ軍への反発もあったかもしれませんが)
 こうして女王陛下のために命を捧げたカリブからの兵士たちに対し、イギリス政府は戦後、二つの選択肢を与えました。一つは母国に帰国する道。もうひとつはイギリスに残って、瓦礫となった街の再建に参加するかです。多くの若者たちの命が失われ、街を破壊されただけでなく経済的にもガタガタになった国を立て直すには、人手が不足していたため、彼らにはいくらでも仕事があったのです。
 イギリスに残った彼らには優先的に仕事と寝る場所が与えられるおkとになり、その拠点となったのが現在でも多くの黒人たちが住むロンドンのブリクストンでした。軍隊で教育を受け、イギリスの豊かな暮らしを知った彼らにとっては、イギリスに移住する選択肢は魅力的なものとなりました。その後、多くの移民たちがカリブ海の島々からイギリスに渡り、戦後の30年間で50万人が移住することになりました。こうして、イギリスにおけるカリブ家移民のコミュニティーが形成されることになりました。彼らの移民は、アメリカの黒人たちと違いけっして悲劇的なものではなかったのです。(アメリカの黒人兵の多くも、この時期に自分たちの扱いが間違いであることに気づかされることになり、帰国後、公民権運動の主役となって行くことになります)

<ノッティングヒル人種暴動>
 彼らの故郷ノッティングヒルの街について知るには、ここで起きた悲劇的な出来事、ノッティングヒル人種暴動について知る必要がありそうです。
 1958年8月23日、この街で起きた人種暴動の発端は、ロンドンではなくノッティンガムの街のパブで起きた黒人青年による白人男性の刺殺事件でした。この事件が、テレビのニュースで報道されると、ロンドンの街の中でも最も西インド系(カリブ系移民)の黒人が多く住むノッティングヒル地区に鉄パイプやチェーンを持った白人の少年たちが集まりだし、「黒人狩り」を始めたのです。彼らは黒人達が住む家に火炎瓶や煉瓦などを投げ込み、路上を歩く黒人を襲い暴行を加えました。この暴動は一週間以上続き、ロンドン中から集まった暴徒の数は数千人単位にのぼったと言われ、五人の黒人が殺害されました。20世紀も半ばを過ぎたイギリスでそんなことがあったとは、ちょっと信じられない気がしますが、移民の増大によって職を奪われつつあった白人労働者階級の怒りが、集団的な暴走行為として吹き出したのがこの事件でした。

<ノッティングヒル・カーニヴァル>
 
暴動から6年後の1964年、ノッティングヒルの街で事件の起きた8月の下旬に第一回ノッティングヒル・カーニヴァルが開催されました。このカーニヴァルは、その後しだいにその規模を拡大し、街頭で行われるカーニヴァルとしてはヨーロッパ最大と言われるまでに成長、女王陛下からのメッセージによって開幕されるほどの国民的行事になりました。もちろん、そこまでなるためには、人種暴動以後、数々の問題を抱えながらも、そこからの復活を目指した地域社会のたいへんな努力がありました。カーニヴァルで毎年起きる人種間の小競り合いを押さえながら、3日間の安全を確保するということは、もの凄いエネルギーを要する作業だったに違いありません。
 こうしてこのカーニヴァルはイギリスにおけるカリブ系移民達のアイデンティティー確認の場として、さらに人種暴動を二度と繰り返さないための記念のイベントとして、非常に重要な意味をもつようになって行きました。

<ハード・コア・レゲエ・バンド、アスワド>
 アスワドは、そんな激動の歴史を持つ街ノッティングヒルで育った移民二世のバンドで、当然この人種間のぶつかり合いの中で育っており、その点がジャマイカ本国で活躍する多くのレゲエバンドとは本質的に違う点でした。デビュー当時の彼らは、そんな地域性を反映した本格的(ハード・コア)レゲエバンドであり、スティール・パルスとともに、人種間の緊張感を反映したある意味で本国ジャマイカ以上にハード・コアなレゲエを展開していました。
 "Hulet"(1978年)、"ASWAD showcase"(1980年)、"New Chapter"(1981年)、"Not Saticefied"(1982年)と彼らは着実にアルバムを発表し続けました。そして、1983年に発表した彼らの代表作のひとつが、前述のノッティングヒル・カーニヴァルでのライブを録音したアルバム"Live And Direct"でした。意外なことに、このアルバムでの彼らはレゲエだけではないカリブの音楽、カリプソなども演奏し、彼らが吸収している音楽の幅の広さを感じさせています。

<レゲエの枠を越えたバンドへ>
 そして、そんな彼らのレゲエ以外へのアプローチが見事に成功した作品が、1988年発表の"Don't Turn Around"でした。このアルバムは見事に全英ナンバー1に輝き、彼らの最大のヒット作になりました。この作品では、ヒップ・ホップの感覚が大きく取り入れられ、ブレイク・ビーツへとつながるレゲエのスピード・アップ化を先取りする画期的なサウンドに仕上がっていました。その後、一時行き詰まったかに見えた彼らですが、1994年にはアルバム"Rise & Shine"を発表し、デビューから20年たってもなお、元気なところを見せています。
 彼らがこうして20年間に渡ってレゲエの最前線に立って活躍を続けることができたのは、やはりノッティングヒルという在英ジャマイカン文化の中心地でのレゲエの変遷を的確に捉え、音楽化してきたからに違いないでしょう。実際、ノッティングヒルの街は暴動の後、それ以前に比べて急激な変化をとげています。その影響は、アスワドだけでなく、イギリスの音楽に大きな変化をもたらしたようです。

<閉鎖空間での急激な進化>
 人種暴動の後、イギリスでは白人世論に押される形で、移民規制の強化が進み、1970年代に入るとジャマイカやバングラディッシュなど有色人種の移民は激減することになります。この政府のやり方に対する不信感と失われ行く故国のアイデンティテーを自らの手で守るため、ノッティングヒルの人々はカーニヴァルの開催に大きな希望を見出していたのです。
 そして、移民規制によってジャマイカから孤立してしまった在英ジャマイカンたちは、必然的に故国とは違う新しい文化を形成し始めることになりました。それは後にブレイク・ビーツジャングルドラムン・ベースへと進化をとげることになります。特にイギリス西部の港湾都市ブリストルから登場したドラムン・ベースの開拓者、ロニ・サイズはアスワドと同じ在英ジャマイカンでありながら、レゲエとは違うまったく新しいサウンドにおけるヒーローとして、90年代のイギリスを代表する存在となります。

<締めのお言葉>
「今日われわれは、一つの種が二つの種にわかれるのに必要な先行条件を隔離とみなしているる。ダーウィンは隔離の重要性を認めながらも、進化しつつある種が数が多いことと、その占める場所の広いことのほうを強調した」
J.ハックスリー「進化と精神」

<参考>
BSドキュメンタリー「カリブ海から来た兵士たち」(2016年放送)

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