<原子力、原子爆弾について>

 僕は昔一度だけですが広島に行ったことがあります。もちろんその時は、平和記念資料館や原爆ドームを見学。あまりに悲惨な資料の数々に目をそむけたくなるところを無理して見続けたことを覚えています。そして、世界中の子供たちが一度はここを訪れるようにすれば、世界はずいぶん変わるだろうちお思ったことも覚えています。
 あなたが、もしまだ広島へ行ったことがないのなら、是非、一度は広島を訪れてみましょう!そして、原爆資料館を訪れてください。
原子力が生んだ悲劇、1945年8月6日と9日に、2011年3月11日新たなページが加えられました。このことを心にしっかりと刻みたいと思います。

<平和記念資料館>
 広島の爆心地の被爆前の街並みを、平和記念資料館の展示で見たことがある、田中さんのとなりには金子さんが住んでいた、というように、世帯の並びがわかる詳細なプレートがあった。その前に立った時、私たちはしばらく動くことができなかった。時間の流れは取り戻せなくても、残された資料を通して、私たちは消えてしまった経緯を思う時、平静でいられないとしても、思い起こすという自体が一つの価値のある行為だと私は信じる。
茂木健一郎「今、ここからすべての場所へ」より


「生ましめんかな」

こわれたビルディングの地下室の夜だった
原子爆弾の負傷者たちは
ロウソク一本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から、不思議な声がきこえてきた。
「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう。
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と「私が産婆です。私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は
血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも

栗原貞子(広島の詩人による1946年の作品)


「ヒロシマというとき」

<ヒロシマ>というとき
<ああ ヒロシマ>と
やさしくこたえてくれるだろうか

<ヒロシマ>といえば<パール・ハーバー>
<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>
<ヒロシマ>といえば、女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
<ヒロシマ>といえば
血と炎のこだまが返って来るのだ

<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ
<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒトシマ>と
やさしく返ってくるためには
捨てた筈の武器を、ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるパリアだ

<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>と
やさしくこたえが返って来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない

栗原貞子(1972年の作品

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