永遠の妖精の二つの顔


- オードリー・ヘプバーン Audrey Hepburn -
<カズ・ヒロとヘプバーン>
 NHKBSで「よみがえるオードリー・ヘプバーン 顔に魅せられた男 カズ・ヒロ」という番組を見ました。世界的なメイクアップ・アーティストでもあるカズ・ヒロが、女優オードリー・ヘプバーンの顔を現代美術の展覧会のために製作する過程を記録したドキュメンタリー作品です。
 その中でカズは、オードリーの二つの顔を作っています。一つは映画「ローマの休日」が公開された当時、彼女が若かった1950年代の顔。もう一つは、彼女が映画界から離れ、ユニセフの親善大使として活動していた60代になった頃の顔です。
 完成した二つの顔を展覧会場で見た女優のシャーリーズ・セロンはこう感想を述べました。
「どうしても私は60代の顔の方に目がいってしまう。それはたぶん、その顔から彼女の40年に及ぶ人生が見えてくるからだと思う」
 カズが二度目のアカデミー賞を受賞した映画「スキャンダル」で彼女は自分の顔を実在のアナウンサーに似せるため、カズに直接電話をかけ交渉したそうです。撮影が始まると彼は常に現場にいて、彼女の顔をチェックし続けてくれたため、撮影中、彼女はまったく気が抜けなかったとのこと。・・・話がそれました!
 そんなメイクアップ・アート界のレジェンド、もしくはダニエル・デイ・ルイス(撮影後に何度も映画界から引退!)的存在の彼が作り上げたオードリーの二つの顔の違いは何なのか?
 その間の40年に何を彼女を経験し、どう変わったのか?そこに注目して彼女の人生を振り返ろうと思います。

<少女時代>
 一見、お嬢様として大切に育てられたように見えるオードリーですが、その少女時代は苦難の連続でした。
 彼女の母親エラは、オランダの貴族ファン・ヘームストラ家の出身で気位の高い恋多き美人でした。父親のジョゼフ・ラストンはボヘミア生まれのイギリス人。共に世界各地を旅しながらそれぞれ結婚し、インドネシアのジャワ島に住んでいました。そこで出会った二人は恋に落ち、共に離婚するとバタヴィアで再婚します。この時、すでにエラには二人の男の子がいました。夫妻はヨーロッパ各地に移り住んだ後、ベルギーのブリュッセルに住み始めます。
 1929年5月4日、二人の間に一人娘オードリー・キャスリーン・ラストンが生まれました。
 彼女がその後「ヘプバーン」を名乗るようになったのには理由があります。祖父が名門貴族のヘプバーン家の女性と結婚していた時期があったことからのようですが、別に血がつながっているわけではありませんでした。そんな嘘の血筋を利用するほど「血と名誉」にこだわる両親だったわけです。そんな二人がヒトラー率いるファシストの仲間入りをしたのは、それほど不思議なことではなかったかもしれません。(ちなみにヘプバーン家は、映画「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」にも登場するスコットランド女王メアリー・スチュワートの夫として有名でした)
 1932年、彼女の両親はイギリスで活動するファシスト連盟に参加します。ついにはドイツで開催されるナチ党の大会にまで出席するほど運動に深く関わり、党幹部との交流中にヒトラーにも会ったと言われます。そんな中、夫婦の関係はおかしくなり、1935年のある日、父親が突如家からいなくなり離婚に至ります。離婚の原因は、夫の不倫なのか、ファシズムに傾倒する彼に怒った祖父母のせいなのかはわかりません。
 差別主義者で浮気者だった父親ですが、娘には優しかったこともあり、まだ子供だったオードリーは大きなショックを受けました。母子家庭となった一家はイギリスに移住し、そこで彼女は教育を受けることになりました。

<戦時中の苦難>
 1939年、ドイツと英仏間の戦争が始まると、故郷オランダのハーネムに戻っていた母親は、中立を保っていたオランダに彼女を呼び寄せます。ところが、1940年5月にドイツ軍は中立国オランダにまで侵攻を開始。ドイツによって占領されたことで、彼女の家は現金や貴金属などの大半をナチスに没収されてしまいました。
 そんな困難な状況下でしたが、彼女はオランダで本格的にバレエのレッスンを受け始めます。彼女の手足の細さは有名ですが、太ももに関してはバレエによって鍛えられていて、それが後にミュージカルへの出演にも大いに役立つことになります。
 バレエのレッスンは、教師もその後不在となり、彼女が中心になって自主練習を続け、時には有料で発表会も行うことがありました。なぜ有料にしたかというと、その収益をレジスタンスの活動資金に寄付していたようです。可愛い少女だった彼女は、レジスタンスの連絡係に最適で、ビラや連絡メモなどを届ける役目を果たしていたといいます。それだけでなく英国軍のパラシュート兵にメッセージや食料を届ける役割など危険な仕事にも参加していたとのこと。(映画のネタに使えそう!)
 1944年、連合軍の勝利が見えてきましたが、ドイツ軍はなかなかオランダから撤退せず、そのために街は連合軍による空爆の被害を受けることになります。彼女は母親と共に、祖父が住むフェルプにある館に逃げ込みますが、その館には多くの避難民が押し寄せ厳しい暮らしを余儀なくされます。特にその年の冬は「飢餓の冬」と呼ばれ、食糧不足により多くの市民が亡くなる悲惨な状況が続きました。彼女自身も栄養失調によってやせ細り、生きるか死ぬかの日々を送っていたようです。
 彼女は当時、駅でユダヤ人たちが家畜用の貨車に乗せられて、収容所へと送られる場面も目撃したそうです。彼らがどういう運命になるかを薄々感じていた少女は自分がまだ恵まれていると感じました。
 戦争が終わり、後に彼女に映画「アンネの日記」への出演オファーが来ました。しかし、自分と同い年で同じ時期に苦しんだアンネを演じることは、彼女の悲劇を利用することになるのではないか?そう思ったオードリーは出演を断りました。
 1945年、オランダがイギリス軍を中心とする連合軍によって解放されると、街には赤十字や後にユニセフとなる国際的な支援団体がやってきました。彼らは、食料だけでなく、医薬品や衣服などを届けてくれ、多くに市民が救われることになりました。この時の彼らの支援活動は彼女の心に強く残り、それが後に彼女がユニセフの親善大使として活動する一因となりました。
 この間、彼女の父親はイギリスで国家に対する敵対者として逮捕され、終戦までマン島の収容所に入れられていて、その後はアイルランドに移住していました。彼女は後に父親を見つけ出し、金銭的なサポートを行っています。

<意外な恋愛遍歴>
 戦後、彼女はイギリスに戻り、バレエで鍛えたダンスの才能を生かして、ロンドンでレビューなどに出演。映画にも出演するようになります。
 「オランダの7つの教訓」(1948年)(監)チャールズ・ユグノー・ファンデル・リンデン(出)サニー・デイ、ピア・ブック
 「素晴らしき遺産」(1951年)(監)マリオ・ザンビ(出)アラステア・シム、フェイ・コンプトン
 「ラベンダー・ヒル・モブ」(1951年)(監)チャールズ・クライトン(出)アレック・ギネス、スタンリー・ホロウェイ
 「若妻物語」(1951年)(監)ヘンリー・カス(出)ジョーン・グリーンウッド、ナイジェル・パトリック
 「モンテカルロへ行こう」(1952年)(監)ジャン・ボワイエ(出)フィリップ・ルメール、ジャネット・バッティ
 「初恋」(1952年)(監)ソロルド・ディキンスン(出)ヴァレンチナ・コルテーゼ、チャールズ・ゴルドナー

 しかし、意外ですが、彼女はそうした芸能活動と並行するように早くから恋愛にも忙しい女優となります。父親との別れの後遺症が彼女に父親のような包容力のある男性との恋を求めたのかもしれません。
 無名時代に彼女はフランス人の歌手との恋に落ち、次にの恋人、英国人のビジネスマン、ジェイムズ・ハリソンとは婚約にまで至ります。二人は、彼女のとっての出世作となった映画「ローマの休日」(1953年)の撮影中に結婚式をあげる予定でしたが中止となり、彼女とグレゴリー・ペックとの関係が噂になりました。
 1954年の「麗しのサブリナ」で共演した映画界ナンバー1のプレイボーイ、ウィリアム・ホールデンとの関係も話題になりましたが、結局、彼女は「戦争と平和」での共演者のメル・ファーラーと結婚しました。
 「麗しのサブリナ」(1954年)(監)ビリー・ワイルダー(出)ハンフリー・ボガート、ウィリアム・ホールデン
 「戦争と平和」(1956年)(監)キング・ヴィダー(出)ヘンリー・フォンダ、メル・ファーラー
 「パリの恋人」(1957年)(監)スタンリー・ドーネン(出)フレッド・アステア、ケイ・トンプソン
 「昼下がりの情事」(1957年)(監)ビリー・ワイルダー(出)ゲイリー・クーパー、モーリス・シュバリエ
 「緑の館」(1959年)(監)メル・ファーラ―(出)アンソニー・パーキンス、リー・J・コップ
 「尼僧物語」(1959年)(監)フレッド・ジンネマン(出)ピーター・フィンチ、イーディス・エヴァンス
 「許されざる者」(1960年)(監)ジョン・ヒューストン(出)バート・ランカスター、オーディ・マーフィ
 1960年には二人の間に長男ショーンが誕生しますが、メル・ファーラーの度重なる不倫や二度の流産もあり、二人の関係は壊れて離婚に至ります。

 「ティファニーで朝食を」(1961年)(監)ブレイク・エドワーズ(出)ジョージ・ペパード、パトリシア・ニール
 「噂の二人」(1961年)(監)ウィリアム・ワイラー(出)シャーリー・マクレーン、ジェームズ・ガーナー
 「シャレード」(1963年)(監)スタンリー・ドーネン(出)ケイリー・グラント、ウォルター・マッソー、ジョージ・ケネディ、ジェームス・コバーン
 「パリで一緒に」(1964年)(監)リチャード・クワイン(出)ウィリアム・ホールデン、ノエル・カワード
 「マイ・フェア・レディ」(1964年)(監)ジョージ・キューカー(出)レックス・ハリソン、スタンリー・ホロウェイ
 「おしゃれ泥棒」(1966年)(監)ウィリアム・ワイラー(出)ピーター・オトゥール、イーライ・ウォラック
 「いつも二人で」(1967年)(監)スタンリー・ドーネン(出)アルバート・フィニー、ジャクリーン・ビセット
 「暗くなるまで待って」(1967年)(監)テレンス・ヤング(出)アラン・アーキン、リチャード・クレンナ

 1968年、彼女はローマの精神科医師アンドレア・ドッティと結婚し、1970年には次男のルカを出産。70年代の前半、彼女は映画にしばらく出演していません。しかし、この間元々プレイボーイとして知られていたアンドレアは不倫を繰り返し、結局は離婚。
 離婚後、最後のパートナーとなるロバート・ウォルダースとの交際が始まり、二人の関係は1993年に彼女がこの世を去るまで続くことになりました。

<新時代の女優&ファッション・リーダー>
「わたしはアメリカの女性が精神分析医を頼りにするようにジヴァンシーを頼りにしています」
オードリー・ヘプバーン

 彼女がブレイクさせたとも言われるジヴァンシーやイディス・ヘッドによる衣装をまとった彼女は、ファッション・リーダーとしても時代の先を行く存在でした。しかし、彼女は、単にファッション界に影響を与えただけにとどまらず、女性のライフ・スタイルそのものにも影響を与えることになります。

 お色気女優と正反対の彼女は、男性よりも女性に支持される俳優だったとも言えます。その意味で、彼女はその後、世界中で進むことになるフェミニズム運動の流れの象徴的存在でもありました。だからこそ「ローマの休日」で見せた主人公のショートカット・ヘアー、それに「麗しのサブリナ」でのパンツ・スタイル(サブリナ・パンツ)は世界中の女性たちに大人気となったのです。50年代に彼女が生み出したそうしたブームは、その後、60年代に英国から世界発信された「スウィンギング・ロンドン」の先駆だったとも言えます。ヴィダル・サスーンのボブ、マリー・クワントのミニ・スカートは、その進化形だったのです。

「一般大衆はこのような妥協のない思い切った容貌を受け入れ、ほんの二十年前までは理想とされていたきれいなロマンティックなヒロイン、あるいは作り物の神秘性を持ったヒロインを過激に捨ててしまった」
セシル・ビートン

「彼女の出現によって、豊かな胸の魅力は過去の遺物となってしまった」
ビリー・ワイルダー

 彼女の登場以前、ハリウッドの人気女優はエリザベス・テイラー、ヴィヴィアン・リーマリロン・モンローなど、女性の色気を人一倍発散させるグラマラスで大人の女優たちばかりでした。それに対して、彼女は華奢で幼い顔立ち。年上の俳優との恋を描いても、そこには「セックス」どころか「キス」のイメージすら感じさせない女優でした。その意味で、彼女は女優の新たなスタイルを生み出したと言えます。そのせいもあり、彼女のアメリカでの人気は日本ほど圧倒的なものではなく、彼女の出演作品はアメリカでそれほど大ヒットにはなっていません。彼女は自分の活動場所をハリウッドではなくヨーロッパにしたことで成功することができたのかもしれません。

 彼女はよくボーイッシュとか中性的とか言われてきて、性の境界をあいまいにしているところがあったけれど、国の境界のほうもあいまいにしている。アメリカとヨーロッパとの混血性も、彼女の魅力の一つだと思う。
中野翠(エッセイスト)

 スリムなオードリーは華奢な少女のまま二十代となり、そこで完成されてしまったかのような雰囲気がある。当然、セックスやリアルな結婚生活とそのイメージは結びつかない。その現実から浮遊したかのような存在感で、彼女は唯一無二の地位を築いた。
山崎まどか

 彼女が「噂の2人」で同性愛者の役を演じたのも、彼女がセックス、国境、人種の壁を越えた新時代の女優だったことを示しています。

<日本への影響>
 オードリーの人気は、アメリカよりも日本の方が高かったと言われます。今思うと、アニメのキャラクターのような彼女の見た目と存在感は日本人に親近感がわく存在だったのかもしれません。
 手塚治虫の「リボンの騎士」の連載開始は、「ローマの休日」が公開された1953年。
 女性誌「それいゆ」の少女版として出版された「ジュニアそれいゆ」にイラストレーター中原淳一が登場したのも1953年。
 1954年、その中原は自作「緑はるかに」の映画化オーディションで14歳の少女、浅井信子を見出します。彼女は、浅丘ルリ子としてデビューし一大ブームを巻き起こします。
 華奢で日本人離れしたルックス、ファッションの浅丘ルリ子もまた新時代の女優でした。
 後にオードリーと同じようにユニセフ親善大使として活躍するショート・カットがトレードマークの黒柳徹子がNHKからテレビ初の女優としてデビューしたのも1953年でした。
 こうして振り返ると、日本でオードリーが人気者になったのは当然だったのかもしれません。

<二つ目の顔>
 多くのファンは、彼女が「永遠の妖精」と呼ばれていた時代のイメージしかもっていないかもしれません。しかし、映画女優としての彼女の活動は、作品数こそ少ないものの1970年代以後も続いています。70年代以降の作品での彼女は、完全に年齢相応の役柄を演じるようになり、「ロビンとマリアン」では修道女、遺作の「オールウェイズ」では天使を演じています。
 そして、この時期に彼女はかつて自分が少女だった時代に家族を救ってくれた国際的な支援団体、ユニセフの親善大使となり、世界各地の紛争地や飢餓の地域を訪れ、ボランティア活動を始まることになりました。そして、その活動は彼女の死のギリギリまで続くことになります。

 「ロビンとマリアン」(1976年)(監)レスター・ヤング(出)ショーン・コネリー、ロバート・ショウ
 「華麗なる相続人」(1979年)(監)テレンス・ヤング(出)ベン・ギャザラ、ジェームズ・メイスン
 「ニューヨークの恋人たち」(1981年)(監)ピーター・ボグダノビッチ(出)ベン・ギャザラ、ジョン・リッター
 「おしゃれ泥棒2」(TVM)(1987年)(監)ロバート・ヤング(出)ロバート・ワグナー、パトリック・ボーショー
 「オールウェイズ」(1989年)(監)スティーブン・スピルバーグ(出)リチャード・ドレイファス、ホリー・ハンター

 花なら枯れるな。水の流れならとどまるな。
 
夜の星なら夜明けを迎えるとも消えるでない。
 
オードリー・ヘプバーンを見ていると私はそう思って胸が痛くなる。
 
これほどのやさしい女優がいたであろうか。
 
これほどの品のある女優がいたであろうか。

淀川長治

 カズ・ヒロが作った若かりし頃のオードリーの顔は、笑顔ではなく遠くを虚ろな目をして眺めています。それは自分の未来が見えずに悩む少女の顔でした。
 それに対し、二つ目の顔には、自分の人生に満足しているような自信に満ちた笑顔があります。
 誰もが思う理想的な年齢の重ね方がそこにあるのです。願わくば、僕もそうなりたいと思います。

<参考>
KAWADEムック「文藝別冊 オードリー・ヘプバーン」
 2019年
(編)佐野亭
河出書房新社

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