アプレおばはん、頼りにしてまっせ


- 淡島千景 Chikage Awashima -

<昭和を代表するいい女>
 昭和を代表する女優の一人といえば、高峰秀子、吉永小百合、原節子、京マチ子、田中絹代、岸恵子などを思い浮かべる方が多いでしょう。どなたも美人女優で演技も上手い女性たちばかりです。そんな中、僕の個人的趣味からは、同時代ではないものの、「夫婦善哉」の魅力的演技のせいもあり、淡島千景さんも忘れられません。
 上記の女優さんたちに比べると格下扱いされがちかもしれませんが、多くの男性ファンには彼女の「いい女っぷり」は忘れられない存在だったと思います。お洒落で、姉御肌で、現代的な美人女優だった淡島千景を取り上げてみたいと思います。

<アプレ女優誕生>
 淡島千景(本名:中川慶子)は、1924年2月24日東京で生まれました。裕福な家庭に生まれ、お嬢様として育てられた少女は憧れの宝塚スターを目指して、1939年宝塚音楽歌劇学校に入学します。すぐに頭角を現した彼女は、越路吹雪の相手役に抜擢されるなど、好調に歩み出しました。しかし、太平洋戦争の戦況悪化にともない劇場のほとんどが閉鎖され、彼女は慰問活動や勤労動員で働きながら終戦を迎えることになります。
 戦後は月組の主演、娘役として活躍しますが、入団から9年がたち、若い女優たちの登場に将来を考えた彼女は、1950年映画界入りを決意します。当初は、宝塚の多くの振付師や演出家らが戦争に召集され、スタッフが減っていたことで、映画に出れば演技勉強しようと思ったのがきっかけでしたが、いつしか映画の魅力に引きつけられたようです。
 この時、彼女はやり手マネージャーだった垣内田鶴の勧めもあり、松竹映画と契約します。当時の松竹は、下町人情路線という柱と共に小津安二郎、木下恵介という巨匠の活躍があり、彼女が活躍する場が多いと判断したからでした。
 1950年、彼女は渋谷実監督作品「てんやわんや」(原作:獅子文六)で主演。一気にスターを座を獲得します。この作品で彼女は花柄のセパレーツ水着姿を大胆に披露。元々宝塚のレビューで足を露出することには慣れていたという彼女にとって、それは違和感のないことだったようですが、周囲はそんな彼女を「アプレ」の象徴と呼び始めました。
 「アプレ」とは、終戦後に急激に増加したアメリカナイズされ、価値観が大きく変わった若者たちのことです。もともと彼女は宝塚女優だっかことから、若い頃、映画は邦画ではなく洋画のミュージカルなどを見ていて、好きな女優もイングリッド・バーグマンやグレタ・ガルボでした。当然、彼女の好きなファッションも洋服中心だったことから、戦前からの女優たちとは異なる趣味の持ち主だったといえます。
 和服よりも洋服が似合う新世代の女優としてスタートした彼女はごく自然に「アプレガール」を演じるようになりました。

<下町の元気娘>
 もともと東京生まれで口も達者だった彼女は新しい時代のスターとして、飲み屋のママ、下町の母親、お転婆なお嬢様など様々な役柄を演じて行きます。
 1951年、彼女は巨匠小津安二郎の「麦秋」に出演。ワンカットに20回以上もやり直しをさせられながら、彼女は小津作品で鍛えられました。
 1952年、初の時代劇となった「丹下作善」で、彼女は晩年の坂東妻三郎と共演。その中で、お転婆娘の藤子を演じ、さらにマキノ雅弘の「武蔵と小次郎」にも出演した彼女は時代劇での和服も板についてきました。
 1953年、彼女は巨匠今井正監督の名作「にごりえ」(原作:樋口一葉)に出演。初めての独立プロ作品で、彼女は酌婦のお力を熱演し演技派女優としての地位を確立しました。そのため、松竹以外からの出演依頼も増えてきたこともあり、1955年彼女は松竹から独立しフリーとなりました。

<傑作「夫婦善哉」への出演>
 ところが東宝での第一作となった「夫婦善哉」への出演の際、問題が発生します。彼女は宝塚を辞める際、正式な退団手続きを行わなかったことから、宝塚からクビ扱いになっていたことが問題になったのです。東宝は1943年に東宝映画と東京宝塚劇場が合併してできた会社でした。そのため、彼女の東宝への出演には宝塚から待ったがかかることになったのです。この危機を救ったのは、後に作詞家として有名になる岩谷時子でした。彼女は宝塚の出版部で働いた後、越路吹雪と共に独立。東宝の文芸部で働きながら越路吹雪のマネージャーを務めていました。そこで、彼女を通して、淡島の独立と東宝への出演を認めてくれる依頼。無事に彼女は「夫婦善哉」に出演できることになったのでした。
 当初、彼女は「夫婦善哉」への出演依頼に対し、及び腰でした。それは彼女が東京生まれで、宝塚でも標準語だったために、大阪弁がしゃべれなかったせいもあったようです。しかし、ここでも彼女のマネージャー垣内田鶴が、この仕事は受けるべきと主張し、嫌々ながらも彼女はこの仕事を受けました。(監督の豊田四郎も、相手役の森繁久彌も関西出身でした)
 撮影が始まるとやはり彼女は大阪弁に苦労。彼女はすることになり、共演者の浪花千栄子からひとつひとつ台詞を教えてもらいながらなんとか撮影を乗り切ったといいます。そのため、「夫婦善哉」は映画史に残る傑作と言われるにも関わらず、彼女にとっては不満が残る作品となりました。しかし、それがこの後の彼女の映画女優としてのモチベーションにつながったともいえそうです。

 映画の中の森繁久彌の言葉が忘れられません。
「おばはん、頼りにしてまっせ」

<昭和を代表する「いい女」>
 1957年、彼女は「てんやわんや」と同じ獅子文六の原作を映画化した「大番」(監督:千葉泰樹)に主演します。(共演は加藤大介)兜町を舞台にした相場師を主人公にしたこの人情喜劇は大ヒットとなり、シリーズ化されて4部作となりました。(後に渥美清主演でテレビドラマ化もされ、彼の出世作となります)
 「夫婦善哉」あたりから、彼女が演じるキャラクターは、「アプレ・ガール」ではなく、ダメ男の世話をやくちょっと古風で情の深い姉御肌の女性となり、そのイメージが彼女のイメージとして定着するようになります。これはまさに「昭和を代表するいい女」の象徴的キャラクターだったともいえます。
 マネージャー垣内は、淡島が女優として活躍を続けられるよう、作品の質、役柄の適正、人間関係や会社間のバランスも気にしながら作品を選び、それによって彼女は順調にキャリアを積んでゆきました。
 1954年、川島雄三監督の「真実一路」
 1956年、市川崑監督の「日本橋」
 1958年、五所平之助監督の「螢火」、成瀬巳喜男監督の「鰯雲」(この作品で毎日映画コンクール主演女優賞の受賞しています)
 1961年、森繁久彌主演の「駅前団地」に出演。この作品は大ヒットし、シリーズ化され24作品が製作されることになります。彼女はレギュラーとして22作品に出演。森繁だけでなく伴淳三郎やフランキー堺らの芸達者の俳優たちとのアドリブでのやり取りは、彼女のコメディエンヌとしての実力を高めることにもなりました。
 森繁久彌とは1959年に自由劇団を結成していて、彼女は映画だけでなく舞台でも活動を始め、さらには1960年代になるとテレビ・ドラマにも出演するようになります。映画界の斜陽化に対応して、テレビに仕事場を上手くシフトしたともいえるかもしれません。
 僕がリアルタイムで見たのは、この頃からなのですが、後に見た「夫婦善哉」での彼女は実に魅力的でした。
 「ほれてまうやろ!」って感じです。
 多くの美人女優が活躍していた映画の黄金時代ですが、彼女のようなタイプの女性はそんな彼女たちやダメ男を演じるヤサ男優たちの魅力を引き出す役割を担う重要な俳優でした。
 「昭和を代表するいい女」は、映画の中のダメ男だけでなく映画界全体を支える「いい女」だったのです。
 
 2011年、連続テレビドラマ「渡る世間は鬼ばかり」出演中に体調を崩して入院。
 彼女は、2012年2月16日すい臓がんにより87歳でこの世を去りました。

<参考>
「銀幕の昭和 スタアがいた時代」
 2000年
(著)井上理砂子、板倉宏臣、中澤まゆみ
(編)筒井清忠
清流出版

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