- B・B・キング B.B.King -

<タキシードの似合うブルースマン>
 世界一タキシードが似合うブルース・マン、B・B・キング。よれよれのジーンズをはいた泥臭いブルース・マンのイメージとは正反対とも言えるこの表現には、いろいろな意味が込められています。彼は奴隷制度の記憶が残るデルタ地帯で生まれ育ったブルース・マン最後の世代であると同時に、デルタ・ブルースとエレクトリック・ブルースをつなぎ、ブルースをポップスの一ジャンルに広めたアーティストです。そして、彼はブルース・アーティストとして初めてラスベガスやテレビなど、ショー・ビジネスの世界に進出しました。それだけではなく、彼はブルース親善大使としてロシアやアフリカなど世界中を訪れて、ブルースを世界中に広める役割も果たしました。だからこそ、タキシードが最も似合うブルース・マンなのです。
 もちろん彼の場合タキシードが似合うだけの経済的成功も手にしています。歴史上、ブルース・マンで百万長者になったのは、たぶん彼だけでしょう。
 ところが、意外なことに彼ほどお金に対してこだわりのない人も珍しいのです。ではなぜ彼はそれだけの成功を手にすることができたのでしょう?
 答えは意外に簡単です。彼は世界一勤勉で謙虚な尊敬すべきブルース・マンだったからなのです。そんな彼だからこそ、その回りには優秀で信頼できるスタッフが集まり、彼と共に成功への道を歩むことができたのです。

<デルタで育った少年時代>
 B・B・キングことライリー・B・キングは、ミシシッピー州のデルタ地帯にある小さな街、インディアノーラに近い農家で生まれました。1925年9月16日のことです。父親のアルバート・リー・キングは、彼がまだ小さな頃、家を出てしまい、彼は母親によって育てられました。
 彼のおじいさんは、奴隷として農場で働いていました。その後、奴隷制度が廃止されてはいても、彼の家族は奴隷時代と経済的には変わらない生活を強いられていました。(彼の本名「ライリー」は、父親が働いていた農場の経営者ジム・オライリーの名からとられています)
 そのうえ、彼が10才の時に母親が突然病気でこの世を去り、彼はそれから3年間たった一人で暮らしました。しかし、それだけ寂しく悲惨な生活をしながらも、彼はけっして悪の道に走ることはありませんでした。彼はそんな悲しみを忘れるために、まじめなクリスチャンとして教会に通い、綿花農場の仕事に対しても誰より真面目に取り組みました。この勤勉さは、彼のまわりの人々の影響によるものだったのかもしれません。離れて暮らす父親も、亡くなった母親も、真面目な働き者で彼の白人の雇い主もまた差別主義者ではなく誠実な人物でした。
 そして、少年時代の彼に大きな影響を与えた小学校の先生は、教室でこう言っていたそうです。
「世界は残酷で不公平に見えるかもしれない。だが、嘆いていたって何にもならない。世界を良くしようと努力してさえいれば、世界はかならず良くなるんだよ」

<音楽との出会い>
 そんな頃、彼は通っていた教会で初めてギターと出会いました。貧しかった彼は当然自学自習でギターのテクニックを身につけるしかありませんでしたが、ギターを初めて手にした12才の頃、彼はひとりぼっちだったため、いくらでも時間はありました。彼は自分のギターにルシールという名前を与え、まるで恋人のように大切に扱いました。
 その後彼はクラスの仲間たちとゴスペルのグループを結成し、近郊の教会でライブ活動を行うようになりました。

<ジャズ、ブルースの巨人たち>
 彼らは一流のグループを目指して練習に励みますが、キングにとってのヒーローは神ではなく、ブラインド・レモン・ジェファーソンやロニー・ジョンソン、T・ボーン・ウォーカーなど、ブルース・ミュージシャンたちこそがヒーローであり、そんなミュージシャンたちの生の演奏を見るため、彼は週末になると街まででかけ、街一番のナイト・クラブの壁の隙間から中をのぞき見していたそうです。
 サニー・ボーイ・ウイリアムソンU、ロバート・Jr・ロックウッド、などのブルース・マンやチャーリー・パーカー、チャーリー・クリスチャン、レスター・ヤングなど今や伝説となったジャズの巨人たちの演奏が、そののぞき窓から見ることができました。(なんだかゾクゾクする話しです)

<ブルース・マンへの一歩>
 この頃から、彼は小遣い稼ぎのために街でギター片手にブルースを歌い始めました。すると、ゴスペルを歌うのに比べ、明らかにお金になることに気がつきます。こうして、彼は少しずつブルース・マンの道を歩み始めますが、すでに結婚もし、真面目一本槍だった彼にとって、それを実行に移すことは不可能に近いことでした。しかし、神は彼にブルースの伝道師になる指名を与えます。
 そのきっかけは、彼が農場の大切なトラクターを壊してしまったことでした。このことで農場にいられなくなった彼は、家出をしてメンフィスの街へと向かったのです。そこには、彼のいとこであり、すでにブルース・ミュージシャンとして活躍し始めていたブッカー・ホワイトがいました。
彼はしばらくメンフィスに滞在し、そこで本場のブルースを目の当たりにし、大きなショックを受けます。その後、一度はインディアノーラに戻りますが、プロのブルース・ミュージシャンになる決意はいよいよ硬いものとなりました。

<D・Jからブルース・マンへ>
 その後彼は再びメンフィスへと旅立ちます。しかし、そこで彼が得た職は、ブルースを歌うことではなく、ラジオのディスク・ジョッキー兼CMソング・パフォーマーでした。小さな頃から「どもり」がひどく、大人になっても時折言葉につまることがあった彼でしたが、マイクを前にするとそんな過去の記憶などどこかに行ってしまったかのようになり、すぐに彼は人気DJの仲間入りを果たしました。(このDJとしての経験は、後のエンターテナー、B・B・キングにとって大きな役に立ちました)
 DJとしての人気を得たことで、彼は念願だったブルース歌手としてのレコードを録音できることになりました。しかし、そう簡単にレコードがヒットすることはなく、彼は二足の草鞋をはき続けました。

<ツアー生活の始まり>
 1952年、「スリー・オクロック・ブルース」が大ヒットして、彼の名は一躍全国区になりました。これをきっかけにして、彼は本格的にブルース・ミュージシャンとして活動し始め、自らのバンドをもつようになります。そして、ここから彼のツアー人生が始まることになりました。
 これ以後、彼は40年にわたり毎年平均330回ものライブをこなすようになります。そのほとんどは、アメリカ国内をバスで移動する地方回りがほとんどで、きつい生活の連続でした。しかし、そんな厳しい条件の中でも、バンドのメンバーたちの多くは長きに渡り彼と行動を共にしました。それはバンド・リーダーであるB・Bが、自分がどんなにお金に困っても、バンドのメンバーには給料をちゃんと払い続け、誠実にリーダーとしての役割を果たし続けたからです。
 彼はこう言っています。
「一人のギタリストとして、私は音と音のハーモニーを追求している。一人の人間として、私は人と人のハーモニーを追求している」

<優秀なマネージャーの登場>
 そんな彼の人柄のせいか、彼はバンドのメンバー以外にも、優秀なバックに恵まれました。特に彼のマネージャーとなった白人、シドニー・サイデンバーグは、B・Bの人気を全国区にするため次々と新しいアイデアを出し、B・Bにとって必要不可欠な存在になります。
 クック郡刑務所の慰問ライブやブルース親善大使としてのロシアやアフリカへのツアー、それにフラワー・ムーブメントの中心地、フィルモアやエド・サリバン・ショーなどテレビ番組への出演など話題性のある企画を次々に実現させたのはサイデンバーグの手腕でした。彼はこうしてB・Bの存在を白人層にまで広め、若者たちの耳を本物のブルースへと向けさせることに成功しました。

<新しいブルースの時代へ>
 彼が活躍を始めた頃、エレクトリック・ギターを用いた新しいスタイルのブルースは、今ひとつ人気を得ることができませんでした。それは、黒人の若者たちにとってブルース自体が過去の音楽であり、逆に白人の研究家やブルース・ファンにとってエレクトリックなブルースは、本物に見えなかったからです。
 その考え方を変えたのは、ビートルズやローリング・ストーンズ、ジョン・メイオール&ザ・ブルース・ブレイカーズ、エリック・クラプトンなど、白人のロック・ミュージシャンであり、黒人の音楽評論家チャールズ・カイルによる有名なブルース評論「都市の黒人ブルース アーバン・ブルース」の存在でした。
 その後も、彼に対するリスペクトは数々の企画を生み、彼の人気を高めるのに役立ちました。例えば、ジョン・ランディス監督の「眠れぬ夜のために」では音楽を担当。「ブルース・ブラザース2000」では、歴史的スーパー・バンド、ルイジアナ・ゲイター・ボーイズのバンド・リーダーを演じました。U2のルーツ・ミュージック詣でとも言えるアルバム&ドキュメンタリー映画「魂の叫び」では、ライブで共演、「When Love Comes Town」(1988年)をヒットさせています。

<人種差別との静かなる闘い>
  こうしてみると、彼の人生は少年時代こそ不幸だったものの、その後はゆっくりではあっても順調にスターへの道を歩んできたもののようにみえます。しかし、彼の40年にわたるライブ活動において、常に人種差別の問題がつきまとい続けていたのもまた事実です。逮捕こそされなかったものの、彼は何度となくレストランやホテルから締め出されたり、パトカーに止められて嫌がらせの尋問を受けたり、差別を受け続けました。しかし、彼は一度としてそんな対応に対して反抗的な態度をとったり、暴力に訴えたりしませんでした。そのことを彼は、奴隷のような生活を送っていた時期のクセが抜けないと、自嘲的に言っています。とはいえ、彼は黒人が白人の言いなりになることを、それで良しとしていたわけではありません。彼は、ある意味「ブルース界のキング牧師」だったのかもしれません。
 1963年に射殺された全国黒人地位向上協会の代表だったメドガー・エヴァースの意志を継ぐため、彼はエヴァースの故郷であり、自らの故郷でもあるインディアノーラの街で毎年ミュージック・フェスティバルを開催し、そこに無料で出演し続けています。それは、かつて小学校の先生が言っていた言葉を実現するためのささやかな活動のひとつなのでしょう。

<ブルースのイメージを変えた男>
 彼はこうも言っています。
ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ
 しかし、彼の音楽活動によって「奴隷たちの嘆きから生まれた暗く悲しい音楽」というブルースの暗いイメージは少しずつ変わってきました。
「子供の頃、ブルースを愛するのは黒人だけだった。他の黒人はブルースに偏見をもっていた。それが今では世界中がブルースを愛してくれている。私に言わせれば、ブルースがこれほどいい状態だったことはない。・・・」
なんというポジティブな考え方でしょう。

<誰よりも謙虚なブルース・マン>
 彼はまた誰よりも謙虚な男でした。彼は、他のミュージシャンのことを悪く言うことはほとんどありませんでした。それどころか、いかに自分より優れているかを力説することの方が得意でした。
 ギタリストとして、自分が絶対にマネできない存在として、チャーリー・クリスチャン、ジャンゴ・ラインハルト、マディー・ウォーターズ、ジミ・ヘンドリックス、ウエス・モンゴメリーらの名をあげ、さらに白人のギタリストたちジェフ・ベックジミー・ペイジエリック・クラプトンらをも絶賛しているのです。
 さらに、彼ほど父親としての義務を真面目に果たしているブルース・マンもいないでしょう。なんと彼には、アメリカ各地に15人もの子供がいるらしいのですが、そのすべてを彼は認知し、養育費を負担しているというのです。

<世界一成功したブルース・マン>
 彼のそんな真面目で謙虚な姿勢は、いつしか彼に大いなる成功をもたらしました。今や、アメリカにはB・B・キング印の商品がいくらでもあるそうです。ブルース・ナイト・クラブ「B・B・キング」はチェーン店化されており、全国にあります。B・B・キング印のギターの弦はもちろん、B・B・キング印の衣料品(やっぱりXL以上のビッグ・サイズ専門のブランドなのでしょうか?)、サラダ・ドレッシングや冷凍食品、バーベキュー・ソースなどなど。まさに、彼こそアメリカン・ドリームの夢であり、アメリカの良心の象徴でもあるのです。

<継続は力なり>
 B・B・キング、彼ほど不器用な生き方をしてきた人物も珍しいかもしれません。チャーリー・クリスチャンやジャンゴ・ラインハルトのように高度なギター・テクニックを売り物にすることもなく、レイ・チャールズやボビー・ブランドのようにブルースのポップ化を目指すこともなく、ただ淡々と50年代ブルースを演奏し続けてきたのです。(もちろん、謙虚な彼は他の音楽についても勉強はしていましたが・・・)しかし、その継続し続けた音楽が時代の変化によって、いつしか高い評価を得るようになっていったわけです。
 それにしても、「Blues Boy King ブルース・ボーイ・キング」とはよくぞ付けたりではないでしょうか!

<締めのお言葉>
「職業としてブルースを歌っちゃいけないという理由はないし、ブルースを歌ったら紳士ではなくなるということもない。僕が、これにじっと組み付いているのは、人々にブルースを職業にして立派にやってゆけることを示したいからなんだ」

B・B・キング「都市の黒人ブルース」チャールズ・カイル著より

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