江戸時代から飛び出した太陽族的落語世界


「幕末太陽傳」

- 川島雄三 Yuzo Kawashima -

<伝説的コメディー映画>
 昔、学生時代に名画座で見た時に感動した覚えがあり、その後、この映画が日本映画史のオール・タイム・ベスト10に入っていたことにも納得しました。日本の映画史に残る名作は様々ありますが、コメディー映画でこれだけ高い評価を受けている作品は、珍しいでしょう。
 この映画が面白いのは、原作のおかげでもあります。この映画の脚本の下敷きになっているのは、落語の名作「居残り佐平次」を基本に「品川心中」や「三枚起請」「お見立て」などのエピソードを加えたものです。ある意味、日本最高峰のコメディー「落語」をリメイクした作品なわけです。

<あらすじ>
 一文無しのクセに口八丁手八丁の切れ者、佐平次(フランキー堺)は仲間とともに品川の遊郭で一晩中、飲めや歌えの大騒ぎをします。その後も、店に一人で残った彼はさんざん贅沢をした後、一文無しであることを明かします。開き直った彼は、自分を店で働かせてくれれば、仕事で借金を返すと店の主人に直訴。結局、彼は布団部屋を与えられ、そこで寝泊りしながら、店の仕事をなんでもこなしてゆきます。すると、看板女郎の二人(南田洋子、左幸子)のケンカの仲裁や売掛金の取立てにその才能を発揮し始め、いつの間にか店になくてはならない存在になっていました。
 ちょうどその頃、その店は高杉晋作(石原裕次郎)ら幕末の志士たちが集まる場ともなっていて、夜な夜な攘夷のための作戦会議が行われていました。佐平次は、彼らの作戦に協力しますが、決して尊皇攘夷派ではありませんでした。彼にとって、権力は信用できるものではなく、唯一「金」だけが信頼に足るものという信念を公言していました。
 ところが、店の放蕩息子と奉公人の駆け落ちという一銭にもならないどころか、店を追い出されることにもなりかねない仕事を彼は引き受けてしまいます。そして、高杉晋作に攘夷の作戦に協力する代わりに、彼らに二人を逃がしてくれるよう依頼します。
 二人の駆け落ちは成功するのか?高杉晋作の作戦は成功するのか?そして、結核を患っているらしい佐平次の運命は?

<佐平次という人物>
 この映画最大の魅力は、なんと言っても主人公の佐平次のキャラクターでしょう。彼のひょうひょうとした演技は、落語の世界から抜け出してきたかのようです。投げ上げた羽織にすっと袖を通すさりげない身のこなしも最高です。この佐平次を演じたフランキー堺は、当時ジャズ・ドラマーから俳優に転向したばかりで俳優としてはまだ未知数の存在でした。彼に主役の座を与えた監督の判断も見事だったと言えます。(日活側には猛反対されたようです)
 金のためならなんでもやる佐平次は、幕府側でも尊王攘夷派でもない、江戸に住む一般大衆を代表する存在だったとも言えます。しかし、クールであるはずの彼には誰よりも優しい心が潜んでいたのでした。そして、彼のそのクールさは、自らの命が結核によって残り少なくなっていることを知ったことでたどり着いたものだったのかもしれません。実は、落語の「居残り佐平次」の方では主人公は結核ではなく、単なる病気の養生のために宿に来たことになっています。
 佐平次が死ぬべき運命の持ち主だったことで、この映画はコメディーでありながら、どこか儚げな悲しい物語としての奥深さを併せ持つことに成功しています。そして、そんな彼の運命はこの映画の監督、川島雄三の運命とも重なっています。

<川島雄三>
 この映画の監督、脚本の川島雄三は、1918年2月4日、青森県むつ市に生まれました。野辺地中学に通っていた頃、D・W・グリフィスの超大作「イントレランス」に感動。東京に出て明治大学に入学した彼は、卒業後1938年、松竹に入社。助監督として、渋谷実、島津保次郎、清水宏、小津安二郎、木下恵介らのもとで経験を積んでゆきました。
 1944年、織田作之助の小説「清楚」をもとに「還って来た男」を撮り、監督としてデビューします。この映画から、早くも喜劇タッチの川島ワールドが注目されることになりました。
 彼は、戦後、いち早くキス・シーンを取り入れた映画「ニコニコ大会・追いつ追われつ」(1946年)を監督します。ちなみに、この映画の「キス・シーン」は当時日本に進駐していたアメリカ軍が、民主主義を日本に浸透させるために強引に映画の中に盛り込ませたものでした。
 流行の風俗を描くコメディ映画の職人監督として活躍しますが、リメイク版の「真実一路」、井上靖原作の「昨日と明日の間」のような作品を撮るなど、文芸ものの映画化も多数あります。
 1955年、戦後、進駐軍によって企業活動を停止させられていた日活が製作を開始。その日活からのオファーにより、彼はまだ当時助監督だった今村昌平や中平康らを引き連れて移籍。その後、日活で「愛の荷物」(1955年)、「あした来る人」(1955年井上靖・原作)、「風船」(1956年大沸次郎・原作)などを発表します。
「州崎パラダイス・赤信号」(1956年荒木好子・原作)
 東京州崎の遊郭の入り口にある飲み屋を中心に描かれた群像劇。この作品により、当時まだ若かった新珠三千代が演技派女優として開眼したとも言われます。
 さらに「わが町」(1956年織田作之助・原作)、「飢える魂」(1956年丹波文雄・原作)などの秀作を次々に発表していた彼ですが、日活とは予算の問題や内容的な制約への反発で対立。そして、移籍を覚悟しての最後の作品として取り組んだのが、「幕末太陽傳」(1957年)でした。

<「幕末太陽傳」>
 この映画のタイトル「太陽傳」の元になっているのは、当時一大ブームとなっていた若者たちの人気トレンド「太陽族」です。しかし、この映画での主役は、その中心的存在だった石原裕次郎ではなく、ジャズ・ドラマーとして活躍していたフランキー堺でした。この配役にも日活側は反対したようです。
 もちろん、この映画における「太陽族」は、裕次郎や二谷英明、小林明など日活の人気若手俳優たちが演じた勤皇の志士たちです。幕末に維新側に対し、最後まで闘いを挑み続けた血気盛んな若者たちの人間像に彼らはぴったりで、この映画のもうひとつの見所といえます。
 その他、昭和の映画界をリードすることになる俳優たちの若かりし姿を探すのも、この映画の楽しみの一つかもしれません。(南田洋子、左幸子、芦川いづみ、金子信雄、織田政雄、岡田真澄、殿山泰司、西村晃、菅井きん、熊倉一雄、河野秋武、加藤武(ナレーション)・・・)
 考えてみると、「太陽族」から「太陽に吠えろ!」まで、裕次郎は常に太陽の光を浴びる存在であり続けたわけです。昭和の野球界において、太陽であり、「ひまわり」だったのが、長嶋茂雄なら、その映画版は裕次郎でした。(その対極に捕手であり監督の野村がいたわけですが・・・)
 黒沢明の作品が複数名の脚本家による共同脚本によって作られていたことは有名ですが、この作品でもまた3人の脚本家(川島雄三、田中啓一、今村昌平)によって、いくつものエピソードが見事にラスト・シーンに向けて一つに集約されてゆきます。
 この作品が未だに、古さを感じさせないのは、この脚本に基づいて展開するテンポの良い物語のスピード感だとも言えますが、それは古典落語の名作が時代を越えて輝きを放ち続けていることと同じ理由かもしれません。

<病と闘いながら>
 この作品の後、彼は東宝系の映画会社である東京映画に移籍します。そこで彼は「女であること」(1958年)、「貸間あり」(1959年)、「青べか物語」(1962年)などを撮り、その他にも大映に招かれて、若尾文子を主演とする「女は二度生まれる」(1961年)、「雁の寺」「しとやかな獣」(1962年)などの作品を精力的に完成させてゆきます。しかし、こうして次々に作品を撮っていた間にも、彼の体は少しずつ病によってその機能を失いつつありました。彼は、自らが筋萎縮性側索硬化症(ALS)であることを監督に昇進した当時から知っていたようです。当然、「幕末太陽傳」撮影時も、そのことを知っていたわけです。彼はその後、1963年6月11日45歳の若さでこの世を去りました。
 彼の墓碑銘には、井伏鱒二の作品からの引用である「サヨナラダケガ人生ダ」という言葉が刻まれていますが、そんなクールな彼の生き様は、常に死の恐怖と戦い続けることで自然に生まれたのもだったのでしょう。そんな彼らしいセリフは、この映画の中にもありました。

「こちとら、てめえ一人の了簡で生き抜いて来た男でえ。首が飛んでも動いてみせまさあ」
 このセリフは、あの有名な「四谷怪談」の中にあり、民谷伊右衛門による関西向けの上演で用いられていたものだったようです。

 ちなみにALSと闘った有名人の中には、ルー・ゲーリック、チャールズ・ミンガス、マイク・ポーカロ(TOTO)、篠沢教授、毛沢東・・・(実は著者である僕の叔父さんもそうです)

<幻のラスト・シーン>
 この映画のラスト・シーンには有名なエピソードがあります。元々の監督のアイデアでは、墓場でのラスト・シーンで佐平次は一人その場を駆け出して行き、そのまま映画のセットを飛び出し、現代の品川の街を駆け抜けて行くというものでした。
 しかし、それまでの映画の常識をはずれたそのアイデアにスタッフや俳優陣が異議を唱えたため、結局、そのシーンは撮影されませんでした。映画内映画から飛び出すという発想は、まるで後のウディ・アレン作品(「カイロの紫のバラ」)のようですが、実際この映画のアイデアを知って作られた作品もあるとのこと。
 例えば、「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明は、この人気アニメシリーズの最終回で、「幕末太陽傳」のアイデアを用いたことを明かしているそうです。僕はこの最終回を見ていないのですが、うちの息子によると確かに言われてみればそんなラスト・シーンだったとのことです。
 伝説の名画はなんと21世紀にまで影響を与え続けているようです。

「幕末太陽傳」 1957年
(監)(脚)川島雄三
(脚)田中啓一、今村昌平
(撮)高村倉太郎
(音)黛敏郎
(出)フランキー堺、石原裕次郎、二谷英明、小林明、南田洋子、左幸子、芦川いづみ、金子信雄、織田政雄、岡田真澄、殿山泰司、西村晃、菅井きん、熊倉一雄、河野秋武、加藤武(ナレーション)

「洲崎パラダイス 赤信号」 1956年
(監)川島雄三(製)坂上静翁(原)芝木好子(脚)井手俊郎、寺田信義(撮)高村倉太郎(美)中村公彦(編)中村正(音)真鍋理一郎(助監)今村昌平
(出)新珠三千代、三橋達也、轟夕起子、植村謙二郎、平沼徹、松本薫、芦川いづみ、小沢昭一、牧真介
<あらすじ>
仕事も住む家もないカップルが、赤線地帯、洲崎パラダイスの手前で営業する居酒屋に住み込みで働き始めます。
しかし、蔦枝は店の常連客と仲良くなり、その世話になろうと出て行ってしまいます。
その頃、居酒屋の行方不明だった旦那が戻ってきます。
蔦枝を探して、働いていた蕎麦屋をさぼった義治に惚れてしまった蕎麦屋の女の子は義治をかばってくれます。
東京に実在した赤線地帯、洲崎パラダイス周辺で撮影された人間ドラマの傑作。 
事件が起きるわけではないものの、予測不能の展開にハラハラさせられました。
合間に入る小沢昭一の使い方もうまかった。
ラストも、決してハッピーエンドはもなく、かと言って、救いがないわけでもない、粋な終わり方でした。
ダメ男とダメ女のラブストーリーは、優柔不断な男と金に弱い女、どちらも実に人間的で憎めないのです。
川島雄三的なリアリズムタッチのコメディ・ドラマ。原作の小説も良いのでしょう。実によくできたストーリーです。

20世紀邦画劇場へ   20世紀名画劇場へ   トップページへ