美少女と神を賛美し続けた最後の巨匠


- バルテュス Balthus -

<スイスを代表する画家>
 2014年はスイスの美術作品が日本に数多くやって来た年だったようです。そんな中、「20世紀最後の巨匠」として注目を集めたのが画家バルテュスという画家でした。
 なぜ彼が21世紀の今になって、「20世紀最後の巨匠」と呼ばれることになったのでしょうか?
 そもそもバルテュスとは何ものなのでしょうか?
 「20世紀最後の巨匠」バルテュスをご紹介させていただきます。

<バルタザールの生い立ち>
 バルテュス Balthus ことバルタザール・クロソフスキー・ド・ローラが生まれたのは、1908年2月29日。家はポーランド貴族の血を引く名家で、父親は美術史家、母親は画家、兄のピエール・クロソフスキーも後に作家になっています。ボナールやドランらの画家たちも頻繁に彼の家に遊びに来ていて、彼の周りには常に芸術があふれていました。その中の一人、作家のライナー・マリア・リルケは、彼の母と恋愛関係となり、両親は離婚してしまいます。そして、彼は母親と共に暮らすようになりましたが、彼はリルケから大きな影響を受けることになります。
 12歳の時、彼は飼っていた猫が行方不明になったことにショックを受け、それを絵本風に作品化。それを見たリルケは自ら序文を書いてスイスの出版社から絵本として出版します。(彼は1921年12歳でデビューしていたことになります)リルケに絵を評価されたこともあり、この頃彼はすでに画家として生きる決意を固めていたといいます。しかし、彼が19歳の時、リルケはこの世を去ってしまい、実の父親もまた投資の失敗で財産を失っていました。そのため彼は貧しい中で絵画の勉強をし、画家として暮らして始めることになりました。
 彼が他の多くの芸術家と異なるのは、熱心なカトリックの信者として神への信仰と絵画への情熱により、迷うことなく人生を歩み続けたことです。

「私は熱心なカトリック教徒です。絵を描くことは神の神秘にたどりつく一つの方法です。神の国の輝かしさをいくらかでも引き出すことです。そこに虚栄心などはありません。あるのはむしろ謙虚さ。・・・」

「絵を描くときはつねに、このように精神を貧困にしておかなければなりません。流行の動き、安易で目がくらむようなものは避けなければならない。私の人生はこれ以上ないほどの貧しさのなかで始まりました。・・・」

<戦争体験と初の個展>
 1930年、彼は兵役につきモロッコへと出兵します。アフリカの強い日差しの中、彼はそれまでにない発想を得て、数点の作品を描いています。
 1933年、パリに帰国した彼は初期の名作である「兵舎」、「鏡のなかのアリス」、「窓(幽霊の恐怖)」などを完成させています。なかでも「街路」特に有名な作品で、パリの街を歩く不気味な人々が織りなす不思議な世界は他の画家にはない独特のものです。恐ろしいのか?面白いのか?エロチックなのか?美しいのか?
 1934年、彼はパリのピエール画廊で、上記の作品に「キャシーの化粧」、「ギターのレッスン」などを加えた作品で個展を開催しました。画廊の奥、カーテンで仕切られた部屋で展示された「ギターのレッスン」は、そのスキャンダラスさゆえに大きな話題となりました。後に彼は「ギターのレッスン」は、あえてスキャンダルを巻き起こしてやろうと意図して描いたことを告白しています。ただし、そんな彼の思いとは逆に、話題の割に彼の作品は売れず、仕方なく彼は有名人の肖像画を描くことで生活費を稼ぐことになります。そんな時期に自画像として描いたのが、「猫たちの王」(1935年)でした。
 彼の最初の個展は、当時一大ブームとなっていたシュルレアリスムの作家たちから高く評価され、彼はシュルレアリスムのメンバーと付き合うようになりました。しかし、彼はそうした流行に乗ることに興味がなく、あくまでも自分の絵を描くこと興味を持ち続けたため、グループからはすぐに離れてゆきました。彼の名がシュルレアリスムの歴史に残っていないのはそのためです。この頃から、すでに彼は自らの作品を言葉で解説したり、カテゴライズされることを拒否する作家として、一部の愛好家にしか知られない存在となる道を選択したといえます。

<結婚と作家活動>
 1937年、長い間、不倫関係にあったアントワネット・ド・ワトヴィルとついに結婚します。(リルケと同じ道を歩んだともいえます)幸福な結婚生活を始めた彼は、充実した作家活動から次々に作品を発表しています。「ブランシャール家の子どもたち」、「山(夏)」、「白いスカート」は、この年の作品です。
 1939年、彼は第二次世界大戦に召集され、アルザスの前線に行き、地雷の爆発によって負傷しパリに戻ります。
 1946年、彼の代表作のひとつ「美しい日々」が完成。
 1947年、南仏を旅しながらピカソ、フランソワーズ・ジロー、ジャック・ラカン、バタイユ、アルベール・カミュらと親交を深めます。
 1953年、モルヴァン地方のシャシーに移住し、翌年には「部屋」、「コメルス・サン・タンドレ小路」を完成させます。
 1956年、初めて大西洋を渡り、ニューヨーク近代美術館で展覧会を開催。ここから彼の名はアメリカへ、そして世界へと広まり始めます。

「絵を描くとは実際はどういうものか、誰も考えていません。これは職の一つ。土木作業員や農夫と同じで、土に穴を掘るような仕事です。人が自分に課した目的に達するには、それに見合うだけの肉体的な努力が必要です。遠くにあって、深い秘密に、読めない道にたどりつく。遠い昔に坂のぼる。この点について考えるのは、現代絵画とその失敗です。私はモンドリアンをとてもよく知っていました。彼が昔に描いていた、とても美しい木々を思うと残念でなりません。」

<イタリア、日本での活動>
 1961年、フランスの文化大臣の職にあったアンドレ・マルローからの依頼によりローマのアカデミー・ド・フランスの館長の役につきます。そのため、彼は拠点となるヴィラ・メディチの修復や館内での展覧会にその手腕をふるいました。
 1962年、パリで開催される日本古美術展のための作品を選定するため、彼は再びマルローからの依頼で日本を訪れることになりました。この時、運命の女となる出田節子と出会います。別居していたとはいえ、まだアントワネットと夫婦関係にあった彼は、離婚手続き終了後の1967年、正式に日本で結婚式を挙げました。
 1977年、結婚した二人はスイスの田舎町ロシニエールに立つ古い木造作りの旅館グランシャレを購入し、そこで生活し始めます。
 彼は自分の作品を売ってお金を稼ぐということに興味を持っていませんでした。この巨大な木造旅館も彼は画商に絵を数枚渡すことで、入手したそうでお金は払っていないといいます。(逆に言うと、すでに彼の絵はそれだけ高額の値がつくものだったということですが・・・)

「あるのはこの絵筆と前掛けと画布だけ。これが私の一生の証でした。お金にも名声んみも縁がなかった。それなのに現在、私の絵は高すぎます。借金があり、寡作の私がどうしてそんなお金を払えるだろうか?私は一部の人たちが贅沢と呼ぶ生き方をしてきました。私は自己を完成できると思った住まいや家具を自分の絵と交換して手に入れてきました。・・・」

<スイス、グランシャレにて>
 1980年代、彼はグランシャレでの妻兼助手の節子夫人との生活の中から寡作とはいえ着実に作品を発表してゆきます。「画家とモデル」(1980年)、「スカーフを持つ裸婦」(1982年)、「鏡を見る裸婦」(1983年)、「ギターを持つ裸婦」、「横たわる裸婦」、「鳥のいる大きな構図」、「猫と鏡Ⅱ」、「猫と鏡Ⅲ」などはこの時期に制作されています。
 彼は高齢となって目が不自由になりますが、それでもなお人口の灯りを用いて描くことはしなかったといいます。そこにも彼の画家としてのこだわりがあります。

「毎朝、光の状態を見つめます。私は自然な光でしか描きません。電気の光では決して描かない。空の動きに合わせて変化し、ゆらめく光だけが絵を組み立て、光沢を与えます。」

「光を待ち構えることを学ばなければなりません。光の屈折。逃げていく光、そして通りすぎる光。夜が明けるとすぐに、朝食を終えて郵便物を読んだあとは、光の状態を調べなかればならない。今日は絵が描けるかどうか、絵という神秘のなかで前進しているものが深まるかどうか。アトリエの光がその神秘に入り込むに適しているかどうか。・・・」

 1990年代80歳を過ぎてもなお、彼は作品を発表し続けます。2001年2月18日93歳でこの世を去るギリギリまで彼は節子夫人の手を借りながら制作を続けました。絵画という名の宗教の道を歩み続けた彼の人生には迷いなどなかったのかもしれません。これほど幸福な人生はなかったのかもしれません。

<バルテュスとは?>
 裸婦や美少女を数多く描いた彼の作品は、ナボコフの小説「ロリータ」の表紙に「少女と猫」(1937年)が使われていたように美少女趣味エロスの象徴と解釈される傾向にありました。確かに僕にもそう見えなくもありませんでした。しかし、彼のインタビューを読めば、彼にとっての美少女とは、大人になる前の純粋無垢な存在の象徴であり、究極の美の象徴なのです。そして、彼が絵画として描きたかったものとは、そんな究極の美だったのでした。そして、そのためには作品作りに時間をかけることを惜しみませんでした。

「私は一枚の絵に十年かけることで知られています。私には絵が終わるときがわかる。それはつめり、完成するときです。もうどんな一筆も、どんな色の跡も修正の必要がなくなる世界についに到達し、秘密の空間をついにものにする。そのときアトリエで心ひそかにとなえたあれもこれもの祈りも終わります。無言の瞑想も終わる。美の一つの考えについに触れられたのですから・・・。」

 いかに現代美術が「絵画」というものの存在を軽く扱い、薄っぺらなものにしてしまったかについて、彼は熱く語り、現代美術の作家たちを敵にまわすことをまったく恐れていませんでした。

「祈るときと同じように絵を描く。まさにそのことによって、静寂の世界に、この世では目に見えないものにたどりつく。現代美術と称することをしているのは大半が愚か者で、絵について何も知らない芸術家であるからして、私の言わんとすることにもろ手をあげて従う者がいるのか、あるいは理解されるかは、はっきり言って確信が持てません。しかし、それでかまわないのではないか?絵を描くことは描くことだけで理解されるものです。・・・」

 彼は絵画が描く究極の目的について自信をもって語ることのできる20世紀最後のアーティストだったのかもしれません。

「人は何か本質的なものに触れたときはわかるものです。つまり、自身と己が到達したいものが接合する点がそこにある。融合する点と言ってもいい。これは聖なる物語で、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の大天井に描いた、神の指とアダムの指が結びついた物語にたとえられます。
 そう、絵を描くことはこの境目、境界にあります。そこに行きつくには、人は裸になり、小さな自我は捨てなければならないことをよく理解しなければなりません。」


<神と対話する画家>
「・・・現代人はこの何千年もの美徳を知りません。沈黙と仕事、私が神と呼ぶ見えないものとの深い秘密の対話。絵の上に再構築されたものはじつは遠くから、とても古い場所から来たことを知りません。その変わりに自己を見せびらかし、わいわいがやがや、心のままの衝動的なインスピレーションで、絵が誰でも描けると思わせている。芸術が大衆化し、したがって俗化し、無知な芸術家はおこがましくも自分を創造者だと思っている。創造者とは、もし私がきちんと理解していれば、神その人です。。・・・・」
(芸術家とは、神と人間との仲介者なわけです)

「絵はいまだかつて解明されず、完全に読みとられたことのない、世界の大問題に答えるための道具であり、通り道なのです。宇宙という名の原書にはいまだに入りこめないところがあり、絵はそこに到達できる鍵のひとつなのです。それだから絵は疑う余地なく宗教であり、したがって精神です。私は絵を描きながら時間の流れと歴史をさかのぼり、必然的に先史に、はっきりしない本来の意味での原始の時間に達します。つまり生まれたばかりの時間。」

<参考>
「バルテュス、自身を語る」
 2001年
(著)バルテュス、アラン・ヴィルコンドレ
(訳)鳥取絹子
河出出版

「バルテュスの優雅な生活」 2005年
(著)節子・クロソフスカ・ドーラ、夏目典子
新潮社

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