「バーナム博物館 The Barnum Museum」

- スティーブン・ミルハウザー Steven Millhauser -

<ミルハウザー博物館へのご案内>
 実験的な短編小説が並ぶこの作品集は、「ミルハウザー博物館」ともいえるバラエティーに富んだ内容になっています。ただし、中にはかなり難解かつマニアックなものもあるため部分的には面白くないと感じられるかもしれません。でも、最初のお話「シンバッド第八の航海」を読んで挫折しそうになった場合、あきらめずに表題作の「バーナム博物館」をお読み下さい。「バーナム博物館」は、小説というよりも架空の博物館の手引書と呼ぶべき内容です。そして、それはそのままこの本の手引書でもあり、ミルハウザー文学の手引書にもなっています。その意味では、先ず先にこのお話を読んでからこの本を読み始めるのもありだと思うのです。
 ここでは、僕なりにこの本の紹介と同時にミルハウザー文学の紹介をさせていただこうと思います。先ずは、この本に納められている順番にお話を紹介したゆきます。

「シンバッド第八の航海」
「バーナム博物館の部屋やホールには、しばしば祭の雰囲気、冒険の予感が漂っている。・・・・・」「バーナム博物館」より

 アラビアンナイトの物語の中で、七回の航海を終えて、シンバッドは引退したことになっています。しかし、冒険=人生でもある彼に隠居の身がつとまるはずはなかったはずです。ということで、八回目の航海をミルハウザーは自分で描きました。ただし、八回目の航海のドラマと交互にシンバッド・シリーズの謎の多い原典についての解説がマニアックに行なわれています。同じ物語にも様々なバージョンがあり、さらにそれを読む人によって、それらの物語はまったく異なるものとして心に残る。これが文学のもつ重要な要素であることに改めて気づかされるはずです。

「テクストを読む行為にはつねに制限が伴い、偶然の要素が含まれている。二つとして同じ読書はない。この意味では、航海は読者の数だけ存在することになる。・・・・・」
「シンバッド第八の航海」より
「ロバート・ヘレンディーンの発明」
「私たちのことを十分に理解している人々は、バーナム博物館とは一種の逃避手段ではないか、と非難したりする。表面的な意味においては、まったくその通りである。バーナム博物館のなかに入るとき、私たちは、私たちを外の世界に結びつけているすべての絆から物理的に解放され、日光と死の領域をしばしばのあいだ逃れることができるのだから。・・・」「バーナム博物館」より

 「博物館」同様、「小説」という存在もまた人生からの一時的な逃避場所かもしれません。しかし、人生から逃避しながら、自らの想像行為によって新たな世界を創造することもまた可能なのではないか?そして、それを職業として、生活する「アーティスト」と呼ばれる人々もまた、はなるかな昔から存在するのです。
 「ある種の天才は、表現媒体を用いること無しに、それを具現化することができるのではないか」そう思い込み、それに自ら挑戦した少年の物語、それが「ロバート・ヘレンディーンの発明」です。「究極」ともいえる創造、想像行為の果てに少年はどこにたどり着くのでしょうか?
 けっしてこの物語は、ありえないことではないはずです。「天才」と呼ばれた人々の多くは、自らこの境地に到達し、それでもなお現実世界とのつながりを失わずに帰還することができた数少ない存在なのかもしれないのですから・・・。

「その構想が生まれるまでの一週間、僕はある問題について考え込んでいた。つまり僕は、芸術における行き詰まりには二種類あって、その両者を明確に区別するべきではないかと思ったのだ。一方の種類の行き詰まりにおいては、想像力はいつまで経ってもおぞましい空白のままである。・・・・・
 だが第二の行き詰まりにおいては、想像力は一貫して強靭である。いや、おそらくは強靭すぎるのである。この行き詰まりを抱え込んだ者の苦悩は、その綿密なる想像物に具体的な形を与えるべき媒体が見つからないという点にある。結果としてはやはり無しか生じないために、表面的には第一の行き詰まりに似ているが、こちらの方が望みはずっと大きい。・・・・・」

「ロバート・ヘレンディーンの発明」より
「アリスは、落ちながら」
「ある人々にとっては、博物館に足を踏み入れるときこそがもっとも悦ばしい瞬間である - 悦ばしい世界へひと思いに飛び込み、はるか向こうの出入り口が招く声を聞くときこそが。またある人々にとっては、徐々に道に迷ってしまうこと、ホールからホールへとさまようなかで、もう元には戻れないのだという思いに捉えられることこそが最高の快楽である。・・・・・」「バーナム博物館」より

 「アリスは、落ちながら」は、タイトルでもわかるように「不思議の国のアリス」のパロディーです。ただし、このお話はアリスが穴に落ちて落下状態にある時に見た眺めとその時の心の内を描写したもので、ドラマチックな展開はいっさいありません。ただただ「落ちる」ことについての考察が行なわれています。
 「落ちる」とは、この物語においては冒険の始まりですが、同時に最も危険でスリリングな瞬間でもあります。「不思議の国のアリス」のお話は、ほんのわずかの間にアリスが見た夢なわけですが、「眠りにつく瞬間」を「意識が落ちてゆく」と感じる方は多いと思います。そう考えれば、それが意識下への落下と考えるのはそれほどおかしな例えではないでしょう。ただし、その落下がいつまでも続くのがこのお話です。いかなる冒険が始まるのか?それを予感させ想像させ続けるある意味、究極の冒険ともいえるのがこのお話なのです。
「青いカーテンの向こうで」
「バーナム博物館の館内をさまよっていると、私たちは時たま、私たちのように意のままに博物館から出たり入ったりすることのできない人々の存在に気づいて、はっとさせられることがある。・・・」「バーナム博物館」より

 初めて一人で映画館に入った少年がカーテンの向こうで見た不思議な世界を描いたのがこの「青いカーテンの向こうで」です。少年の想像力と映画という想像の産物がお互いに関りあうことで生み出された世界とは?誰もが、かつて少年時代に感じたり、見たりした覚えがある懐かしい瞬間がそこにはあります。

「・・・カーテンの向こうにいる人々は、子供だましの動く絵本や、銀色のクリップで台所に吊るされた細長いグレーのネガなんかとは、全然別ものだった。彼らは僕の人生の届かないところで、高められた生を生きていた。どこかまったく違った、輝かしい、魅惑的な、到達不可能な領域で。」

「・・・・・でも僕にもだんだんとわかってきた。僕の存在は、無視されるどころか、彼らを鼓舞し、より壮麗に彼ら自身となるように刺激しているのだ。そう、実は彼らも、、見つめられる必要をひそかに感じているのではないだろうか?・・・・・」
「青いカーテンの向こうで」より
「探偵ゲーム」
「バーナム博物館にはいくつ部屋があるのか、考えれば考えるほどわからなくなってくる。・・・・・」「バーナム博物館」より

 この博物館の部屋は常に増改築が行なわれているため、その全体図は存在しません。そんな部屋の平面図をもとに物語を作り上げているのが、「探偵ゲーム」です。実在のボード・ゲームにおいて展開されるドラマとそのゲームを行なっている人々の心の内を交互に展開させるという異色の物語です。
「セピア色の絵葉書」
「空飛ぶ絨毯、魔法のランプ、人魚、笑い鬼等々を収容する華やかな部屋やホールに混じって、時おりいささか趣を異にする部屋に私たちは行きあたる。私たちはそこに、古いペンキや油の缶とか、使い古しの手桶に入った、あちこちに緑のしみがついた園芸用手袋とか、壁に立てかけた錆びた自転車などを見出す。・・・・・
・・・・・なるほどバーナム博物館は不思議の殿堂である。だが私たちには、いわば不思議からの息抜きも時に必要ではないだろうか?・・・・・これがこの種の部屋をめぐる一般的解釈であるが、ここにはさらに深い意味を読みとることも可能なように思われる。なぜならこれらごく当たり前の事物の姿は、バーナム博物館の数々の驚異に混じって突如私たちの眼前に現れるとき、その像が目に定着する直前の一瞬、その奇異さでもって私たちをはっと驚かせるからである。こう考えれば、これら何の飾りももたぬ部屋も、不思議の殿堂を中断するものではない。それらもまた、不思議それ自体なのだ。」
「バーナム博物館」より

 「セピア色の絵葉書」は、田舎町、ブルームを訪れた主人公がその町にある不思議なアンティーク・ショップ「ブラムショー稀書店」で出会った不思議な絵葉書のお話です。バーナム博物館の支店のようなその店では、ノスタルジックな思い出を専門に扱っているようです。ここではないどこかに行きたい人にとって、救いの町、それがブルームなのです。

「・・・私がここに来たのは、ここがそこではないからだ。ここにいるのは、ここがどこかほかの場所だから、このブルームという場が、・・・つまり要するに、ブルームという場だからである。私はこの場所をありのままに受け入れる心積もりなのだ。かんかん照りだろうが、霧雨だろうが。」
「セピア色の絵葉書」より
「幻影師アイゼンハイム」
「ある一派は主張する。バーナム博物館のさまざまなな驚異はみな、一見いかにも機械的に説明できそうに見えるように、計算ずくの展示がなされているのだ、と。それに誘われて説明を企ててみると、一応納得は行くもののやはりいまひとつしっくり来ない説明しか思いつかない。・・・・・」「バーナム博物館」より

 映画化もされ話題になったこの小説は、この作品集の中でももっともエンターテイメント性にあふれた文句なしに楽しめる作品です。スティーブン・ミルハウザーが、自らの描き出す理想の世界を「バーナム博物館」という建物に凝縮したように、ここでは著者は自らの存在を幻影師アイゼンハイムという天才イリュージョニストとして描き出しているのでしょう。もちろん、「バーナム博物館」もまた人間たちによって運営されている施設です。しかし、把握するもののない複雑かつ不可思議なその施設を運営するには、どれだけの人、どれだけの優れた才能が関っていることか?

「運営者たちをはじめ、研究者、年代記編者、公文書係、タイピスト、連絡係、会計士、法律顧問。驚くべきは館内で働く人々の数ではない。彼らが自分の人生のいかに大きな部分を博物館のなかで送っているか、それこそが驚嘆に値する。この魔法の領域にじわじわ溶け込んでいくことによって、彼らはだんだん違った人種になりつつある・・・そんな雰囲気さえ感じられる。・・・・・」「バーナム博物館」より

 ここまでくると「バーナム博物館」が生き方そのものであり、宗教的な施設としての色合いを帯びてくるのも当然でしょう。

「博物館の隠者たちを、時おり館内に住みつこうとするただの浮浪者や乞食と混同してはならない。・・・隠者というのは、博物館に永住することを許された、厳しい戒律に従って生きる小集団である。・・・・・」「バーナム博物館」より

 しかし、著者の作品すべてに通じるのは、彼はけっして自らの生み出した世界を神格化したり、高尚な芸術扱いしたりしないことです。

「バーナム博物館のさまざまな特質のひとつとして、ある種の卑俗性がそこに存在することは認めねばなるまい。建築様式の毒々しさ、一部の展示品に備わる性的アピール、展示室の数の臆面もない過剰ぶりなどに、その卑俗さは歴然と現れている。・・・なぜなら、ほかならぬそうした奔放な、厳粛なるものとは無縁の雰囲気があってはじめて、博物館は凡庸さを逃れ、そのもっとも挑戦的な展示物において美と高揚とを達成することができるのだから。」「バーナム博物館」より

映画「幻影師アイゼンハイム」(監)(脚)ニール・バーガー(出)エドワード・ノートン、ポール・ジアマッティ
 映画化版では、原作にはない主人公の恋の物語を中心に置いていますが、それも違和感はなく、期待以上の作品に仕上がっています。これはなかなかの掘り出し物です。昔から短編、中編を映画化すると監督の才能により上手くお話が膨らんで傑作になる場合が多いのですが、この作品もその成功例の一つといえると思います。
 この映画のモデルとなっているのは実在のマジシャン、ロベール・ウーダンという「近代マジックの父」と呼ばれる人物です。彼から始まった近代マジック黄金時代の英雄たちのことについては、ここから
「バーナム博物館」
 「バーナム博物館」は、この本の全体の見取り図であるだけでなく、彼が発表してきたすべての作品の原点であるともいえます。
「迷宮」「不思議」「冒険」「博物館」「逃避」「想像力」「魔法」「幻影」「ノスタルジー」「人形」・・・・・スティーブン・ミルハウザー文学のすべてを取り揃えた「バーナム博物館」、一度入ったらその迷宮から抜け出せなくなる可能性もあるので、くれぐれも入館の際はお気をつけ下さい。
 それでは、いってらっしゃい!

「バーナム博物館に子供を連れていくことはかならずしも楽しい体験ではない。それゆえ親たちのなかには、子供抜きで、大人のみが知る憧れ、単調さ、そして幸福とに導かれるまま、眩惑的な館内を自由に歩き回ることを好む者も多いのである」
 ただし、それはあくまでもお話の世界の出来事ですからあまり真剣に考えないこと!
「バーナム博物館の敵たちは言う。あそこの展示物はみなインチキだ、と。・・・・・」


バーナム博物館 The Barnum Museum 1990年
(著)スティーブン・ミルハウザー Steven Millhauzer
(訳)柴田元幸
福武書店

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