硫黄島に散ったオリンピックの英雄


- 西竹一(バロン西) Baron Nishi -
<英雄「バロン西」>
 クリント・イーストウッド監督の傑作「硫黄島からの手紙」をご覧になった方なら、主人公の栗林中将に匹敵する英雄的存在として「バロン西」こと西竹一のことを覚えているのではないでしょうか。(演じていたのは伊原剛志でした)彼は日本にオリンピックの馬術競技で初めて金メダルをもたらし、海外でも「バロン西」として英雄的扱いを受けた人物です。でもなぜ、彼はそこまで世界的な人気者になったのでしょうか?一度、馬術で金メダルを獲った選手なら、他にもいっぱいいるはずです。硫黄島の戦闘中にアメリカ軍が、バロン西に対して名指しで投降するように呼び掛けたという伝説が生まれるほど、彼のアメリカでの人気が高かったのはなぜなのでしょう?
 確かに彼はイケメンでした。そのうえ、若くして大企業の社長になり、高身長(175cm)、高学歴(日比谷高校卒で士官学校卒)、ダメ押しにあだ名ではなく本物の「男爵(バロン)」なのです。それだけでも十分に英雄的存在でしょう。でも、それだけでは海外で英雄にはなれないはず。いったいどんな人物だったのでしょう?

<英雄の子として>
 西竹一が英雄的存在となるには、その生い立ち以前に彼の父親のことから話を始める必要がありそうです。彼の父親、西徳二郎は鹿児島の出身で明治維新の後、ロシアに留学し外交官となりました。公使としてサンクトペテルブルクで働き始め、男爵の称号を授けられました。その後もその能力を買われて明治政府の重要なポストを歴任。駐清公使時代、義和団事件の処理をする際、西太合の信頼を得ることに成功。中国茶の専売権を与えられます。それが彼に巨万の富をもたらすことになりました。
 徳二郎は結婚し、二人の子供ができましたがいずれも病死してしまいます。そんな中、側女との間に生まれたのが竹一でした。必然的に、彼がその後継者となるはずでしたが、まだ彼が10歳の時、突然徳二郎がこの世を去ってしまいます。彼は若くして「男爵」となり、巨額の資産を受け継ぐことになりました。

<馬術、そして愛馬との出会い>
 男爵になったとはいえ、まだ彼はわがままに育てられたガキ大将でした。学習院初等科卒業後は、府立一中(現都立日比谷高校)に入学。軍国主義化する時代の影響もあり、広島陸軍地方幼年学校に入校します。そして、そこで馬術競技と出会うことになりました。彼は騎兵第一連隊に入隊し、本格的に馬術を学ぶことになります。
 1925年、習志野乗馬会の障害に出場した彼は、いきなり2位となり、さらには、日本ではまだ誰も飛び越えたことがなかった2m10cmの障害を飛び越えることに成功します。(世界記録は1m45cmだったといいます)
 当然ながら、彼は1932年開催のロサンゼルス・オリンピックの出場メンバー14名に選ばれます。そこで彼がどの馬で出場するかを悩んでいると、イタリアのピネローロ騎兵学校に留学中だった先輩の今村少佐から手紙が届きます。
「障害が得意ないい馬がいるが誰か買わないだろうか?」という内容でした。
 彼は半年間の休暇をとると、横浜からアメリカへと向かいます。(半年も休暇をとれること自体、まだいい時代でした)それはオリンピックの舞台となるロサンゼルスを下見するためでした。その後、彼はアメリカをそのまま横断し、船でヨーロッパへと向かいます。もちろん、彼は自腹で旅を続けていたのでしょう。この時、同じ船に乗り合わせていた、ハリウッドの大スター、ダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻と知り合い、その後も長く付き合いが続くことになります。
 イタリアに着いた彼は、さっそく目的の馬を見に行きます。血統書がなく、背が高すぎ(1m81cm)たため、ウラヌスという名のその馬は約1000円と比較的安い値段で売られていました。といっても、当時の1000円は公務員の初任給が75円だったことを考えるとそうとうな金額です。軍はそこまで高額の馬を購入することは許可してくれなかったため、彼は自費でその馬を購入します。そして、そのままウラヌスに騎乗してヨーロッパ各地で行われる馬術大会に出馬し、好成績をあげます。彼はこうして、理想の馬と出会いオリンピックに向けた準備が整ったのでした。

<ロサンゼルス・オリンピック>
 1932年、ロサンゼルス・オリンピックは、オリンピックの東京開催を目指していた日本にとっては重要な大会でした。当然、多くの選手は結果を求められ、期待に応えて多くの選手がメダルを獲得しました。(日本は前回大会の3倍にあたる131人を出場させました)
陸上では、棒高跳の西田修平(銀)、走り幅跳の南部忠平(銅)、三段跳の南部忠平(金)大島鎌吉(銅)
水泳では、100m自由形の宮崎康二(金)河石達吾(銀)、1500自由形の北村久寿雄(金)牧野正蔵(銀)、100m背泳ぎの清川正二(金)入江稔夫(銀)河津貫太郎(銅)、200m平泳ぎの鶴田(金)小池礼三(銀)、400m自由形の大横田勉(金)、男子800m自由形リレー(金)、200m平泳ぎの前畑秀子(銀)
そして、ホッケーの銀メダル(3チームした参加していませんでしたが・・・)
 実は、この大会は1930年に世界を襲った世界恐慌の影響により、それまで右肩上がりで増えていた参加国が減り、参加選手の数も大きく減少した大会でした。前回のアムステルダム大会が46カ国の参加で2694人が出場していたのに対し、この大会の参加国は37で出場者の数も1328人に減っていました。このことが日本にとって有利に働いたことは確かです。
 ただし、そんな状況下でもオリンピックにおける馬術競技の価値は、現在より遥かに高かったのは間違いありません。その証拠に、当時、馬術競技は競技全体の花形であったため、閉会式の直前に行われていました。それは元々オリンピックが、大衆レベルのスポーツ大会ではなく、貴族や軍人たちのためのスポーツ大会だったことの名残でした。それだけに馬術競技の優勝者に与えられる賞賛は、現在よりもはるかに高く、金メダリストの人気もまた別格だったのです。まして、戦争が身近にあった時代、軍人たちにとって最大の人気スポーツは、まだ馬術だったのですから。
 こうして、ロサンゼルス・オリンピックの馬術競技も多くの注目を集めながら大会最終日に行われることになっていました。

<馬術競技始まる>
 1932年8月14日ロサンゼルス・オリンピック最終日、いよいよバロン西とウラヌスの出番がやって来ました。全長1050mのコースに置かれた19の障害を規定時間内に飛び越える大障害は「優勝国賞典競技」(プリ・デ・ナシオン)と呼ばれる名誉ある種目でした。
 参加国は、日本、アメリカ、スウェーデン、メキシコの4カ国。アメリカは連盟規則に定められた最大限の高さの障害を設置し、総距離も短く、過去にない難コースを準備していました。おまけにコースは前日の夜に作られ、出場者は事前練習どころかどんなコースかもわかりませんでした。
 当日のスタジアムは、そこで行われる予定の閉会式を前にしていたこともあり、10万5000人であふれかえり超満員になっていました。こうしてレースは始まります。レースは以下のように進んで行きました。
(1)メキシコ代表の選手は、第8障害を越えられずに失格
(2)アメリカ代表の選手は、第11障害を越えられずに失格
(3)日本の今村少佐は、落馬により失格
(4)スウェーデン代表の選手は、減点16ながら初の完走に成功
(5)メキシコ代表の選手は、第2障害を越えられず失格
(6)アメリカ代表の選手は、減点24で完走
(7)日本の古田少佐は練習中にケガをしたため棄権
(8)スウェーデン代表の選手は、第10障害を越えられず失格
(9)メキシコ代表の選手は、第8障害を越えられずに失格
(10)アメリカのホープ、チェンバレン少佐は、12点の減点で見事に完走
(11)西選手は、減点8と文句なしのトップで完走
(12)スウェーデン代表の選手は減点50.5で完走制限時間をオーバーして失格
 これで「バロン西」の金メダルが決定し、会場では地元の選手が負けたにも関わらず「バロン・ニシ!」コールが巻き起こりました。

<まさかの金メダル?>
 実は、当時、西が金メダルを獲ることは予想されてはいませんでした。そのため、中継の予定もなく閉会式の中継に来ていたアナウンサーは、西の金メダルに大慌てとなります。スタジオから急きょ競技を見ることなく、さらには馬術の知識も少ない中、なんとか放送を行ったようです。
 新聞記者も、あわてて「ニシユウショウ」の報を日本に送ったものの、「ニシジュウショウ」と誤解され、日本では一時かなり混乱したようです。しかし、そんな中、行われた優勝の記者会見で彼は周囲からの称賛の声に対し、静かに「We Won (我々は買った)」と言ったそうです。カッコイイ!
 バロン西は、一躍アメリカでも英雄扱いされることになり、アメリカの大手自動車会社パッカード社は彼にゴールドの特別仕様車をプレゼント。ロサンゼルス市は彼に名誉市民を称号を授与。彼もさっそくゴールドのパッカードに乗って、ハリウッドに住むダグラス・フェアバンクス夫妻の家を訪ねるなど話題を振りまきました。アメリカには、貴族や男爵、伯爵という称号がないので、「バロン」という称号を持つ人物というだけでも憧れの存在になりえたという話もあります。
 日米開戦を前に当時、すでに日本とアメリカの関係は悪化し始めていました。そのため、在米日系人の間では、日本選手への応援はいまひとつだったといいます。彼らの多くはアメリカこそ世界一の国、という思いが強かったのです。ところが、西をはじめとする自分たちと同じ日本人の選手たちがオリンピックで大活躍する姿を目の当たりにして、彼らの日本人としての誇りに火が付いたとも言われています。

<その後のバロン西>
 1936年、彼はウラヌスに騎乗し、ベルリン・オリンピックにも出場しましたが、結果は惨敗でした。ウラヌスはすでに17歳と競走馬としては高齢すぎたようです。それでもなお彼は、1940年に開催される予定だった東京オリンピックの代表メンバーに選ばれます。ウラヌスは役目を終え、彼は別の馬に乗って出場する予定でした。しかし、日中戦争が始まると、すぐに馬術の出場メンバーは大陸への進攻のため、オリンピックへの出場を辞退。西は戦車部隊の連隊長として北満州に向かい、ウラヌスは騎兵学校に寄贈されます。
 1941年12月、日米開戦となり、彼は南方戦線への転属を命じられます。一度日本に帰国した彼は、馬事公苑でウラヌスに別れを告げると硫黄島へと向かいます。太平洋戦争における最大の激戦地となった硫黄島には、西と同じ騎馬兵出身の栗林中将に率いられた2万3千の兵が集結。司令官から玉砕することなく、最後まで粘り強く戦うことを命じられていた兵士たちは、一か月以上にわたりゲリラ戦を続け、圧倒的な軍事力をもつアメリカの攻撃に耐え続けます。
 しかし、最終的に島はアメリカ軍によって占領され、西はそこで死を迎えることになりました。それは1945年3月22日だったと言われています。そして、彼の後を追うように、それから数日後の3月28日、名馬ウラヌスもまたこの世を去ったのでした。
 まるで出来過ぎた物語のように、「バロン西と呼ばれた男」の生涯はこうして終わりを迎えたのでした。


<参考>
「近代オリンピックのヒーローとヒロイン」 2016年
池井優(著)
慶應義塾大学出版局

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