- FCバルセロナ、ジョゼップ・グアルディオラ -

<FCバルセロナ、世界最強のチーム>
 2010年代、世界のサッカー界の頂点に君臨しているスペイン代表チーム。その中心となってるのは、FCバルセロナの選手たちです。2012年、バルセロナはスペイン・リーグでの優勝は逃したものの、スペイン代表はユーロを制覇し、スペインとバルセロナの黄金時代がまだまだ続いていることを証明してみせました。
 それにしても、なぜバルセロナは、ここまで強いのでしょう?
 というわけで、ここでは、バルセロナ以前の「世界最強サッカー・チームの歴史」を学びつつ、FCバルセロナの強さの秘密に迫ろうと思います。

<FCバルセロナというチーム>
<メイン・スタジアム>カンプノウ・スタジアム(99000人収容)
<運営母体>クラブ会員(ソシオ)14万人の会費。市民クラブであり、クラブ会長は選挙によって選ばれる。
<創設>1899年
 バルセロナに仕事で来ていたスイス人、ハンス・ガンパーが仲間を募集したのが始まり。彼は後にジョアン・ガンペールとカタルーニャ風の名前に変え、クラブをカタルーニャ地方の象徴的存在にしてゆきます。フランコ独裁政権時代にはカタルーニャ語の使用は禁止されていましたが、唯一カンプノウ・スタジアム内だけは許されていたといいます。
<施設>カンプノウ・スタジアムの周りには、バスケット場、アイススケートリンク、ミュージアム・ショップ、オフィシャル・ショップ、クラブ事務所などがあります。
 専門チャンネル「バルサTV」があり、小学生の試合までテレビ放映している。
<チームの年代別構成>
 トップ・チームとして、バルセロナA、バルセロナBがあり、その下部チームとしてユースチーム(カンテラ)があります。(カンテラとは石切り場のこと)
 U20(フベニール)U18(フベニールB)U16(カデッテ)U14(インファンティル)U12(アレビン)U10(ベンハミン)それぞれにAチーム、Bチームがあります。
 特筆すべきことは、育成チームの選手たちは、年代や体格などに関係なく、まったく同じ考え方、同じ戦術に基づいて練習をしているということです。たとえ小学生チームでも、彼らはトップ・チームのコピーともいえるプレー・スタイルを持っているのです。

「日本でも世界でも、地方特有のダンスや音楽などの伝統的な芸能を継承していますが、バルセロナが誇る独自のサッカーを継承するための施設がカンテラなのかもしれません。」
「FCバルセロナ 世界を征したスペイン・サッカー」(著)西部謙司

<最強チームの歴史>
 ここでは、FCバルセロナ以前、世界のサッカー界のトップに位置していた各時代ごとの最強チームを振り返ります。
 世界最強チームの元祖は、やはりサッカーの母国イングランドです。サッカーが世界的に行われるようになった1920年代から1930年代にかけてのイングランドは、まさに敵なしの状態でした。その強さは今のバルサの比ではなく、アウェーを別にすると、彼らがホームのウェンブリーで負けることはなく、なんと1953年にハンガリーに敗れたのが最初だといいます。ただし、サッカーの母国であるという誇りと世界最強であるという自信から、イングランドはFIFAやワールドカップの存在を認めず、そのためにサッカーの進化に遅れ始めることになります。
 1930年代から1940年代にかけて、オーストリア代表はワールドカップの優勝こそないものの、戦争さえなければ、この時代に優勝したはずの最強チームだったといわれています。彼らは「ブンダー・チーム」(驚きのチーム)と呼ばれていました。ナチス・ドイツによって占領されてしまったことで、彼らは栄光を逃した悲劇のチームでした。
 1940年代は、アルゼンチン代表と同じアルゼンチンのクラブ・チーム、リバープレートの時代だったといわれています。当時のリバープレートは、「ラ・マキナ」(機械)と呼ばれるほど、次々に得点をあげる最強のチームでした。この頃、南米のアルゼンチン、ヨーロッパのイングランドは、プレー・スタイルも似たライバル・チームとして世界のトップに君臨していました。
 1950年代は、ハンガリー代表の黄金時代でした。プスカシュ、コチシュ、ボジクらを擁し、4−2−4という戦術をいち早く導入。クラブ・チームとしては、資金力があり海外から多くの優秀な選手を集めていたレアル・マドリードの黄金時代でした。当時のレアルは、デ・ステファノ、サンタマリア、プスカシュなど、サッカー先進国であるアルゼンチンやハンガリーの選手からなる最強チームで、誕生したばかりのヨーロッパ・チャンピオンズ・カップでは第一回からV5を達成しています。
 1960年代は、ブラジル代表がペレを中心に最強だった時代です。ペレとガリンシャ中心のブラジルは、1958年、1962年のワールドカップ連覇し、世界最強の地位に着きました。ここから、「サッカー王国ブラジル」というイメージが生まれたといえます。
 1970年代は、オランダ代表と同じオランダのクラブ・チームであるアヤックスの時代でした。先ずは、クラブ・チームのアヤックスがチャンピオンズ・リーグを制し、そのメンバーを中心にオランダ代表もレベルアップ。もちろん、その両方の中心にいたのが、ヨハン・クライフでした。彼らは、「フライング・ダッチマン」と呼ばれ、その影響は21世紀のバルセロナにまで続くことになります。
 1980年代は、イタリア、セリエAの名門チーム、ACミランの時代でした。名匠サッキ監督率いるミランには、イタリア最高のDFフランコ・バレージを中心に、オランダ代表の中心メンバー、ルート・フリット、マルコ・ファンバステン、フランク・ライカールトという最強攻撃陣が終結していました。それはオランダのプレッシングと攻撃力、イタリアのカテナチオ(ゾーンディフェンス)を融合させた当時、最新の戦術をもつチームだったといえます。ただし、イタリア的で守備的なチームであることに変わりはなく、それに対するアンチとして、その後、クライフはスペインを舞台に攻撃的な戦術をもつ新たなチームを育ててゆくことになります。

<FCバルセロナ>
<クライフ時代>
 「トータル・フットボールの父」リヌス・ミケルスがいち早くオランダのプレッシング・サッカーを導入していたバルセロナに招かれた彼の弟子でもあるヨハン・クライフは、3シーズン目にリーグ優勝を達成すると、その後、リーグ戦4連覇とチャンピオンズカップにも優勝し、黄金時代を築きました。彼にとって有利さったのは、監督就任の前年、会長のヌニェスと選手たちとの対立から、多くの選手が退団してしまったことです。そのおかげで、彼は自分の理想とする選手たちを数多くメンバーに加えることができたのです。こうしてバルサには、ロナルド・クーマン(オランダ)、ミカエル・ラウドルップ(デンマーク)、フリスト・ストイチコフ(ブルガリア)、ロマーリオ(ブラジル)ら、そうそうたる顔ぶれが集まることになります。
 彼はその後、8シーズンの長きに渡り監督を務めますが、しだいに会長のヌニェスと対立するようになります。そして、2シーズン無冠が続いたこともあり、チームを去ることになりました。クライフの時代には、まだカンテラは十分に機能していなかったので、彼の望む選手をチーム内で育てることはできずにいました。そのため、チーム力は海外からの移籍組みの出来不出来によってどうしてもばらついていたのです。
<ボスマン判決>
 1995年、サッカー界を大きく変える出来事が起きます。ユーロ内の選手移籍を自由化させるボスマン判決です。それまでチーム内には外国人枠というものがありましたが、この判決によりユーロ内の選手に関してはこの外国人枠が適用されなくなったのです。これにより、資金力のあるチームは、今まで以上に優秀な外国人選手を抱えることが可能になり、資金力のあるバルサは多くの優秀な外国人選手を抱えることが可能になりました。ただし、そうした移籍組み外国人選手がチームの目指す戦術に合っている保障はなく、よそへの移籍もまた増えることで、チームは常に安定せず、クライフが目指していた「トータル・フットボール」とは程遠いものになりつつありました。
 そこで呼ばれたのが、クライフの弟子でもあったオランダ人監督ルイス・ファン・ハールでした。彼はクライフの路線を復活させ見事にリーグ戦を連覇します。ただし、この時期のV2を支えたのは、リバウド(ブラジル)、クライファート(オランダ)、ルイス・フィーゴ(ポルトガル)らの移籍組みで、チームの底上げにはつながっていませんでした。
 危機感を抱いていたファン・ハールは、チームのその後を支えることになる選手育成のための学校「カンテラ」をより重視するようになります。そして、この時期にカンテラで学んだ中から、シャビ、プジョル、イニエスタらのその語のスターたちが誕生することになります。
<ライカールト時代>
 2003年、チームの会長が親クライフ派のジョアン・ラポルタに変わったことから、クライフの愛弟子であるフランク・ライカールトが監督に就任します。そして、ここからいよいよバルサのクライフ回帰が本格化。さらにチームには、ロナウジーニョ(ブラジル)、デコ(ポルトガル)、エトー(カメルーン)らが加入。再び黄金時代が始まります。2004〜2005、2005〜2006とリーグ連覇と2006〜2006にはチャンピオンズリーグも制覇しています。しかし、ロナウジーニョは、バルサのプレー・スタイルには向いていませんでした。そのうえ、彼はスーパースター病にかかり、夜遊びが過ぎて数年でパフォーマンスを落とし、3年目にはミランへと移籍。その後、彼のパフォーマンスに寄りかかっていたバルサもまた成績を落とし、ライカールト時代は終わりを迎えることになります。
<グアルディオラ時代>
 そして、その後を受けたのが、バルセロナBの監督を務めていたグアルディオラでした。彼はカンテラ出身でクライフ時代の中心選手であると同時にカンテラの指導もしていたバルサの申し子ともいえる存在でした。彼はそれまでトップ・チームを指揮した経験はなかったものの、彼が育ててきたカンテラ出身の選手を中心に生え抜きメンバーによるバルサの黄金時代が訪れようとしていました。(プジョル、シャビ、イニエスタ、バルデス、そしてメッシ)そして、そこからバルサは、2008年から2011年にかけて、リーグ3連覇を果たします。
 なぜ、そこまでバルサは強いのか?ここからはその秘密に迫ります。

<バルサのプレー・スタイル>
 ジョゼップ・グアルディオラの率いる現在のバルセロナのサッカーは、サッカーというよりバスケットボールに似ているかもしれません。相手が音を上げるまでパスを回し続け、攻撃に次ぐ攻撃でゴールを重ねていきます。(バスケットボールには、シュートを撃つまでの制限時間がありますがサッカーにはそれがないので、いくらでもパスを回すことが可能です)
 バルサのサッカーの基本はパス・サッカーです。自分たちでパスを回し続け、すきができた瞬間にそこにピンポイント・パスを通してシュートに持ち込む。この繰り返しを90分間続けるのが彼らのプレースタイルです。そして、このプレースタイルはかつてこのスタイルの基礎を築いたサッカー界のレジェンド、ヨハン・クライフの言葉に基づくものです。

「われわれのやり方で、ボールを70パーセント程度支配できれば、80パーセント程度の試合に勝つことができる」
ヨハン・クライフ

 ボール・ポゼッション70%がそう不思議な数字ではないのがバルサ・サッカーの凄いところです。もちろん普通のチームなら敵にボールを持たされてボール・ポゼッションが60%を越えてもシュートが全然撃てないということもありえます。2012年ロンドン・オリンピックで日本がスペインを破った試合はまさにそんな試合でした。日本はポゼッションでは圧倒されましたが、シュート数や決定的チャンスの数ではスペインを上回り、勝つのが当然の内容でした。従って、パス回しが上手いだけでは試合には勝てません。そこには、もうひとつ何かが必要なはずです。

<パス・サッカーで勝ために必要なこと>
(1)技術的に優れたプレーヤーをもつこと(もちろん、チームの戦術にフィットしたテクニックでなければ意味がありませんが・・・)
(2)優れた戦術を全員で共有できること
 例えば、バック・パスの多用。無理にパスして奪われるくらいなら、バック・パスをして、キーパーを含めたバックラインでボールを回し、再度チャンスを待つ方が得点の可能性が高まる。そのため、バルサではゴールキーパーもまた攻撃の要となりうるのです。
<攻撃的守備>
 素早いパス回しとチャンスを見つける戦術眼、そしてそれを支える確かな技術。これはバルサの攻撃的サッカーの基礎といえます。ただし、それは攻撃だけでなく守備にも当てはまります。バルサの守備における最大の特徴、それはボールを奪回する早さにあります。彼らは相手からボールを奪うのが非情に早いのです。
・・・バルセロナは多くの試合においてボールを失った5秒後にはほぼ回収してしまいます。
・・・これはバルセロナがボールを奪われる前に、敵陣に押し込んで「数的有利」を作り出しているからです。(敵はパスの出しどころがない状態にあります)
 バルセロナが最初に狙っているのは”ボールのある場所”から守り、できればそこでボールを奪い返してしまうことなのです。

 そんなに有効性が明らかなら、なぜ他のチームもマネをしないのでしょうか?
(1)体力の消耗
  この守り方は体力の消耗が激しく90分間続けることは不可能です。しかし、バルサのように70%ボールをポゼッションしていれば30%(27分)ですむのです。
(2)攻撃的守備
  ボール奪取に失敗すれば即失点のピンチになります。しかし、バルサのようにコンパクトなラインの押し上げにより、敵陣深くに攻め込んでいれば危険は少ない。
(3)押し上げを防ぐ
  バルサはノートップで両サイドに人を配置することにより、サイドからプレッシャーをかけることで敵ラインの押上を防いでいる。逆に彼らは敵陣30mにまで押し込むと、ペナルティーエリア内を目指しフォワードの役割に変身します。
 バルサのセンターバックは、ピケ以外みなサイドバックもできる選手です。さらにカウンター・アタックに対応できるよう動き出しのスピードがあります。もちろんパスをミスすると、それだけで失点につながるので技術レベルも高い選手ばかりです。
(4)ボランチの重視
  クライフ監督時代のグアルディオラ以降、ボランチ(クアトロ4番の選手)は、センターサークルを中心にした位置で司令塔として機能することを求められるようになりました。その後はセルヒオ・ブスケツがその役を引き継ぎ、ピンチになる前にその芽をつぶす重要な役割を果たしている。

<バルセロナの苦戦>
 残念ながら、2011〜2012年バルサはリーグ優勝を逃しました。(レアルが優勝)直接的な敗因の一つとしていえるのは、バルサが引き分ける試合が増えたことです。その理由は、対戦相手のチームが危険覚悟でハーフライン近くの高い位置で守る戦法をとったからとも言われます。(最初にその戦術を用いたのは、ベンゲル監督率いるアーセナルだった言われています)
 さらに開始15分以内に、バルサがパスによるビルドアップの感覚をつかむ前にボールを奪って一気に得点を狙うというやり方も増えたようです。これはスペイン代表チームのようにパス回しを身上とするチームすべてに対する有効な戦術といえます。
 バルセロナを倒すには、やはり同じポゼッション・サッカーをより高度に完成させなければならないのでしょうか?2012年のヨーロッパ選手権でイタリア代表は、それまでの「カテナチオ」スタイルを捨て、スペイン式の攻撃的パスサッカーを展開し、世界を驚かせました。さらにスペイン・リーグでバルサを征したレアル・マドリードもまたバルサのスタイルに近い戦術を取ったといわれています。今後、この流れは世界標準となってゆくのでしょうか?
 しかし、近い将来また新たなサッカー戦術が世界のどこかから生まれてくる、そんな気もしています。サッカーとは、いつまでも想像力によって革新され続けるべきスポーツなのですから。

<参考>
「FCバルセロナ 
世界を征したスペインサッカー - 誕生の物語
- FCバルセロナその栄光の軌跡 -
2012年
(著)西部謙司 Keiji Nisibe
ちくま新書、筑摩書房

スポーツ関連ページへ   サッカー関連ページへ   トップページへ