1845年〜1958年

- アレクサンダー・カートライト、ヘンリー・チャドウィック・・・-

<野球の普及の原点はジャガイモ飢饉>
 アメリカにおいて野球が普及した大きな理由として、アイルランドで起きた「ジャガイモ飢饉」があるといいます。1845年から5年にわたり猛威をふるった「胴枯れ病」というジャガイモの病気は、ジャガイモを枯れさせただけでなく、それを食べて生きていたアイルランドの人々100万人の命を奪いました。隣国イギリスは、そんなアイルランドの危機に救いの手をさし延べず、100万人のアイルランド人は母国を捨てて移民の道を選びました。(アイルランドのイギリスに対する恨みは、後のアイルランド紛争に繋がることになります)
 この時の移民の多くが新天地として選んだ国がアメリカでした。移民の国アメリカには、当時まだまだ広大な未開の土地がありましたが、その支配者層のほとんどはいち早くアメリカに住み着いたイギリス系の白人(WASP)でした。イギリスの植民地だったアイルランドからの移民たちは、再び支配される側にならざるをえない状況でした。そのうえ、彼らのほとんどはジャガイモしか育てたことがなく、おまけに財産ももたなかったため、ニューヨークに上陸しても、西へと移動できず、その街で肉体労働者として働くしかありませんでした。
 こうして、ニューヨークの街には多くのアイルランド人が住み着くことになり、彼らが野球の普及に大きな貢献をすることになります。ただし、「野球」の発明者はアイルランド人ではありません。彼らの支配階級に位置するイギリス人のアレクサンダー・カートライトという人物でした。偶然ことに彼が野球を始めた年もまた1845年でした。

<野球誕生>
 「ジャガイモ飢饉」が始まったのと同じ1845年、ニューヨークに住むアレクサンダー・カートライトは、ボランティアの消防隊メンバーたちで「ニッカボッカー・クラブ」という組織を立ち上げ、親睦のために野球というスポーツを楽しみ始めます。それは、クリケットから生まれたタウンボールというスポーツを改良したものでした。そして、それが後に「野球 Bseball」と呼ばれることになります。
 「タウンボール」というスポーツは、当時女性たちが愉しむスポーツとして知られていて、ボールの投げ方も現在のソフトボールの投法に近かったようです。ゲームとしてのルールもほとんどなく、単に親睦のために愉しむだけの遊びだったようです。それをカートライトは、きちんとしたルールを決めてゲームとして勝敗を決められるスポーツへと進化させたわけです。そのルールは、タウンボールを愉しみながら改良を重ね時間をかけて生み出したもののようです。当初は、ボールをランナーにぶつければアウトとしていたのを、ベースで待つ選手にボールを先に渡せばOKとしたり、塁と塁の距離はどのくらいがいいのかを統一したり、攻守交替のアウト・カウントはいくつがいいのかを決めたり、ボールやバットはどんな素材で大きさはどう規定するかなど・・・。
 ここでちょっと気になるのは、なぜクリケットではなく、「タウンボール」となり「野球」になっていったのか?ここも根本的な疑問です。

<なぜクリケットは普及しなかったのか?>
 イギリス伝統のスポーツ、クリケットは今でもインドなどの旧植民地では人気のスポーツですが、なぜかそれ以外の国には普及しませんでした。その理由は、そのまま野球がアメリカで普及した理由でもあります。(注)ここでひとつ重要な問題があります。そもそも野球は世界的なスポーツでは決してないということです。日本人の我々にとっては、野球はメジャーなスポーツですが、世界的なレベルで見ると、その普及は東アジアと北中米が中心でオリンピック競技にもなっていません。
 アメリカ人がクリケットに飛びつかなかった最大の理由は、まずそれが一日で終わらない場合もある長い試合時間を必要としていることでしょう。それは上流階級の人々が暇な時間を使うために作られた競技のため、ルールも複雑で大衆向けとはいえませんでした。それ以上に、そもそもクリケット界は上流階級のスポーツである貴族のための文化を一般大衆にまで広める気がなかったことともいえます。
 それに比べると、「タウンボール」から進化した野球は、アメリカに住む労働者階級の人々が自分たちのライフ・スタイルに合わせて自由にルールを改良できたのですから、普及するもの当然でした。そうした大衆化の歴史は、ラグビーから分かれて急激に普及し今や世界最大の競技人口を誇るまでになったサッカー(フットボール)の歴史と似ているといえます。ラグビーが大学生や上流階級の紳士のスポーツとして発展する中、大衆がよりシンプルなサッカーへと流れていったのがイギリスにおけるサッカー発祥の歴史です。
 こうして労働者のためのスポーツとして発展を開始した「野球」ですが、それは労働者が好むルールを取り入れると同時に、彼らが好む「賭け」の文化も取り込んでしまいます。こうして、「サッカー」同様未だに「八百長問題」がなくならない下地が誕生してしまったわけです。そして、その中心となった労働者階級の大衆の多くがアイルランド人だったのです。

<野球の普及へ>
 歴史上最初の野球の試合は、1846年6月19日にそのニッカボッカーズとニューヨークスというチームにより行われたといわれます。当時、アレクサンダー・カートライトが立ち上げたニッカボッカーズは、ニューヨークの中心にあるマンハッタン島ではなくハドソン川を隔てた対岸のホーボーケンにある公園をホームグラウンドにしていました。
 この時期になると、いよいよルールも決まり、スコアブックまで誕生し、ほぼ現在の野球に近いものになっていたようです。しかし、それを楽しむのは経済的にも時間的にも余裕のある中流階級以上のWASPがまだほとんどでした。
 意外なことに、野球の生みの親カートライトは、この時点で野球の歴史から消えてしまいます。1849年、彼はアメリカ中で一大ブームとなったゴールドラッシュの波に乗り、カリフォルニアに移住してしまったのです。そして、彼に代わり野球を普及させる原動力のとなる人物として新聞記者ヘンリー・チャドウィックという人物が現われます。現在では、彼こそが「野球の父」とアメリカでは呼ばれています。その最大の理由は、彼が野球界の不正と常に戦い続けることで、野球はなんとかスポーツとして評価される威厳を保つことになったことでアメリカの国技といわれることになったからです。野球の普及は、野球の不正を正す歴史だったともいえるのです。そこで登場するのが、そんな野球界の不正の中心となったニューヨークの裏社会です。

<ギャング・オブ・ニューヨーク>
 ここで野球の歴史の中にニューヨークの街の歴史が登場します。なぜなら野球を発展させた街ニューヨークの歴史は、そのまま野球の歴史と連動しているからです。特に重要なのが、その裏社会を支配した「ギャング・オブ・ニューヨーク」こと「タマニー・ソサイエティー」の存在です。イタリアのシシリー島からの移民を守るために生まれた組織がマフィアだったように、アイルランドからの移民たちを守るために生まれたのが「タマニー・ソサイエティー」でした。彼らの存在を描いた映画「ギャング・オブ・ニューヨーク」は、ニューヨークの街の歴史を描いただけでなくアメリカの裏面史として重要な歴史大作でした。
 1789年、アイルランド人ウィリアム・ムーニーという人物が発足させたのが「タマニー・ソサイエティー」です。その後、この組織のトップとなったウィリアム・トゥイードにより、急激に発展してゆきます。
 当初この組織はアイルランド人移民の権利を守るための互助会的な存在として活動していましたが、その後はその組織を利用して選挙に影響力を及ぼすようになり、「タマニー・マシーン」と呼ばれる集票団体となりました。そうなるとニューヨークの市政に対する影響力がどんどん大きくなり、その力を利用して、警察官などの公務員職をアイルランド人移民に斡旋するようになります。ついには賄賂や公的資金の横領にまで手を出すようになり、組織として莫大な資金を貯めこむようになると、もう歯止めが利かなくなりました。ここまでくると、ほとんどマフィアと同じのようなギャング組織だったといえます。賭博や酒の密売でも稼ぐようになると、必然的にボクシングや野球の八百長にも関わるようになります。
 タマニー・グループの一人、元プロ・ボクサーのジョン・モリッセイは、トロイ・ヘイメーカーズという野球チームを作ります。もちろんそのチームは、八百長を当然のように行い、野球賭博によって大金を稼ぐようになります。メジャーの名門ニューヨーク・ジャイアンツの前身となるこのチームには、八百長疑惑が常にあり、1958年にサンフランシスコに移転してニューヨークを離れるまでその歴史は続くことになります。

<「エクセルシアーズ 優れし者たち」>
 1854年、アイルランド人が多く住むニューヨークの下町ブルックリンに「エクセルシアーズ(優れし者たち)」というチームが誕生します。このチームのエース・ピッチャー、ジミー・クレイトンは、誰よりも速い速球を武器に大活躍し、初めて観客を喜ばせる見せるスポーツのスーパー・スターとして人気者となりました。そして、このチームは全米各地やカナダにもツアーを行い、メンバーはその後、各地のチームに招かれることになります。こうして野球は全米へと広まっていったわけです。

<ワールドシリーズの原点>
 1858年7月20日、ニューヨーク代表チーム(NY北部)とブルックリン代表チーム(NY南部)による試合が行われました。実力的に全米最強チーム決定戦だったこともあり、これが後のワールドシリーズの原点だといわれています。
 この試合の入場料は50セントで、なんと4万5千人もの観客を集めたそうです。なお、この試合では入場する前に確実に観客から入場料を集めるため、球場の周りに柵が設けられました。そしてこの「柵」の登場により、「柵越えの4塁打」として「ホームラン」が誕生したわけです。

<アメリカ野球年表>
1860年 「タマニー」のトップ、ウィリアム・トゥイードをオーナーとするチーム、「ニューヨーク・ミューチャルズ」誕生。「Mutual」とは、「共同」、「相互」を意味します。
1861年 南北戦争勃発(ニューヨーク近郊からこの戦争に参加した兵士たちの多くが野球を同僚の兵士たちに広めることになりました)
「ウォンズリー事件」
1865年9月27日、ニューヨーク・ミューチャルズとブルックリン・エックフォーズの試合において、八百長事件が発覚します。
 ミューチュアルズの捕手ウィリアム・ウォンズリーが賭博師のケイン・マックローリンから八百長の指示を受け100ドルを受け取ります。彼は自分ひとりでは八百長は不可能と考えて、チームメイト二人を仲間に引き入れてミューチャルズを負けさせます。八百長がすぐに発覚し、3人は球界から追放されます。
 しかし、当時、八百長は他にも日常茶飯事のように行われていたこともあり、いつの間にか3人は球界に復帰してしまいます。
 野球界がプロ化され始めたことで、各選手はお金を稼がなければならなくなり、それが八百長の増加に結びついたようです。
「エースの誕生」
1869年 シンシナティ・レッドストッキングスの右投げ投手エイサ・ブレイナードが年間60勝以上の勝ち星を挙げ、これ以後、チームの大黒柱となる投手を「エイサのようだ」と呼ぶようになります。「Asahel」の名はその後、「エース」と縮められるようになり、そこから「エース・ピッチャー」という言葉が生まれることになったようです。
 このチームは当時、唯一のプロ野球チームだったこともあり、全米各地で連戦連勝だったことから、なおさら彼の名前が全米中に広まったとも考えられます。
(一部「チコちゃん」に聞いた情報です!)

1870年 チャンピオン決定戦となったミューチュアルズとアトランティックスの試合が、試合前「八百長によりミューチュアルズが勝つ」と地元紙によってすっぱ抜かれます。
それほどあからさまに八百長が行われていたということです。さすがにこうなると多くの野球ファンが野球から離れてゆきました。そして、球界内部からも、このままではまずいとして、改革を求める動きが始まります。

1871年 ナショナル・アソシエーション National Association of Professional Baseball Players(NAPBBP)が10球団で発足。球界を刷新すつための第一歩でした。
 この時、アイルランド系移民と黒人が対立していたことから、選手の加盟について黒人を排除。ここから白人と黒人が異なるリーグでプレーする歴史が始まります。
 最初の10チームは、「ニューヨーク・ミューチャルズ」「ボストン・レッドストッキングス」「ブルックリン・エックフォーズ」「フィラデルフィア・アスレチックス」「トロイ・ヘイメーカーズ」「シカゴ・ホワイトストッキングス」「クリーブランド・フォレストシティーズ」「ロックフォード・フォレストシティーズ」「フォートウェイン・ケキオンガズ」「ワシントン・オリンピックス」

1872年 アメリカ人教師、ホーレス・ウィルソンが東京で初めてベースボールを行いました。(野球が日本へ)
1873年 タマニー・ソサイエティーのトップ、ウィリアム・トゥイードが204もの罪状により、12年の刑を受けることになります。政界からの不正一掃の波により、ついに「タマニー帝国」の崩壊が始まります。

1876年 ナショナル・リーグ誕生。
 八百長事件など不正が多発して人気が低迷した野球界を立て直すため、新たなリーグとして発足。しかし、この後も事件が多発し厳しい運営が続くことになります。参加チームは、「ニューヨーク・ミューチャルズ」「ボストン・レッドストッキングス」「シカゴ・ホワイトストッキングス」「ルイビル・グレイズ」など。しかし、翌年、早くもルイビル・グレイズが八百長事件によりリーグから除名されてしまいます。さらには、八百長ができないために「旨み」がないと判断したミューチュアルズが自らリーグを脱退。やれやれって感じです。

1879年 ナショナル・リーグに新たにシラキュースとトロイが参加。その中の「トロイ・ガムサムズ」は、悪名高いトロイ・ヘイメイカーズが母体となったタマニー一派のチームでした。そして、この怪しいチームが1885年にあの名門ニューヨーク・ジャイアンツになります。これまた、やれやれって感じです。

1884年 新組織として、ユニオン・アソシェーション発足。ナショナル・リーグがあまりに不正に厳しかったことから、それに反発する選手たちが作った組織でしたが、長続きせずに崩壊。

1890年 新リーグ、プレイヤーズ・リーグ誕生。これもまたタマニー派が中心となった不正横行推進?のためのリーグ。

1896年 日本で初の国際試合が開催される。一高対横浜外人倶楽部

1901年 アメリカン・リーグ誕生。20世紀の始まりと同時に、メジャー・リーグの現在に至る体制が始まったといえます。このリーグは、ルール遵守を基本とするアンパイア中心に立ち上げられたリーグでした。ここから、ナショナル・リーグとの競合によりメジャー・リーグは大きく発展することになります。

1903年 日本では初の早慶戦開催。日本では早稲田と慶応というアマチュアの2チームのライバル関係が野球の発展を牽引してゆくことになります。ここでアマチュア・チームが歴史を作っていったことが、日本の野球にアマチュアリズムを根づかせ、八百長などの不正が少ない状況を育てることになりました。

1903年 アメリカン・リーグのボルチモア・オリオールズがニューヨークに移転し、ニューヨーク・ヤンキースとして再スタート。マンハッタンの丘の上に「ヒルトップ・パーク」を建設。ジャイアンツとヤンキースのライバル関係が始まります。
「ブラックソックス・スキャンダル」
1919年のワールドシリーズでシカゴ・ホワイトソックスの選手、シューレス・ジョー・ジャクソンら8名が八百長を行った事件。8名は野球界から永久追放となりました。
映画「フィールド・オブ・ドリームス」(1989年)で描かれた亡霊たちは、この事件のメンバーでした。

1920年 ボストン・レッドソックスからベーブ・ルースがヤンキースに引き抜かれます。
 レッドソックスのオーナーだったハリー・フレイジーが劇場経営に失敗。その赤字を埋めるために売ったといわれています。実は、その他にも多くの選手がヤンキースに移籍し、1923年のヤンキース・メンバー24人中11人はレッドソックスからの移籍組みでした。そして、この年からの10年間にヤンキースは6回優勝し3回全米ナンバー1になりました。

1923年 メジャー・リーグのシンボル的存在となる「ヤンキー・スタジアム」が完成。(ブロンクスのマンハッタン寄り)

1934年 ベーブ・ルースがオール・アメリカンを率いて来日。親善試合を行いました。

1958年 ニューヨーク・ジャイアンツがサンフランシスコ・ジャイアンツとして、再スタートを切る。タマニー派とのつながりを断ち切ることになります。

<メジャー・リーグの歴史は不正の歴史>
 メジャー・リーグの歴史をこうしてざっと追ってみると、それは「野球の歴史」というよりも「八百長撲滅の歴史」のようにも見えてきます。そして、その不正との闘いの歴史は20世紀に入ってからも続き、なおかつ21世紀になった今もなお、薬物使用問題として続いているといえます。この薬物使用の問題は、今後さらに大きな問題となる可能性があり、今までのメジャーリーグ記録の信憑性が疑われる事態になるでしょう。
 もうひとつメジャー・リーグの人気に大きな影響を与えてきたのが、労使闘争によるストライキです。この二つの問題により、20世紀末にメジャー・リーグは危機的な状況に陥った時期がありました。多くのファンが離れていったその時期に登場した野茂英雄イチローは、そんなメジャーの人気低迷を救う救世主となりました。彼ら二人がメジャーとは異なる野球文化の国である日本から来ていたのは必然だったのかもしれません。
 自由主義の国、アメリカにおける野球は、放っておけばどうしても、「スポーツマン・シップ」からは離れてゆく運命にあると考えるべきでしょう。そのことは、野球だけではなくアメリカという国全体にもいえることかもしれません。自由主義とは、弱肉強食の世界であり、勝つためには反則でさえなければ、なんでも有りと考えられます。だからこそ、アメリカという「モラル」のない国は、外からの血によって民主主義を常に補強し続ける必要があるのかもしれません。

<参考>
「野球とニューヨーク 黒い球運を生んだ移民都市」
 2011年
(著)佐山和夫 Kazuo Sayama
中央公論新社

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