民主主義の女神は親日だった!

「日本国憲法」

- ベアテ・シロタ・ゴードン Beate Sirota Gordon -
<ベアテ・シロタ・ゴードン>
 ベアテ・シロタ・ゴードンという女性のことをご存知ですか?
 彼女は日本国憲法において、男女平等、教育の機会均等などを宣言した部分の原案を作成した歴史上重要な人物です。
 「シロタ」と言うミドルネームですが、彼女は日系人ではありません。しかし、彼女と日本の関係は、憲法以前から深いものがありました。にも関わらず、彼女の名前が日本であまり知られていないのには理由があります。先ずは、彼女が日本と関わることになったその生い立ちから始めましょう。

<偉大なピアニストの娘>
 ベアテ・シロタ・ゴードン Beate Sirota Gordon は、1923年10月25日オーストリアに生まれました。父親は、ロシア、キエフ生まれのユダヤ人レオ・シロタ。彼は「リストの再来」と呼ばれるほど有名なピアニストで、世界各地に演奏旅行に出かけていました。その演奏旅行の途中、彼はシベリアまで足を延ばし、満州のハルビンでも演奏を行いました。その時、偶然、ハルビンを訪れていた作曲家の山田耕作がその演奏を聴き感動。すぐに山田は彼を日本に招き、演奏を行ってほしいと依頼します。
 当時、ヨーロッパでは第一次世界大戦後の不況が続いていましたが、逆に戦場から離れていた日本はそのおかげで好景気で、彼を招くだけの経済的余裕がありました。さらに当時多くの芸術家たちが日本文化「ジャポニズム」に憧れの気持ちを持っていたので、シロタも日本文化を知る良いチャンスと考えたようです。こうして、彼は日本で一か月に及ぶ演奏旅行を行い、その間日本の文化と日本人の性格が大いに気に入りました。そんなところに、山田から上野の音楽学校で教授として教えて欲しいという依頼があったため、彼はその申し出を受ける決断をします。

<ベアテ、日本へ>
 1929年、レオ・シロタは家族を連れて再来日し、東京芸術大学音楽学部でピアノを教え始めます。この時、ベアテはもう生まれていて、5歳半での来日となりました。そして、彼女は大森にあったドイツ人学校で学び始めます。ところが、ナチ党の教師が学校で「ハイル・ヒトラー!」を強要し始めたことから、ユダヤ人の彼女はその学校をやめて、アメリカン・スクールで学び始めることになりました。こうして、ロシア語、ドイツ語、フランス語だけでなく英語、ラテン語、スペイン語、そして日本語を話せる語学力を身につけることになりました。様々な言語を知ることで彼女はユダヤ人としての迫害、外国人としての差別だけでなく、様々な立場で世界を見るようになります。
 この後、第二次世界大戦が近づき、ヨーロッパが危険な状態になりつつあったことから、彼女はヨーロッパではなくアメリカへと留学。サンフランシスコ近郊のミルズ・カレッジという女子大で学び始めます。ところが、彼女がアメリカで学ぶ間に事態は急変。太平洋戦争が始まってしまいます。そして、ユダヤ人であるシロタ家は軽井沢で収容生活を余儀なくされることになりました。
 父親からの仕送りが無くなったため、彼女は生活費を稼ごうと、アメリカの放送局CBSで日本語短波放送を聞き取り英訳する仕事を始めます。軍事用語についての知識がなかった彼女はその翻訳に苦労しますが、持ち前の語学力を生かし、自力で勉強し実績を積み上げて行くことになりました。
 1943年、彼女はミルズ・カレッジをトップの成績で卒業。日本語の語学力を生かして、「戦争情報局」で日本向け宣伝放送の台本を書く仕事につきます。その後、ニューヨークに引っ越した彼女は、雑誌タイム内で日本に関する記事のための調査係を任されます。

<再び日本へ>
 第二次世界大戦終結後、家族と早く会いたい彼女は、日本で働ける仕事を探しました。日本語を話せる彼女のような人材は貴重だったため、GHQに応募すると即採用され、再び彼女は家族が待つ日本へと向かうことになりました。
 1945年12月24日クリスマス・イブに日本に着いた彼女は、GHQで日本を民主化するための部署、民政局で働き始めます。この時、日本に入国し駐留を始めたアメリカ兵20万人のうち、女性はわずか60人ほどでした。
 彼女が民政局で担当したのは、戦犯の公職追放、選挙制度改革、公務員制度改革、地方自治改革など政治機構全般にわたるインフラ作りなどでした。当時、その部署の中心で作業を行っていたのは、「ニューディーラー」と呼ばれる人々でした。それは大恐慌時代にアメリカを救ったニューディール政策に関わったグループのメンバーで民主党の中でも左翼的な思想の持つ人々が中心でした。このことが日本の戦後政治にとって非常に大きな影響を与えることになります。この時、アメリカがもし共和党政権下だったら、日本の戦後政治、そして日本国憲法はまったく違うものになっていたはずです。例えば、トランプ大統領のアメリカとバイデン大統領のアメリカ、その違いを考えれば、占領下の日本がどれだけ大きな影響を受けることになったかが予想できるはずです。

<日本国憲法>
 民主化を進める上でアメリカが最も重要視したのが、その基本となる民主的な新憲法の制定でした。民主化の基礎がそこに盛り込まれていなければ、民主的な政治を根付かせることは不可能なのです。そこでアメリカ政府は日本政府に民主的な新憲法の制定を進言します。しかし、日本政府がその解答として示した新憲法の素案は戦前の大日本国憲法と大差ないものでした。そこでは「国民」という言葉すら使用されず、天皇の子供たちという意味の「臣民」という言葉が相変わらず使われていました。それでは相変わらず日本は天皇制のままであることを示すことになります。そのため何度もGHQの総司令官マッカーサーはその書き直しを求めますが、できてきた草案はどれも大差のないものばかりでした。このままでは作業が進まない。そう判断したマッカーサーはついに民政局に草案作りを任せます。
 2月4日、民政局のメンバーが集められ、2月12日までの9日間で新憲法の素案を完成させるよう指示がなされたのでした。この時、作業メンバーに選ばれたのは、わずか25人。そのメンバーが7つの小委員会に分けられ、立法、司法、行政、人権、地方行政などを担当することになりました。そしてこの時、ベアテが任されたのは、「人権」に関する委員会3人のうちの一人です。彼女はその中でも特に「女性」、「教育」を専門的に扱うことになりました。
 ここで重要なのは、彼らが行おうとしていた仕事は極秘だったことです。日本国憲法の草案が日本人ではなく外国人によって草案を作られ、それをもとに制定されたことが明らかになれば、どれだけ批判されることになるか!それは明らかでした。そのため、彼ら関係者は人数を限って選ばれ、それを誰にも知られずに遂行する必要があり、作業終了後も50年間は事実を秘密にすることを誓約させられました。だからこそ、彼女の名前はほとんど知られていないわけです。

<作業開始>
 憲法をゼロから作る作業にどこから取り組むべきか?何を基本にすればよいのか?チームはそこから大いに悩むことになりました。そんな中、彼女は幻となったドイツのワイマール憲法とソビエト憲法を参考にします。(あきらかに左翼的な憲法ですが)
 ただし、あまりにそれまでと違うものでは日本人に受け入れられないこともあり、基本的には明治憲法の構成を生かすことになっていました。それと国際連合の国連憲章にも沿うことが求められてもいました。しかし、そうした形式上の問題だけではなく、彼女には内容的にこだわりたい部分がありました。それは当時日本ではほとんど顧みられていなかった男女平等の問題です。彼女がそこにこだわったのには理由がありました。
 子供時代から10代の半ばまでを日本で過ごしていた彼女は、身近にいた家のお手伝いさん達から、様々な苦労話を聞いていました。それらの話から、彼女は日本における女性の地位の低さについての知識を持っていて、是非とも憲法に男女平等について盛り込みたいと考えていたのです。
 今では信じられませんが、戦前の日本では、女性は選挙に立候補できないどころか、投票権すら与えられていませんでした。少なくとも、女性に参政権をもたらすことは実現したいと彼女は考えていました。
 そうした考えが盛り込まれることで、日本国憲法の草稿は誕生したのでした。もちろん彼女がいなくても、日本国憲法は誕生していたはずですが、その内容に男女平等や教育の平等などが、そこまで明記されることになったかどうか?少なくてもそこに彼女が弱き者たちのためにという願いを込めたことだけは確かだと思います。

 「憲法改正草案要綱」はこうしてわずか1週間で作られ、1946年1月1日には発表された後、様々な改定・修正を行い1947年5月3日(憲法記念日)から施行されることになります。
 最後に彼女が主に関わった部分について書き出しておきます。

<法律の基本>
 法律は3つの構造から成立しています。一番上には「憲法」があります。その下に「刑法」、「民法」、「商法」などがありますが、その間に「基本法」があり、憲法とその他の法律をつなぐ役目をしています。例えば、「教育基本法」はその一つです。
<婚姻についての平等>
 それまで婚姻については、あくまでも男が中心で、男尊女卑が基本でした。それに対し・・・
第24条「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」
(1)婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
(2)配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

<生きる権利についての平等>
 それまで日本国民は政府から、誰にも生きる権利があるということを保証されてはいませんでした。
第25条「生存権、国の社会的使命」
(1)すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
(2)国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」

<教育を受ける権利の平等>
 戦前までは、高度な教育を受けるには、多額のお金が必要不可欠でした。それに対し、国が責任をもって教育を受ける権利を保障すると宣言します。
第26条「教育を受ける権利」
(1)すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」

<労働に権利と義務の平等>
 それまでほったらかしだった労働条件の法制化についても、国の規制が行われることになりました。さらに児童の労働についても記述されます。
第27条「勤労の権利及び義務、勤労条件の基準、児童酷使の禁止」
(1)すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
(2)賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
(3)児童は、これを酷使してはならない。

<日本国憲法前文より>
 日本国憲法は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権利は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確保することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国民の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

<国民の責任>
 こうして国民にもたらされた憲法ですが、その権利を主張し守り、利用するには国民にもそれを守るための努力を求めます、という条項もあります。
 このことを我々は自覚しておかないと、政治家はいくらでもその内容を変えてくるでしょう。今も少しづつそれが行われているかもしれません。
 注意していないと!

第12条
 この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。

<参考>
「世界を変えた10人の女性」
 2013年
(著)池上彰
文藝春秋

20世紀異人伝へ   トップページヘ