映画「小さな恋の物語」とザ・ビージーズ

<懐かしの映画「小さな恋のメロディ」>
 1970年代に青春時代をすごした人には、懐かしい映画「小さな恋のメロディ」。当時、青春時代をすごした方なら、ビージーズが歌うテーマ曲「メロディ・フェア」を聴いただけで、誰もがあの頃のことを思い出してしまうのではないでしょうか。僕自身、「メロディ・フェア」、「若草の頃」、「イン・ザ・モーニング」は、当時あきるほど聞いたので、それらの曲を聞いただけで胸がキュンとしてしまいます。ところが、日本ではこの映画は大ヒットしただけでなく、一大ブームとなりましたが、本国イギリスやアメリカでの人気はそれほどでもなかったようです。音楽についても、ビージーズの曲がそれほどヒットしたというわけではありませんでした。というか、「メロディ・フェア」も「イン・ザ・モーニング」もシングル・カットされたのは日本だけだったのです!
 考えてみると、1970年代、日本でアイドルになり世界的なブレイクをしたアーティストはけっこういました。クイーン、ベイシティ・ローラーズ、チープ・トリック、ジャパン。どれもイギリスのアーティストでデビュー当初はアイドル・グループとして活動をスタートさせていますが、日本で最初にブレイクしたといわれています。当時、日本は今以上に外タレに弱い国でした。(そういえば、今、韓流ブームにはまっているオバサンたちも、この世代にませんはまるかもしれません)そして、ビージーズもイギリスのアイドル・グループ。もちろん、映画の主役の人気はビージーズ以上で、当時、「小さな恋のメロディ」の主役、マーク・レスター、トレーシー・ハイド、ジャック・ワイルドの人気は、後の大ヒット映画「タイタニック」の頃のディカプリオ並に凄かったと思います。(映画雑誌「ロードショー」の人気投票では、彼らの映画が公開されていなくても、何年も男優、女優の上位にいたものです)
 そんなわけで、この映画は日本で異常に人気が高かったわけですが、実は、当時ビージーズの人気自体は、危機的に低い状態にありました。そして、この映画が公開された1970年、ビージーズはヒット曲を出すどころか、活動そのものが休止状態にあり、解散の危機にあったのです。映画「小さな恋のメロディ」は、ビージーズにとって、最大の危機の時期に彼らの既成曲を使用して作られた作品だったのです。

<「イージー・ライダー」のお子様版>
 当時、この「小さな恋のメロディ」がヒットしたのには、若手俳優人の人気とともに、この映画のもつ反体制的な雰囲気も一役かっていました。1970年といえば、まさに70年安保の年です。当時、日本中が反体制運動の渦に巻き込まれていて、小学生の僕でも密かに学生運動に憧れている、そんな状況でした。そんな時代の空気の中で、この映画は反体制運動のお子様版として受け入れられたともいえます。
 既成の曲を用いて作られたこの映画は、新しい音楽映画としての側面もあり、1960年に公開され世界的なブームを巻き起こしていた「イージー・ライダー」の学園版、子供版と考えることもできます。アメリカの中でも特に保守的な南部を旅する主人公たちがバイクに乗ってアメリカを去り天国へと旅立っていったように、この映画では若い二人が保守的な名門学校からトロッコに乗って未来へと旅立ってゆきます。

<音楽から生まれた映画>
 先日、ある番組で「小さな恋のメロディ」を特集してました。その中で主演のトレーシー・ハイドが、この映画の製作過程について説明していました。彼女によると、この映画は、すでに発表されていたビージーズの曲「メロディ・フェア」を下敷きにして、当時まだ無名だったアラン・パーカーがオリジナル脚本を書いた作品だったそうです。映画が完成してから、既成の曲を選んで完成させた「イージー・ライダー」とは、その点では大きく異なることになります。
 映画の撮影が始まる前、彼女はまず「メロディ・フェア」などの曲を聞かされ、この曲のイメージで撮影に入ってほしいとい言われたそうです。それだけに、彼女は21世紀に入った今も、「メロディ・フェア」のイントロを聞いただけで、すぐに映画の撮影に参加していた日々のことを思い出すことができるといいます。そう言いながら「メロディ・フェア」を聞いているうちに涙を流した彼女の横顔はまだまだ十分に魅力的でした。

<ビージーズ誕生>
 ビージーズのメンバー、バリー・ギブ、ロビン・ギブ、モーリス・ギブは、それぞれ1947年9月1日、1949年12月22日(モーリスとロビンは双子)にイギリスの本土ではなくマン島で生まれました。その後、一家はマンチェスターに移住。兄弟は10歳になる前にタレント・コンテストに出場し、ロックバンドを結成します。しかし、末っ子のアンディが生まれると家族は今度ははるか遠くオーストラリアに移住します。
 移住先のオーストラリアでも音楽活動を続けていた3人は、スピードウェイに設けられていたステージでレースの合間に演奏を行っていました。すると、スピードウェイの経営者ビル・グッドは、彼らの歌を気に入り、友人のDJビル・ゲイツに彼らのデモ・テープを渡しました。これがきっかけとなり、彼らはラジオやテレビの番組に出演するようになり、1963年、オーストラリアのレコード会社フェスティバルと契約。デビュー・シングル「三つのキス」はいきなりヒット・チャートの20位にランクイン。この時、彼らは、長男のBarry Gibb、恩人のBill Good、Bill Gates3人の名前から、Bee Geesというグループ名を考えたようです。1966年には、彼らはオーストラリアで人気ナンバー1のバンドとなっていましたが、そうなると彼らの夢は母国イギリスでの成功に向かいます。こうして、彼らは1967年、イギリスでの成功を目指し、イギリスに帰国。すぐにレコード会社と契約を交わします。この時、彼らのオーディションを担当したのが、その後、彼らと大きな関わりをもつことになるプロデューサー、ロバート・スティグウッドでした。

<イギリスでの解散危機>
 ビージーズのイギリスでのデビュー・アルバム「ビージーズ・ファースト」はいきなり全英チャート8位にランクイン。さらにそのアルバムからは「ニューヨーク炭鉱の悲劇」、「ラブ・サムバディ」、「ホリディ」がシングル・ヒット。彼らは一気に人気ポップ・アイドルの仲間入りを果たしました。しかし、若くして成功したアイドルにありがちな危機がこの後訪れることになります。
 当時、ビージーズは、3兄弟に加えて、ドラムのコリン・ピーターセン、ギターのヴィス・メロニーという二人のオーストラリア人メンバーもいましたが、いつしかバンド内は分裂し始め、まずは兄弟以外の二人が脱退。ロビンもまた他の二人から別れソロ・デビュー・アルバムの制作に入りました。分裂の原因は、誰が歌う曲をシングルにするか、など、ヴォーカル・グループならではの対立が中心でしたが、他人ではなく兄弟だったことが、亀裂をより深くさせたようです。1970年、残された二人は新生ビージーズとして、ニュー・アルバム「キューカンバー・キャッスル」を発表しますが、まったく売れませんでした。この時点で、残された二人も、それぞれソロ・アルバムの準備に入り、ビージーズは事実上解散していたといえます。そんな危機の中、彼らが1969年に発表していたアルバム「オデッサOdessa」の中に収められていた曲「メロディ・フェア」をもとにした映画の製作が行われつつありました。(アルバム「オデッサ」は2枚組の大作で、彼らの自信作でしたが、メンバーの分裂により、シングル・カットは「若葉の頃」のみに終わっていました)

<映画「メロディ・フェア」>
 若手のプロデューサー、デヴィッド・パットナムと新進監督のワリス・フセイン。そして後に「フェーム」や「ザ・コミットメンツ」など音楽映画の傑作を数多く撮ることになるアラン・パーカー(脚本担当)は、前述のようにビージーズの「メロディ」をもとに一本の青春映画を製作。そのタイトルには、そのまま彼らの曲のタイトル「メロディ」を用いました。もし、当時彼らがグループとしてまとまっていたら、この映画は本国でも大ヒットしていたかもしれません。それでも彼らは1971年、3人での復活を目指し再スタートを切ります。
 1971年のシングル「傷心の日々」は大ヒットとなり、ついにアメリカでもヒット・チャートのトップに立ちました。これを機に彼らはいよいよ夢のアメリカ進出へと向かうのでした。考えてみると、彼らが解散前に出したシングルが「若葉の頃」、解散危機の後でブレイクしたシングルが「傷心の日々」というのは、実に象徴的です。

<第二期黄金時代そしてあの映画へ>
 アメリカでの成功を目指した彼らは、彼らにとっての恩人ロバート・スティグウッドがアメリカで立ち上げたRSOレコードと契約。1974年のアルバム「メイン・コース Main Couse」では、アトランティック・レコードの名プロデューサー、アリフ・マーディンが参加。それまでの美しいハーモニーに当時ブレイク寸前だったディスコのリズムを導入。シングル「ジャイブ・トーキン」は2枚目の全米No1ヒットとなりました。このアルバムからは「ブロードウェイの夜」も全米7位のヒットとなりました。
 1976年、彼らはアルバム「Children of the World」を発表。このアルバムからもディスコ・ナンバー「You Should Be Dancing」がナンバー1ヒットとなります。続くシングル「偽りの愛」も全米3位の大ヒットとなりました。これだけでも十分に凄い成功でしたが、彼らにはこの後さらなるブレイク・スルーの時代が訪れます。

<第三期黄金時代の到来>
 1977年、ディスコ・ブームに目をつけたロバート・スティグウッドは、自らプロデューサーとなって映画「サタデイナイト・フィーバー」の企画を立ち上げ、その音楽をビージーズに任せます。当初、彼らは映画の内容を知らなかったため、とにかく美しい曲をと思い、「愛はきらめきの中に」と「アイ・キャント・ハブ・ユー」の2曲を作りました。しかし、それがディスコを舞台にした映画であることを知り、あわててディスコ・ナンバー「恋のナイトフィーバー」と「ステイン・アライブ」の2曲を準備したそうです。
 すると、それらの曲は、シングルとしてどれも全米ナンバー1ヒットとなり、アルバムは15週連続ナンバー1という大記録を打ち立てます。これはそれ以前にビートルズが記録した14週連続ナンバー1の記録を塗り替えるものでした。
 この時点で彼らは世界最高の人気グループとなりましたが、それでもまだ彼らは進み続けました。1977年発売のアルバム「失われた愛の世界」もまた大ヒットを記録します。このアルバムからのシングル「失われた愛の世界」、「哀愁のトラジディ」、「ラブ・ユー・インサイド・アウト」は、どれも全米ナンバー1になり、さらに当時デビューしたばかりの、末の弟アンディ・ギブのデビュー曲からの3曲、「恋のときめき」、「愛の面影」、「シャドー・ダンシング」もまた連続ナンバー1ヒットとなっています。ソロ・デビュー曲から連続3曲ナンバー1という記録もまたそれまでなかった記録でした。ただし、アンディはあまりにも早すぎた成功の反動からか、その後、自らの方向性を見失い、1988年30歳の若さでこの世を去ることになります。華々しい記録はけっして彼らを幸せにしたわけではなかったのかもしれません。
 マン島からオーストラリアへ、そして再び英国へ、そしてアメリカから世界へ、彼らはその移住生活とともに確実にその評価と人気を高めてゆきました。それはまるで、アメリカン・ショービジネスの教科書のような展開でした。しかし、その成功の裏で彼らは兄弟内の葛藤やさらなる成功への不安を抱えていました。
 彼らの初期のナンバー「メロディ・フェア」には、その後彼らが世界最高のコーラス・グループになることや弟を失ってしまうことになることなど、混沌とした未来を予見させる雰囲気はまったくありません。それはあまりに純粋な青春時代の輝きに満ちています。だからこそ、その曲をもとに映画が作られたし、その曲は聞く者をごくごく自然に懐かしい「若草の頃」へとタイム・スリップさせてくれるのでしょう。

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