「プラハの春」と体操の女王、悲劇の歴史


- ベラ・チャスラフスカ Věra Čáslavská -
<コマネチ以前、最高の体操選手>
 僕は1960年に生まれたので、1964年の東京オリンピックの記憶はなく、1968年のメキシコ・オリンピックからリアルタイムでの記憶が残っています。日本が黄金期だった男子体操の記憶はあっても、女子の体操の記憶はそれほどありません。そのため、女王と呼ばれたベラ・チャスラフスカの演技に魅せられたという印象もあまり残っていません。それでも、コマネチ以前の女子体操の歴史において最高の選手と呼ばれたチャスラフスカの演技は何度も見た記憶があります。
 しかし、彼女がメキシコ・オリンピックで個人総合2連覇を達成していた頃、彼女の母国であるチェコスロバキアがソ連の占領下にあり、その事実を世界に訴えるために彼女たちがあえて地味な黒の衣装を選んでいたことはまったく知りませんでした。オリンピックは政治とは無縁でなければならないとされてきたものの、オリンピックは常に世界の政治状況から影響を受けてきました。メキシコ・オリンピックにおいても、チェコ・チームはソ連による占領の下でオリンピックに出場していたのでした。そんな状況下において、冷静に自分の演技を行い、金メダルを獲得したチャスラフスカの偉大さを当時の僕はまったく知りませんでした。思えば、当時はアメリカの黒人選手が表彰式で黒い手袋を掲げてブラック・パワーをアピールしたパフォーマンスが大きな話題となっていて、チェコ体操チームの勝利は地味な存在だったかもしれません。
 しかし、東京オリンピックでの活躍以来、彼女の人気は日本では非常に高く、彼女自身も日本という国を愛してくれていたようです。そんなこともあり、彼女の伝記が日本人ライターによって書かれることになりました。

「人々はその選手をオリンピックのチャンピオンだから記憶するのではない。彼(彼女)がその時代の雰囲気をどこかで体現し、象徴としての影を残すから記憶するのだ。・・・」
後藤正治

 ベラ・チャスラフスカとチェコスロバキア激動の時代を振り返ります。

<占領下に生まれた少女>
 ベラ・チャスラフスカが生まれたのは、1942年5月3日チェコスロバキア(当時)の首都プラハです。
 当時、プラハの街はナチス・ドイツの占領下にありましたが、それは「ミュンヘン協定」により西側諸国がチェコ(以下「チェコ」)を犠牲にしたためといわれます。(「チェコをあげるから、それ以上侵略しないでね」的な感じです)そのため、チェコの国民の西側諸国への憎しみは深く、それがソ連による解放後の共産化につながったともいえます。
 しかし、ガラス工芸など工業製品の輸出国でもあったチェコは、早くから民主化が進んでおり、音楽、文学、美術などの分野でも優れた人材が多く貧しい農業国が多い東欧諸国の中では異色の存在でした。
 彼女の父親はもともと商売人でしたが、収入はそう多くなく、サッカーのゴールキーパーとしても活躍するスポーツマンでした。そのため、3人姉妹と弟は幼い頃からスポーツに親しみ、ベラはフィギュアスケートとバレエを並行して始めた後、体操と出会うことになりました。

<体操との出会い>
 当時、チェコの女子体操はベルリン・オリンピックで団体銀メダルを獲得。1948年のロンドン・オリンピックでは団体で金メダルを獲得する黄金時代でした。その中心メンバーだったエヴァ・サボコワが、テレビのクリスマス番組に出演した際、後ろで体操する子供たちの中にいたベラに注目。彼女に声をかけました。
「あなたには素質があるわ。どう、私たちと一緒に体操をやってみない?」
 こうして、14歳のベラは世界最高峰の選手に認められて、体操の道へと進むことになったのでした。それから2年後の1960年、18歳になった彼女はローマ・オリンピックに出場。個人総合では8位に終わったものの、チェコ・チームは団体で銀メダルを獲得しました。
 僕も含めて、共産圏のスポーツ選手は国から給料をもらうある意味プロ選手であってアマチュア扱いするのはおかしいのではないか?そう思っている方は多いかもしれません。しかし、ほとんどの共産主義国のスポーツ選手たちは、国から支給されるお金だけでは生活できず、ほかに仕事を持っている場合が多いようです。チェコにおいて最も優遇されていたはずの体操競技でも、その状況は変わらず、ベラはタイプライターと速記の資格を取得し、体育協会で仕事をすることでなんとか選手生活を続けていたようです。彼女たちは決して仕事として体操をやっていたわけではなく、好きだからこそやっていたのです。

<オリンピックでの活躍>
 東京でオリンピックが開催された1964年、彼女はその実力はピークを迎えようとしていました。彼女はこの大会において「オリンピックの名花」と呼ばれ、大会を代表する人気者の一人となる大活躍をみせました。彼女はチェコの選手として初めて個人総合で金メダルを獲得し、その他種目別でも「跳馬」、「平均台」で金メダル、そしてチェコ・チームを率いて団体で銀メダルを獲得します。
 日本における彼女の人気はこの時に定着することになりました。彼女の試合にのぞむ姿勢や立ち居振る舞いのすべてが美しく、その礼儀正しい行動は日本人のメンタリティーにあっていたようです。
 彼女とチェコ体操チームの黄金時代は続き、1968年のメキシコ・オリンピックでも彼女は大きな期待を背負うことになります。しかし、そんな彼女たちに大きな壁が立ちはだかることになります。彼女たちの母国チェコにソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が侵攻してきたのです。(ソ連、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、東ドイツ)
 いったいなぜ、そんなことになったのでしょうか?

<「プラハの春」>
 チェコへの侵攻が始まるきっかけとなったのは、「プラハの春」と呼ばれた1968年のチェコにおける民主改革運動の広がりでした。
 1960年に国名を「チェコスロバキア社会主義共和国」に改め、ソ連を模範として計画経済、農業の集団化などの政策を進めたスターリン主義者でもあるチェコの指導者アントニーン・ノヴォトニーは、それが失敗だったことを思い知らされます。工業においては、他の共産圏の国に比べ高い工業力や美術的センスを持っていたのに、それらの優秀な才能は生かされなくなってしまいました。農業も輸出国としての力があったにも関わらず、集団化によりその効率が落ち、輸入国へと転落してしまいました。
 そうなると、チェコ国民はソ連寄りの共産党に対する批判をどんどん強めるようになります。そして、共産党内部の改革派が力をつけ、その中心人物アレクサンデル・ドゥプチェクが共産党の第一書記に選ばれることになりました。こうしてチェコ共産党の指導部は、政策の自由化を推し進め始めます。市場経済の導入、西側からの技術援助の受け入れ、スターリンによる粛清犠牲者の復権、検閲の廃止、公安警察の縮小、西側への旅行の自由化、言論・集会の自由の保障などが、改革のテーマとして打ち出されました。
 その改革を推し進めるために政府は、「二千語宣言」と呼ばれる共同声明を発表し、それには3万人もの人々が署名を行い、支持表明を行いました。もちろんその署名者中には、ヘルシンキ・オリンピックで5000m、10000m、マラソンで金メダルを獲得した「人間機関車」エミール・ザトペックとともにベラもいました。

<ソ連の侵攻>
 1968年6月27日にこの宣言が発表されると、ソ連の共産党機関紙「プラウダ」は、この宣言を「反革命的」と断じます。7月末には、ドゥプチェクらチェコ首脳とブレジネフ書記長との会談が行われますが、チェコの改革は止まらないとソ連側は判断します。そして、8月20日ついにワルシャワ条約機構軍20数万の部隊がチェコ国境を越えてプラハに向け侵攻を開始します。この時、チェコの国営放送は、ソ連の侵攻に抗議するための放送を続けながらも、ソ連軍に抵抗しないように呼びかけ続けました。そのおかげもあり、チェコでは内戦は起きず、抵抗活動による死亡者も少なくてすみました。(それでもプラハ市内では30数人が死亡しています)
 この後、ソ連はチェコ政府の首脳陣を次々に解任し、傀儡政権を作り上げます。1969年1月15日には、そうしたソ連の占領に抗議するため、カレル大学の学生ヤン・パラフがプラハ中心部のヴァーツラフ広場で焼身自殺するという事件が起きています。

<メキシコ・オリンピック>
 1968年のメキシコ・オリンピックは、ソ連による占領が始まったまさにその時期に開催されています。チェコ・チームは参加そのものが危ぶまれましたが、ぎりぎりでメキシコに到着します。当然、彼女にとっては、メダルへのプレッシャー以前に母国の状況への不安から精神的に厳しい大会だったはずです。しかし、そんなプレッシャーにもかかわらず、彼女はメキシコで大活躍をしてみせました。跳馬、段違い平行棒、床、個人総合で金メダル、さらに団体と平均台で銀メダルを獲得しています。
 彼女はその後12月に本人も大好きだった日本を訪れ、「中日カップ チェコ日本選抜体操大会」に出場。そして、その演技が彼女にとって最後の演技となりました。この大会を終えた彼女はこうメッセージを残しています。
「人々は誰でも最後が美しくあることを望みます。私は愛する日本の人々に、私の最後の演技を見ていただきたかったのです。私はそれに成功しました。全てのものは生命をもっています。スポーツも同じだと思います。体操選手としてのベラ・チャスラフスカはここに生命を終えたのです」

<引退と苦難に人生>
 その後、故国に帰国した彼女を待っていたのは、あまりに理不尽な運命でした。「二千語宣言」に署名した政治家や有名人が、共産党指導部による署名撤回要請を受けて、次々に転向する中、彼女は署名取り消しを拒否し続けます。軍人だった夫はそのために軍隊を追われることになり、彼女の結婚生活は破綻してしまいます。

「チャスラフスカの意味についていえば、頂上を極めた体操選手だったということ以上に、彼女の存在自体により大きな意味があったと私は思っています。正常化時代、チェコ国内には人生を犠牲にした無数の人々がいた。その人たちにとって彼女は大きな支えであった。当局は、抵抗者のなかでもシンボル的な人々を目の敵にしていじめ抜いた。けれども屈しなかったものがいた。チャスラフスカしかり、歌手のマルタ・クビシェヴァしかりです。・・・」
ペトル・ピッハルト(チェコの上院議員1999年)

 彼女は体操界から追放され、指導者として使ってくれる団体もなく仕事も失ってしまいます。5年後にやっと与えられた仕事は、地域の子供たちのためのスポーツ・クラブで体操を教えるささやかなものでした。同じような状況におかれた人々の多くは国外に脱出し海外で活躍する道を選んでいますが、彼女はそうしませんでした。(小説「存在の耐えられない軽さ」のミラン・クンデラ、映画「カッコーの巣の上で」のミロシュ・フォアマン・・・)
 なぜ、何も悪いことをしていないのに故郷を捨てなければならないのか?彼女はこの当たり前のことにこだわり続けたわけです。彼女の後に登場したコマネチが、祖国ルーマニアの崩壊の際、すぐに国を捨て海外で生きる道を選択したのとは対照的です。彼女と同じように国内で生きる道を選択した人々は、みな屈辱的な人生を歩むことを余儀なくされました。それでも、そうした苦難の人生を歩んだ人々に光が当たる時が訪れます。

<「ベルリンの壁」崩壊から>
 1989年、世界は大きく変わり始めます。ソ連国内から始まった民主化(ペレストロイカ)の波は、東ドイツに波及し「ベルリンの壁」が崩壊。その影響はソ連を解体させ、東欧諸国もそれぞれ大きな変化の時を迎えることになりました。チェコ国内でも共産党による支配体制が崩れ、民主化の波が政界を大きく変えようとしていました。幸いチェコにおける民主化は、軍隊など保守派による武力による抵抗にあうことはなく無血革命が実現。(そのため、チェコにおける改革運動は「ビロード革命」と呼ばれることになりました)
 この改革により、かつて「二千語宣言」に署名をしたために、それぞれの地位を追われた人々に20年ぶりに復帰の機会が訪れます。新たなチェコの指導者に選ばれたのも、彼女と同じように国内に残る道を選んだ劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルでした。
 1989年11月24日の夜、ヴァーツラフ広場に面したビルのバルコニーには、そうした英雄たちが久しぶりに顔をそろえました。「プラハの春」の時の共産党第一書記アレクサンデル・ドゥプチェク、新指導者となったヴァーツラフ・ハヴェル、歌手のマルタ・クビシュヴァ(「ヘイ・ジュード」の歌詞を変えて歌い民主化を支持し大ヒット)、テレビ・キャスターだったカミラ・モウチコワ、そしてベラ・チャスラフスカ。
 ベラもまたついに体操協会に復帰し、国際大会の審判など、名誉回復がなされました。映画ならこ、これでハッピー・エンドとなるところでしょう。しかし、リアルな人生においては、そう上手くはゆかず、彼女は再び悲劇に襲われることになります。

<さらなる悲劇>
 1993年8月6日、プラハの北にある小さな村のバーでベラの元夫ヨゼフ・オドロジルが喧嘩が原因で命を落としました。ところが、その犯人として逮捕されたのが、ベラの息子マルティンだったのです。(当時、高校生)酔っぱらって店にいた女性客にからんでいた父親の醜態に偶然出会ったマルティンが、止めようとして喧嘩になったといわれます。しかし、この事件に対し、復讐に燃える元夫の家族が共産党や新聞社を使うことで「反バラ・キャンペーン」を展開し始めます。力が弱まったとはいえ、共産党は民主化勢力への復讐の機会をうかがっており、ベラはその標的になったといわれます。この事件をきっかけに彼女は精神的に追い込まれてしまい、ついに鬱状態になってしまい精神病院に入院することになります。それはあまりに哀しいドラマの終わりでした。
「人の心は外からはわからない。断定的なことはいえないが、ベラについてはなんとなくわかるような気がする。
 亡命しようとすればどこへでも行けたはずです。メキシコに永住もできた。日本に行ってコーチもできたでしょう。彼女は両国ではとても人気があったのだから。でもしなかった。ベラはずっと愛国者だったわけです。自分の生き方は変更できない。そういう人だったと思う。加えていえば、これは憶測だが、オリンピックチャンピオンということも支えになったのではないだろうか。それに恥じる生き方はできないんだと。私にはそう思えますね・・・」

ウラジミール・プロローク(チェコの体操コーチ、トレーナー)

「オリンピックのチャンピオンであったわけだから、いい意味でプライドを彼女に与えたことはあったでしょう。へんな生き方はできないんだって。そう思い込むことができた人であった。・・・でも少し違うのかもしれないなあ。彼女のなかでは、特別なことをしているわけでも、立派に生きているという意識もなく、ごくあたりまえのことだったのではないだろうか。もうそうする他にないという意味で。おそらくそうだと思いますね」
小野田勲(プラハ在住40年の商社マン)

<参考>
「ベラ・チャスラフスカ 最も美しく」
 2004年
(著)後藤正治 Masaharu Goto
文藝春秋

<おまけ>
「チェコの小話」
 チェコに海軍省を設置するすることが決まり、さっそく政府の外務省がソ連にお伺いと許可を得るためクレムリンを訪れた。
「海軍省だって?四方、陸に囲まれた国になぜ海軍がいるんだね。第一、軍艦もなければ浮かべる海もないじゃないか」
「確かに、でもロシアには文化省があります」

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