記憶の曖昧さが生み出す心の痛みを描いた傑作


小説「終わりの感覚」と映画「ベロニカとの記憶」

- ジュリアン・バーンズ、リテーシュ・バトラ -

<映画化を記念した再評価>
 名作「終わりの感覚」が映画化されていたことを知り、本を読みながらDVDを見ました。
 実は、原作を読んでいたことを忘れていて、すでに原作のページがあることも忘れていました。
 自分で書いていて忘れるとは・・・いよいよ僕の記憶力も信用できなくなってきました。
 というわけで、二つのページが登場することになりました。
 このページは映画版との違いや分かりやすい見方を書いたものとしてご覧ください!この機会に映画と小説、両方をお楽しみいただきたいと思います!
小説「終わりの感覚」について

<ジュリアン・バーンズ>
 このサイトでは、すでにジュリアン・バーンズの小説「イングランド・イングランド」を取り上げています。彼は「イングランド・イングランド」(1998年)の他、「フロベールの鸚鵡」(1984年)、「アーサーとジョージ」(2005年)で3度、英語文学の最高賞の一つブッカー賞の候補になっていました。そして、ここで紹介する「終わりの感覚」でついに受賞を果たしました。
 この小説は、彼の作品の中では珍しく正統派私小説スタイルの作品なので、読みやすいながら地味な内容かもしれません。しかし、その分、人生の味わいに満ちた奥の深い作品に仕上がっていて、多くの読者が心揺さぶられるはずです。さすがはブッカー賞を受賞作です。「時間」、「歴史」、「過去の罪」、「老い」、「結婚」、「愛」、「人生」・・・・様々なことが、それぞれ素晴らしい名文によって書かれています。ここでは原作から特に素晴らしい文章を選んでみました。
 後半には、そんな素晴らしい原作を丹念に映画化した映画版「ベロニカとの記憶」についてもご紹介します。映画版の方も、著者へのリスペクトからか、原作の文章をかなり生かしています。さらに映画版には使用されていないけれども、映画を理解するのに役立つ文章もご紹介します。
<あらすじ>
 トニーはライカなどの中古カメラを小さな店で販売しながら年金生活をおくる日々を過ごす老人です。離婚した妻マーガレットとの間の娘スージーは、シングルマザーとして子供を産もうとしていました。彼はそんな娘をなんとか助けようと考えていましたが、なかなか役に立てずにいました。
 そんな彼のもとに、一通の手紙が届きます。それはかつて彼が付き合っていたベロニカという女性の母親セーラが亡くなり、その遺言を管理する弁護士からのものでした。そこには、かつて彼の親友だったエイドリアンの日記を譲渡すると書かれていました。ところが、その日記はベロニカが所有していて、トニーへの譲渡を拒んでいるとも記されていました。
 自殺したかつての親友の日記の中身が気になった彼は、ベロニカとなんとか連絡をつけ、久々の再会を果たします。そして、日記を渡すよう頼みますが、彼女はそれを拒否しました。
 実は、トニーはかつてベロニカと付き合っていてたのですが、上手く行かずに別れ、その後、親友だったエイドリアンに彼女を奪われた苦い過去があったのでした。でも、なぜエイドリアンの日記をベロニカの母親が所有していたのか?そんな彼にベロニカは日記からの抜粋を渡します。そこには謎の文章が・・・
 彼はその謎を解こうとベロニカの周辺を探り始めます。すると、彼女が向かった先で不思議な若者たちと出会います。

<歴史と時間>
 ジュリアン・バーンズという作家は、これまでも作品の中で「歴史」と「時間」にこだわり続けてきた作家です。この作品においても、そうした彼の「時間」へのこだわりは重要なテーマとなっています。

「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である」
パトリック・ラグランジェ(架空の人物?)
 2019年時点の韓国と日本の間に起きている歴史認識の違いから生じた対立を思い出してしまう文書です。「歴史」とは、誰かが何かのために利用しようと意図的に生み出した事件の積み重ねのようにも思えてきます。

 それに対して、個人にとっての「歴史」もしくは「時間」については、「感情」の問題が大きく左右すると考えられます。

ある感情は時間の進行を進め、ほかは遅らせる。ときには時間が消失したかに思えることにあり、そして最後にはほんとうに消失して、もうもどらない。

 さらにこの作品の中で重要なのは、「老い」と「人生観」の問題です。「歴史」とは生き残ったものが語る記憶ですが、それは決して素晴らしいものとは限りません。

 私は生き残った。「生き残って一部始終を物語った」とはよくお話で聞く決まり文句だ。
私は軽薄にも「歴史とは勝者の嘘の魂」とジョー・ハント老先生に答えたが、いまではわかる。
そうではなく、「生き残った者の記憶の魂」だ。そのほとんどは勝者でもなく、敗者でもない。


 それどころか多くの場合、生き残った者たちは、他人の過去や歴史を書き替えてしまいがちのようです。

 これが、若さと老いの違いの一つかもしれない。若いときは自分の将来をさまざまに思い描く。年をとると、他人の過去をあれこれと書き替えてみる。

 そもそも人は「老い」ることで穏やかな性格になるものなのでしょうか?
 そうとは思えないことは、高齢者による犯罪の多発や事故の多さからも明らかになりつつあります。残念ながら僕自身も、このまま年を重ねてもきっともう成長するとは思えません。まして、将来の人生設計に2000万円不足するだろうと言われた多くの高齢者に「穏やかに生きなさい」とは言えないでしょう。

 人が年をとると穏やかになる理由などあるだろうか。人生に褒美が用意されていると決まっていないなら、終末に向かって暖かく穏やかな感情が用意されているとも決まっていまい。ノスタルジアに何か進化論的な意義でもあるのだろうか。

 長く生きてきたからこその反省。過去の罪に対する心の痛みについての文章は同世代の方でなくても心に響くはずです。思えば、自分の心の中に残された良き記憶も、どこまでが真実なのか?怪しくなってきました。でも、それは心が自分を守るために良かれと思ってやってくれていることなのでしょう。

・・・記憶は、飛行機事故を記録するブラックボックスのようなものだ。墜落事故がなければテープは自動消去される。何かがあって初めて詳細な記録が残り、何事もなければ、人生の旅路の記憶はすっと曖昧なものになる。
 別の方面から考えてみよう。昔、歴史上の好きな時代を問われ、物事が崩壊した時代、と答えた人がいた。物事の崩壊は、何か新しいものの誕生を意味するから、と。この答えは、個人の人生に当てはめても意味をなすだろうか。何か新しいものが生まれつつあるときに死ぬのがよい?生まれつつあるものがその人自身であってもか?すべての政治的・歴史的変化は、遅かれ早かれ落胆をもたらす。大人になることも同じだし、人生もそうだ。むしろ、必ずしも期待どおりにいかないことを延々と証明しつづけ、それによってこちらを消耗させて、最終的な損失もやむなしとわれわれを納得させること - それが人生の目的ではないか、とさえ思うときがある。


 最近の日本なら「ブラックボックス」よりも「ドライブ・レコーダー」を例にあげる方が分かりやすいかもしれません。

 私たちは自分の人生を頻繁に語る。語るたび、あそこを手直しし、ここを飾り、そこをこっそり端折る。人生が長引くにつれ、私が語る「人生」に難癖をつける人は周囲に減り、「人生」が実は人生ではなく、単に人生についての私の物語にすぎないことが忘れられていく。それは他人にも語るが、主として自分自身に語る物語だ。

 考えてみると、この文章はそのまま歴史認識の改変問題にも当てはまりそうです。過去の歴史が忘れられつつあり、それを語れる人材が消えつつある中、歴史を平気で変える人々が現れてもそれを止める存在がいなくなるかもしれません。そう考えると、「歴史」研究者の責任はどんどん重くなるはずです。
 例えば、第一次世界大戦のきっかけとなったフランツ・フェルディナンドの暗殺者は、その責任をどこまで負うべきなのでしょうか?

・・・特定の個人を責めるのはほかの全員が罪を逃れるため、歴史の流れに原因を求めるのは個々人を無罪放免するため、無政府主義的混沌を主張するのも結果的には同じです。ぼくには、個人的責任の連鎖がある - もしくはあった - ように思われます。・・・

 人はおうおうにしてそうした「心の痛み」を避けて通ろうとするものです。この作品の主人公もそんな人生を歩み、自らの人生をトラブルを避け続けたつまらない人生と考えていました。

 ああ、時間は・・・時間は私たちを地に引きずりおろし、ついで辱める。成熟したと考えたのは単に安全だっただけ、責任ある態度をとったと空想したのは単に臆病だっただけ - そう気づかせる。現実主義とは問題と直面しないこと、問題を避ける方法にほかならない。時間は・・・われに十分な時間を与えよ。さすれば、万全の意志決定はぐらつきはじめ、確信は気まぐれに変わるだろう。

 それでも彼は立ち止まって自らの人生を振り返る必要に迫られます。それが彼にとって幸いだったのかどうか?それはわかりません。

 人生の終わりに近づくと - いや、人生そのものではなく、その人生で何かを変える可能性がほぼなくなるころに近づくと - 人にはしばし立ち尽くす時間が与えられる。ほかに何か間違えたことはないか・・・。
 そう自らに問いかけるには十分な時間だ。
・・・

 他にも興味深い文章がいろいろとあります。
 例えば、人と人格は時間と共に成長してゆくものなのか?という疑問について。小説家がそれを言っちゃいけないかもしれませんが・・・。

 人格は時間と共に形成されていくものだろうか。小説ではそうだ。そうでなければ、あまりに語ることがない。だが、実人生はどうか。さて、と思う。時間と共に人は態度や意見を変え、新しい癖や奇行を身につける。だが、そういうものはいわば飾りで、人格とはちょっと違う。
 人格はたぶん知性に似ているが、完成の時期が少し遅い。ニ十歳から三十歳の間か?そこで人格が出来上がり、以降はその人格で一生を過ごす。もうこの自分しかいない。そう考えれば、多くの人生の説明がつくと思うが、どうだろう。ついでに - ちょっと大げさか? - 人間の悲劇の説明もつく。

 僕が最も面白いと思ったのは女性についての考察の部分。僕は間違いなく「ファジーな女性」にひかれる派ですが、あなたはどちらですか?

 この世には二種類の女がいる、とマ―ゲレットはよく言っていた。輪郭がシャープな女とファジーな女。男が女を見るとき真っ先に気づくのがそれで、それによってその女に惹かれるかどうかが決まる。ある男はシャープさに惹かれ、別の男はファジーさに惹かれる。・・・


小説「終わりの感覚 The Sense of an Ending」 2011年
(著)ジュリアン・バーンズ Julian Barnes
(訳)土屋政雄
The Crest Books
(2011年度ブッカー賞受賞作)

<映画版の魅力>
映画版「ベロニカとの記憶」 2017年
(監)リテーシュ・バトラ
(製)デヴィッド・M・トンプソン、エド・ルーピン
(原)ジュリアン・バーンズ「終わりの感覚」
(脚)ニック・ペイン
(撮)クリストファー・ロス
(PD)ジャクリーン・エイブラムス
(編)ジョン・F・ライオンズ
(音)マックス・リヒター
(出)ジム・ブロードベント(トニー)、ハリエット・ウォルター(マーガレット)、ミシェル・ドッカリー(スージー)、エミリー・モーティマー(セーラ)、ビリー・ハウル(若きトニー)
ジョー・アルウィン(エイドリアン)、フレイア・メイヴァ―(若きベロニカ)、シャーロット・ランプリング(ベロニカ)、エドワード・ホルクロフト(ジャック)

 正統派の名作文学、それも短めの作品ならば、原作に忠実な脚本を書くことでほぼほぼ成功するように思います。この作品はその典型的な例と言えそうで、かなり原作に忠実に映画化が行われ、それが上手くいっています。
 とはいえ、映像によって語らせるだけでは説明が不足し、注意深く見ていないと理解しずらい部分があるのも事実です。特にエイドリアンとベロニカの母親セーラとの関係は、映像による表現は具体的にされていないので、ちょっとわかりづらいかもしれません。それでも若きトニーがベロニカの家を出るときにみせたセーラの手の振り方の微妙な感じは、最高に魅力的でした。
 そのあたりは原作を読むと映画ではわかりにくかった部分もかなり明確になるはずです。例えば、ベロニカの母がなぜエイドリアンと深い関係になっていったのか?その原因については、こんな文章があります。

 あいつの焦らし戦法はセックスだけのことじゃない。こっちの心に入り込んで操りながら、自分の心は開かない。詳しい診断は精神科医に任せるとして、他人の感情や気持ちを想像できない女だ、とは言っておこう。ぼくは彼女の母親にそれを注意された。君も尋ねてみろよ。昔の何かがトラウマになっていませんかってな - もちろんベロニカには隠れてだぞ。・・・

 それともうひとつ、エイドリアンが残した謎の数式がベロニカから渡されていて、それがヒントにもなっています。主人公は事実を知ったことで、その数式の意味を理解するのですが・・・正直、難解すぎてよくわからないので、原作を実際に読んで確認してください。映画でカットしているのは正解だと思います。
 そうそうこの映画は、俳優陣が地味ながら素晴らしい。
 マーガレット役のハリエット・ウォルターはテレビ中心のイギリスの女優ですが、叔父さんはあのクリストファー・リー。
 出番は短いながら印象深いセーラ役のエミリー・モーティマーは、イザベル・コイシェの「マイ・ブックショップ」(2018年)では主役を演じています。
 これまた出番は少ないながら重要な役であるベロニカを演じるのは、今や大御所となったシャーロット・ランプリング。
 テリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」(1985年)、ウディ・アレンの「ブロードウェイと銃弾」(1994年)、ニール・ジョーダンの「クライング・ゲーム」(1992年)、バズ・ラーマンの「ムーラン・ルージュ」(2001年)、「ブリジッド・ジョーンズの日記」(2001年)のお父さん役、マーティン・スコセッシの「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2001年)、「ハリー・ポッター」のスラグホーン先生、ジョン・クローリーの「ブルックリン」(2015年)・・・数多くの作品に出演しているジム・ブロードベントはさすがの演技です。

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