- バートランド・ラッセル Bertrand Russell -

<20世紀を代表する知の巨人>
 数学者、哲学者、論理学者、教育者、心理学者であり平和活動家というマルチな才能を持つ知の巨人、バートランド・ラッセルは典型的なイギリス貴族階級に属する人物でした。20世紀初頭という時代は現在と違い、様々な分野で同時に活躍するマルチな天才が数多く存在していました。(H・G・ウェルズJ・フォン・ノイマンアインシュタインシュタイナーなど)そんな中でも彼ほど多彩な活動を行った人物は珍しいでしょう。残念なのは、多彩すぎたがゆえに現在では彼の存在を総合的に評価する視点が無くなってしまったことです。それぞれの専門家からは、他分野へのはみ出しは邪道とも見えるのかもしれません。しかし、あらゆるジャンルが細分化する現代社会においては、ジャンルを越えてトータルで事実を見極めることが求められつつあります。今こそ、ジャンルを越えた天才が必要とされるはずです。
 貴族階級出身のお坊ちゃんで世間知らずゆえの自由な発想の持ち主。そのために彼は富も名誉も求めない浮世離れした存在でもありました。そうした幅広い自由な活動家としては、音楽界におけるジョン・レノンフランク・ザッパを思い出させます。だからこそ、彼は次々と自分の興味ある分野について研究をし、それを発信、発表し続けたのでしょう。そんなわけで、彼の偉業の全貌を見ることは困難でも、せめてその山並みをふもとから望んでみたいと思います。

<孤独な天才少年>
 1872年5月18日、バートランド・ラッセル Bertrand Ruaaell は、イギリス、ウェールズのトレレックで名門貴族の次男として生まれました。恵まれた家庭ではありましたが、彼がまだ小さなうちに両親はともにこの世を去ってしまいます。そのため、彼と兄フランクは祖父の家に預けられました。その祖父もすぐに亡くなったため、彼らは祖母レィディ・ラッセルによって育てられ、彼女から大きな影響を受けることになりました。彼女は女性ではあっても、祖父同様急進的な自由主義者で、当時イギリスの植民地だったアイルランドの独立を支持し、イギリスの帝国主義政策にも反対していました。権威主義を嫌う彼女は、子供たちを学校に預けず、家庭教師によって家で教育を受けさせます。そのために彼は同年代の友人をもつこともなく、独自の世界観を持ちながら育つことになりました。(そんな環境を嫌った兄は早々と寄宿学校に入り家を出てしまいました)
「この世界の中には、絶対的に確実な知識がきっとあるに違いない」
 そう考え、すべてのことに疑問をもち、それを確認しようとする頑固な少年は、地球が丸いことを確認するために地面に穴を掘ってオーストラリアに行こうとしたというエピソードもあります。
 そんな彼が数学に興味をもつようになったのは、当然の成り行きだったのかもしれません。彼と数学との出会いは、1883年11歳の時、兄のラッセルが「ユークリッド幾何学」について教えてくれた時でした。しかし、当初、彼は数学における基本原理である「公理」の存在に納得できなかったといいます。初めから、それを真実と前提してしまうということが、彼には許せなかったのでした。2+2=4という数式は、経験的に得られた知識なのか?それとも「絶対的な真理」といえるものなのか?こうした、数学の本質的なところにもこだわった彼は、その後も「数学」に興味をひかれ、さらに詳しく学ぼうと、1890年ケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジに入学します。
 それまで、彼はほとんど家で家庭教師とマンツーマンで勉強していたので、大学での勉強は新鮮で、なおかつ彼の鋭い質問に反応してくれる教師や先輩が多かったことも彼にとっては喜びでした。こうして、彼の興味の範囲は、さらに広い範囲へと広がり、小説や経済学、哲学にも及びます。そして、彼の研究はそれらの学問と数学の理論を結びつけることへと移ってゆきます。
 1894年、大学を卒業した彼は、ローガン・ピアソル・スミスという作家の娘と結婚します。当初、アメリカ系のクエーカー教徒で社会主義の平民家庭の娘と結婚することに対して周りは大反対だったようです。しかし、その後、彼は妻の友人たちと付き合い出したことがきっかけで、フェビアン協会の人々と出会うことになりました。

<フェビアン協会>
 イギリス労働党の元となった組織であり、イギリス民主主義の原点ともいえる「フェビアン協会」が誕生するまでには、イギリスにおいて世界に先駆けて発展した民主主義の歴史がありました。
1832年、選挙法の改正により、貴族や地主以外の国民、市民層の一部にも選挙権が拡大され、貴族社会から民主主義社会への移行の最初の段階が始まりました。この改正の中心となった政治家の一人、ジョン・ラッセルは、バートランド・ラッセルの祖父にあたります。その後、イギリスでは世界に先駆けて、「奴隷制の廃止」「幼児労働の禁止」などの改正も行われました。ジョン・ラッセルはイギリスの首相を二度も勤めています。
1867年、第二回選挙法改正が行われ、一般の労働者にも選挙権が拡大しました。
1870年、「教育法」が改正され、公立学校が誕生。ケンブリッジ、オックスフォードなどの名門大学に、貴族階級以外の国民も入学できるようになりました。
1871年、「労働組合法」が制定され、組合運動が合法的になり、労働運動が急速に発展し始めます。
1884年、第三回選挙法改正が行われ、農業労働者、鉱山労働者にも選挙権が拡大しました。

 そんな状況の中で誕生した「フェンビアン協会」は、ドイツで生まれた共産主義思想とは異なるイギリス独自の社会主義思想が元になった組織です。その中心となったのは、シドニー・ウェッブ、バーナード・ショーらの知識人たちでした。
 「フェビアン」とは、ローマの名将「ファビウス」の名前からとられました。彼は第二次ポエニ戦役の際、正面からの決戦を避けて、ゲリラ戦を展開。持久戦に持ち込むことでカルタゴの将軍ハンニバルの軍隊を破ったことから、彼は人々から「待機将軍」と呼ばれたといいます。
「忍耐強く時期の到来を待ち、好機いたらば果敢に攻撃せよ。しからざれば、待機は水泡と化すべし」
 フェビアン協会の思想は、自由主義の原則を認め、イギリス伝統の功利主義倫理と結びついたもので、イギリスの民主主義を基礎とした社会主義思想です。共産主義と資本主義の融合的な折衷思想であり、日和見主義ともとらえられますが、そのぶん社会に受け入れられやすかったことも事実でした。こうして、1900年、その思想に基づいて設立されたのが、フェビアン協会でした。

<社会主義思想との出会い>
 1895年、彼は妻のアリスとともにマルクスの故郷ドイツを訪れ、そこで展開されていた社会主義運動を取材、研究します。その結果をまとめて出版したのが、彼の処女作「ドイツ社会民主主義」(1896年)です。その中で、彼はマルクスの『共産党宣言』は、『唯物史観のもつ叙事詩的な迫力をことごとく備えている。これまでに比べもののない文学的価値を持ったもので、古今の政治の文献の中で最高傑作のひとつである』と絶賛しています。
 ただし、彼はマルクス主義の考え方を全面的に認めたというわけではありません。彼は、マルクス主義のもつ教条主義的な部分や階級闘争によりプロレタリアートが独裁的な権力をもつべきとする考え方には異を唱えていました。さらに彼は、社会をブルジョアとプロレタリアートの二つに分ける考え方は不十分であり、その中間層の登場も考慮するべきと考えていました。(ホワイトカラーの不在)彼は共産主義国家が、将来的に一部のエリート層による独裁国家になってしまう可能性が高いことを予測していました。それは、その後の歴史を見れば明らかです。

「・・・共産主義を一種の宗教であるとみなし、キリスト教と同じように、迫害を正当化するために用いられる宗教であると指摘した最初の論者はラッセルである。彼は最初の作品「ドイツ社会民主主義」のなかで、すでにマルクス主義を宗教と呼んでいた・・・・・」
「人と思想 ラッセル」金子光男(著)より

<数学原理の追求>
 イギリスに帰国した彼は、再び数学の研究に戻り、数学によって哲学を研究する新たな試みへと向かいます。1900年、パリで開催された国際哲学会議で彼はイタリアの数学・論理学者ペアーノと知り合います。彼らの仕事から「数学の基礎」について論理学的に考察するヒントを得た彼は、大著「数学の原理」(上下巻)の執筆に着手します。ただし、「数学原理」は上巻を発表したところで行き詰ってしまい、その問題点を彼の先輩でもあるホワイトヘッドと共同で研究を始めます。こうして、1910年、10年もの歳月をかけた数学の基礎理論「プリンピキア・マティマティカ」第一巻が発表され、その後、1912年に第二巻、1913年に第三巻が発表され、ついに三部作として完成しました。
 この不朽の作品は、哲学的、論理的な部分と数学的な部分からできていて、前者をラッセル、後者をホワイトヘッドが担当して書かれました。数学理論の基礎を論理学によって、ゼロから再構築することで、彼が子供の頃から目指していた絶対的な真理としての数学理論が完成されたといえそうです。(数学の中でも最も難しい分野かもしれません。僕には無理です)

<政界への挑戦>
 1907年、35歳になった彼は下院の選挙に自由党から立候補します。それは保守党の独走を止め、彼も賛同していた「自由貿易の発展を目指す」という自由党の考え方に共鳴しての立候補でした。しかし、選挙は惨敗に終わります。そして、ここから彼の新たな方向性ともいえる政治活動の時代が始まることになります。1914年に始まった第一次世界大戦は、そんな彼の生き方をさらに推し進めることになります。当初、その戦争の規模の大きさに彼は生きる希望をすら失いそうになりましたが、逆に平和運動を開始することで生きる希望を見つけることになりました。ところが、彼が徴兵拒否者のためのパンフレットに掲載された文章を執筆したことがわかると、反戦運動に対する批判から彼はトリニティー・カレッジの講師を首になってしまいます。
 この当時の彼の活動から生まれた作品として、1916年出版の「社会再建の原理」があります。その中で彼は人間のもつ衝動を「所有的衝動」と「創造的衝動」に分けています。前者は、資産や様々な欲求を他人から奪わうことで満足しようとする衝動。後者は、自ら欲求を満たすための何かを創造しようとする衝動のことです。「所有的衝動」は、それ自体が悪いものではないものの、破壊的な方向、犯罪的な方向に向くと「戦争」や「侵略」となってしまう危険なものです。それがもし、「創造的衝動」と上手く結びつけば、社会の改革や斬新な文化運動として、人類のために役立つことになりますが、その実現は現在のように愚かな権力と不正によってなる社会では不可能なのかもしれません。だからこそ、社会を根本的に変える必要があるというわけです。

<獄中生活の中で>
 戦争の真っ只中に行われた彼の戦争批判、イギリス批判に政府は激怒。1918年、裁判にかけられた彼は6ヶ月の実刑判決を言い渡されました。
 何不自由なく育てられてきた人間が刑務所に入れられることは、かなり精神的には厳しかったはずですが、貴族階級の人間はそんな時でも優遇されていました。食事も牢獄も彼は特別扱いだったようで、獄中での執筆活動も許されていました。そのおかげで、彼は獄中で新たな著作「数理哲学序説」を書き上げ、次の作品となる「精神の分析」もほぼ完成させていました。出所後の1921年に発表されたその本で彼は、、「物心二言論」に対して「中立一元論」という新しい考え方を提案しています。それは、従来の哲学において「精神」と「物質」をはっきり二つに分けて世界を説明してきたのに対し、「世界とは、精神とも物質ともつかない中立的な存在であり、それはあくまで構成材料に過ぎない」とする考え方でした。

<中国の問題>
 「戦争反対」と「共産主義批判」によって、彼はそれまで付き合っていた多くの友人を失ってしまいました。そうした状況の中、彼は未知の土地である中国を訪れることになります。1920年、中国を訪れた彼は、そこで熱烈な歓迎を受けることになりました。皮肉なことにそれは、彼が母国イギリスの植民地政策を批判していたせいでした。彼は、北京を中心にほぼ一年間、中国で生活。そこで経験したことなどをもとに、中国についての研究をまとめた「中国の問題」(1922年)を発表。まだ植民地のひとつとして、後進国としか見られていなかった中国の潜在力に注目した彼の著作は、西欧の研究者による本格的な中国研究の書として世界的に注目されることになりました。彼が、将来中国が世界の中心になる可能性について記述したことは、まさに100年先を予見したといえるでしょう。
 1928年、彼は「懐疑評論集」を発表。その中でいち早く、今後の世界が米ソ2強によって支配される体制に移行するだろうという予測をしていました。

「アメリカとロシアがそれぞれ個人主義と共産主義とを代表する現代の唯一の強国であり、世界はこれらの相対立する哲学の間の不寛容な新しい時代に突入しつつある」

<科学の問題>
 さらにその中で彼は、アメリカには「群衆の専制」があり、ロシアには「少数者の専制」があると指摘。前者は「プラグマティズム理論」を基礎としており、後者は「マルキシズム理論」に基づいているとしています。自由主義経済に基づきアメリカは「愚かな大衆」の意志により動き、共産主義国家ロシアは少数のエリート官僚が動かすというわけです。どちらも、その愚かさに大差は無いと彼は指摘しています。彼は「科学」についての考察も行っています。

「科学というものは、ある目的が設定されたときに、その実現のためにどの手段が最適であるかを示すことはできるが、目的そのものの正しさを証明することはできない。ラッセルは、これを科学とは、汽車の「時刻表」のようなものだと例えている。その旅行がどんな目的をもっていたとしても、時刻表は旅行者にとって、あくまで手段としての役にしか立たないものである。その目的を決定するものは、人間の主体的な価値判断なのである・・・・・」
「科学的展望」(1931年)より

<結婚と性の問題>
 さらに彼の考察は「性」の問題にも及んでいます。彼は「性」についての知識を子供たちから隠す、現在のやり方は「性」の知識だけでなく「愛」についての本質をも隠すことにつながっていると考えていました。
「性に関しての愛を牢獄におしこんでしまったので、それに伴って、すべての他の形の愛も投獄される羽目になってしまった」

 さらに彼はタブーともいえる部分にまで考察を加えています。
「われわれの多くが、厳格な一夫一婦制を強行している試みは、はたして世の中に幸福をもたらしているのか、ことによると防ぐことのできない不幸をもたらしたのではないか」
 こうした主張により、彼はまた多くの敵を生み出すことになってしまいました。

<幸福の問題>
 彼の考察はついに「幸福」という人間究極の目的にまで及びます。人間は所有的衝動をもつがゆえに、そこから逃れようと苦しみ幸福になれると彼は考えます。逆に、そうした自己の欲望についての悩みを取り除くことは、幸福へ結びつくと考えた彼は、こう言っています。
「幸福の秘訣は、諸君の興味をできるかぎり広くすること、そして諸君の興味をそそる人や物に対する反応をできるだけ、敵対的でなく友情的にすることである」

 幸福な人間とは自我から脱皮して客観的に生きる人間であり、自己にこだわらず自由な愛情と広い興味をもつ人間である。そう彼は考えていました。それがわかったからといって、「所有的衝動」をどうにもできないのが人間なのですが・・・・・」
「幸福の克服」(1930年)

 「幸福」についての彼の考え方は、さらに具体的に「生き方」の問題へと向かいます。「怠惰礼賛論」(1935年)の中で彼は以下のような考えを述べています。

「近代社会において、仕事そのものは立派なものだという信念が、多くの害悪をこの世にもたらしている。・・・・・

「礼賛すべきは勤労ではなく怠惰である」

 これって、確かにそのとうりかもしれません。そして、彼は「節約」は悪でもあり、「消費」は善なりと主張します。
「・・・人間は労働時間をもっと減らして、残りの時間は、自分で適当と思うような時間とすべきであり、教育はそのように余暇を賢明に使わせる知恵を与えてやらなければならない」
 彼は将来来るであろう「余暇の時代」をも予見していたといえそうです。

<教育の問題>
 当然、彼は「教育」の問題にも関心をもっており、1926年には「教育論」を発表していますが、1927年には自らその教育論を実践し始めます。それは学校の設立でした。彼は兄のフランクから建物を借り、そこで自ら学校長となり、小さな子供たちを対象とした学校「ビーコン・ヒル・スクール」を設立。二度目の妻ドーラは学園の運営管理などを担当し、夫婦二人三脚での学校経営でした。その学校の教育理念の基本は、徹底した自由放任主義で、それまでの学校とはまったく異なるものでした。しかし、経営面では初めから上手くゆかず、さらに妻のドーラと教育方針で対立したことから、彼は校長を止め、ドーラとも離婚してしまいます。理想と現実のギャップは、そう上手く埋めることができないことを思い知った彼は、その経験を次の探求に生かすことになります。
 1932年、彼は「教育」において「階級意識」と「競争意識」の問題が子供たちにとって大きな壁となっていることを指摘。社会体制と政治活動と強く結びついている「教育」を社会改革と分けて考えることは不可能であると主張しました。さらに「競争」をあおる現在の教育システムではなく「協力」を重要視する教育システムへの転換を求めています。次から次に発表される彼の著作は、どれも社会の大幅な改革を求めるものばかりであり、反体制派の作家、哲学者として異端であり続けましたが、そんな彼の生活を大きく変える事件が起きます。

<アメリカにて>
 1939年9月、ヒトラー率いるドイツ軍がポーランドに侵攻。第二次世界大戦が始まります。ロンドンへの攻撃も始まったことから、すでに70歳近かった彼はアメリカへと逃れることになりました。こうして、6年に及ぶ彼のアメリカでの生活が始まりますが、自由の国アメリカでの彼の6年間は人生においてもっとも不幸な時代となります。
 アメリカでの生活が始まり、彼にニューヨーク市立大学の教授就任話しがきます。ところが、彼のそれまでの著作や言動を知る一部キリスト教関係者から「宗教や道徳を破壊する人物を教授に迎えるのは反対」と批判が噴出します。その運動はさらに教育委員会や反共団体にまで広がり、結局彼の教授就任は語和算になってしまいます。(当時、この事件は「バートランド・ラッセル事件」と呼ばれました)こうして、彼は新天地アメリカで生活にも困る状況に追い込まれてしまいました。3人の子供を育てる彼は、仕方なく執筆活動に打ち込み、それまでに発表した著作の将来予測される印税を前払いしてもらうなどして、なんとか生活していたといいます。この間に書かれた代表作が「西洋哲学史」(1945年)です。厳しい状況に置かれながらも、900ページにも渡る哲学の歴史書を書きあげるパワーを持っていた彼は、当時もう70歳を越えていました。
 第二次世界大戦が終わり、故国イギリスへともどった彼は母校ケンブリッジ大学に教授として迎えられます。そして、それまで彼を異端者、反逆者として扱ってきた時代の流れもまた彼を迎え入れる方向へと変化し始めます。

<再評価の時代>
 戦後の世界は彼が予測したとおり、米ソ二大国によって分割される時代となります。共産主義国家が独裁国家へと変化する危険を指摘した彼の予測もまたスターリンの登場によって証明されました。
 「性の解放」が進み、教育現場では学生運動は活発化し、核兵器により世界が崩壊する危険が高まる中、平和運動・核軍縮運動の重要性が増しつつありました。時代が彼の描いたシナリオ通りに進みつつある中、彼の著作は再評価されることになります。かつて、反逆者として刑務所に入れられていた人物は、バッキンガム宮殿で日本の文化勲章にあたる勲功章を授与されました。さらに1950年には、ノーベル文学賞を授与されているのです。なんという評価の変化でしょう。
 さらに凄いのは、その後1953年、彼は初のフィクション作品(小説)として短編集「郊外の悪魔」を発表。
「私は生涯のはじめの80年を哲学に捧げたが、今後は次の80年をフィクションというもうひとつの分野に捧げようと思う」といったというのです。大したものです。ただし、彼がその後の人生を捧げたのは小説ではなく、以前から関心をもっていた平和運動、特に核兵器廃絶のための活動になります。

<核廃絶運動の問題>
 学生時代、物理学者のラザフォードやトムソンらと知り合いになっていた彼は、核兵器の登場に大きな衝撃を受けていました。広島、長崎への投下も含め、このままでは再び核戦争が起き、世界の滅亡してしまうのかもしれない。そう予測したのはごく当然のことでした。
 そこで彼は世界最高の物理学者アインシュタインに連絡をとり、核兵器の廃絶に向けた共同宣言の発表を企画します。残念ながら宣言文の発表前にアインシュタインはこの世を去りますが、その他にもアメリカの化学者ポーリングやドイツの物理学者マックス・ボルン、そして日本の物理学者湯川秀樹らの賛同を得た核兵器廃絶に向けた共同宣言は、1955年ロンドンから世界に向けて発信され、「ラッセル=アインシュタイン宣言」として知られることとなりました。
 さらに彼は核廃絶のために必要な機関として「世界政府」の樹立を提唱します。
「国際的権威機関の設立だけが、集団的な大量破壊の手段をとる諸戦争を防止することのできる唯一のそして究極的な方法である」

 その後、彼はイギリスにおいて核廃絶を求める運動を展開、そのためのグループ「百人委員会」を結成。国防省前で抗議のための座り込みを行い、そこで再び逮捕されています。
 こう書いていると彼は理想論を展開するだけの人物のようにも思われるかもしれません。しかし、彼は現実の問題に向けたより具体的な泥臭い平和活動にも力を注いでいます。例えば、有名な「キューバ危機」の際、彼は自らの知名度を利用し、直接、ケネディやフルシチョフ、カストロらに書簡を送り、最終的な戦争への道へと歩みださないよう説得を続けました。
 彼が提案した平和理論において、平和をさまたげる最も危険な存在として3つのことがあげられています。それは、国民と国民、人種と人種、民族と民族の間に生まれる偏見のもととなる「狂信」「ナショナリズム」そして「誤った教育」です。
 残念ながら、21世紀の今、世界を危機に陥れているのは、この3つの要素であることは間違いないでしょう。その後、彼はベトナム戦争が始まるとアメリカを強く批難しています。その批判精神はまったく衰えませんでした。彼がアメリカを断罪した著作「ベトナムの戦争犯罪」は、1967年に書かれたものですが、その時、彼はすでに95歳になっていました!
 彼の尽きることの無いエネルギーはいったいどこから生まれていたのでしょうか?それはもしかすると、彼が貫き続けたポジティブな生き様にあったのかもしれません。

「天文学者が写真原板上に認める小さい点は、彼にとっては何十万光年も離れた膨大な星雲のしるしである。空間の莫大さと時間の永遠さは、すべて彼の心のなかに記憶され、その心はある意味で、空間・時間と同じく莫大である」

 彼は、人間は力においては弱い存在ではあるけれども、「考える」という行為によって、自分の理解しうるあらゆるものと同等の存在になることが可能なのだと考えていたのです。彼にとってはすべてのことを理解しようと一歩づつ努力する行為こそが生きる喜びであり、エネルギーの源でもあったのでしょう。さらに彼はこうも語っていました。世界を理解するために必要なのは「科学」である。「科学」なくして「愛」は無力である。しかし、「愛」なくしての「科学」は破壊的な存在である。
 知の巨人、バートランド・ラッセルの歩みを追うことは、あまりにその範囲が広すぎて困難かもしれません。しかし、彼と同じように前向きに生き、すべてのことに関心をもつことは可能でしょう。そうすれば、きっと人生は今よりずっと輝いてみえるに違いないはずです。たとえ人生の残り時間がわずかしかなくても・・・・・。

1970年2月2日97歳で彼はこの世を去りました。

<参考>
「ラッセル 人と思想」
金子光男(著)
清水書院

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