- ビル・グレアム Bill Graham (Part 2) -

<フィルモア・イースト&ウエストの設立>
 1968年、ビル・グレアムはニューヨークに進出することを決意。フィルモア・イーストをオープンさせますが、その直後テキサスでマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺され、人種間の緊張が高まる中で店の売り上げはがっくりと落ちてしまいます。特にサンフランシスコのフィルモア・オーディトリアムは黒人街の中にあったため、売上の落ち込みは激しく、仕方なく彼はフィルモアを移転させ新たにフィルモア・ウエストとしてオープンさせました。

<モンタレーからウッドストックへ>
 こうして、彼が自分の城、フィルモアをロックの聖地へと苦労しながら育てている頃、フィルモアをお手本として、それをさらに拡大したイベントが企画され始めていました。1967年のモンタレー・ポップ・フェスティバルは、そんな企画の中でも画期的なものでした。当初ビルはこの巨大イベントの開催に否定的でしたが、スタッフの熱心さに負けて資金の援助だけでなく運営に関してもアドバイザーの役を果たし、大成功をおさめることになります。
 さらに1969年には、このモンタレーの成功をもとにして歴史に名を残すことになる大イベント、ウッドストック・フェスティバルが開催されます。このイベントについては、その規模があまりに巨大化してしまったため、ビルは何度も中止するよう進言しています。しかし、ここでも彼はフェスティバルの企画者たちの熱意に負け、フィルモアのスタッフたちをイベントの運営陣に参加させました。そのおかげで、かろうじてウッドストックでは大きな事故もなく無事に終わることになったのかもしれません。現実にその場に参加した人にとっては、あのイベントは決して夢のようなひとときではなかったようです。

「実際にあそこにいた人間は、すぐに判別できる。最高だったなんてことを言う奴は、間違いなく映画を見ただけで、実際には来ちゃいない。・・・唯一のとりえは、全員が何か記念碑的な、歴史に残るイベントに参加しているという高揚感を共有できたことだろう。・・・」
バリー・メルトン(カントリー&ザ・フィッシュ)

<巨大イベントの崩壊と時代の終わり>
 彼は巨大なイベントに対し、より慎重になり、いい加減な企画に対しては、はっきりと反対の意思表示をしましたが、それでも止められなかったのがローリング・ストーンズが企画したオルタモントでのフリー・ライブでした。
 このコンサートは、誰もが無制限で入場できるフリー・コンサートであることと、その現場のガードマンとして、当時一世を風靡していた暴走族グループ、ヘルスエンジェルスが雇われたことで、初めからその危険さが明らかでした。この時も、急遽フィルモアのスタッフが駆けつけますが、会場で起きたヘルスエンジェルスによる黒人青年の殺害を止めることはできませんでした。
 この事件がその後もロックの歴史を語るうえで忘れられないものとなったのは、その事件がけっして偶然起きたものではなく、あらかじめ起きることが予想されていたにも関わらず、それを止めることが出来なかったことにあるのかもしれません。時代の流れは、そこまで悪化していたのです。

「ロック・フェスティバルは、あまりにも経費のかかりすぎるピクニックだ」
ビル・グレアム

<フィルモアの閉鎖>
 そんな時代の影響は、彼の城フィルモアにも現れ始めていました。店の収益は上々でしたが、しだいに大物アーティストたちは、彼の店から離れ始めていたのです。それはアーテイストたちが週に何度もライブをやるよりも、巨大スタジアムで万単位の客を前にライブをやる方が楽に稼げることを知ってしまったからでした。
 そんな状況に幻滅した彼は、1971年フィルモア・イーストを閉鎖。続いてフィルモア・ウエストも閉鎖してしまいます。(営業的にはまったく問題なかったにも関わらず・・・)この時のフィルモア・イースト最終公演は、「フィルモア最後の日」として映画化されています。(ビデオ化は権利問題で実現していないとか?)
 こうして、彼は自らの城を手放してしまいましたが、そのおかげで彼は久しぶりに自由な時間を手に入れることができました。なにせ彼は、それまで何年もの間フィルモアを離れることなく警察、ギャング団、ヘルスエンジェルス、ヒッピー集団、それに火事や人種暴動から店を守り続けていたのです。しばし、彼は世界中を旅しながら休養をとりますが、やはり音楽ビジネスの魅力からは離れられず、再び戻ってきます。

<ローリング・ストーンズと再び>
 オルタモントの事件以来、ストーンズのメンバーとは敵対関係にあったビルでしたが、お互いの実力を知る両者は、1972年今度は本当にコンビを組むことになりました。彼がストーンズの世界ツアーをプロモートすることになったのです。
 チケットの売れ行きを心配する必要がなくなった彼は、ストーンズのメンバーがいかに気持ちよくライブにのぞめるか、そのことだけに集中するようになります。そんな彼の心配りは、しだいに業界でも有名になり、他のプロモーターを出し抜く最大の武器となります。彼のとる手数料はけっして他より安くはなかったのに、彼がトップでいられたのはそのためだったと言われています。

<ロック界初の巨大チャリティー・コンサート>
 1975年、彼はサンフランシスコ市が予算削減のため、市立学校での課外授業補助金をカットするという記事を新聞で読みました。このままだと、放課後の音楽活動やスポーツ活動が困難になると考えた彼は、補助金を補うためのチャリティー・コンサートを企画します。
 このライブSNACK(San Francisco Needs Athletics,Culture,and Kicks)には、グレイトフル・デッド、グレアム・セントラルステーション、ボブ・ディランザ・バンドジェファーソン・スターシップ、サンタナ、ドゥービー・ブラザースニール・ヤングなどのミュージシャンが出演し、スピーチをするためにあのマーロン・ブランドが壇上に姿を見せるという豪華な内容でした。これがこの後80年代には次々に開催されることになる巨大チャリティー・コンサートの第一号でした。

<ラスト・ワルツ>
 1976年、ザ・バンドは長年に渡る活動に終止符を打つことになるになりました。そこで解散コンサートを行うことになり、彼はそのプロモートを担当することになりました。
 このライブについては、マーティン・スコセッシ監督のドキュメンタリー映画「ラスト・ワルツ」を見たかたも多いと思います。しかし、実際の「ラスト・ワルツ」は、ザ・バンドの「さよならコンサート」ではなく、ザ・バンドとその仲間たちによる「さよならパーティー」だったということは、ほとんど知られていません。それは、一晩かけて行われた巨大なお別れパーティーであり、同窓会でもあったのです。したがって、会場では七面鳥だけでなく数多くの料理が出され、食事をする人、ダンスをする人、音楽に聴き入る人、それぞれが好きなように楽しむことができる実に贅沢なビル・グレアム好みのパーティーだったのです。
 残念ながら映画では、このあたりはまったく触れられていません。ザ・バンドの歴史と音楽に的を絞った映画の世界も確かにそれはそれで魅力的でしたが、ビルが作り上げた夢のようなパーティーの様子も見たかった・・・残念。

<大物たちの裏方として>
 彼はその後も、ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンセックス・ピストルズグレイトフル・デッドのピラミッド前公演(ラクダしか聞いていなかったという超レアなライブだったとか・・・)など、大物たちの裏方を務めるかたわら、彼のもうひとつの城となっていたウインター・ランドのラスト・ライブを手がけたり、久々の巨大ロック・イベントUSフェスティバルを手伝うなど、相変わらず巨大イベントにはなくてはならない存在でした。

<再びやってきた悲劇>
 1985年、再び彼に悲劇が襲いかかってきました。それは、彼が新聞に出したある意見広告がきっかけでした。当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンは弱くなったアメリカを立て直すべく右派路線を突っ走っていました。その延長で彼はドイツ訪問の際、ナチス・ドイツの戦犯も眠っている戦没者墓地を訪れると言い出したのです。
 ナチス・ドイツに母親を殺され家族をバラバラにされたビルは、すぐにこの行動に抗議するため新聞に「反対」の意見広告を出しました。さらに、彼は抗議集会も開催し、徹底的にレーガンの行動を批判しました。残念ながらこの抗議集会の反応は今ひとつで、それどころかその後すぐに彼の事務所が放火されるという事件が起きたのです。(1985年5月7日)この火事は、けが人や死者こそでなかったものの、彼が所有していた数々の音楽的遺産、記念品などはこの時に失われてしまいました。自らの行為が、自分だけでなく従業員たちにまで危険をもたらしたことに彼は大きなショックを受け、しばらくの間そこから立ち直れなくなりました。

<ライブ・エイド>
 1984年、イギリスでボブ・ゲルドフの呼びかけにより、チャリティーのためのスーパー・グループ、バンド・エイドが結成され「Do They Know It's Christmas」が録音されました。その後アメリカでも、UASフォー・アフリカが結成され、チャリティー・シングルが発売されました。この動きは、アフリカ系ミュージシャンによるスター・ヴェイションだけでなく、イタリア、カナダ、フランス、トルコ、日本など世界中へと広がって行きました。
 そして、1986年そんな世界的な拡がりの集大成として、「ライブ・エイド」が開催されることになりました。それは世界中の人々がテレビの電波によってライブ中継を見ることができる巨大なイベントでした。当然これだけのイベントを仕切ることができるのはビル意外にいない、ということで再びビルが登場します。生で出演したメンバーは以下のようになっています。
Status Quo、The Style Council、The Boomtown Rats、Adam Ant、Ultravox、Spandau Ballet、Elvis Costello、Nik Kershaw、SadeSting&Phil Collins、Howard Jones、Brian Ferry(guitar:Dave Gilmore)、Simple Minds、ザ・プリテンターズLed Zeppelin(drams:フィルコリンズ、途中:Tony Thompson)、デュランデュラン、Paul Young(途中:Alison Moyet)、U2Dire Straits(途中:Sting)、QueenDavid BowieThe WhoElton John(途中:Kiki Dee、Wam!)、フレディ・マーキュリー&ブライアンメイ(Queen)、ポール・マッカートニー&デビッド・ボウイ&ピート・タウゼント(The Who)&Alison Moyet&ボブ・ゲルドフ

<アメリカ側>
Joan Baez、The Hooters、The Four Tops、Billy Ocean、ブラック・サバス&オジー・オズボーン、RUN-DMC、Rick Springfield、REO Speedwagon、Crosby Stills and Nash、ジュダスプリースト、ブライアン・アダムス、ザ・ビーチ・ボーイズ、George Thorogood and the Destroyers(途中:Bo Diddley、Albert Collins)、、サンタナ(途中:Pat Metheny)、Ashford&Simpson(途中:Teddy Pendergrass)、Madonna、Tom Petty、The Cars、Neil Young、Power Station、Thompson Twins(途中:マドンナ、guitar:Nile Rogers)、Eric Clapton(drams:フィル・コリンズ)、フィル・コリンズ、、Patti Labelle、ホール&オーツ(途中:Eddie Kendricks、David Ruffin)、ミックジャガー&ホール&オーツ(途中:ティナターナー)、Bob Dylan&キースリチャーズ&ロンウッド
 これだけのメンバーをスケジュール通りに舞台に上げるだけでも大変なことだと思うのですが、出演する順番を決めること自体が大変なことであるのは、素人が考えてもよくわかります。なにせほとんどのアーティストは我こそはナンバー1と思っているのですから、ゴールデン・タイムに出たいに決まっているのです。
 こうしたミュージシャンどうしのエゴのぶつかり合いやギャラの問題(ノー・ギャラではなかったようです!)、出演時間帯の調整や楽屋の準備など、ちょっと考えただけでも問題は、いくらでも出てきそうです。ミュージシャンやマネージャーたちとの交渉や喧嘩なども、中途半端な情熱では到底太刀打ちできないはず、金と名誉のためだけでこの仕事はけっしてできないのです。
 無事このイベントが終わった裏には、長年積み上げられてきたビルの経験と強靱なパワー、それにカリスマ性があったのです。

<巨大イベント請負人として>
 巨大イベントの請負人として、彼はその後も活躍を続けます。
 世界的な人権擁護組織アムネスティーの設立25周年を祝い、その活動を世界中にアピールするために行われた記念コンサート。
 崩壊前のソ連で行われた史上初のロック・イベント(サンタナやボニー・レイットらが出演)
 アムネスティーの活動を世界中にアピールし、人権擁護運動の活発化を促そうと計画された世界ツアー
 どれも大変な困難をともなう仕事でした。
 彼はこうした厳しい仕事を続けるうちに、いつしか薬物中毒になってしまいます。一時はほとんど仕事ができない状態に陥いり、1989年にスタートしたローリング・ストーンズのワールド・ツアーからも彼ははずされてしまいました。(したがって、日本初来日のストーンズ・ライブはビルの仕切ではなかっことになります)

<突然の死>
 しかし、何度となく死の危険を乗り越えてきたビル・グレアムという男は、そんなことで潰れてしまうような人間ではありませんでした。1990年代に入る頃には再び元気を取り戻し、精力的に活動を始めます。ところが残念なことに、彼にはもうほとんど仕事をする時間が残っていなかったのです。
 1991年10月25日、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースのコンサートを見た彼は、次なる目的地に向かうため、部下の操縦するヘリに乗りました。しかし、そのヘリが運悪く悪天候に遭遇、強風にあおられてコースをそれ送電塔に衝突してしまったのです。
 それはあまりにあっけない死でした。

<最後のイベント>
 1991年11月3日、サンフランシスコのゴールデン・ゲイト・パークで彼の死を追悼するためのイベント「ラフター、ラブ&ミュージック 笑いと愛と音楽と」が開催されました。会場には50万人近い人々が集まり、彼の死を悼むと同時に60年代に始まったロックの時代がついに終わったことを感じていました。
 カウベル以外まったく楽器が扱えなかったという一人の男が、ロックという音楽を20世紀を代表する音楽文化に育てあげたというのは、実に驚くべきことです。しかし、それは20世紀が生んだロックという音楽の性質をよく表しているとも言えるでしょう。彼によってロックは「音楽」という枠を越え、「一つの世代からなる共同体共通の総合的文化」にまで広げられたのです。
 こうして誕生した「ロック文化」という巨大な作品の総合プロデューサーとして、彼の名は永遠に語り継がれることでしょう。

<締めのお言葉>
「・・・わたしは自分のやりたいことをはっきりと把握した。生きた劇場だ。音楽と、まだ生まれたばかりのヴィジュアル・アートを気持ちのいい環境で提供し、開かれた表現を可能にする。こうした狙いが全部うまくいけば、きっと魔法のような瞬間が実現するに違いない。鍵をにぎる要素は客だ。客からの反響が、わたしへの報酬だった」

ビル・グレアム

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