- ビル・グレアム Bill Graham (前編) -

<ロック界最大の裏方>
 ビル・グレアム、60年代から70年代にかけてのロックが好きな人なら、この名を一度は耳にしたことがあるでしょう。サンフランシスコにライブ・ハウス、フィルモアを創設し、フラワー・ムーブメントを育て、モンタレーやウッドストックなどの巨大ロック・イベントを裏で支え、その後ライブ・エイドやアムネスティー・ツアーなどのチャリティー・イベントを実現へと導いたロック界を代表するプロモーター。それがビル・グレアムです。
 ロックという音楽が育つ場所を提供し、それがエンターテイメントの一ジャンルとして成立する道筋を整えたという点で、彼の果たした役割りの大きさは、ビートルズに匹敵するかもしれません。
 もちろん、彼の功績には功罪両方の面があり、「かつて芸術の域にまで高められたロックの創造性が失われていったのは彼らのせいだ」と言う人もいます。
 しかし、それは彼の思わくだけ進んだわけではありませんでした。どんどん巨大化してゆくロック・ビジネスは、時代の流れに大きく影響されざるをえませんでした。そのため彼は、常に時代と格闘しながら、数々の歴史に残るイベントやコンサートを生み出し続けたのです。
 彼は時代と音楽、そして人を結びつけることで巨大な芸術作品を生みだしたとも言えるでしょう。彼こそ「ロック世代のポピュラー音楽史」における最大の裏方かもしれません。

<ユダヤ人迫害を逃れて>
 ビル・グレアム、ユダヤ人である彼の人生を語るうえで、ナチス・ドイツによる迫害を受け命がけでアメリカへと逃亡した苦難の少年時代を語らないわけにはゆきません。
 ビル・グレアム(本名ウルフギャング・グラジョンカ)は、1931年1月8日ベルリンに生まれました。彼の父親ジェイコブ・グラジョンカは、ユダヤ系のポーランド人で、彼が生まれた後すぐにこの世を去りました。そのため彼は姉たちとともにロシア系の母親フリーダのもとで育てられることになります。父親を失った彼の家は経済的に苦しく、母親は家事だけでなく外でも仕事をしなければなりませんでした。しかし、1930年代のベルリンでは、すでにナチス・ドイツによるユダヤ人迫害が始まろうとしており、家族に生命の危機が迫っていることを知った母親は、なんとか子供たちを生き延びさせようと考えました。
 こうして先ず長女が上海に移住します。ハンガリー人の恋人の元へと旅立った姉。オーストリアのウイーンにある修道院にかくまわれた姉もいました。ビルもまたもう一人の姉とともに孤児院にあずけられ、その後姉とも別れたった一人、フランス発ニューヨーク行きの貨物船で大西洋を渡りました。
 こうして、子供たちを無事に送り出した母親は、その後貨物列車の中で毒ガスによって殺されたことが、後の調べでわかりました。

<孤独な少年>
 1941年9月21日、ビルは自由の女神の立つニューヨークに到着しました。しかし、彼の第二の人生は、その時すぐに始まったわけではありませんでした。たった一人、身よりもなくアメリカにやって来た10才の少年には、新たな人生のスタートを切るために家族が必要だったのです。そのため彼はニューヨーク郊外の施設で両親となる夫婦が現れるのを待つことになりました。
 しかし、こうして与えられた9週間にわたる待ち時間は、彼に生涯忘れられない心の傷を残すことになります。と同時に、彼が史上最強の音楽企業家になる原点にもなりました。
「あそこにやって来る人たちの話しぶりを見ているうちに、これはビジネスなんだ、という考えがはじめて頭に浮かんできた。・・・わたしの行く末をある程度まで決定づけた要素のひとつがそういう態度で見られたことなんだ。・・・」
ビル・グレアム

<ジャズとラテンの日々>
 結局彼はニューヨークのブロンクスに住む保険のセールスマン、アルフレッド・アーレンレイクの次男として育てられました。しかし、どうしても好きになれなかった新しい父親と難民として政府からでる補助金によって養われているという事実に反発し、彼は勉強よりもお金を稼ぐことに熱中し始めます。
 学生でありながらいつしか大金を持つようになった彼は、そのお金を使って映画館に通い始め、その後大好きな音楽が聴け、ダンスを踊ることができるクラブに通うようになります。当時そこで聴けたのは、世界中でブームになっていたザビア・クガートなどのラテン音楽にビリー・エクスタイン、カウント・ベイシーなどビッグ・バンド・ジャズでした。なかでも、当時一大ブームとなっていたラテン・ダンスにはまった彼は、ラテン音楽の殿堂パラディアムのアマチュア・ダンス・コンテストで優勝するほど打ち込んでいました。彼のこの好みは生涯変わらず、後に彼がラテン・ロック・バンド、サンタナを積極的にプッシュしてゆく理由ともなりました。
 彼は後にマイルス・デイビスへ出演を依頼にいった際、こういったそうです。
「・・・わたしの音楽的なバック・グラウンドは、ミゲリート・バルデスとセリア・クルース、それにディジー・ガレスピーなんです。・・・」
ビル・グレアム

<軍隊からの脱出>
 1950年アジアでは朝鮮戦争が始まっていました。母親の生死を確認できていなかった彼は、養い親の養子となる手続きを拒んでいたため、アメリカの市民権をなかなか得られずにいました。しかし、その状況ではヨーロッパに住む姉たちをアメリカに呼び寄せることが難しいことを知り、仕方なく彼は志願兵として挑戦へ向かう決心をします。(それが市民権を得る近道だったからです)
 しかし、こうして始まった軍隊での体験もまた彼の心に大きな心の傷を残すことになります。元々権力というものに反抗的だった彼は軍隊でも次々に問題を起こします。義理の母の死で、かろうじて戦場を離れることができましたが、そうでなければ彼は確実に最前線に送られ、そこで命を落としていたことでしょう。

<ウエイターとしての接客修行>
 戦場から帰還した彼は、ニューヨークの北にあるリゾート・ホテルでウエイターとして働き始めます。そこで彼は初めて接客業というものの魅力に気づくと同時に、自分にその方面の才能があることに気づきました。そして、いかにしてお金を稼げばよいのか?サービス業の極意をつかみ取って行きます。これは後に彼が始めることになる劇場経営に大いに役立つことになります。しかし、それ以上に重要なのは、彼がここで観客を喜ばすことの快感を知ったことです。そのおかげで、彼はプロモーターとしてのきつい仕事をその後20年にわたり続けることができたのです。

<俳優修行>
 ある日、サンフランシスコに移住していた姉から、こっちに来てみないか、という誘いがありました。そこで彼は初めてサンフランシスコを訪れ、そこでサラリーマンとしての生活を始めます。ところが、俳優の仕事にひかれていた彼は演劇の修行を始め、ニューヨークでアクターズ・スタジオのリー・ストラスバーグの指導を受けるチャンスをつかみます。結局気の強い彼は偉大な指導者リー・ストラスバーグに喧嘩を売って教室を追い出されますが、どちらにしてもアクの強い彼の顔にはギャングの悪役しか回って来なかったのですから、俳優への道は遠かったのかもしれません。(その後、彼が有名人になってから何度も映画出演の機会が訪れます。しかし、彼に回ってきたのはアル・カポネや悪辣なプロモーター(コッポラの「コットン・クラブ」)などの役ばかりでした)

<マイム・トゥループでの裏方修行>
 俳優になる道をあきらめかけていた頃、彼は再びサンフランシスコに戻り、そこで左翼系前衛演劇集団マイム・トゥループ Mime Troupeの裏方を務め始めます。彼は劇団のためにポスター貼り、チケット売り、荷物や機材の運搬など、裏方仕事をなんでもこなすようになります。すでに30代に突入し数多くの仕事をこなしてきた彼は、地元の若いヒッピーたちにとって、東海岸出身の凄腕ビジネスマンとして、なくてはならない存在になっていました。(彼は、その後フィルモア・イーストとフィルモア・ウエストを設立し、東海岸の文化と西海岸の文化を融合させる役目を果たすのですが、この時からそれは始まっていました)
彼はマイム・トゥループについて、こう言っています。
「なんでマイム・トゥループにひかれたのかというと、連中が社会を変革しようとする試みに荷担していたからだ。それはもう、誰が見てもはっきりしていた。・・・連中は劇場を通じて社会への不満を表現していた。劇場を公共の演壇として用い、世界の動きに対する意見を表明するという意味では、連中はわたしがそれまでに出会ったどのようなラディカルよりもラディカルだった」
<プロモーター修行開始>
 マイム・トゥループのエネルギーは、当時の若者たちの政治意識だけでなく芸術、文化のパワーを凝縮したもので、後にサンフランシスコから全米へと広がって行くフラワー・ムーブメントの原点でもありました。
 彼はその重要な裏方として公演を仕切る中で、これこそが「未来のビジネス」だという確信を得たと言います。そして、しだいに彼は裏方としての仕事に熱中するだけでなく、自分自身で公演を企画してゆくようになります。それはマイム・トゥループとの決別であり、プロモーター、ビル・グレアムの誕生でもありました。

<フィルモア・オーディトリアム誕生>
 マイム・トゥループは公園で行ったゲリラ公演で警察に逮捕された団員を救い出すため、ベネフィット公演を開催し、大成功をおさめます。その後彼らは再度ベネフィット公演を企画しますが、そのほとんどをビル・グレアムが仕切りました。そして、その時会場としてビルが選んだのがサンフランシスコの黒人街に立つライブ・ハウス「フィルモア・オーディトリアム」でした。
 こうして彼は少しずつマイム・トゥループから離れ、独自にコンサートを開催するようになります。当時の公演における出演メンバーの中には、ジェファーソン・エアプレイン、後にジェファーソンに参加する前のグレイス・スリックが所属していたグレイト・ソサイエティー、グレイトフル・デッドそれにフランク・ザッパなどがいました。
 彼らのライブは地元で絶大な支持を得ていたため、マイム・トゥループはその合間に政治的な主張を込めた芝居や詩の朗読などを織り込むことで一躍シスコ一有名な存在となってゆきました。フィルモアの支配人となったビルもまた、そんな人気バンドたちの力を借りながら、より新しいライブのスタイルを築き上げて行きます。
「・・・新しい文化のために、新しい会場を開くことが、社会的な武器になる。それが社会的な武器となり、社会を変革するだろう」
ビル・グレアム

<サイケ時代の幕開け>
 1966年1月フィルモアで「トリップス・フェスティバル」というイベントが開かれました。これは当時サンフランシスコで盛り上がりつつあったサイケデリック・ムーブメントの総決算的なイベントで、「カッコーの巣の上で」で有名なケン・キージー率いるサイケデリック・ヒッピー集団メリー・プランクスターなど、この頃のヒッピー文化をリードする人々が集まりました。
 しかし、LSDなどの新しい麻薬を用いたトリップとライト・ショーをまじえたサイケデリックな音楽によるトリップ。これらをひとつのショーとして組み立てることは、たいへんな困難をともなうものでした。ほとんどの出演者や観客が薬によってぶっ飛んでしまっている中、ビルを中心とする裏方たちだけは常に冷静にショーを運営管理していたからこそ、それは可能になったのです。
 もし彼らのような存在がなければ、サイケデリック・ムーブメントは単にヒッピー集団内のマスターベーションに終わっていたかもしれません。実際ビルの仕切りによって、フィルモアはどんどん知名度を上げ、そこに出演するアーティストたちもまたしだいに全国区の存在へとのし上がって行きました。

<フィルモア発のミュージシャンたち>
 ビルは、知名度の上がったフィルモアの舞台を用いて、新たなる才能の発掘と知られざる才能の紹介、それに異なるジャンルをクロスオーバーさせることで新たな発展を生み出して行きました。
 シカゴ発の白黒混合バンド、ポールバターフィールド・ブルース・バンドを紹介し、本格的なブルースロックが若者たちの間にブームとなるきっかけをつくりました。
 ボブ・ディランの影に隠れ幻のバンドと言われていたザ・バンドをステージに上げ、本物のルーツロックを世界に広めたのも彼です。
 イギリスからブリティッシュ・ブルース・ロックの最高峰、クリームをアメリカに呼び寄せ、エリック・クラプトンの存在を世に知らせたのも彼です。
 さらに彼は自らが愛してきた音楽、R&B、ジャズ、ブルースなど黒人音楽のヒーローたちを次々と白人の若者たちに紹介して行きました。オーティス・レディング、アルバート・コリンズ、マディー・ウォーターズB・B・キングマジック・サム、ジェームス・コットン、チャック・ベリー、ボビー・ブランド、ステイプル・シンガーズ、ジェイムス・ブラウン、ハウリン・ウルフ、ローランド・カーク、キャノンボール・アダレイ、マイルス・デイヴィス。まだまだ幼かったロックの世界に、これら本物の黒人音楽を紹介したことで、ファンだけでなく共演する白人アーティストたちも大きな影響を受けることになったのです。そこは新たな進化をとげるための実験室となっていました。
「・・・64年とか65年とか66年あたりには、黒人と白人がいっしょにツアーしてもオーケーなのは南部だけだったんだ。北部だとそれがえらく面倒なことになったし、大都市とか産業の中心あたりじゃ、絶対的に不可能だった。・・・」
キースリチャーズ(ローリング・ストーンズ)

<ロックを育てた男>
 彼はフィルモアという教室でロックという新しい音楽を、エンターテイメントの一ジャンルへと育てた人物でもありました。
「ビルは、PAシステムに少しでもお金をかける気になった音楽業界はじまって以来のプロモーターだった・・・」
ピート・タウンゼント(ザ・フー)
 ビルは、素晴らしいコンサートにするためには、ミュージシャンや彼らのマネージャーたちと喧嘩することもいとわない人物でした。
「ビルはよく、ビジネス面での責務を回りに説いて聞かせていた。現にあの当時、バンドのマネージャーをやっていた連中は、ビルに言われなかったら、ずっと役立たずのままだっただろう」
ジム・ヘイニー(元フィルモア従業員)
 それだけではなく、常に対立状態にあったクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのメンバーを同じ舞台の上にあげ、無事ライブを終えさせることができたのも、彼の手腕のおかげでした。
 ジミ・ヘンドリックスの驚異的なパフォーマンスがかえって彼に音楽の本質を忘れさせていると感じた彼は、ジミーにもっとギターを弾くことに集中するよう忠告を与えました。
 アンコールに応えようとしないジェファーソンやローリング・ストーンズのメンバーを説き伏せアンコールに応えるようにさせたのも彼でした。彼はあらゆるアーティストたちに対し、聞きに来てくれている観客の気持ちに答えることを厳しく要求しました
 いよいよ「フィルモアの時代」、「サイケの時代」、そして「ロックの時代」が始まろうとしていました。

<中締めのお言葉>
「なあ、今夜は誰が出てるんだっけ?」
「おれも知らない、でも別にかまわないだろ?だってここはフィルモアなんだぜ」

ある晩、フィルモアのトイレで聞かれた会話より


<参考資料>
「ビル・グレアム - ロックを創った男 -」
ビル・グレアム、ロバート・グリーンフィールド(著)
奥田祐士(訳)
この本、分厚いですが間違いなく面白いです!是非読んでみて下さい。
ロック界の大物たちのエピソード満載です。

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