- ビリー・ジョエル Billy Joel -

<ニューヨークへの想い>
 ビリー・ジョエル、今やニューヨーク市民の愛唱歌のひとつになった「ニューヨークへの想い New York State Of Mind」の作者です。彼はまたウディ・アレンポール・サイモンらと同じく典型的ユダヤ系ニューヨーカーでもあります。しかし、生まれも育ちもニューヨーク郊外の新興住宅地、ロング・アイランドだったということが、彼の音楽性に他のニューヨーカーとは異なる影響を与えました。
 それは彼が個性のない生まれた街をきらい、ニューヨークの雑踏をより深く愛したからだけではなく、それ以上にニューヨークという巨大な街を一歩離れた外からの視点でとらえることにつながったからです。(当時最新型だった住宅地は、ロング・アイランドの自然をつぶし、区別のつかない同じ型の家を並べて作られ有名な街です。このことは、彼のアルバム「リバー・オブ・ドリームス」の中の曲「ノー・マンズ・ランド」にも書かれています)
 この「外からの観察者」という彼の視点は、デビュー当初の「路上の観察者」から、しだいに「アメリカ合衆国の観察者」(「ナイロン・カーテン」など)へとその視点を広げ、その後はもう一つの視点「心の観察者」(「リバー・オブ・ドリームス」など)という内なる視点へと変わってゆきました。

<ビリーの青春>
 ビリーが生まれたのは、1949年5月9日。ちょうど戦後のベビー・ブーマー世代にあたります。ヒトラーによって、危うく処刑されるところだったユダヤ系ドイツ人移民の父親のもと、ロング・アイランドで少年時代を過ごしましが、あまりに無個性な街とそこでの平穏無事な生活に嫌気がさしていた彼は、いつしか不良少年たちの仲間入りをし、ついには逮捕されるところまでいってしまいました。
 しかし、その後はビートルズなどロック・ミュージックとの出会いから、その怒りを音楽にぶつけるようになり、ロック・バンドを結成。初めはロックン・ロールを演奏していましたが、ヤング・ラスカルズを目指して、ブルー・アイド・ソウルに転向。さらには、ジョン・スモールというドラマーと二人組のバンド、アッティラを結成し、クリームなどの影響を受けたサイケデリック・ロックを演奏したりしました。これらの多ジャンルにわたる音楽活動は、後に大いに役立つことになります。

<ほろ苦いデビュー作>
 1972年、彼は当時、時代の主流になりつつあったシンガー・ソングライターとして、デビュー・アルバム「コールド・スプリング・ハーバー 〜ピアノ詩人〜」を発表しました。ところが、このアルバムは、あきらかな録音ミスのために最悪のできになっていました。おまけに著作権をほとんどプロダクションに売ってしまっていたため、彼は身動きがとれなくなってしまい、一時ロスへと逃げ出すことにもなってしまいました。この過ちは、この後も尾を引き、セカンド・アルバム「ピアノ・マン」(1973年)が100万枚以上の売上を記録したにも関わらず、彼の手元には1万ドルも渡らなかったということです。
 その後、マネージャーを勤めていた彼の妻が解決にあたり、なんとか事態は収まり、彼は再スタートを切ることになりました。(しかし、後にこの妻と離婚訴訟で泥試合を演じることになるというのは、皮肉なことです)

<時代の波に乗る>
 この後彼は、やっと順調に作品を発表できるようになり、シンガー・ソングライターとAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)のブームにも乗ってヒットを連発して行くことになりました。
 「ストリート・ライフ・セレナーデ」(1974年)、「ニューヨーク物語 Turnstiles」(1976年)(「さよならハリウッド」、「ニューヨークの想い」収録)がヒットした後、1977年に発表したアルバム「ストレンジャー The Stanger」が世界的なヒットとなり、一躍彼は世界的なスーパー・スターの仲間入りを果たしました。
 彼がかつて演奏していた多彩なジャンルの音楽は、いよいよそれぞれのアルバムにおいて生かされて行くことになります。ロックン・ロールやソウルはもちろん、ティンパン・アレー時代のなつかしいポップスの要素から最新のパンク、ニューウェーブまでを取り込んだ幅の広い音楽性と路上詩人としての彼の観察眼が生む優れたストーリーが新しいのに親しみやすい素晴らしいポップスを生み出したのです。

<バラエティーに富む作品群>
 彼が凄いのは、「ストレンジャー」という完成度の高い大ヒット作を発表していながら、その後のアルバムにおいて守りに入るということをせず、新しいチャレンジを続けていったことにあるでしょう。
ニューヨーク52番街 52nd Street」(1978年)では、マイケル・ブレッカー、デイブ・グルーシン、フレディー・ハバード、マイク・マイニエリなどを起用することで、ジャズ・テイストを導入。「ビッグ・ショット」、「オネスティー」、「マイ・ライフ」などのヒットを生みました。
グラス・ハウス Glass Houses」(1980年)では、それまでのAOR路線からニューウェーブ系のパワフルなロックにチャレンジ。「ロックン・ロールが最高さ」、「ガラスのニューヨーク」、「真夜中のラブ・コール」、「ドント・アスク・ミー・ホワイ」がヒット。
ナイロン・カーテン」(1982年)では、それまで取り上げたことのなかった社会問題、それもベトナム戦争と帰還兵の問題、それに右よりレーガン政権の愚かな政策にスポットを当て、彼のもうひとつの傑作として記憶に残る作品となりました。このアルバムからは、「プレッシャー」、「グッドナイト・サイゴン」、「アレンタウン」などのヒットが生まれています。
イノセントマン An Innocent Man」(1983年)は、前作とは気分を一新、彼にとってのルーツ・サウンドでもあるフォー・シーズンズやリトル・アンソニーらのオールディーズ・ポップスをアカペラも交えて展開してみせました。このアルバムからは、「あの娘にアタック」、「イノセント・マン」、「ロンゲスト・タイム」、「アップタウン・ガール」などのヒットが生まれました。
ザ・ブリッジ The Bridge」(1986年)では、レイ・チャールズ(ビリーの娘の名はレイといいます、これは彼が尊敬するピアノ・マン、レイ・チャールズにあやかっています)、シンディー・ローパー、スティーブ・ウィンウッドらとの共演を実現させ、その後彼にとって最も重要なライブとなったソ連ツアーをライブ・アルバム「コンツェルト」(1987年)として発表。この時の体験から生まれた曲「レニングラード」を収録したアルバム「ストーム・フロント Storm Front」(1989年)では、これもそれまでなかった自分自身の心情を表現するということを積極的にし始めた。これは以後の作品で、さらに明確になって行きました。
 そんな彼の90年代を代表する傑作アルバムが「リバー・オブ・ドリームス River Of Dreams」でした。このアルバムの収録曲「見えない真実 Shade Of Grey」にこんな歌詞があります。
「若い頃は、世の中が完璧にクリアーに見えたものだ
 疑いも恐れもなく、真実のみを追究していた
 近頃じゃ、自分が何を相手に戦っているのかさえ確かじゃない
 僕の信念は揺らいでいくばかり
 もう確かなものは何もない・・・」
 対訳:山本安見

<路上の観察者から心の観察者へ>
 ニューヨークの街の「路上の観察者」としてスタートした彼ですが、人生は観察者でばかりはいられません。かつては、彼とともに人生を歩んでいた妻のエリザベスとの離婚訴訟やその後彼のマネージャーとなった義理の弟による使い込み事件などは、特に彼の人生観に影響を与えたようです。自分の中にある大きな心の不安という巨大な川の存在に気づいた彼は、しだいに「心の観察者」へとなっていったのですが、それは多くの大人たちも同じように気づいて行くことなのかもしれません。

<成長し続けるアーティスト>
 こうして、自らの人間的成長とともに、彼はその音楽性も変えていったわけですが、こういうタイプのアーティストは、考えてみると以外に少ないのかもしれません。もしかすると、これはもの凄く困難な道なのかもしれません。
 ぱっと思い浮かぶのは、ブルース・スプリングスティーン、それにボブ・ディラン、日本なら佐野元春。彼らは、未だにパワーが衰えないだけでなく、その音楽スタイルや歌詞の内容は常に変化し続けています。ジョン・レノンも、もし1980年に暗殺されなければ、きっとそんなアーティストたちの仲間入りをしていたでしょう。そうそう、ニール・ヤングもいました。でも、彼の場合は、年をとるごとに若返り続けている特殊な例かもしれません。
 もちろん、他にもいっぱいいますが、こうして変化を繰り返して行く中でも、けっして変わることのないそのミュージシャンならではの確固たる個性が存在するかどうか。それこそが、天才の天才たる所以なのかもしれません。そうそう"Just The Way You Are"です!
<追記>
 2002年6月28日の新聞にビリー・ジョエルがアルコール依存症治療のための病院から退院したという記事が載っていました。相変わらず、彼は心の中の川と悪戦苦闘しているようです。

<締めのお言葉>
「芸術そのものは、目に見える世界に最高の公平な判断を下そうとするひたむきな試みとして定義できる」
ジョセフ・コンラッド

<参考資料>
「ロック伝説」ティモシー・ホワイト著(音楽之友)

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