- ビリー・プレストン Billy Preston -
<5人目のビートルズ>
 ビリー・プレストンの名前を聞いたことが無くても、多くのロック・ファンなら一度は彼の演奏する姿を見たことがあるでしょう。なぜなら、ビートルズが行なった伝説のアップルレコード屋上でのライブで「GET BACK」の演奏の際、キーボードを担当していたのが彼だったからです。
 当時、彼は「五人目のビートルズ」と呼ばれたいましたが、なぜ彼がそう呼ばれていたのか?
 考えて見れば、ジョージ・マーテインやブライアン・エプスタインの方が、よっぽど5人目と呼ぶにふさわしいのでは?と僕は思っていました。でも改めてビートルズの歴史を振り返ると、彼の存在の大きさはもしかすると「5人目のビートルズ」と呼ぶに値したのかもしれないと思えてきました。
 というわけで、伝説を支えたキーボード奏者の不思議な人生を振り返ります。

<生い立ち>
 ビリー・プレストン Billy Preston は、本名をウィリアム・エヴァレット・プレストンといい、アメリカ南部テキサス州ヒューストンで1946年9月2日に生まれました。
 3歳の時には、母親の膝の上に乗ってピアノを弾いていたという天才鍵盤少年で、10歳の頃には教会の礼拝でオルガンを演奏していたそうです。母親のロビー・プレストンが聖歌隊の指揮者であり、ピアニストでもあったので、その血を受け継いだのでしょう。しかし、その天才的な演奏能力だけでは彼のその後の興味深い人生はなかったはずです。彼には、様々な人と自分を結びつける特殊な人間的魅力があったように思えます。その最初の徴は、彼が10歳の時に起きました。

<映画の世界へ>
 ジャズの元祖とも言われるミュージシャン、W・C・ハンディの伝記映画を準備中だったパラマウント映画のスタッフがマヘリア・ジャクソンに出演を依頼するため、彼女が歌っていたチャーチ・オブ・ゴッド・イン・クライスト教会を訪れていました。彼らはそこでW・C・ハンディの子供時代を演じさせるのにぴったりの少年を見つけます。それがビリーでした。こうして、彼は映画「セントルイス・ブルース」に出演しましたが、彼はそのまま映画界で働こうとは思いませんでした。
 母親譲りの音楽的才能を持っていた彼は、やはり音楽の世界で生きるつもりでした。

<ゴスペルの世界へ>
 1960年代の初め、彼はA・A・アレンというゴスペル界でも有名な牧師と共に福音伝道の旅に出ます。映画「ブルース・ブラザース2000」などにも出てきたテントでの伝道活動やレコードの録音などに参加しました。
 その後、シンガー・ソングライターのジェームズ・クリーブランドと知り合い、彼のゴスペル・グループ、クリーブランド&アンジェリック・クワイヤのアルバム録音に参加。その時のアルバム「Piece Be Still」(1962年)は、大ヒットし100万枚を売り上げました。
 当時、ゴスペルの世界は単なる讃美歌の歌唱から、エンターテイメントとして観客を楽しませる音楽へと変化しつつある変革の時期にありました。その先駆者で「現代ゴスペル・ミュージックの父」と呼ばれる牧師、作曲家、プロデューサーのアンドレ・クラウチが率いるCOGICSでも彼は大きな役割を果たしています。
 そのまま行けば、彼はゴスペル界の伝説的オルガニスト、作曲家になっていたかもしれません。しかし、運命は彼に再び変化の時をもたらすことになります。

<ロックンロールの世界へ>
 1960年代に入り、ロックンロールの世界からゴスペルの世界へと転向したリトル・リチャードが、歌う伝道師となって世界各地を巡るゴスペル・ツアーのため、ヨーロッパに向かうことになります。そして、そのツアーメンバーにオルガニストとしてビリーが加わることになります。
 ところが、彼らが向かったイギリスでのコンサートで事件が起きます。多くの観客がリトル・リチャードのロックンロール・ナンバーを聞きたがり、ついには暴動が起きそうな状況になってしまったのです。仕方なくバンドはリトル・リチャードのヒット曲を演奏することになりました。こうして彼は突然、ロックンロールを演奏することになります。さらに運命は彼に新たな出会いを用意します。
 ツアーは、イギリスからドイツへと向かい、米軍基地の多いハンブルグでも彼らはコンサートを行いますが、そこで同じようにロンドンからツアーに来ていた若手のロックバンド、シルバー・ビートルズのメンバーたちと仲良くなったのです。もちろん後のビートルズです。

<R&Bの世界へ>
 ビリーが参加したゴスペルツアーには、リトル・リチャードの他にも大物シンガーが参加していました。それはリトル・リチャードとは逆の存在。ゴスペル歌手からスタートし、その後、ソウル歌手として大ブレイクすることになるサム・クックでした。ツアー中にビリーはサムとも親しくなったため、ツアーからアメリカに帰国後、サムからレコーディングに招かれます。こうして、彼はサム・クックの代表曲「リトル・レッド・ルースター」(1963年)でオルガンを弾くことになりました。
 サム・クックのバックで有名になった彼は、R&Bの名門レーベル、ヴィ―ジェイからオルガンによるインストロメンタル・アルバムを発表。さらにキャピトルで録音したオルガン・ポップ・アルバム「Wildest Organ In Town」(1966年)では、編曲家としてまだ無名に近かったスライ・ストーンが参加していました。(後に彼はスライがファミリー・ストーンと共にブレイクした後、のアルバム録音に呼ばれることになります!)
 1966年、彼はバックバンドのメンバーを探していたレイ・チャールズの元で働き始めます。1966年のヒット曲「Let's Go Get Stoned」の録音にも参加した彼は、バンドと共にレイのイギリス・ツアーのメンバーとなります。再び彼はイギリスに向かうことになりますが、そこで再び奇跡が起きることになります。

<ロックの最前線へ>
 1968年、リトル・リチャード以上にイギリスでの人気が盛り上がっていたレイ・チャールズのライブには、大観衆が詰めかけていました。そして、その中にはザ・ビートルズのメンバー、ジョージ・ハリスンがいて、ライブ終了後に再会。その後、彼はジョージに呼び出され、ビートルズのアルバム録音に参加するよう依頼されました。こうして、運命は彼を「五人目のビートルズ」へと導くことになりました。
 彼は「レット・イット・ビー」、「アビイ・ロード」というロック史に残る名盤の録音に参加。曲としては「Let It Be」、「Get Back」、「Something」で演奏しただけでなく、伝説的なアップル社屋上でのライブでもキーボードを演奏しています。ここで重要なのは、彼の存在は単なる演奏者としてだけではなく、セッションにおける潤滑油としての役割も果たしていたということです。
 この時期、ビートルズはすでに解散が決定的になっていて、ポールとジョンの仲は最悪で、いつケンカが起きて録音が止まってしまうかわからない状況にありました。

「<レット・イット・ビー Let It Be>のアルバムと映画を救ったのは、ビリーだと思う」とデレク・テイラーはコメントしている。
「おかげでビートルズのメンバー全員が、目いっぱい行儀よくしたら、お客さんに失礼だろ。リヴァプール風のこき下ろしはビリーの前じゃ禁物だった。彼はあの場にいられることを楽しんでいたし、その気持ちはビートルズにも伝染した。とにかくだれかがなにかをしてくれて、ほんとうにありがたいと思ったのを覚えている。それぐらい、当時の雰囲気は最悪だった」
ザ・ビートルズ解散の真実」(著)ピーター・ドゲットより

 もし、彼がいなかったら、2枚の名盤は生まれなかったかもしれません。だからこそ、彼は「五人目のビートルズ」と呼ばれるに値したのです。

<ソロ活動スタート>
 彼はビートルズとのつながりからアップルと契約し、ソロ・アーティストとしての活動をスタートさせます。ヴォーカル&キーボード奏者として発表した「That's The Way God Planed It」(1968年)は全英チャート11位。1971年の「My Sweet Road」は、R&Bチャート23位。
 この後、彼はA&Mと契約し、さらなる成功を遂げます。ポップ・ファンクと呼ばれるジャンル最初のヒット曲となったファンキーなインスト曲「Outa-Space」(1972年)は、R&Bチャート1位。1973年の「Round In Circles」がポップ・チャートのナンバー1となり、続く1974年の「Nothing From Nothing」もポップ・チャートのナンバー1!と大ヒット。この曲が収録されたアルバム「Kids and Me」の中の曲「美しすぎて」は、1975年にジョー・コッカーにカバーされポップチャート5位のヒットになりました。
 A&M在籍中、彼はソロ活動だけでなくセッション・ミュージシャンとして多くのアーティストたちをサポートし、多くの名曲を生み出しました。その中には、アレサ・フランクリンスライ&ファミリーストーンクインシー・ジョーンズ、バーブラ・ストライサンド・・・
 中でもローリング・ストーンズとの活動は、ここでもまた「もう一人のストーンズ」と呼ばれるほどでした。ストーンズの歴史的名盤である「スティッキー・フィンガース」、「メイン・ストリートのならず者」の録音に参加し。彼らのツアーメンバーとして長く行動を共にしています。彼の人柄はストーンズのメンバーにも愛されたようです。

<その後のビリー>
 この後、彼はゴスペルシンガーとしてマール・レコードと契約。同時にソウルシンガーとしてモータウンと契約するという二刀流のアーティストとして活動を続けます。しかし、ソロ活動での成功はここまでで、この後は、引っ張りだこのセッション・ミュージシャンとしての活動がメインとなって行きました。
 21世紀に入っても、彼はエリック・クラプトンのツアーメンバーやエルトン・ジョン、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのセッションなどに参加しています。
 2002年に腎臓移植手術を受けましたが、移植後も機能が回復せず、2006年6月6日アリゾナ州スコッツデールで死去。意外なことにまだ59歳という若さでした。

 1960年代末というロック、ソウルが最も勢いのある時代にアメリカとイギリスを股にかけ様々なアーティストと共演したビリー。その時代のポップ・ミュージック界の重要な証言者として、彼にインタビューができたら、きっと面白い話が聞けたはずです。
 僕としては、是非、彼を主人公にした映画を作って欲しいです。リアルな音楽版の「フォレストガンプ 一期一会」ができるはずです。きっと面白いはず。監督はスパイク・リーにお願いしたいのですが・・・。 

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