ブラック・アスリート・ストーリー

- メジャー・リーグ・ベースボール編 -

<黒人初のメジャー・リーガー>
 黒人初のメジャー・リーガーとして有名なのは、2013年公開の映画「42 世界を変えた男」で描かれているジャッキー・ロビンソンです。しかし、本当は彼がメジャー入りした1946年よりもはるか昔、1884年にメジャー・リーガーとして42試合に出場した黒人選手がいます。では、なぜ彼は黒人初のメジャー・リーガーと言われないのか?そこにはアメリカにおける黒人に対する人種差別の問題や社会状況の変化が大きく関わっています。
 黒人プロ野球選手のメジャー進出と活躍の歴史をここで取り上げます。

<幻のメジャー・リーガー>
 黒人初のメジャー・リーガーとなるモーゼス・F・ウォーカーは、1856年オハイオ州のマウントプレゼントに生まれました。彼は野球選手としての能力を高く買われオ-バリン大学入学後、ミシガン大学に転学します。もちろんミシガン大学でも野球の代表選手として活躍。1884年にメジャー・リーグのチーム、ブルーストッキングスの捕手としてデビューを果たします。
 その年、彼は42試合に出場し、打率は2割6分3厘、打点は23でした。しかし、彼はその間様々な苦労を余儀なくされていたようです。時代はまだ19世紀のことです。人種差別の壁は厚かったのです。たとえば、チームのエースだった白人投手トニー・マレーンは、彼に対しお前の指示では投げないと彼に宣言していました。サインを無視した投球はキャッチすることが困難だったため、彼はこう言い返したといいます。

「サインなしでやるなら、どんな球でもとってやる。だがな、サインを無視された球は落とすかもしれん、奴はそう言った。
それからというもの、俺たちはサインなしでやることになった。俺は好きな球を投げた。やつはどんな球でもとった。・・・」
トニー・マレーン(投手)

 ノーサインでボールを捕り続けたのですから、恐るべきキャッチャーです。1887年、彼はニューアーク・リトルジャイアンツに移籍します。そして、そこで黒人投手のジョージ・ストーヴィとバッテリーを組むことになりました。やっと黒人選手同士でコンビを組めることになたわけです。ところが、この年のリーグ・オーナー会議において、次のシーズンから各チームは黒人選手と契約しないという決定が下ります。その後、他のリーグも同じように黒人選手との契約をやめたため、1889年までにメジャーから彼を含む黒人選手は完全に消えてしまいました。

<プレッシーvsファーガソン裁判>
 1892年6月7日、ホーマー・A・プレッシーという青年がファーストクラスの切符を購入して鉄道に乗車したとして、人種分離法により逮捕されました。(ファーストクラスはもちろん白人専用です)人種によって乗車拒否をすることは、法の下での自由を尊重する憲法に違反するのではないか?黒人の血を8分の1もつ彼の裁判は連邦最高裁にまで持ち込まれました。しかし、1896年、最高裁は人種分離法を合憲と判断しました。
 「人種を分離することは、有色人種を劣等とみなす行為ではなく、お互いのための便宜的な行為にすぎない」という論理が認められた結果でした。この判決により、アメリカ全土で鉄道や映画館、野球場などでの人種分離が進むことになりました。もちろん、スポーツ界もその例外ではなかったわけです。こうして、メジャーでの黒人選手の活躍は遠のくことになりました。人種差別撤廃の歴史は、ここで50年近く後戻りすることになります。

<ジャッキー・ロビンソン>
 現在、黒人初のメジャー・リーガーと一般的にいわれているジャッキー・ロビンソンが生まれたのは、前述のモーゼス・F・ウォーカーがメジャーを追い出されてから、世紀を越えて30年以上後のこと、1919年の1月31日のことになります。彼は当時でもなお人種差別が激しかった南部ジョージア州のカイロという田舎町に生まれました。父親は小作農で、彼は四男一女の末っ子でした。貧しい家庭の上に浮気を繰り返す夫との生活に嫌気がさした母親は子供たちを連れて家を出るとカリフォルニア州のパサデナに移住します。当時活躍していた他の黒人アスリートたちと違い彼の生い立ちは、けっして恵まれたものではありませんでした。母子家庭で育てられ、長男は知的障害者で次男はバイク事故で死亡しています。
 彼はスポーツ、学業ともに優秀だったこともあり、パサデナ・ジュニアカレッジからUCLAに進学できたものの、経済的な理由でUCLAを卒業できませんでした。それでも彼は体育の講師として働くチャンスを得ますが、そこで太平洋戦争が勃発してしまいます。そして彼は1942年から1944年まで兵役につきますが、そこでも彼は差別に苦しむことになりました。彼は軍隊内の人種分離に反抗して、軍法会議にかけられてしまいます。この時は、幸いなことにジョー・ルイスら黒人アスリートたちからの支援や人種対立を恐れた軍の思惑に救われ無罪となりました。こうして彼はなんとか無事除隊することができました。
 幸いなことに時代は変化しており、彼が帰国するとアメリカ社会は差別禁止を受け入れる方向に変化し始めます。軍隊における黒人たちの活躍が多くの白人たちの気持ちを動かしたともいえますが、多くの若者を戦争で失ったことで再開した野球界が選手を必要としていたせいだっともいえます。実は彼のミドル・ネームである「ルーズベルト」は、黒人へのリンチに反対し黒人官僚をいち早く採用したことでも知られるアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトを意識して母親がつけたといわれています。彼が差別を乗り越えようとした強い思いは、母親から受け継いだものでもあったのです。
 帰国後、彼は黒人リーグの名門チーム、カンザスシティ・モナークスのショートとして活躍します。すると、そんな彼のプレーにメジャーの名門球団ブルックリン・ドジャースのGMブランチ・リッキーが目をつけました。そして、彼をスカウトするとドジャース傘下の3Aチームであるモントリオール・ロイヤルズに入団させます。この時すでに彼は黒人メジャー・リーガーを誕生させる決意を固めていたといえます。しかし、それはリーグの歴史を変える事であり、決して簡単なことではなかったはずです。ある意味、そこで重要だったのは、ジャッキーの実力以上にブランチ・リッキーという人物の決意の固さこそが重要だったのかもしれません。彼の存在なしではメジャー・リーガー、ジャッキー・ロビンソンは誕生しなかったかもしれないのです。

<ブランチ・リッキー>
 後にドジャースGMとなるブランチ・リッキーは、アメリカ北部オハイオ州の出身で、野球選手ではありましたがメジャーでは平凡な成績しか残していません。しかし、現役引退後、コーチなどを経て、セントルイス・カージナルスなどで監督を務めるなど実績を積むと、その能力を買われドジャースのGMに抜擢されました。彼は指導者として優秀だっただけでなく、チーム全体を改革する経営者としても優れた手腕を発揮することで高く評価されていたようです。
 彼はチームを強くしただけでなく、ファーム制度の導入やバッティング・ヘルメットの使用、ヒスパニック系初のメジャー・リーガーであるロベルト・クレメンテの入団も実現させた球界の改革者でもありました。そして、そんな彼の改革すべき目標として存在していたのが、黒人選手に対する差別の撤廃でした。なぜ彼がそこまで人種問題にこだわったのかというと、そこには彼の個人的な体験が関わっていました。
 1904年、彼がオハイオの大学チームのコーチを務めていた時、インディアナ州への遠征でチームのメンバーである黒人選手がホテルに宿泊を拒否されるという事件がありました。北部のチームでは、早くから黒人への差別が少なかっただけに、そうした人種差別は彼にとって衝撃的なものだったようです。彼は仕方なくその選手を自分の部屋につけさせたハンモックで寝かせることになりましたが、彼が見せた悔し涙を忘れることはできませんでした。その日から彼の心の中では、野球によって人種差別を撤廃することが人生における重要な目標の一つになったようです。

<ジャッキー、デビューへ>
 ブランチ・リッキーは、ジャッキーとの契約の際、球場でどんな悪口を言われても冷静に試合に臨むと約束できるかどうかを尋ねたといいます。するとジャッキーは逆にこう問い返しました。
「あなたは、そんな目に遭っても反抗できない弱虫ニグロが欲しいのですか?」
それに対してのリッキーの答はこうでした。
「私はそれでも反抗しないだけのガッツがあるやつが欲しいのだ」

 1946年4月18日、彼は3Aロイヤルズの内野手として先発メンバー入りを果たし、ジャージーシティー・ジャイアンツとの開幕戦に出場しました。その試合での彼の成績は5打数4安打1ホームランという衝撃的なものでした。この年、彼は3割4分9厘で見事首位打者となり、3ホームラン、66打点、40盗塁を記録しています。文句なしの活躍をみせた彼は翌年、満を持してメジャー・デビューを果たすことになります。
 1947年4月15日、彼はブルックリン・ドジャースの内野手として、2リーグ制以降初の黒人メジャー・リーガーとしてデビューを果たしました。この年の彼の成績は、打率が2割9分7厘、12ホーラン、48打点、29盗塁。見事に新人王と盗塁王を獲得しました。
 ジャッキーがメジャー・リーガーになれたことと活躍できたことは、彼を見守ってくれたブランチ・リッキーのおかげですが、彼の活躍は白人選手の持っていた黒人選手に対するイメージを大きく変え、後に続く選手たちのチャンスを広げる役割を果たしました。
 黒人選手は、走力はあっても野球における様々なプレーにそれを生かし切れないのではないか?そんな偏見を否定することができました。それ以上に大きかったのは、白人選手の中に彼のような黒人選手が入っても、チームとしてまとまって戦えることを証明したことかもしれません。この年以降、各チームが優秀な黒人選手を少しずつではありますが、チームに入団させるようになったのは、そんなチームの変化を見てのことだったのでしょう。さらにいうなら、アメリカという国全体にとって、白人社会が黒人を社会に受け入れることは良い結果を生み出すのだ、という認識を多くの白人たちがもつことにつながたともいえます。
 すでに白人の子供たちの多くは、グランドを駆け回るジャッキー・ロビンソンのプレーぶりを見て、彼が黒人であることになんの違和感も感じなくなっていました。これこそが、黒人野球選手たちにとって未来への最高の変化だったのかもしれません。

映画「42 世界を変えた男」(2013年)
(監)(脚)ブライアン・ヘルゲランド
(製)トーマス・タル(撮)ドン・バージェス(衣)キャロライン・ハリス(音)マーク・アイシャム
(出)チャドウィック・ボーズマン、ハリソン・フォード、ニコール・ベハーリー
 ジャッキー・ロビンソンのデビュー以降の人生を描いたなかなかの秀作です!でも日本語タイトルは「アメリカを変えた男」とするべきなのに、残念です!
主演のチャドウィック・ボーズマンは、2014年の「ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男」ではJBを演じています!こうなったら次は、ミドル級史上最高の黒人ボクサー、シュガーレイ・ロビンソンをやってはどうでしょうか?
 意外なのは、ブランチ・リッキーを演じたハリソン・フォードの好演です。すっかりおじいさん役がはまり、これまでとは違う人物像を演じています。やればできるんですね!
 当時の差別をリアルに描き、けっしてヒロイズムに酔うことがない演出にも好感が持てます。乗り物や衣装、ホテルや住居などのリアリズムもいい味です。

<ブラウン判決以降>
 1954年連邦最高裁は「ブラウン判決」によって「分離すれども平等」というバカげた論理はやっと違憲と判定されました。この判決を受けて、ハイスクールやカレッジのスポーツチームに黒人選手が急増し始めます。しかし、ロビンソンとリッキーのような素晴らしい関係はまだ例外的なものだったのか、社会は一気に変化することはありませんでした。メジャー全球団に黒人選手が入団したのは、ロビンソンの入団から12年後のこと1959年のことです。それでも、1967年と1969年、全球団における黒人選手の比率は29%に達します。さらにピッツバーグ・パイレーツの場合、1967年の黒人選手比率は56%に達し、1971年9月1日のフィラデルフィア・フィリーズとの試合においては、ついに先発全員が黒人選手という歴史的記録も残しています。さらに1975年には、クリーブランド・インディアンズの監督にメジャーでは初めて黒人のフランク・ロビンソンが就任。メジャー・リーグは黒人アスリートにとって、最も活躍の可能性が高いフィールドになりました。
 ところが、それ以後メジャーにおける黒人選手の比率は下がり続けています。2000年以降は、ついに10%を切る状態です。なぜ、そうなったのか?いくつかの理由が考えられます。
(1)バスケットボール、アメリカンフットボールへの流出
 一足遅く誕生した上記二つのスポーツは歴史が短いこともあり、黒人選手の受け入れ態勢が整うのにも時間がかかりました。しかし、黒人選手の受け入れが始まると、一気にその比率が高まり、野球よりもその比率が高くなっています。
(2)管理職進出への壁
 1987年4月ジャッキー・ロビンソンのデビュー40周年を記念したテレビ番組でLAドジャースのGM・アル・カンパニスが、MLBに黒人監督、コーチが少ない理由を問われてこう答えました。
「黒人にはその資質が足りない」
 この失言でカンパニスはすぐにGMを解雇されましたが、野球界における差別意識の大きさを露呈してしまいました。多く黒人アスリートが野球界に失望したといわれています。
(3)他国、他人種の参入
 野球はバスケットやアメフトに比べると体格によるハンデが少ないスポーツです。そのため、黒人以外の人種でも十分に活躍の可能性があります。メキシコからの移民を中心とするヒスパニック系、野茂から始まった日本人の活躍とアジア系の進出。それにキューバからの亡命選手やその他カリブ諸国からの選手など様々な国、人種の選手が参入することで自ずと黒人選手の活躍の場は狭くなりつつあります。野球というスポーツの世界への拡大戦力が進めば進むほど、メジャーから黒人選手が減ってゆくことはしかたのないことかもしれません。

<参考>
「人種とスポーツ」
 2012年
(著)川島浩平
中公新書

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